ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

宇野常寛『母性のディストピア』

非常に読み応えある本だった。それはすごく。

なんだかんだ中断を挟みつつ、数頁ずつチビチビと読むという読み方をしたので、この1冊に3か月ほど向かい合ったことになるのか。

いろんなことを考えた一方で、いざ感想を書こうと思うと、どう書いていいかわからない。たぶん、いつか読み返す(つもりでいる)。

 

 

なにが一番揺さぶられたかと言えば、それは〈想像力〉のところだと思う。

本書は緒言も結語もともに想像力に言及する。この緒言が凄かった。この部分を読んで、いったん本を閉じ、再び開いて同じところを読む、というのを繰り返してしまった。受け止めようとするのに、それくらい必要だった。

そもそも本書の中では「序にかえて」「結びにかえて」とそれぞれ表記されているが、とても「かえて」などというものではない。力強い序文であり、結びであるように思う。なんとなくふわっとした感じで始まり、さらっと終わってしまうような本も多い中で、ここまで読み応えある序文は、ほかにちょっと思いつかない。

 

いまこの国の現実のどこに、本当に語る価値があるものが存在するというのだろうか。

もちろん、その滑稽さを克服するためにこそ、私たちはこの現実について肉薄すべきなのだ、と考えることはできるだろう。だが、それは想像力の要らない仕事に人生の限られた時間を投入することを意味する。

この国のあまりに貧しい現実に凡庸な常識論で対抗することと、宮崎駿富野由悠季押井守といった固有名詞について考えることと、どちらが長期的に、本当の意味で、人類にとって生産的だろうか。想像力の必要な仕事だろうか。

世界には虚構だけが捉えることのできる現実が存在する。……中略……

では、想像力の必要な仕事を始めよう。

 

以上は、すべて「序にかえて」からの引用だ。

断片的な引用だと味わいが半減してしまうが、著者の覚悟・宣言が序文に示されている。

 

著者はもちろん、「現代の危機」「世界の激動」に無関心なわけではない。しかしそのうえで、アニメーションにこそ語る価値があるのだと力説する。

アニメやサブカルなるものは、ともすれば単なるエンタメ、現実逃避の手段に堕してしまうものだ。アニメなんか語ってるヒマがあるなら現実に向き合えと、そう諭されもするだろう。

それに抗って、「想像力の要る仕事」なのだと、それこそが重要なのだと訴える。この序文には、著者の並々ならぬ思いが込められている。

 

学術書とかも、これくらいの決意でもって導入部分を書いてほしいものだ。というか、ほとんどの学者は書けないだろう。

対象を限定したり、あらかじめ予防線を張ったり。そういうつまらないのなら、いっぱいありそうだ。

 

私が本書の序文を読んで、滝に打たれたように感じたのは、自分がまさに「想像力の要らない仕事」にばかり没頭してきたからだろう。自分がこれまでやってきたことというのは、想像力を発揮するような仕事ではないのだ。その事実を突きつけられた気がして、だからこの文章は突き刺さった。

バケツの底の穴を塞ぐ作業が無駄だというわけではない。しかしそればかりに専心して、一体どうするというのだ。むしろそれは、「社会的な」ことをやっているという、自己を納得させるだけに終わってなかったか。

 

思えば、ここ最近は想像力というものを軽視してきた気がする。

それは就活のESや評価書でも、コミュ力、忍耐力、主体性、創造性、ロジカル・シンキング、クリティカル・シンキングいろいろ言われるくせに、想像力は抜けている。「着想力・創造力」というのがあって、これは近いかもしれないが、でもやはり想像力とは少し違う。

 

人の個性や性格まで能力とみなし、女子力みたいな「○○力」みたいな表現は個人的には好かないのだけれど、これだけ能力が叫ばれている時代に、なぜか想像力を忘れていた。そんな感覚がある。

