ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

〈虚構〉と〈現実〉の差は、情報量の多寡に過ぎない

タイトルの文に対して、賛同や同意しているわけではない。むしろ私はそうではないと考えてきたように思う。しかし同時に感じるところがあるので、書き記しておきたい。〈虚構〉と〈現実〉の境界が薄らいでいくのは、もう突飛な考えではないのだろう。

 

 

 

〈虚構〉と〈現実〉の差異

表題は、正確な文言はやや異なるが、『SAO』シリーズの主人公・桐ヶ谷和人のセリフである。

 

妙に印象に残ってしまっているのは、ここ最近の私の心境と関係しているかもしれない。

虚構世界と現実世界を巡る発言はシリーズ初期から見られるが、問題のセリフは第5巻で登場するもの。これを主人公に言わせるということが、ある意味この作品の世界観の一端を表しているといえる。

つまり〈虚構〉と〈現実〉の差異は小さい(小さくなっていく)と述べることに、肯定的な意味を与えている。

 

なお、元のセリフは現実・虚構ではなく、現実世界と仮想世界の差異について述べたものである。

明日奈の「……現実世界と、仮想世界の違い……ってなんなのかな…………」という呟きに対する答えとして、和人は「情報量の多寡だけさ」と即答したのだった(第5巻54頁)。

 

厳密に言うなら、この場面で明日奈が考えていたのは、現実の物体と仮想世界のオブジェクトの違いはなにかということ。

原子や分子の集合、という意味ならばそれは仮想のポリゴンだって同じだ。あれらの実存は、サーバーマシン内のメモリ素子に留まる電子なのだから。素粒子の種類が違うに過ぎない。(第5巻54頁)

 

その思案ののちに呟いた言葉に、和人は先述のように応答した*1

文脈から離れて仮想世界と現実世界の違いを考えるなら、最初に思い浮かぶのは魔法とかファンタジーの存在だろうと思う。仮想世界であれば、現実の物理法則に囚われることがない。現実にはありえないことも実現可能になる。

 

でも、そういうことじゃないんだろうね。それは平凡というか、なにか考えさせられた気にならない。

賛否は別にして、「情報量の多寡」という答えは、そうか、そう考えられるのか、と思わせるものだった。しかもそれは、奇異な考え方ではないのだろう。

 

アーサー・C・クラークが言った「高度に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とかと近いのかもしれない。落合陽一のデジタルネイチャー的な話とかと親和性高そうな。

そしてすでに書いた通り、〈虚構〉と〈現実〉の差異を情報量の多寡に帰着させるこの発言を主人公がしている。この考え方は、世間的にも違和感はないんだろうな。ディストピア的なことでもないし。

 

 

ニュースの雑談化

なんでこんなことを書いたかというと、私のなかで最近、〈虚構〉と〈現実〉の距離感がちょっと謎に感じつつあるからなんだよね。

 

いや、〈虚構〉という言葉はよしたほうがいいのかもしんない。私が思ってるのは、ネット上の言論空間の拡張のこと。ネットで多くのニュースに接することができるようになったというのに、むしろそれによって現実との距離が遠くなった気がする。

 

というか、どうも近ごろ、時事ニュース等が雑談・世間話のネタくらいにしか感じなくなってることが増えた。政治でも経済でも、犯罪や事件でもそうなのだが、頭では重大性を認識しているつもりでも、感覚的に遊離しているというか。

 

そのニュースがSNSで議論されていても、あるいはワイドショーや社説で取り上げられていても、どこかテキトーに話が盛り上がってるな、くらいに捉えてしまう。話が盛り上がるのはよいことなのだろうが、それが雑談に見えることが多くなった。

要は世間話のネタとして消費されているだけ。それは雑談と大差なく、メディアはネタを提供する機関と化しているのではないかと。

 

