ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』

 

感動とは違うけれど、すごく腑に落ちた箇所があった。そう、目から鱗というよりはストンと胸に落ちる感じ。

長くなるがひとつ引用しておく。

現在の生に不幸な者だけがこの不幸を耐えることの根拠を求めて、意味に飢えた目を未来に向ける。未来にある「救済」あるいは「目的」のための手段として現在の生を考えるという、時間意識の転倒を獲得することによって、多くの目に見える成果を達成することができるということを、文明は知る。〈未来のための現在〉=〈目的のための手段〉というこの文明の時間意識の構造によって、第Ⅰ局面の人間たちの渇望であった、生存のための物質的な条件の確保という課題を追求し、見事に達成して来たのが第Ⅱ局面であった。徹底して合理的なビジネスマンとか受験生などの典型像に見られるように、未来にある目的のための現在の手段化という時間の回路は、他者との交歓とか自然との交感から来る現在の生のリアリティを漂白するが、この空虚は未来の「成功」によって十分に補うことができるので、空虚感に悩まされることはない。世界の中で、アメリカや西・北ヨーロッパや日本のような高度産業社会において、生存のための物質的な基本条件の確保という、第Ⅱ局面の課題が、歴史上初めて達成されてしまうと、この自明の目的のための現在の生の手段化という回路が、初めて根拠のないものとなる。(109頁)

 

第1局面、人間という種が急拡大していく始動期、ヤスパースが〈軸の時代〉と名付けた時期。ユダヤキリスト教(ダニエル書)の救済の思想というのは、未来の「救済」を想定することで、現在の不条理を耐え抜く思想だったのか。生きづらい現在を、未来の幸福のための手段と考えれば、その苦しみを和らげることができると、そういうことだったのか。

 

これは日本の高度成長期と〈失われた20年〉にも余計に当てはまるように思う。

右肩上がりの時代だって、その時代特有の困難さは当然あるのだろうけれど、まさに右肩上がりだということが時代を支えていた。現在を手段とすることを受け入れられた。

今の時代の空気感は違うよね。将来の幸福なんてわからない。むしろ将来のほうが混沌としているんじゃないかと思う中では、〈未来のための現在〉という考え方は成り立ちにくいから。

 

〈未来のための現在〉というのは、未来の幸福のためには現在をある程度犠牲にする考え方だ。だから物質的な充足が「歴史上初めて達成」できたのなら、そんな現在を手段化することはやめればいい。素直に考えればそれが答えになる。

そういう著者の考えに心のなかでは同意しつつ、でも、たぶんそんな単純じゃないんだろうなとも一方で思ってしまう。物質的な充足を維持するため、維持せねばとの観念のため、現在の手段化は続くのではないか。

 

不条理や苦悩、困難というのは形や程度は違っても、いつの時代も存在しただろう。かつては〈未来〉に仮託することでそれを乗り越えることができた。その信仰がいまは揺らいでいる。

価値観の転換が数百年かけて続くとか言われたら、いわく言い難いけど。