落合氏の著書は初めて読む。著者にとっても初の単著。
こういう風に世界を見れるんだなというのが、読んでいるときの感触。
著者が寵児とされるのもなんとなくわかった気がする。
研究者でありつつ、メディアアーティストも名乗っているというのは、やはりこの人の個性が表れている部分。
たとえば第1章「魔法をひもとくコンピュータヒストリー」。技術史ではなく思想史を読まされている気分だった。いや、事実、フォーカスしているのは思想のほうだろう。技術者や理工系の研究者が書いたら、普通はこうはならないのではないだろうか。
単に技術が発展したらこうなるという話ではなく、このような理念や思想がこのように実現されるだろう、21世紀はこうなる(べき)というような語り口が特徴に思う。
しかも指し示す未来像を肯定的に語る。不透明感や停滞感があるのは、20世紀的な社会のパラダイムを抜け出せていないからだと、21世紀に希望を見出す。
危機に警鐘をならす学者インテリは多くとも、こういうタイプは珍しくなっている気がする。それを研究とアートの双方に足をかけた著者が言うことに意味があるのだろう。
魔法の世紀。
アーサー・C・クラークの「充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」という言葉は、単なるレトリック以上の可能性を秘めていると著者は言う。
それは技術的制約がなくなった世界だ。我々が2次元のディスプレイ(映像の世紀)で物を見ているのは、単に技術的制約でそうせざるを得なかったからに過ぎない。CDのようなメディアだって、制約があるために人間の五感に合わせて作るしかなかった。
しかし21世紀はそうした技術的制約はなくなっていくだろうと。デジタルとアナログの境目は消失し、デザイン(表層)とエンジニアリング(深層)は結びつき、「非メディアコンシャス」(メディアを使っていることすら意識しない)になる。光が視覚に、音が聴覚に対応するという関係さえ超えられるだろうと著者はいう。残るのは単なるコスト計算だと。
「現実世界はある意味では無限に解像度が高いディスプレイ」であり、「無限に解像度が高い錯覚の信号からイメージを生成できれば、それは現実と変わりがないのではないか」(67頁)
もっとも、そのコスト計算というものに怖さを感じないわけではない。
こうした研究からは、これからの世界では一つの問題を解こうとしたときに、二つのアプローチが考えられるということがわかります。
一つは、コンピュータ計算で作られたインプラントやピンホールメガネのように「デジタル処理されたアナログな物質」です。もう一つは、ディスプレイそのものを視力に対応させた「アナログな物質を変化させるデジタル計算機」です。もはやデジタルなアナログか、アナログなデジタルかというのは、コスト計算の後に来る選択の問題でしかないのです。
(184頁)
たとえば著者はコラムの中で「ちなみに、僕は本当に人工知能が全てをやってくれる世界が来たら、仏国でワインでも作りながら暮らすつもりです。人間らしいことだけをして暮らせばいいだけの、最高の未来だと思います」(123頁)と述べている。
それはそうかもしれないし、本書の射程から外れるから書いてないだけかもしれないが、大半の人はワインを作る側に回れないかもという不安を抱いているのではなかろうか。
「人間が接客をするバックで人工知能が走っていて、コンビニやレストランの店員はその指示通りに動いているだけ」を「これは本当に怖いことなのでしょうか」と投げかける(196頁)。そこの感覚にはまだ追いつけないように感じた。