人はどうしてフィクションに夢中になれるのか。たかだか娯楽。下手すりゃ現実逃避。とはいえ考えてみれば宗教だって、ひとつのフィクションだ。神が人を創ったのではなく、人が神を作ったのだから。
近代以前の芸術なんて、だいたい宗教的モチーフが入ってる。しらんけど。
そういうことを考えれば、フィクションに夢中になるのも、おかしなことではないのかもしれない。
ただ私個人としては、なんでフィクションを語ることに人はかくも熱心になれるのか、ということはよく考えてしまう。アニメでも、ドラマでも、小説でもなんでも。
だって〈虚構〉の話だよ。文字通り、うつつを抜かして語ってどうするのさ、と。
以前、『殺人犯はそこにいる』の感想を書いたときはそんな気が強かった。
〈虚構〉を通して〈現実〉を描いている作品もあるから、一概には言えない。けれど、そういう作品が多いわけではないと思う。
〈現実〉を描こうとした〈虚構〉よりも、〈虚構〉に〈虚構〉を重ねたような作品が増えているのではないか。〈現実のコピー〉ではなく、〈コピーのコピー〉(あるいは、コピーのコピーのコピーの……ry)。
パロディ、リメイク、スピンオフといった作品の流行りは、そうした〈虚構〉領域の拡大でもある気がする。
それが必ずしも悪いとは言わない。ただ私は、そうした流れに手放しで乗りかかりたいとも思わない。
たとえるなら、金融経済の肥大化、「金融の経済化(フィナンシャリゼーション)」だろうか。実体経済の規模以上に、金融経済の比重が膨張している。
金融の専門家や投資家からしたら鼻で笑われるかもしれないが、金融の肥大化というものに、私はあまり気乗りしない。実体経済を置き去りにして金融経済が拡大しているのでは、という素朴な感覚。
サブプライムローンの拡大とその後のリーマンショックのイメージか。住宅ローン債権がMBS(モーゲージ担保証券)として証券化され、さらに複数のMBS等をまとめてCDO(債務担保証券)に再証券化。それをまた民間格付会社が高い格付けを付けて……。金融工学とはそういうものなのかもしれないけど、「花見酒の経済」のようなものを感じてしまう。
東証一部の株式の売買高とGDPの推移を並べてみたんだけど、実体経済たるGDPと、株の売買量って、あんまり関係ないのだな。というか株式の売買高が東証一部だけで500兆超えてるのは知らなかった。
GDPは内閣府国民経済計算(GDP統計)、東証一部売買代金(年間)は日本取引所グループ。
さっき述べた、〈虚構〉に〈虚構〉を重ねた作品が増えてるのかどうかは知らないけれど、フィクションの肥大化みたいなことが起きているのではないかというようなことを感じている。
それはコンテンツ産業の巨大化という意味ではなくて、むしろコンテンツが売れてるかどうかとは関係なく、ネタの消費のされ方として感じている。
昨年のアニメで『よりもい』が話題になっていたが、舞台描写としてはともかく、下書きにしているのは青春アニメだなと感じた。アニメに合わせた換骨奪胎なのかもしれないが、南極を舞台にしてまで描きたかったのが高校生の青春なのか。このアニメの目指したリアルはそこなのか、と。
プロジェクトX的なものではなく、青春アニメ的な文脈。
いや、プロジェクトXと比較してどうすんねん、というのは。。。
6話だったか、パスポートを失くしてしまってドタバタするけど、結局ほかの子が持っているだけだったという回があった。南極を目指すアニメでこれをやるのかと、正直感じた。
描きたいのは南極への冒険ではなくて、女子高生のほうに比重があるのだろう。
世界に日本の底力を見せつけようという夢は、見返す相手が高校生に変わり、南極観測の過酷さや困難は思春期の葛藤やコンプレックスに変わり、地球の歴史の解明やオゾンホールの発見に結び付く科学的成果は、キレイなオーロラを見るという個人的経験へと変わってしまっている。*1
作品としては面白い出来になっているとは思う。けど、女子高生アニメの舞台設定を南極に移植したような感じで、南極が「宇宙よりも遠い場所」だとは感じなかった。
娯楽のフィクションとしては、それでもいいのかもしれない。
そうはいっても、見せたい願望を見せるだけ、過酷な現実を忘れさせるだけでいいのかと思うこともある。
『君の名は。』は劇場で鑑賞しているときは泣いたけれども、鑑賞後に感じたのは記憶の忘却。3.11の記憶が生々しいころだったら、あの映画はあそこまで受け入れられなかったと思う。あれが大ヒットしたということは、もうすでに震災が風化したということだ。
彗星で故郷が失われた女の子が、東京で男の子と出会うのがクライマックスなんだからさ。