ぽんの日記

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『さよならの朝に約束の花をかざろう』感想

岡田麿里監督・脚本の『さよならの朝に約束の花をかざろう』(『さよ朝』)を鑑賞。

『あの花』『ここさけ』で有名な方で、前にも少しだけ触れた。

 

kynari.hatenablog.com

 

 

 

 

今回の新作映画は、ちょっと前に見に行ったのだけど、すぐにそのことを書かなかったのは、ハインラインの『メトセラの子ら』を思い出したから。

 

ハインラインはアメリカSF界の巨匠作家。ちなみにメトセラというのは旧約聖書に出てくる人物で、969年間生きたということになっている。

メトセラの子ら』も長命の寿命をもつ「ハワード・ファミリー」の物語。ファミリーと言っても10万人くらいの規模だけど。

SFとファンタジーの相違はあるけれど、メインの設定は『さよ朝』と似ている。

 

もうひとつ『メトセラの子ら』を思い出した理由がある。それは小説の中心人物の名前がラザルス・ロングであるということ。

そして『さよ朝』にもラングという人物が……。

ラザルス・ロングとラング。・・・・・・似てる。

 

 

再び『メトセラの子ら』を読み返してみて、『さよ朝』と単純な比較はできないけれど、改めて気づける点はあったと思う。

 

『さよ朝』について一言で説明しづらいのは、何を描きたいのか、テーマやメッセージはなにかということが、ちょっと分かりづらいから。

岡田監督が今描きたいものを全て込めたと、そんな主旨のことを言っていた。それは贅沢ではあるけれど、分かりにくい部分も生んでいる。たぶん、ストーリーや登場人物をもっとシンプルにすることもできたんだろうけど、そんなことはしなかったんだと思う。

 

『心が叫びたがってるんだ』の場合は、ストレートな感じ。タイトルがそのまま主題を表している。

『さよ朝』はタイトルを聞いても、いまいちピンとこない。素直に解釈すれば「別れ」と「約束」がテーマなのだろう。

 

『さよ朝』も『メトセラの子ら』も、長命人種が短命人種とうまく行かないのは共通している。『メトセラの子ら』の舞台は(近)未来だけど、不老長寿の秘密を求める人たちにとの間で争いになる。

情報社会だと、個人情報を登録しないと行政サービスから排除されてしまう。長寿であることを隠してひっそり暮らしていくのは、中世の世界よりも難しいかもしれない。

とはいえ、『さよ朝』の世界でだって、やはり身元を知られないように流浪の生き方をせざるを得なかった。生きにくい世というのは同じかもしれない。

 

「別れ」というテーマは、この辺りと密接に関係しているのだろう。

長寿の一族は、短命の人間たちとは必然的に異なる人生を歩まざるを得ない。それどころか争いごとのタネにさえなってしまう。

 

『さよ朝』の話の筋を素直に受け取るなら、「別れはつらいものだけれど、つらいばかりじゃない別れもある」なのだと思う。たしかそんなセリフが出てきたはずだ。

ただ、すっきり理解できないところがあったのも事実。

それはまさに長命人種と短命人種という、大本の部分に関することだろう。

 

たしかに主人公マキアとその「子ども」であるエリアルの個人的な関係にだけ目を向ければ、そう言えるのかもしれない。

でも、長命人種と短命人種という関係で見ると、あまり気持ちよく解決したとは言いにくい。結局、マキアたち「別れの一族」は、普通の人間たちとは距離を取り、人里離れて暮らすというもの。長命人種と短命人種が共に暮らす、共存・共生関係を築くという形では解決していない。

もののけ姫』が「人間は好きになれない」「それでもいい。ともに暮らそう」となっているのとは異なっている。もちろん、『もののけ姫』も単純なめでたしめでたしではなく、これから多くの困難が待ち受けていると思われるが、それでも共生関係を目指すという終わり方をしている。

 

『さよ朝』はそこにもやもや感が残る。結局、マイノリティはうまく社会に溶け込めないのかと。

イオルフの民(別れの一族)は直接的に戦争の口実にもなっているし、エリアルはマキアたちの一族を略取・離散させた国の兵士として戦っている。

 

国と国、あるいは種族間の違いを乗り越えた愛(マキアとエリアル)というところに、確かにこの物語の美しさがある。ひょっとしたらそれを強調したかったのかもしれない。

でも国家間や人種間の紛争のほうに目が行ってしまう人にとっては、違和感を残すことになってしまうだろう。

 

