ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

永遠と自動手記人形

目に潤っときてしまったのは、エンドロールだった。ここは(こら)えられなかった。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -』公式サイト

 

 

・・・正直言っていい?

泣くわけないと思ってた。

 

TVシリーズについては、1・2話の先行上映会で鑑賞したタイミングで期待も込みで感想を書いた。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』 - ぽんの日記

 

ただ13話まで見終えたあとで(あるいはその途中で)、新たに感想を書くことはしなかった。

楽しんでいなかったわけじゃない。実際BDも購入して、複数回鑑賞している。でも泣くまでには行かなかったのだった。その理由なり原因なりについては、まあここでは書くまい。

 

さて、『外伝』である。

言うまでもなく、事件後の〈新作〉である。実際には事件前にほぼ完成していたらしいので、実質的な意味では事件後の作品ではない。事件最初の作品ではなく、事件最後の作品だ。これまでの制作体制で作ることのできた、最後の作品だ。

 

 

「泣くわけない」と考えていたのは、公開前だけでなく、鑑賞中にさえそう感じていた。

外伝映画の副題は「永遠と自動手記人形」。「永遠」がテーマだ。それを描くために奇をてらった手法が使われるわけではない。意外性やどんでん返しがあるわけではない。そういう意味では、ストーリー的には想像の範疇を超えるわけではない、とも言ってしまえる。

 

シンプルであること、ストレートであることはTVシリーズでもそう感じたっから、期待に(たが)うわけではない。

ただ上映中は百合とロリをじっくり見せられている気分だった。前半が百合で、後半がロリ。尊いとでも感想を述べておけば良いのであろう、きっと。

 

世界観・設定もいろいろ引っ掛かりを覚えたので、そっちのほうが気になってしまったというのもある。ヴァイオレットの義手はTVシリーズの第13話で壊れて、その後別の義手に変わったはずだが、映画では以前の義手に戻ってたなぁ、みたいなことも含めて。女性の花道、孤児院、貴族制、科学の発展、そういった数々からどんな社会かが描写されているように思う。設定資料集はすぐ完売となっていたが、手に入れたかったな。

 

もともと私は生活や社会の描かれ方が気になる性質(たち)のほうだと思う。しかし、今回そちらに注意が行きがちだったのは、単に私の興味関心だけの問題ではないだろう。本作ではTVシリーズ以上に社会の描写に力点を置いている。

 

TVシリーズでの社会の描かれ方との違いは、〈社会の変化〉がフォーカスされている点だ。これは明らかに「永遠」との対比であろう。

ガス燈が電気になり、馬車が通っていた道を自動車が走るようになる。電波塔の建設が進み、「これからは結婚してからも女性が働く」と新しい世を謳う。作中で3年が経過したこと、戦後4年になることをわかりやすくセリフで説明もしている。

 

私は上映を観ながら、「永遠」との対比で変化が強調されているのだろうなと考えていた。

だが、個人的には〈変わっていくこと〉〈変わらざるをえないこと〉、そういう移ろいゆくものを描写しているということが、妙に胸に刺さってしまう。

それは「ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン」という物語の終わりを意識してしまうからだった。そもそも代筆業が成立しているのは、文字を書ける人が少ないという時代状況があったからだった。しかし社会は進歩し、教育水準も今後は向上していくだろう。そうなれば、自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)の仕事も当然変化していかざるをえない。手紙自体は残っても、そのあり方は大きく変容してしまうはずだ。そう想像してしまう。

手紙というノスタルジックな手段で魅せている作品が、しかしいつまでも〈古き良き〉時代そのままではいられないのだろうと、そんなことを考えてしまう。

 

社会は変わっていく。でも、変わらないものもまた一方ではある。

それが作品のメッセージだ。だが、どうしても私は〈変わってしまう〉ということを考えずにはいられなかった。作中では、社会が変化していくということを肯定的に語っているようにも見えたのに。

 

 

そんな気持ちでエンドロールを見る。

すでに報じられている通り、エンドロールには関わった全スタッフの名前が掲載されていた。それはすでに知っていた情報であるはずなのに、実際に目にすると感に堪えない。「サポーティング・スタッフ」のところなんかとくに。目に映る文字が滲んでいた。

「永遠」と題された作品で、最期となったスタッフの名が刻まれていた。*1

 

エンドロールが終わると、来年公開予定だった新作のPVが流れる。 

時代は変わる。

ガス燈は電気に、手紙は電話へと変わり、その役割を終えようとしていた。

でも変わらないものもある……

 

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ああ、ここでも変わりゆくものの対比として、変わらないものが強調されていたんだな。

事件直後は、2020年1月公開となったままだったけれど、さすがに鋭意制作中と変更されていた。

 

帰ってからニュースを見たら、このタイミングで公開延期が発表になっていたようだ。

余談だが、私は京アニの公式ツイッターはフォローしておらず、いつもHPの新着情報欄でチェックしていた。スタッフブログの「アニメバカ一代」を定期的に読んでいたから。

あの事件の後は、報道の側から情報が流れてくるようになって、不思議な感覚だ。

 

京アニのスタッフの名前は幾人かは名前を存じていたけれど、報道によって初めて覚えた名前もあった。あの事件の後は、これまで以上に名前に目を通すようになった。

もちろん本当だったら、事件なんかによってではなく、作品によって覚えられることこそ望ましいだろう。しかし事件がなければおそらく覚えることのなかった名前があるのもまた事実だ。

 

事件は京アニ作品との向き合い方を変えてしまった。

事件がなくても本作は鑑賞する予定であったが、事件がなかったらエンドロールで涙することはなかったはずだ。あそこの描写が良かったとか、ここは京アニらしかったとか述べて、数ある作品のひとつとして本作も鑑賞していただろう。まあ、私は京アニ贔屓(びいき)であるとは思うが。

そして私はたぶん、この作品もそういう楽しみ方をするだけで、涙するほどの作品にはなっていなかったと思うのだ。

 

 

今後どうしても、京アニの作品やスタッフを事件と結びつけて見てしまう瞬間があるでしょう。それでも、なるべく作品は作品として。そしてそれに携わったスタッフへの敬意や感謝は、作品に則った形で持ち続けたいものです。

京アニの実名報道が及ぼすもうひとつの副作用 - シン・さめたパスタとぬるいコーラ

 

作品は作品として鑑賞すべきなのかもしれない。京アニの作品でなければもしかしたらそれも可能であったかもしれない。

でもムリだ。切り離しておくことなど、もうできやしない。

*1:エンドロールでこう潤んだのは、亡くなった松来未祐さんがクレジットされた『たまゆら』劇場版を観て以来だな、と後になって思い出す。