ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

『詩季織々』

shikioriori.jp

日本では描けないアニメではないかと思った。

期待以上に面白く観ることができた。

 

聖地巡礼」という言葉は一般化し、アニメの背景に現実の風景を織り交ぜること自体はすでに珍しいものではなくなっている。細田守新海誠でも実在の景色が登場する。

なぜ実在の場所を登場させるのかといったら、理由は一つではないにしても、大きな理由は作品にリアリティを持たせるためだろう。虚構の世界であるアニメの中に、実際の風景が描かれることで、その作品が現実にありえたかもしれないと思わせたり、あるいは作品世界に没入させやすくしたりする。

 

しかしそういう「聖地」の描き方は、「聖地」に作品内容が一定規定されざるを得ないという内在的な制約を抱えている。『詩季織々』を見ながらそんなことを思った。

 

らき☆すた』以来、深夜アニメでも「聖地」のあるアニメは増加した。都会から田舎下りまで、多くの「聖地」アニメがある。けれども、増えた作品数ほどに、描かれた「聖地」の数ほどには、多様化を感じない。

現代日本を舞台とする限り、ある種傾向が生じてしまうのは当然と言えば当然だ。

 

だから『詩季織々』を観て新しいと感じたのは、単純に中国舞台の作品を私がほとんど観てこなかったというだけの理由かもしれない。

それども、作中での都市や故郷の描かれ方は、やはり日本を舞台としていては成立しえない物語となっていると強く感じる。

 

基底に現代の中国社会がある。

日本の高度経済成長期も、それまでの先進国が経験したことのない急速な経済発展だった。だが今の中国はそれ以上だ。かつての日本以上の急速な「発展」と、一方での都会と地方の格差。

思春期を経て人は大きく変わっていくけれども、同時に社会自体も大きな変容の渦中にある。

こうした通奏低音があって、その上に物語が成立している。この作品で描かれている「青春」は、そうした社会の姿と重なることでより一層きらめく。あるいは急速な工業化にどこか虚しさのある人の情緒。

 

同じ物語が日本を舞台にしてできるのか。

三鮮ビーフンや石庫門の代わりになる素材は今の日本にはないのではないか。

私が中国作品をほとんど知らないせいかもしれないが、中国が舞台であるということがすごく効いている。「聖地」というのはただの舞台ではなく、物語の重要な要素なのだということを認識できた。

 

そういう意味では、3つの短編のうち2つ目の「小さなファッションショー」は色合いが違うように思う。中国・広州が舞台であるけれども、そこが舞台である理由はあまりない。

脚本家が日本人だということが関係しているのかもしれない。姉妹の物語なのだけれど、一人っ子政策が長く続いていた中国の人はこの話をどう見るのだろう。

 

「陽だまりの朝食」と「上海恋」は中国社会との重なりが見えてよい。話の筋自体には別に驚きはないけれど、それでもグッとくる。

とくに「上海恋」がいい。郷愁味を含んだ青春恋愛もの。これは新海監督にも描けないのでは。

 

君の名は。」にはふるさとへの想いみたいなものを特に感じない。もっといえば故郷への想いなんて喪失している。彗星で文字通り故郷は消滅したわけだから。生存エンドで2人が再会するというクライマックスに、望郷の念を抱く人はいまい。ふるさと、町ひとつが消滅しているにもかかわらず。

「陽だまりの朝食」「上海恋」は「この町とともにあった青春」がしっかりと織り込まれている。これが短編なのだからすごい。

 

「聖地」、作品の舞台が意味を成す作品を今の日本で作ろうというのは難しいのかもしれない。東京に魅力を感じるわけでもなく、地方を描けば「町おこし」にならざるをえない。ファンタジーの舞台としては、モデルにはできても町としての意味は特にない。

町を描く意味があるとすれば、片淵監督の「この世界の片隅に」のようなものか。

現代でやるなら、ヤマカンこと山本寛監督が東北にこだわって作品を作ろうとしているのも、そんな意味もあるのかもしれない。