……ということは想像力などというものは求められていないのかもしれないが、だとしたらまことに世知辛い。

 

 

 

さて、冒頭から相当に期待を高められた本書だったが、いや実際良書だと思うのだが、しかし最初に書いたように、何となく感想が書きづらい。それは単純に、自分のアタマでは書かれてることの半分も理解してないんじゃないかというのもあるのだけれど。

富野由悠季押井守両監督の作品の多くを視聴していないというのは措いておくとしても*1、あまり読まないタイプの本であるせいか、アクロバティックな論展開にやや戸惑う。同時に魅力的にも感じるけれど。

 

もう一つ思うのは、考えてみればこの本は、「ディストピア」と題されているのだ。

取り上げているのは戦後日本アニメの巨匠たちだが、描かれるのはその苦悩だと言っていい。「結びにかえて」では「……ではない」ではなく「……である」と肯定の言葉で語ることを志向する一方で、対照的に本文は、天才たちがいかに語れなくなってしまったかの分析だ。

 

ニヒリズムの中で綺麗なウソをつくことしかできなくなった宮崎駿ニュータイプの可能性を描こうとしながらそれを諦め、過去回帰してしまった富野由悠季、母性のディストピアに自覚的であり、映像の世紀における臨界点に達したが、ネットワークの時代には沈黙せざるを得ない押井守。そして象徴的な2016年。

本書で活写されるのは、終始、天才・巨匠たちの敗北のたたかいだ。

著者の分析に舌を巻かないわけではない。しかし閉塞感、苦しみが長く続くのは事実だ。

 

 

……だからこそ私たちは、この情報社会のモラルとして、本来の「ニュータイプ」の理想を継承すべきなのだ。……情報を物語化せずに情報のまま受け止め、国家という物語の登場人物ではなく市場というゲームのプレイヤーであり続けるための思想がいま、求められているのだ。……非物語的なゲームと化した世界と個人、公と私の関係を受け入れうる強靭さ――世界を情報の束であると見なし、リアルポリティクスの領域に留まること――と同義でもある。それが、この20年で失われたオタク的な成熟の可能性=「ニュータイプ」に他ならない。(472-3頁)

 

そうなのだろうか。反語ではなく、単純な疑問としてそう感じた。

想像力の重要性を訴える著者が、本書の最後に強調するのは、世界を物語化せず情報の束のまま受け入れることで良いのだろうか。

たしかに映像の世紀からネットワークの世紀への転換を主張する文脈から言えば、これは妥当な提言なのかもしれない。

しかし物語は不要になってしまったのだろうか。新たな物語を紡ぐことではなく、情報のまま受け取るべきなのだろうか。そういうリアルポリティクスの姿勢は、想像力を必要とする態度なのだろうか。

 

デモでも選挙でもない第3の道。「中間のもの」が求められているというのは頷けはする。だが、中間団体(アソシエーション)の重要性の訴えは、別段新しいものとも思わなかった。トックビル以来のそれをろくに勉強してきたわけではないので、著者の主張するそれとどう違うのかがよく分からない。

 

映像の世紀からネットワークの世紀への、その象徴的な変化というのは分かる。しかし一方で映像の力は完全に衰えたわけではないし、逆にネットワークの力を信じ過ぎたくないという気持ちもある。

「空間を超越し個と個が直接接続される」という考えを、私は技術信仰のように感じてしまう。というか、それも一つの物語ではないかと。実力さえあれば誰でもスターダムにのし上がれるというアメリカンドリームと同じように。あるいは本書でも述べられているカリフォルニアン・イデオロギー(の敗北)と大差ないのではと。

 

ガンダム』を見たら分かるだろうか。

 

 

理解できない部分、賛同できない部分があることとは関係なく、本書が刺激的な1冊であったことは間違いない。

 

 

 

 

*1:ネタバレを毛嫌いする人を別として、未鑑賞であっても本書は理解できるようにはなってはいる