ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

『万引き家族』

パルムドールを受賞したから見に行くというのも、ミーハーなものだなと思いつつも、やはり気になるので見てきた。

 

面白いは面白いけれど、ずるいっちゃずるいよね、と感じてしまうのは私の心がひねくれてるからか。結局、生き方とかお金の稼ぎ方とか家族の在り方とか絆とか、問いかけては来るのだけれど結論は示さない感じ。どれも否定も肯定も、賛成も反対もせず、両面を描いている。そんな印象。終わり方も「下人の行方は誰も知らない」的に、観客自身に答えを委ねている気がする。

もちろん論文じゃないのだから、明確な結論を提示する必要などないし、むしろ「家族の絆って素晴らしいでしょ」なんて主張されたら、それこそ顰蹙を覚えるけれど。

 

一番考えさせられるのは、この映画が突き付けてくるのは、我々の「想像力」なのだと思う。

映画は実際にあった年金不正受給などの事件を下敷きにしているという。

映画で描かれる生活や生業はアングラというか、歪な生き方であるには違いない。しかし映画を見ていると、なぜだかそれらの生き方が「自然」なことに見えてくる。もろもろの行為が犯罪であることは、観客としてみる側はもちろん、作中人物たちも(罪悪感はともかくとして)知ってはいるだろう。でも、犯罪だからやってはいけないという倫理観とはまた別に「自然さ」を感じてしまう。だから「祖母」が死んだのを隠して年金を受け取る行為が、むしろこの家族にしてみれば当然だなと感じてしまう。

 

振り返って、年金の不正受給事件が報じられたとき、私はその当事者たちについてどれほど想像を働かせただろうか。ちらりと貧困の影に思い及んだとしても、この映画ほどリアリティあるものとしては決してイメージしたことがなかった。

いや、もし極度の貧困からやむにやまれず不正受給を起こしたというのなら、まだ想像はできた。生存への欲求と犯罪への躊躇と、その2つの間で大きな葛藤を感じて結局罪を犯してしまうのであれば、それは比較的理解しやすいと思う。

しかしこの映画の家族はそうではない。むろん自らの行動を合理化しようとして無意識的に罪の意識を抑え込んでいるのかもしれないが、この家族は諸種の犯罪を悪いことと感じていない。彼らの生活にとって当然のことのように行っている。

だからこそ我々の「常識」を揺さぶってくる。葛藤を伴っているのならば「常識」の範囲内で想像できる。けれど、犯罪が「日常」として描かれ、観客はそれに「共感」してしまうがゆえに、より根本的な次元で問いを突き付けてくる。

 

「常識」に疑問符を突き付けることくらい、別になんてことはない。

最初に書いたように、この映画がずるいと感じるのは、作品の成り立ち上、安易な感想を拒否するようなところがあるから。

映画を観た感想を述べるのは各自好きにやればいいけれど、その感想はどれほど「想像力」を伴っているか。

映画というのは一部分を切り取ったものでしかない。この映画は万引き家族の観点から世界を描いたものに過ぎない。当然、世界はもっと多数の人間で構成されている。

たとえば作中でこの家族の犯罪行為の被害にあった人たちについて、どれほど想像力を働かせられるか。この家族をこのような生活に至らしめた背景をどれほど想像できるか。あるいは「家族」ではなくその個人一人ひとりに対して想像が及んでいるか。

 

不正受給事件を安直に批判する人たちに対して、「勝手に理解した気になってるんじゃねえ」というのがこの作品の出発点だとするなら、

たかだかこの映画を見ただけで「家族」について語る人たちに対しても、「理解した気になってるんじゃねえ」という声が跳ね返ってくるだろう。

 

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