こんなことを考えていると、時事・社会問題について論じることと、フィクションを論じることに、特段の差異を感じなくなってきそうでイヤだ。こんなブログを書いてるからか? 小説やドラマや映画やアニメを論評すること(論評というか、あれが好きとかあれがけしからんと述べるようなもの)と、政治を批判したり経済を断じたりすることに、もうそんな差はないよね、と。

 

アニメの感想を述べるのも、政治を批判するのも、要するに雑談でしょ、と。

 

違いがあるとすれば、雑談のネタ(材料)をフィクションにもとめるか、ニュースに求めるかということでしかない。

いや、言論の目的は単に感想を述べることではないはずだと、そういう反論があるかもしれない。私も少し前ならその考えをもっと純粋に信じられた気がする。

いまだったら「ほんとにそうなの?」と懐疑的になってしまう。

 

何かについて語るとき、小説等のフィクションの作品と、現実のニュースの違いはどこにあるのか。

それは結局のところ〈情報量の多寡〉だと答えれてしまうかもしれない。

 

飲み屋の戯言

下手すると、ニュースについて意見表明することも、フィクションの感想を述べることも、ほとんど違いはなくなってしまう。その感想が共有される範囲が違う、情報量の多寡が異なるというだけに過ぎない。

内々のサークルで感想を述べ合うのと、政治的レッテルを貼ったうえで議論することに大した差はない。同様に、フィクションを鑑賞して感じることと、ニュースに接して感じることにも、大きな差異などない。

 

ツイッターを見てると、飲み屋の戯言とニュースの報道が一緒に流れてくるようなイメージ。等価になってしまっている。

居酒屋のノリで居たほうがいいのかもしれない。根拠なかったり、なぜか熱く絡み合ったり、数日後には忘れてたり、微妙に礼儀マナーが入ってきたり。

 

 

ニュースをどうしてチェックするかといえば、高校生なら現社や政経のテストのためだし、仕事上必要な人はまさに仕事のために情報を摂取するというだけだ。

そうした即物的な動機以外でいうなら、社会人としての常識として知っておかなくてはという意識が働くからに過ぎない。「ブレグジットが……」「トランプが……」と話題が飛んだ時に、なにも知らないでは恥ずかしい。そういう恥ずかしさの回避として、常識が求められる。

――要は、雑談のネタを共有できるようにするためじゃないか。

 

そう考えればフェイクニュース問題というものも、その是非はともかく、現象としては理解しやすい。そもそもニュースなんて、雑談のネタと化してしまったのだから。

そうだとすれば、そのニュースが事実として正しいか、それともガセネタや虚偽なのかということは、重要な問題ではない。ニュースとフィクションに差異を感じていなければ、フェイクニュースとの落差もまた存在しない。

フェイクが事実のニュースよりも6倍拡散されると言われる。でもこれは〈フェイク〉か〈真実〉かの差異ではないだろう。〈つまらないフェイク〉と〈おもろいニュース〉だったら、後者がより拡散されるであろうから。

 

逆に、正しいことを言っていても、〈つまらないニュース〉の肩身は狭くなった。

もう〈現実〉を語ることの虚しささえ感じる。

 

www.asahi.com

 

個人化

もちろん、現実の政治や経済の動向は、財布や生活に影響を与えうる。

しかし、ではそのニュースに反対の意を表明することで、その影響度合いを変えることは可能であろうか。民主主義的な模範解答としては「可能だ」と答えるべきなのかもしれない。実際には無力だと感じているにしても。

多くの人にとって日々のニュースというものは、自分にとって無関係か、関係があったとしても所与の前提として受け取らざるを得ないものが大半だ。それが事実であろう。

 

だからトランプやブレグジットを嘆いたところで、なんになるのかといったら、なんにもならない。そんなことをしても、かの国の政治に何ら影響を及ぼすことはない。

 

日本の政治にしたってそうだ。私はデモや署名運動に否定的な立場ではないし、SNSで政治的意見を公にすることにだって、やりたい人は大いにやれば良いと思っている。そうしたことをしようとするだけでバッシングを受ける社会であるとすれば、そのほうが異様だと考える。

