ぽんの日記

京都に住む大学院生です。研究とは関係ないことも気ままに書いていきます。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

『未来のミライ』を観て考えたこと

mirai-no-mirai.jp

何を伝えたかったか

戸惑った。映画を見終えた後のエンドロールで、余韻に浸るとは別に意味でしばらく固まっていた。分からない。この映画で監督が何を伝えたかったのかが分からない。

難しくて解釈に手間取るというのならいい。そうではない。『さよ朝』のときも結局何を一番言いたかったのかと感じたが、あれは詰め込みすぎでそうなっていたように思う。

『ミライ』はそうではなくて、単純にどこにメッセージがあったのかが掴めない。いつ本題に入っていくのだろうと思っているうちにすでに中盤終盤になっていた。上映開始から何分くらいたっただろうかと何度か時計をのぞく。

 

それっぽいのはある。「何事にも最初はある」とか過去と未来がつながっている話とか。

軽いというかパンチが弱いというか。異議はないけれど、それで?と思ううちに次のエピソードに行ってしまう。演出のわりに伝えたいことが平凡に感じてしまうのだ。

 

父親、母親、子育ての描写はリアル路線だが、そのリアルさが無駄にさえ思える。ファンタジーの部分が現実世界につながらない。両親は子どもの発するサインに気づかず、主人公の体験した出来事とは無関係のままだ。

コミュニケーション不和が起きている。リアルに家族を描こうとしたなら、このすれ違いはただただ違和感として残る。一見順風な家族の皮肉を描きたたかったのかと穿ちたくなる。

 

鑑賞直後の一番の感想は、何が言いたいのか分からない、ということだった。

勢いでパンフレットを購入する。このモヤモヤを解消してくれと、救いを求めるような気持ちでパンフを買ったのは初めてだった。

 

 

インタビューを読めば、監督が何を意図していたのかは分かった。

これは4歳児のアイデンティティの話なのだ。

主人公・くんちゃんは妹ができることによって、それまで自分に注がれていた親の愛が妹に奪われる。突然兄という立場に立たされる。アイデンティティの動揺が起きる。

 

これはそのアイデンティティの動揺にどう向き合うかというのを描写したもの。愛を得たり失ったり…という経験は人生で繰り返し起こる事態であり、その人生初めての経験がこの4歳児のこれなのだと。

だからこれは4歳児の物語であると同時に、人生の普遍的な物語でもある。

概略はこんな感じだろうか。

 

これはしかし、監督の公式見解がそうであるとしても、やはり映画からそれを感じ取るというのは難題だ。

多くの人は映画を見ても、「これはアイデンティティの物語だ」とは思わないのではないだろうか。監督は自分の子どもを見てアイデンティティの問題を見て取ったのかもしれないが、発達課題としてアイデンティティを意識するのはやはり青年期(とりわけ思春期)であろう。

作中の描写も、リアリティを追求したからだろうが、子育ての面倒や子どものワガママの不快感に目が行ってしまい、アイデンティティの問題だと気づかせるような構成になっているとは思わない。

 

一歩譲ってこれがアイデンティティの話だとしても、こんな描き方をしたかったのかと疑問に感じる。

終盤、主人公くんちゃんが兄として自覚が芽生えるまでの場面。未来の東京駅での迷子係の対応や新幹線に乗らされそうになる話は、恐怖か脅しではないか。恐怖や脅しによって兄と自覚する話が描きたいのか。

話の筋だけ追えば、家出しようとしてその結果怖い体験をしてしまった、ということではある。しかし子どもの小さな反発に対してのしっぺ返しにしては恐怖が大きすぎる。演出として盛り上げるためだったのかもしれないが、過剰な演出ではないか。

こんなのを差し込まずに、もっとささやかな体験で自我の芽生えを描写したほうが良かったのではないか。現実パートと虚構パートが不釣り合いに感じる。

 

