ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

ご飯論法

国語のテストで出されるような読解問題は素直というか、素朴な世界観に支えられているのだと思う。著者に「伝えたい意図」が必ずあって、それがしかるべき表現で書かれている、ということを前提としている。

必ずしもそうとは限らないだろうに。むしろそうでない例は無数にあるのではないか。

だってそれでなくても文章というのはウソがつきやすい。対面で話す場合には表情、声色、仕草であらゆる演技をしなければならないが、活字なら記号で済む。

 

あえて誤読、ミスリードさせるというのは、フィクションならよく見られる。ミステリなら茶飯事だろう。物語の結末までには「種明かし」がなされるのが普通だけれども、必ず種明かしされるとは限らない。

 

ミステリではないけれど、ぱっと思いついたアニメ『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』を例に出す。少佐は生きているのか、死んでいるのかという問題。

 

素直に「読解」するのなら、少佐は死んでいる。というか「生きているのか、死んでいるのか」という問いすら普通は立てない。

なぜ生死が問題になるのかと言えば、それは原作小説では実は少佐は生きているからであり、そしてアニメについても新作映画の制作がすでに決定しているからだ。

 

もし原作等を考慮せず、テレビシリーズだけで解釈するならば、少佐は死んだと考えるのが自然であり、そのほうが物語としてのまとまりもよい。それが「正しい読解」だと思う。

続編が作られ、実は少佐が生きていると判明した場合、この「読解」は間違っていたことになる。ではその「読解」の間違いはなぜ生じたのか。読解の仕方が正しくなかったからだろうか。それとも、「読解」は間違ってなくて、途中で設定変更がなされたとでも解釈しなおすべきであろうか。

 

そうではないだろう。視聴者が「読解」を間違えたすれば、間違えるべくして間違えたのであり、それがむしろ作り手側の意図の結果だろう。

つまり、わざと誤読、ミスリードさせる仕掛けが仕込まれていたということだ。

 

しかし残念ながら、本当に「誤読の仕掛け」なのかどうかを現時点で判断することはできない。のちに「種明かし」がなされれば「誤読」だったのだと分かるけれども、それがなされなければ「誤読」こそが「正当な読解」である。

 

 

このような「種明かし」が作中で行われるのか、続編で行われるのか、それとも作品外の場で明かされるのかは、実のところ作り手側の胸先次第でもある。

 

そして作者側が意図的に誤読させるよう仕向けた場合には、外部から「種明かし」をすることは非常に難しい。

 

仮想的に『トトロ』という作品を考えよう。

作品の表向きの描かれ方とは別に、「実はサツキとメイは途中で死んでいる」という都市伝説的解釈がある。

たとえばこれを、本当にそのような裏設定・裏メッセージが仕込まれていたと仮定してみよう。実はこの裏メッセージこそが真のメッセージなのだが、それに気づかれたくないから、表向きはそうは描かなかった。このように考えることもできなくはない。

 

では、そのような裏設定があるということを我々は「種明かし」をして明らかにすることができるだろうか。

作者側が隠す気でいるのなら、これは難しい。作中の具体的な描写を「証拠」に挙げても、表向きの「言い訳」で逃げられてしまうだろう。そもそも「表」にできないから「裏」にしたのであり、たとえ「裏」について尋ねられても公式見解は否定するだけだろう。

 

私はこのような都市伝説的解釈は好きでないし、信じてもいない。ここで言いたいのは、作り手側にとっては「真のメッセージ」を隠して別のメッセージを表向き伝えることはおそらく可能であるし、そしてそれを通常の「読解」において解き明かすのは難しいということだ。

 

 

上記の話はあくまでフィクションの世界の「読解」だった。

だが、「意図的に相手に誤解させる」のを狙った行為というのは、日常的に結構行われているのではなかろうか。

 

今年の国会で注目された「ご飯論法」もまさにそのようなものであったように思われる。

ご飯論法の肝は意図的に誤読するように仕向ける点にある。単にすり替えや答えたふりではない。「朝ご飯は食べましたか?」という問いに対して「朝は忙しかった」「ずっとTVを見ていた」などと答えるのは「そんな話聞いてねーよ」となる。話題をすり替えたり、誤魔化したりしたことがすぐにわかるからである。

「ご飯は食べていません(パンは食べたけど)」との返答の場合は一見質問に答えているように見える。普通の「読解力」の持ち主ならば、朝ご飯を食べていないと「誤読」するだろう。あとになって「種明かし」に成功しても、ウソはついていないと「言い訳」できる。

したがって、ご飯論法とは「誤読するように意図的に仕向ける論法」だと特徴づけることができる。

 

ご飯論法は命名がなされたが故に注目されたが、類似の例はかつてからごまんと存在するはずだ。

たとえば国立大学の文系廃止と読み取れる通知をして、騒ぎが大きくなると「誤解を与えました」と逃げたり。

 

そう。意図的に誤読させる、というのは「誤読」こそが肝である。問題が生じた場合は誤解させるような言い方をしてしまったと言い訳できる。

 

似たようなことは会社でも行われているであろう。

直接的に解雇通告はしたくない。パワハラと受け取られてしまうのも避けたい。そこでそれとなく匂わせておいて、相手にそう思うように仕向ける。勝手に退職強要されたと思って辞めてもらえれば、パワハラの証拠は残らない。

 

このように考えると意図的に誤読に導こうとする物言いは巷にあふれているように思う。これは教育によって読み手のリテラシーを向上させたからといって、無くなりはしない。読み手の正常な読解力を逆用することによって成立するメソッドなのだから。

 

 

今ここにこうして書いている文章には裏メッセージはありませんから、安心してください……たぶんね。