ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

村山由佳『風は西から』

もし私が独りで死んだら、どれくらいの期間気づかれずにおれるだろうか。部屋の中とか、森や山で死体が見つからないように死ねれば、あるいは……。夏休みの期間でバイトも事前に辞めておくなどすればなおのことだ。

 

なぜこんなことを考えたのかなんて、聞いてもらわないで結構。

だが、村山由佳『風は西から』を読んで、そんなことを考えてしまったのも事実である。本書は「過労自死小説」である。

 

 

圧巻だったのは、などという表現を使ってしまって構わないかちょっとためらうが、一番つまらされたのは、過労自死とその直後に続いていく場面。涙腺に来て、いったん本を閉じ、目頭を押さえたくらい。

過労死・過労自死を取り上げた類書(小説以外も含めて)は読んだことはあるけれど、感情移入というか、物語への引き込まれ具合は相当だ。小説の力、そして著者の筆力もあるのだろう。題材の妙だけではない。心情描写がぐっとくる。

 

 

 

そして白状してしまえば、私は過労自死したこの登場人物について幸せだとさえ思ってしまった。私もこんな風に死ねるなら満足だなと。

むろん私は普段から過労死は社会的に許容してはならないと考えているし、この本の著者も死を幸せなものとして描いているわけでは全くない。

私の読み方がおかしいと言われればそれまでの話だが、しかしそのように感じてしまったのだ。

 

本書の前半部分を読むとき、作中の登場人物と違って読者は、この人が途中で死んじゃうのだなということを考えてしまう(全く情報なく本書を手に取った読者は除く)。この手の本はネタバレされたからといって楽しめなくなるタイプの本ではないと思うけれど、私は過労自死ということ以外の情報は入れずに読んでいた。巻末に参考文献のリストも載っているし、あの事件を下敷きにしているということは分かるのだけれど、最初はそういうことを気にしていなかった。

 

前半は恋人同士の関係にある2人が交互に描かれている。

私はこの関係がまず破綻するのだろうと思った。だってそうだろう。働きすぎでろくに休息もとれず、2人で合うことはおろか電話さえも途絶えがちになってしまうのだから。2人の関係性が崩れてしまってもなんらおかしくはない。

そして破局した後で過労自死してしまうのだろうと。

 

この通りになっていたなら、その後の展開はもっとシビアだったはずだ。

というか本書の展開でも会えない日が続いていたのだから、すぐに死を知ることができたのは運が良かったとも言える(もちろんタイミングが良かったなんて言いたくはない)。もし2人が別れていたのなら、訃報はすぐには接しなかっただろうし、ニュースで知る、後日相手の両親から間接的に聞かされる、といったパターンになっていたかもしれない。

 

破局していなかったことは、その後の労災認定等に及んだ際にも「強み」となる。自死の原因はプライベートの面にあったと会社も主張してくるだろうし、なにより故人を強く想う人の存在がなければ労災認定なんてなかなか進まない。

作中でも証拠集めに奮闘せねばならないが、家族も恋人も当然自分の仕事があるわけだから、そればかりに専念するわけにもいかない。故人を想う存在だけでなく、そうした人々を支える、ともに支え合う人の存在もまた欠かせない。

 

死んでしまった登場人物のことを、幸せだった、恵まれていたなどと謎の立場から総括する気など毛頭ない。

それでもその人物は最期まで愛されながら亡くなったし、亡くなったのちも愛され続けた。それがこの作品の最大の救いだと、私は感じる。労災認定を受けたことでも、会社が謝罪したことでもなく、それこそが本書の核心だ。

 

さっき書いたように、現実にはこうならないケースも少なくないであろう。

本書に出てくるような両親や恋人がいる人ばかりじゃない(だからといって人の生命の重みが変わるわけではない)。亡くなった状況が詳しくは分からない可能性だってある。過労が原因だと疑われても、証拠をそろえることができずに泣き寝入りせざるを得ないことも多い。職場の後輩や同僚に慕われているとは限らず、協力や証言を得るのも簡単なことではない。

ひとつの事案の裏には数多くの無念が控えている。こうした物語にならない物語が無数に存在しているはずだという事実に、思いを馳せざるを得ない。