ぽんの日記

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中村高康『暴走する能力主義』

もうちょい欲しいんだよなあ。

この本での著者の基本スタンス

いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。

 この主張は分かるし、賛同する部分も多い。新書としては十分に満足できるレベルなのだけれど、一方で物足りなさが残ったのも実感としてある。

 

 

各章はそれぞれの命題に沿って進められるので、それを紹介すれば本書の大筋の流れは掴めるだろう。

命題1 いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない 【2章】

命題2 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される 【3章】

命題3 メリトクラシーは反省的に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシー再帰性) 【4章】

命題4 後期近代ではメリトクラシー再帰性はこれまで以上に高まる 【5章】

命題5 現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシー再帰性の高まりを示す現象である 【5章】

 

それぞれの命題について大きな異論があるわけではない。「新しい能力」に懐疑的ないし慎重な態度を取ることを批判する気もない。ただ、著者の最初に示した「『新しい能力を求めなければならない』という議論それ自体」がなぜ渇望されるのか、命題でいえば4,5の部分は、もう少し突っ込めなかったか、とは正直思う。

 

問いの形で私が物足りなさを覚えた点を書くなら、

・ビジネスでの競争にしろ、日本の社会的課題ないし地球の人類的課題にしろ、その切迫感は増しているのではないか。それが教育論議にも反映されていると思うが、その切迫感についても実態として切迫さが増しているわけではないと考えているのか。(著者は再帰性の高まりを抑制する主因が後期近代ではなくなることを理論的枠組みとして提示している)

・社会全体の教育、養成構造を考えた際、学校教育に求められる役割は変わっているのではないか。企業が訓練コストを減らし、自己研鑽、自己啓発あるいは学校教育に教育訓練を期待するようになったことが「新しい能力」論議に影響を与えているのではないか。

・「新しい能力」に類する能力の要請は従来からあったかもしれないが、その高度化が進んでいるのではないか。

 

あと、理論的に論じるというのなら、メリトクラシーの社会だとなぜ能力を測定する必要があるのかという話もしたらどうだろうと思った。能力の測定って、そんなに自明か。

例えば企業の採用選考って、序数的に評価しているのか。採用枠が100人なら、応募者に点数付けて優秀な順に並べ、上から100人取ってるのか。多様性、バランスも考慮していると思うのだけれど。本質的に言えば人と人を比べるということが重要なのであって、能力を測定することそのものはその手段のひとつであろう。

我々は選挙の際に1票を投じて人を選んでいる。点数付けしなくても候補者同士を比べているし、そうした投票システムを公正だとみなしている。

 

選挙はメリトクラシーの原理を採用しなくてもよいというのなら、教育だってそうであろう。教育における選抜と企業の人材採用における選抜が、同じ意味でのメリトクラシーだとは限らないだろう。

メリトクラシーとは何か、どうあるべきかみたいなところは、どうもそれほど検討せずに話が進められた気がする。