ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

『フラクタル』

fractale-anime.com

2011年1月期よりノイタミナ枠で放送されたアニメ。

リアルタイムでは視聴しておらず、ネット上の評判もあまり知らない。ただ、山本寛×岡田麿里×東浩紀という錚々たる顔ぶれだと知ってから、いつか見ようと思っていて、DVDでようやく見た。

 

 

岡田麿里さんのほうは『さよ朝』が劇場公開したタイミングで『ユリイカ』が特集号を出しているのだけれど……

青土社 ||ユリイカ:ユリイカ2018年3月臨時増刊号 総特集=岡田麿里

『花いろ』『あの花』『ここさけ』はもちろん、原作付きの『黒執事』や『とらドラ!』、一部叩かれた『オルフェンズ』すら取り上げられているのに、『フラクタル』については名前もほぼ出てこない。もはや無かったことにされてる感さえ漂っている。

おかげでほぼネタバレを食らうことなく視聴できたという利点はあったけれど。

 

 

フラクタル』で世界観、物語の主軸となるのがフラクタル・システム。人々はライフログを提供する代わりに、基礎所得や高度な医療が受けられ、働く必要がない。ドッペルという人工知能で動く自分の分身みたいな存在があり、面倒事はドッペルが引き受けてくれる。

千年後くらいの設定だが、今のAI(人工知能)とBI(ベーシックインカム)の議論が想起される。現在の感覚で見返すとAIのほうにより注目してしまうが、放送当時で言えばBIに対する問題提起といった意味合いが強いだろう。

 

当時はBIの議論が盛り上がった時期で、東浩紀氏は承認と生存を切り離すことの意義を述べてBIを支持していた。そこで述べていたのが、生活情報を提供する代わりに、国家が最低限の生存を保障する仕組みであり、まさにフラクタルシステムのイメージだろう。

BIの議論が社会保障の研究者だけでなく、一般論壇に広がりだしたのは2009年前後。ホリエモンがブログで持論を展開したのが2008年12月。2009年2月には山森亮氏の『ベーシック・インカム入門』(光文社新書)が出る。同年10月の「朝まで生テレビ」では東浩紀氏が「オープンガバメントとベーシックインカムの組み合わせ」という提起をし、注目が高まった。*1

 

マスコミの報道で言えば、日本で「ビッグデータ」というのがよく記事になるようなったのが2012年ごろ。人工知能は2015年から増えだし、アルファ碁がイセドルを破った2016年以降急伸する。

 

f:id:knarikazu:20180727180418p:plain

日経各紙での記事件数の推移*2

 

人工知能をめぐる言説が増える中で、AIが仕事を奪うというような不安や懸念も多く語られることになった。過去の技術革新における議論を踏まえていっても、単純な奪われる、失業するといった単純化した話ではなく、仕事の形がどのように変わるか(ジョブの再編?)をすべきなのかもしれない。

ただ、先の話に戻るなら、ここで再びBIの議論が盛んになったことが注目される。すなわち人工知能によって仕事がなくなるのなら、それを失業というのではなくポジティブに捉え、AIによる果実をBIという形で分配するという発想だ。

 

こういった経緯を思い起こせば、AIとBIはアイデアとして結びつきやすいものなのだろうとわかる。

フラクタル』の放送は2011年だが、当然企画・構想はそれ以前から動いていただろう。当時の議論を敏感に取り入れつつ、AIとBIの世界を描いたというのは面白い。これは単に流行に乗ったということではなくて、SFとしての設定や世界観がしっかり構築されているから、AIの側の観点から関心が高くなっている今現在視聴しなおしても、まったく古びることなく見ることができるわけだ。

 

 

ストーリーの展開自体はディストピア小説のそれだと思う。前述したとおり東氏はBI論者であったからディストピアとまでは考えていないかもしれないけれども、個人的にはハクスリーの『素晴らしい新世界』を連想した。

ディストピア小説の古典として名高いけれど、言うほどディストピアかと思って読む人も多いのではないだろうか。快楽の世界で生きているわけだし、別にこういう世界でもいいじゃんと思えなくもない。

しかしそんな世界にどこか不満、おかしいという気持ちを抱いた人物もいる。……作品の細かい筋やラストをよく覚えていないのだが、一見ユートピアである一方、それが人間性ある生活かというそんな問いかけだった印象。

 

フラクタルシステムもまたユートピアだ。しかし「ロストミレニアム(ロスミレ)」と呼ばれる人たちはそうしたシステムに反対している。それを象徴的に描いているのが「星まつり」の場面。これ以降主人公、そしてその行動を見る視聴者はロスミレ視点に寄っていくことになると思う。

 

ユートピアたる高度な管理社会とそれに反対する人々という描き方は、『一九八四年』や『素晴らしい新世界』と同じで、ある種定型パターン。

とはいっても『フラクタル』のロスミレは決して一様ではないし、主人公自身も揺れている部分がある。フラクタルシステムの恩恵を享受する人たちにもまた格差が描かれている。『素晴らしい新世界』とは違って、階級社会というほどの描き方ではないけれど、アニメとして自然に社会のグラデーションを表現しているのは上手いと感じる。