ちなみに、長命人種と短命人種の関係性については『メトセラの子ら』でも描き方は似ている。こちらのほうが幾分SF的と言えるかもしれないが、ハワード・ファミリーの一族は宇宙船に乗って地球から脱出することに追い込まれる。

そして別の星々を訪問するが、それぞれの星の「人類」とは共生できず、結局地球に戻ってくるのだ。宇宙人との接触もあるという意味では、『さよ朝』以上に人種間の相違を、そして人が種の違いになにを感じるかを描いていると言えるかもしれない。

なお、地球に帰ってきたハワード・ファミリーの一族は、平穏に迎え入れられる形で物語が終わっている。というのも、彼らが宇宙の旅をしている間に地球では科学が発達し、長寿を実現することに成功していたからだ。

これはしかし、SF的解決かも知れない。長命人種と短命人種がどのように関係を築いていくか、という問いへの答えにはなっていない。科学の力で短命人種が長命人種に「進化」することで解決したに過ぎない。

 

 

もう一つのテーマである「約束」は綺麗であると思う。

ただ、これも一面的に「約束」を描いているわけではないところがキモと感じる。

 

『さよ朝』の物語は、主人公のマキアが受動的な存在として描かれているように思える。『ここさけ』の主人公は喋ることもできない少女だったが、劇中ではそれを変えたいという意志に焦点が当てられていたと思う。

それに対してマキアは、主体的な選択をほとんどしていない。イオルフの地を離れたのは襲撃があったからで、自らの意思ではない。流離の生活を送ったのも、そうせざるをえなかったり、他人に迷惑をかけたくなかったという側面が強かった。概して受動的・消極的な選択で、ラングとの再会も偶然に過ぎなかった。

そして『ここさけ』と違って、そうした自分を変えようというところには、特に主眼を置いていないように感じられる。

 

そのことが逆に、マキアが自分の意志を強く表明した数少ないシーンを、際立たせる結果となっている。

バロウという旅の商人には「よしとけ」と言われたにもかかわらず、エリアルを育てようと決意したシーン。

泣きながら、「母親だから泣かない」と約束するシーン。

エリアルから「行かないで」と懇願されたのに、立ち去るシーン。

 

マキアの主体的な意志や決断が見えるのは上記のシーンくらいなもので、だからこそこれらの場面が強い印象を残す。

 

「約束」のテーマからしても、「母親だから・・・」と約束を決意する場面が重要なのは分かる。

でも、この約束、守られない。物語のラストでもマキアは泣いている。

 

『さよ朝』に出てくる約束は、ここ以外にもいくつかある。しかし大体破られている。

「人と深く交わらない」という長老からの掟も、広く約束といえるだろう。でもこの約束は(自分の意志ではなかったかもしれないが)守られなかった。

エリアスの「お母さんを守る」もそうだろう。途中でマキアのもとを離れ独り立ちする。そして先にも書いたように、イオルフの民を襲ったメザーテの国の兵士となっている。守るどころか、裏切りと言えなくもない。

物語の最終盤。老齢のエリアスをマキアが見舞う。ここも印象的で、「夕飯までには帰ってくるんだよ」という言葉を別れの言葉として告げている。当然ながらこの「約束」も守ることはできない。

 

だからこの作品に出てくる「約束」は、実はほとんど破られている。

けれど、じゃあ約束は意味がなかったのかというと、そうではない。たしかに約束は守られなかったけれど、だからといって約束した自体にはきっと意味があったはずだ。

 

約束は、破られてしまったからといって、無意味になるのではない。破られた約束にだって意味はある。守られた約束だけが尊いのではない。

結果的に約束を守る形にはならなかったけど、あの2人にとっては、守れなかった約束も、とても大切なものなのだ。

この映画は、そう訴えかけているのではないだろうか。

 

 

「約束」というテーマについては、『メトセラの子ら』とは比べようがない。そもそもこちらの主題に関しては普遍的なテーマなのだ。長命人種という設定は関係ない。

 

個人的な好みで言うと、CGを使ったり、音響効果がついた迫力あるシーンよりも、普段の生活描写が映像描写として良い。子を思う気持ちとか、母親としての葛藤とか、息子の作ったものをいつまでも大事にしているとか、親離れとか。

そうしたシーンの一つひとつは、別に長寿の一族であることとは関係ない。普通の人間でも経験することだろう。

設定が先走って、こういう描写がおざなりになるなんてことがなかったのが嬉しい。

 

 

だらだらと書いてしまった部分もあるけれど、一言でここが良いとまとめるのは難しい。映画を観終わった直後、「良い映画だった気がする」と浮かんだのが最初の感想だった。その気持ちは間違っていないと思う。