なにより子どもの物語なのにワクワク感や爽快感がない。

トトロやポニョにまず求めるのはそこだろう。主旋律がそこにあって、でも結局都市伝説含め、いろんな考察が行われる。

『ミライ』についても、4歳児が主人公で、しかも未来から妹がやってくるという設定を聞いたら、やっぱりワクワクするような展開を期待するのではないだろうか。

それなのに描かれるのは妙な子育てのリアルであったりする。最後に登場する未来の主人公の姿なんて、たしかにこんな感じで育ってしまうのかもしれないとは思うが、そんなところで妙な現実味を描いても…と思わないでもない。

 

 

興収

初週で動員2位、興収5億だったそうだ。細田守という名前と東宝配給でなかったらここまで行かないだろうと単純に思う。

新海監督の『君の名は。』は『言の葉の庭』の興収を1日で超えるレベルだが、最初のスタートなんて、プロモーションの差が圧倒的に大きいだろう。映像事業部から映画営業部に変わり、売り出す体制が変わった。クチコミやリピーターが増える前にしてすでに生じている興収の差は、サプライサイドの要因と見るのが妥当だろう。

 

細田監督も『時をかける少女』(2.6億円)、『サマータイム』(16.5億円)、『おおかみこどもの雨と雪』(42.2億円)、『バケモノの子』(58.5億円)となっている。

この数字が作品の面白さと比例しているとは思われない。徐々に期待が上がっていき、ポスト宮崎駿と囃される部分もあった。

 

祭り上げられた、は失礼な表現かもしれないが、この辺で一回コケておいたほうが、今後自由に作品を創りやすくなるかもしれない。

期待の重圧という意味では新海監督のほうも。『ほしのこえ』『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』と男女のすれ違いを描いてきてきたが、『君の名は。』なんて物理的距離(東京都と岐阜)、文化的距離(都会と田舎)、時間的距離(3年の年月)、認知的距離(記憶の忘却)、彼我の距離(生と死)と何重にも隔絶させたうえで「再会」にクライマックスを持っていく。もうこれ以上のすれ違い演出は無理だろうと思うほど。『君の名は。』以上を期待されるなんてのも大変なものだろう。

 

ジブリ鈴木敏夫プロデューサーも身軽なほうが自由にものを作れるという話をしてますね。『アニメージュ』の実売をあえて半分にしたエピソード。

ヒットが続くと、会社や周囲からのプレッシャーが高くなって、作る人間も数字を追いかけるようになります。そうすると現場は萎縮してしまう。自由を取り戻すためには、どこかで数字をリセットしなきゃいけない。(『ジブリの仲間たち』133頁)

 

 

意義

ここからはただの脱線。

 

『ミライ』がこれまでにないアニメであるのは事実かもしれない。トトロやクレヨンしんちゃんでは描かれてこなかったリアリティの追求があるといえるかもしれない。

でも、これまで誰も挑戦してこなかったというのは、意義があるということを必ずしも意味しない。単に重要ではないから手が付けてこられなかっただけかもしれない。

 

論文や書籍で言えば、序文に当たる部分。自分がやったことがいかに大事かを語る箇所。冒頭ではあるが、最も書きづらい部分であったりする。

もし『ミライ』にもそんな序文を書くとすれば、どんな文章になるかをちらりと考えた。

なぜいま4歳児のタイムリープ物語なのか(問題意識・背景)、それはこれまでの描かれ方とどう違うのか(先行研究批判)、そのうえでどこが優れているのか(意義の強調)。

 

別に出発点が自分の子どもを見ていて思いついてという個人的なことでも構わない。でも作品として公開する以上、多くの人に見てもらう意義があると伝わらなければならない。監督は「人間の普遍的な人生の話」だから意義があると思ったのかもしれないが、その「普遍性がある」というのが、前述したように共有されているのか。