 

2項対立を重層的に描いているというよりは、2項対立そのものを溶解させて脱構築しているような感じ。

風光ある美しい自然が多い舞台であるのもまた。ロスミレの運動が「自然に帰れ」という素朴なものに感じれられる。インフラの整った社会でそれが使えなくなると、原始生活以下になるとはよく言われるが、ロスミレの人たちは共同体をうまく築いている。そうれなければ運動は千年も続かない。ここまでくると単に反体制派ではなく、その独自の歴史が気になってくる。

体制側の科学者・技術者組織が「僧院」と呼ばれているのも興味深い。高度に発達した科学は……ではないけれど、この世界では科学が宗教になってしまっている。フラクタルシステムという理想形が一度完成してしまったゆえなのか、科学の進展はストップし、ただシステムを維持するだけ。それも技術的な理解が科学的知識として受け継がれるのではなく、儀礼・前例踏襲的なものと化している。

囲碁AIの進化を目にしてプロ棋士の大橋拓史6段が「科学が宗教になる瞬間を見た」という表現をしていたが、まさにこの世界だと科学が宗教になってしまっている。

 

そもそも歴史というものが単線的に発展するという理解は愚直なもの。経済成長率〇%という言い方は歴史の多様性も曲折も排してしまっているが、GDPの計測なんて100年にも満たない歴史なわけで。別に「火の7日間」のようなことが起きなくても文明の「停滞」や「頽廃」は生じうる。『フラクタル』での科学の描き方は、そういう歴史観を内包してそうで興味深い。

 

普通に視聴する分には冒険譚として見て楽しめばいいと思うのだが、対立構造の中にも両者の歴史を想像させる仕掛けになっていて、それが物語に深みを与えることになっているように思う。

もし冒険活劇としての面白さを前面に出したいなら、僧院とロスミレの対立ではなく、フラクタルシステムを悪用を企てる組織とそれを阻止しようとする主人公サイドとしたほうが面白くなるかもしれない。でもそうせずに、「敵」をシステムを維持したいのに、肝心の技術や知識を忘れてしまった「僧院」にしている。

それは視聴者に対して、社会や歴史への想像を馳せさせるようにしたかったからではないか。

 

 

書いているうちにどうまとめてよいか分からなくなってきた。

もう一度BIという話に戻るが、BIの本質を一言で述べるなら、労働と生存の切り離しだ。

負の所得税」はBIの考え方と共有する部分もあり、BIの前段階としても位置付けられるとも思うが、やはりこれは「働く」ことを前提としている制度かと思う。

公的扶助の制度も、これはヨーロッパでも北欧でも就労は前提としているはず。そうであるから「ワークフェア」「アクティベーション」の議論が起きる。

BIというのは労働を前提としない。

 

だからBI社会を描いた『フラクタル』は、そしてその世界での体制派vs反体制派の戦いは、当然人間にとって労働とは何か、という問いかけへの戦いでもある。

フラクタル』内での一つの答えは、主人公クレインがこの冒険の後で炊事をするようになったということに示唆されている。

 

もちろん、炊事ひいては家事は労働である。家事労働は労働である。

AIによって失業が生じるという昨今の議論だと、失業に焦点があるためか、話が賃労働に偏りがちだ。広い意味での労働、あるいは家族といったテーマに議論が及びにくい。

その意味では『フラクタル』は家族のあり方にも話が及んでいる。

 

以前このブログでも、家電製品は便利になっているのに、妻の家事負担はそれほど楽になっていないのでは?ということを書いた。

家電が便利になっても、家事が楽になるとは限らない - ぽんの日記

 

フラクタル』での家族は究極的に個人主義が浸透した姿となっているが、これも家事労働の問題(作品中ではドッペル)の存在を抜きには語れない。

 

家事が労働であるということを確認したうえで話を戻す。

この物語の前後で主人公の生活が変化したのは、炊事をするようになったことだったとナレーションで語られる。

世界がどうなってしまうのかという冒険を経た後でも、結局フラクタルシステムは(当面)維持され、主人公の生活も大して変化しないのである。そんななかで変わったことが炊事。

労働をしなくてもよい世界において生きているのだから、これを小さいが大きな変化だ。このささやかだが意味のある変化が、働くとは何か、人間らしい生活とは何かという問いかけへの、ひとつの応答なのだろう。

 

 

 

 

 

*1:萱野稔人編『ベーシックインカムは究極の社会保障か』堀之内出版、2012年を参照

*2:日経テレコムの検索結果から。対象媒体は日本経済新聞朝刊・夕刊、日経産業新聞日経MJ(流通新聞)、日経金融新聞(※)、日経地方経済面、日経プラスワン、日経マガジン(※)、(※)印のついている媒体は、現在休刊・更新停止中