ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

作品を心から楽しむためには、制作過程にも関心を持つべきなのだと思う

山本寛監督が代表を務める「日本フィルアニマチオン」がクラウドファンディングを利用してサポーターを募っている。

 

camp-fire.jp

 

クラウドの登場により、このような形でのコミュニティが作りやすくなったことは良いことだと感じる。

 

 

個人的に最近しばしば考えるようになったきたのは、いわゆるコンテンツ産業というものは(アニメに限らず、音楽やドラマや映画や書籍なども)、その作品がどのように作られたのかにも関心を持たなければならないだろうということ。

 

数年前になるが、映画館でとある映画(アニメ)を鑑賞したときのことだ。上映中から感情移入も出来て、満足の出来だった。だからエンドロールが流れるなか、自分の余韻の中に浸っていた。

しかしそのエンドロールの中の「A-1 Pictures」の文字を見たとき、正直、一瞬で現実に戻された気がした。せっかくの余韻を冷ましてしまうことになった。

 

A-1はその年のブラック企業大賞にノミネートされていた。月600時間労働とも言われる長時間労働によって、過労自死の労災認定が出ていたのだった。

 

無論、アニメーション制作現場の過酷な実態というのはこのスタジオに限られる話ではない。それに事件のことを知ってからも、アニメが好きという気持ちに変わりはなかった。

ただ、やはりA-1の一件は象徴的な事件だったのだと思う。

 

作品の評価は、純粋に作品の内容に基づいて判断すればよいのかもしれない。それでも労災のことを知っている以上、余韻に浸っている最中でもそのことを思い出してしまったし、「この作品は面白かった」と素直に述べたい気持ちを躊躇わせた。

忘れたり、目を向けなければ複雑なことなど考えなくても済むけれど、それが良いことだとは思われない。

 

 

あえて古めかしい言葉を使うけれど、生産過程にも目を向けることが資本主義的生産様式に対する小さな抵抗の一歩なのだと思う。

共同体内でのモノのやり取りと違って、資本主義では市場を介して商品の売買を行う。「市場(いちば)」ではなく「市場(しじょう)」だ。そして市場取引だと、だれがどのように作ったかということは、商品価値と切り離されてしまう。現物と価格だけが重要な情報だ。

 

だから剥き出しの資本主義のもとでは、不正を働く誘因が存在する。最終成果物とその価格だけが市場で評価されるのなら、中間過程は手を抜いたほうが儲かるからだ。それは決して大昔の話ではなく、検査データの改竄や産地偽装は近年でも起きている不祥事だ。

ムラ社会にはムラ社会なりのしがらみはあっただろうが、誰が何をしているかが皆に知られている社会では、このような不正をすれば信頼を失って、その村では生きていけなくなっていただろう。

 

現代社会では法や行政があって、あるいは業界ルールや慣行がそうした悪質な行為を防止する役割を果たすのだろう。

だが私的労働を本質とする資本主義の仕組みが根本的に変わるわけではない。政府の役割には限界があるし、バレないように、あるいは法の穴を突く形で不正を行う誘因はなくならない。

 

だとしたらそれを監視し防止するのは、その現場で働く労働者や商品を購入する消費者が関与しなければならない。そうやって関わり続けなければ、社会改良なるものは実現できない。

 

以上は一般的に当てはまる話だと思うけれど、コンテンツ産業はなおのことのはずだ。

ひとつにはエンタメ要素。「夢や感動」を売りにする作品の制作過程が失望されるような実態であってはならない。

 

もうひとつは表現の自由の問題。戦時下に国民の戦意高揚のために映画やアニメを利用するというのは国家からすれば当然。ディズニーだって啓発アニメを作らされた。平時でも権力側が都合よくコントロールしたがるのは変わらない。作品というのは表現や思想を直接的に体現するのだから、そのようなマスコンテンツを統制下におきたいのだろう。

それゆえに表現の自由憲法的価値が与えられるほど重要なのだ。それが歪んでいいはずがない。不条理な理由によって表現が変えられるのは看過してはならない。あるいは公正な主張を届けるためには、そのプロセスが公正でなければ説得力を欠く。

 

話が少し逸れてしまったかもしれない。

市場を信奉する新自由主義的な考え方では、失われてしまう価値があるということ。