あるいは普遍性があるといっても、「当たり前の話」で済まされてしまう可能性もある。育児あるあるをずっと見ていたいわけじゃない。子どもはこんな風に変わっていく、家族ってこんなもんだよね、と言われれば、否定はしないけれども「まあそうだよね」で終わりかねない。

 

先行研究がないというのは、意義の強調の仕方としては最も消極的なものにすぎない。

『厚生(労働)白書』を読むという本が出た。版元のページを見ると

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「ポイント」のところで「……これまで皆無。」と書いてあるけれど、単に「皆無」というだけだったら、誰もやろうとしなかったんだなと思うだけで、そこを意義にしてはいけない。

 

ところで、日本社会福祉学会長も務めた大御所がすでに『社会福祉のトポス』を出している。これも素材として厚生(労働)白書を用いている。

そうなると「皆無」と表現していいのかと単純な疑問が浮かぶ。

『『厚生(労働)白書』を読む』の「はしがき」を読むと特段「皆無」というような表現は用いられていない。というより先行研究への言及などない。皆無というのは出版社の煽り文句だったとしても、もう少しこの本を出版することの意義について触れてほしいものである。対して『社会福祉のトポス』のほうは、社会福祉をどう捉えるべきかという背景説明の後、分析視角・方法を述べ、問題提起をしており、その「序章」は24ページに及ぶ。

 

 

もうひとつ、「これはちょっと…」と思ってしまったのが、放送大学教材『グローバル経済史』。著者は水島司・東大教授、島田竜登東大准教授。

 

自然科学系の研究者が歴史学に参入するようになってきた状況を説明したうえで、こう述べる。

これまでの歴史学はまた、もっぱら文献を史料としてきたことから、大きな欠落を生み出してもいる。たとえば、人類史(ワールド・ヒストリー)は、地球全体の歴史(グローバル・ヒストリー)の一部しか占めておらず、人類史に大きな影響を及ぼす地球環境の長大な変化を視野に入れることができない。当該地域、当該時期に関する文献資料が残されていない場合、歴史学は全く無力でいるしかないのである。……

地球環境の変化について、……クリスティアンは、「地球温暖化は決して目新しいことではない。地球の地表温度の平均は、地球の歴史を通じてさまざまなスケールで変化してきたのだから。」〈Christian(2004):134)〉と指摘している。この問題も、地球の長大な歴史の中でとらえるべき問題なのである。(13‐14頁)

 歴史学が無力だと感じたのは、ひょっとしたら著者の実感なのかもしれない。

だとしても、無力かもしれない歴史学に何ができるかを述べてほしいし、あるいは自然科学者にはできないやり方でグローバル・ヒストリーに貢献するのだという決意を述べてほしい。そうでなければただの敗北宣言だ。

しかし結局、文献史学が自然科学にどう向き合うかは示されず、テキスト全体も別に自然科学を取り入れているわけでもない。

いったい何を目指したのかよくわからないままだった。

 

 

序文に関して好印象だったのは、宇野常寛母性のディストピア』だ。

……というか、本文をいまだ読み進めていないのだが、にもかかわらず序文だけ数回繰り返して読んでしまった。

この本の序文には大言壮語かもしれないが*1、なぜ今(今さら)アニメ評論なのかという出発点から、政治や文学への挑発的な批判があって、そしてアニメの想像力について論じることが本当の意味で生産的、価値のあることなのだと断じている。

 

これほど読ませる序文は滅多に読んだことがない。

多くの学術書だって、(研究者としての謙虚な態度がそうさせている面はあるにしても)ここまで意義や価値を断言しているものはそうない。

 

こんなのをたまたま見つけた。

法学系論文の序論に見られる文章構造の分析

分析対象が商業雑誌であるのだが、法学系論文には「研究の必要性の提示」や先行研究の概観が少ないという指摘は、ちょっと実感する。

 

 

*1:単に私が本書を今のところ序文しか読んでいないから