ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

ノーベル賞とオプジーボ

純粋にノーベル賞を祝いたいだけの人は、以下の文章を読まないでください。

 

 

 

 

 

 

 

基礎研究の重要性と、その応用部分(薬)の評価は分けるべきなのだと思う。

ノーベル賞自体は基礎研究の成果に光を当てたものなのかもしれない。だが、応用に結び付いた基礎研究を褒めそやすというのは、結局のところ応用こそを重視していることの表れでもあるだろう。同じ基礎研究でも、「応用に結び付きやすい基礎研究」を暗に推している。

 

オプジーボは画期的なのかもしれない。でも薬価は今のところ高価で、恩恵に与れるのはまずもって金持ちではないか。

3年前の大村智先生の受賞時には、先進国の金持ちの寿命を数年延ばすことよりも、途上国の感染症の対策に光が当たったのが素晴らしいと述べられているのを読んだ気がするが、じゃあ今回の受賞は時計の針が戻ったような感じがしないでもない。

 

本庶先生の業績やそれまでの過程を貶める意図は全くない。本庶先生自身は自分の研究がオプジーボの開発につながるかなんて考えずに、研究に取り組んでいたことだろう。何の役に立つかなんて、研究者にだって分からない。

だから基礎研究はそれ自体として評価すればよい。オプジーボにつながったから素晴らしいのではない。「応用」に至らなければ基礎研究が評価されないのだとしたら、それはむしろ息苦しい。

 

 

 

私は医学生でもなんでもないから、上に書いたことは誤解が含まれているかもしれない。

だがそれなら、大学には理系だけでなく文系の知も重要なのだと普段主張している大学人(あるいはその擁護者)は、「応用」の行方について何か言っているのか。

 

応用医学とやらはどこに向かっているのか。

先進国の病たる癌を治せるようになる? なるほどそれはスゴイことなのかもしれない。しかし私は心情的には複雑だ。そうやって不老不死への階段をちょっとずつ上っていくのが医学の発展なのか。応用医学は病気を治すとか、寿命を延ばすということを自明視しすぎていないか。

 

「不老不死」なんてのは「世界征服」と相並ぶ悪玉の最終目標じゃないのか。貪婪たる人間の欲望の想像物ではないのか。

人間なんていずれ死ぬ。死ぬべきだとさえ思う。

哲学者や宗教家なら、生に執着するのではなく、よく生きる(死ぬ)ことこそ目指すべきこととして述べるのではないか。

 

だから私は本庶先生の努力や探求心は別にして、オプジーボがそんなに素晴らしいものだとは、どうも感じないのだ。