清水潔さんの著書『殺人犯はそこにいる』を拝読しました。
清水氏のことは以前から存じ上げており、この本が「文庫X」として話題になっていることも知っていました。ただ、新潮新書の『騙されてたまるか』などはすでに読んだことがあり、事件そのものも報道等で耳にしたことはあったので、本書をあえて読もうとは思っていませんでした。
今回、この本を読んだのはAmazonプライムビデオ「チェイス」の盗作・盗用騒動があったためです。渦中の本書がどんな本であるのか、実際に読んでみました。
そうした動機で本書を読んだため、野次馬的な気分があったことは否定しません。また私は遺族をはじめとした関係者でもありませんし、新潮社や著者の清水氏とも面識等はまったくありません。著作権の専門家でもないですし、Amazonの当ドラマも視聴していません。
けれど、本書を読んだ身としては思うところがありますので、ここに記しておきます。
記しておきます・・・と書いておいてなんですが、はっきり言って本書の凄さを表現するのは非常に難しい。「文庫X」という試みもむべなるかなと思います*1。
だって、「文庫X」って何も言わずに売ろうというわけですから。宣伝文句としては敗北宣言ですよ。たしかにカバーに書かれている文章は、この本のために書かれた文章ではあります。でもその内容は要するに「良い本だから読んで」としか書かれていない。
ただひたすら「読んでくれ」というだけのものは一級のコピーでは決してないはずです。そういう売り文句は他の本にだって使えてしまいます。この本にしかない良さというものが伝わらない。もちろん企画としては上手くいったようですが、本書の魅力を伝えるにはどこまでいっても不十分なのです。
・・・・・・けれども、実際に本書を読んだ後だと、「とにかく読んでくれ」って言いたい気持ちが痛いほど分かる。本書はまさにそういう本だとしか言いようがない。
本書は、あるいは本書に綴られている一連の調査報道は、日本のジャーナリズム史上、ノンフィクション史上、間違いなく傑作です(傑作という言葉を使ってよいかは迷いますが)。だからこそ、本書にどんな推薦文を付けたとしても、その推薦文がどうしたって陳腐に感じられてしまうのです。
本書の第8章で、DNA型再鑑定で無実が明らかとなった菅谷さんが法廷の場で元検事に「謝ってください」と迫る場面があります。その様子を清水氏は「裁判ドラマが陳腐に見えるほどの迫力だ」と表現しています。
まさにその通りだと思うのです。この場面に限らず、本書を通して言えると思いますが、この本に記されている内容というのは、あらゆる裁判ドラマ、刑事ドラマ、探偵もの、検察ものを陳腐に感じさせてしまうほどのものです。
はじめは栃木県警だけだった壁が、再審請求を巡って裁判所や検察が登場し、科警研も立ちはだかって、国会でも取り上げられ法務省や警察庁も動き出す。
死刑判決が再審で覆った事件は免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件などと数えるほどしかありません。そのなかでも本書に書かれている足利事件は「自白」と「DNA型鑑定」という2つの強力な証拠を突き崩さねばならなかったのです。しかもDNA型鑑定は本事件のみならず、他の事件の証拠能力にも関係するため、検察、科警研がそのプライドをかけて全力で死守しようとして来るわけです。
そしてここまでの書き方だと本書が足利事件について書かれた本だと誤解してしまいますが、本書は足利事件だけを追った記録ではありません。本書は当初から「北関東連続幼女誘拐殺人事件」を射程にしています。つまり日本の刑事司法上、大事件であるはずの足利事件の再審無罪というのは、本書にとって一里塚でしかないわけです。
信じられますか。
しかもこの一連の経緯は、ほとんど清水氏の取材班の孤軍奮闘の賜物なのです。取材源を当局に依存する他の報道各社・記者は後追い報道をしなかったし、できなかった。もし清水氏らが光を当てなかったら、小さな声はかき消されていたかもしれない。
アインシュタインがいなくても相対性理論は生まれていたでしょうが、清水記者がいなければこの事件がこの経過をたどることはなかったでしょう。別に清水氏がアインシュタインより天才だと言ってるんじゃありません。しかし物理学の最先端を研究しているのはアインシュタインだけじゃないはずですから、何年遅れることになるかはわからないですが、いずれ相対性理論は「発見」されていたでしょう。
一方で、この事件の場合は取り上げようとする記者なんてそもそもいなかった。清水氏の取材班が取り組まなければ、時間的に手遅れになっていたと言って過言ではありません。
まるでドラマみたいな展開だと思うかもしれません。でもドラマじゃないんです。これが現代の日本で起きたことなんです。そう思うと恐ろしくさえあります。
むしろドラマだったら大したことないんです。所詮フィクションだと笑い飛ばせます。それができないところが本書の強烈さです。
繰り返しになりますが、本書はあらゆるフィクションを陳腐化させるほどの力を秘めています。フィクションというのは本質的に事実には勝てません。
ミステリ作家の米澤穂信氏は「事実はリアリティを無視できる」ということを述べています。事実はリアリティになんて囚われないんです。
もし本書の内容がフィクションとして描かれていたとしましょう。
そしたら私はこれを一笑に付していたかもしれません。ストーリーとしては面白いかもしれないけど、リアリティに欠けるよね、と。
良くできた内容かもしれないけど、現実にはこんなこと起こりえないよね。もっとリアリティある話を書いてほしいわ・・・・・・
そうやって二流ドラマの烙印を押していたかもしれません。フィクションであるというのはそういうことです。
この本は、まさにこれが事実の記録であるということに重大な意味があるのです。それはフィクションなんかで絶対に伝えられないことなんです。
Amazonのドラマで本書の事件を知った人も多いでしょう。私のようにパクリ騒動が持ち上がってから本書を取り上げた人もいるかもしれません。そういう意味では「社会に問題喚起する」という目的があったのなら、それは一定成し遂げられたのかもしれません。
それでも私は、自分になにか言う資格があるわけではなくても、一読者として言わせてもらえるなら、このような形での映像化は許されるものではなかった。そう言いたい。
これはフィクションとして伝えるんでは絶対にダメなんです。映像化するのであれば、ドキュメンタリーかノンフィクションドラマでなければならなかった。
なるほどフィクションのほうが多くの人に伝わるかもしれない。でもそれではフィクションとして伝わってしまう。それは下手すると事実が伝わるのを妨げてしまうかもしれない。壮大なミスリーディングを生んでしまうかもしれない。今回の騒動のせいで誠実な形で映像化される機会が失われてしまったかもしれない。
フェイクニュースが叫ばれる時代だからこそ(というかそんな時代じゃなかったとしても)、この点は留意してほしかった。
そもそもこの事件は今も未解決なんです。ドラマはストーリーを完結させなければならないですが、この事件はまだ終わっていないんです。一体どういう結末にするつもりだったのやら。
どうもAmazonドラマを批判する形になってしまいました。肝心のドラマは視聴していません(視聴する気もない)ので、誤解も含まれているかもしれませんが、以上が本書を読んで率直に感じたことです。