しかし、そのことと自分という一個人が現実の政治にどの程度影響を及ぼせるかということとは、全く別問題だ。

結局のところ、〈個〉にとどまっている限り、それは多数の有権者の一票であったり、無数ある声の中のひとつのつぶやきに過ぎない。

 

どうせ無駄だと何もしない人よりも、たとえ変わらないかもしれなくても行動を起こせる人のほうが偉いと思う。けれども、今ここにある現実を受け入れざるを得ないということ自体は、声を上げるか否かに関わりない。これは無知・無関心の問題ではない。

 

 

個人的な情報革命

個人的な自分語りをさせてもらう。

高校までの私にとって、社会の大部分は新聞からの情報だった。

情報源の話である。当時の私はスマホはもちろんガラケーも持っていなかったし、自分用のパソコンも所持してはいなかった*2。テレビは主にバラエティを見るためのものだろう。ゴールデンタイムにNHKスペシャルクローズアップ現代がチャンネル権争いで勝ったりはしない。ニュース番組というのは、民放の情報バラエティになる。

 

それが大学進学で劇的に変わる。パソコンもスマホもそうだし、テレビだって自分の好きな番組を見れるようになった。折しもラインやツイッターの拡大期でもあり、この短い間に情報革命を体験したかの感さえある。

 

ではニュースに接するメディアが変わることで、その向き合い方も変わっただろうか。

むしろ情報は消費するものだという感覚が強まったように思う。ネット、とくにSNSから情報を得ることが増えるにつれ、活字の読書や新聞も流し読みすることが増えた気がする。

 

学部生のころはまだよかった。いまよりも現実世界との接点があった。労働相談をする団体の活動に参加していたのは大きかったと思う。ニュースで報じられる労働事件の裏側に、その人のリアルの生活があることを、あるいは同様に苦しんでいる人が他にもいるだろうことを、実感的に想像することができた。新聞で報じられることがニュースのすべてではない、という感覚とも相まって、ニュースから受けるリアル感覚が高かった時期だった。

 

院生に上がって、研究に軸を移すようになると、しかしこのニュースのリアル感覚はむしろ薄まっていった。研究に、現実世界との接点をあまり感じなくなっていった。

私のなかで、ニュースの〈雑談化〉が進むのはこの時期だったように思う。

研究に熱中あるいは没頭しているうちは、それほどニヒリズムに陥らずには済んだ面もあったように思う。研究がしかしディレッタントに感じるようになってくると、虚無感の入り口に足を踏み入れがちになる。

 

同時にというか、小説やアニメを見る時間が増えたのもこの時期だった。

時期や動機を細かく述べれば、決して〈雑談化〉とリンクしているわけではない。しかし親和性が高かったのは、振り返って考えれば事実かもしれない。

それまではどちらかといえばフィクションを軽視していた感がある。フィクションの作品なんて所詮つくりものに過ぎないと。

 

そういう考え自体もまたくだらないものだ。

ちっぽけな義務感くらいの差異が存在する程度か。

 

 

報道機関とネットニュース

重要度に応じてレイアウトしてある新聞記事と比べて、ネットのニュースは……というようなことを思ってはいた。

だが、これも少し正確でない。新聞だって、ざっと流し読みするものに過ぎない。情報が流れていくという意味では、紙媒体かWeb媒体かにこだわるところはない。

メディアの違いというのも、要は情報量の多寡の違いというふうに感じている人は、少なくないのではないか。

 

実家で購読しているのは地元紙だったので、朝日新聞を読み始めたのは大学進学で一人暮らしを始めてからだった。単に印象の話で申し訳ないが、朝日を読んでいて感じたことのひとつは訂正記事が多いということだった。

正確に数えたわけではないけれど、目にする訂正記事の量が多い気がしたのだ。朝日新聞が2つの吉田問題で謝罪する前のこと。

 

だから朝日が信用できなくなったということではない。ちゃんと訂正が出ることに対してはどちらかと言えば好感を持ったように記憶している。

大学での学びや、あるいは朝日の誤報・謝罪問題を経て、新聞の報道が常に正しいわけではないという当たり前の事実には、より自覚的にはなったかもしれない。

 

SNSでニュースを見る機会が増えるのはその後か。

報道機関というのも、SNS上ではフォロワーの多いアカウントというだけに過ぎなくなる。報道と個人の発する情報に、媒体上の違いがなくなってしまう。

新聞だって見出しだけ読むことが少なくないだろうに、タイムラインに並んだら、それはなおのことだ。

 

 

ツイッター上での誰それの発言がニュースになっても、もう別に驚かなくなってしまったし。   

主観的事実と客観的事実が混同している人を見かけても、それ自体に衝撃を覚えたりしない。

 

 

 

迂闊な月曜日

こういうのもあった。『東のエデン』における「迂闊な月曜日事件」。

テレビシリーズの放送が2009年で、作中の年代は主に2011年が描かれているというのは、震災後に視聴するとその持つ意味が変わる部分もあるかと思うが、ここではそれには触れない。

 

「迂闊な月曜日」は日本の主要都市を中心に10発のミサイルが落ちた事件。にもかかわらず死者数が0であったことが、深刻さの欠けた反応につながっている。それは「迂闊…」という事件のネーミングにも表れている。

 

事件の後の世論調査(「ミサイル攻撃を受けるかもしれないという不安はありますか?」)では、30歳以下の若者は「関係ない」65.9%、「わからない」が12.1%ということだそうだ。

 

むろん、この作品はフィクションに過ぎない。

現実の日本でミサイルが10発も落ちているにもかかわらず、ここまで無関係・無関心(あるいはネタ的、ヤジウマ的関心)であるという事態は、正直考えづらいなと思っている。

 

しかし数字自体は嘘だとしても、このような考え方を取る人が一定存在するという点に関しては、否定しきれない事実であると思う。

現実の日本ですでにそうなっていないか。フクシマにしろ、オキナワにしろ、どれほどの人が関心を持っているのか。政争の道具として(あるいは政治的雑談のネタとして)ではなく、真に心を痛めている人がどれだけいるのか。

世論調査で尋ねられたら、“大人の良識”として答えるけれども、普段から関心を持っているわけではないというのは、多数派ではないのか。

 

「迂闊な月曜日」的な状況が、いまはそれほど奇異なものに感じなくなっている。

 

 

取っ散らかって、何が言いたいか不明瞭になってきた。最後にちょっと、伊藤計劃を引用して、この記事を締めくくることにする。

「雨粒ほどの関心さえあれば、オルタナにつないで、その製品を構成するすべての材料をトレースできる社会に、ぼくらは生きている。情報だろうと物だろうと、すべての商業的事物(オブジェクト)が通過してきた空間(スペース)と時間(タイム)とが記録されている時空(スパイム)社会にね。……(中略)……なのに誰も、自分の好きな物歴しか見ない。自分らの生活を支える飛行機や作業機械の人工筋肉が、どんなに悲惨な場所で生産されているかなんて、知りたくもないというわけだ」

……(中略)……

確かにそうだった。ぼくは任務以外にはCNNのクリップ・チャンネルでしか世界を知らない。ぼくはドミノ・ピザの普遍性のなかに暮らしている。映画ストリーミングサービスの、最初の無料プレビュー15分のリピートのなかに生きている。

伊藤計劃虐殺器官 新版』ハヤカワ文庫JA、231ー232頁)

 

 

 

*1:ここの叙述は明日奈視点で書かれており、呟いた部分以外は地の文で書かれている。そのため和人は「現実世界と仮想世界の違いはなにか」という呟きを聞いただけで「情報量の多寡」なのだと答えていることになる。普通、「仮想と現実の違い」という発言だけで、3Dオブジェクトについて考えていると分かるだろうか、という気もするが、きっと通じ合っているのだろう

*2:20世紀とかの話じゃなく、2010年代の話だよ