ぽんの日記

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大沼保昭『国際法』

生涯の最後に新書を書き上げるってどんな気持ちなのだろう。

 

ちくま新書から出ている本書を手に取ったのは偶然みたいなもので、巻末の「謝辞」を読んで著者が鬼籍に入っていることを知った。

 

「謝辞」は著者の娘によって書かれたものだ。

 父・大沼保昭は、2018年10月16日朝、家族に見守られながら、天国へと旅立ちました。遺作となった本書は、亡くなる前日まで、父がペンを握り、病床で命を削りながら仕上げたものです。誰にでもわかる「生きた国際法」の新書を最後に書きたい――すでに、夏には抗がん剤治療の副作用で、食も細くなり、体力的にも治療するのに精一杯であったはずの父でしたが、本書執筆への思いはとても熱いものでした。

 

「命を削りながら」とか殉職みたいな話は、個人的には醒めて感じることが多いのだけれど、この強い思いがなければ本書が世に出てなかったのかと考えると、感じるところはある。

新書という形で、「生きた国際法」の本を書くということ。私は国際法の本をほとんど読んだことがないので比較はできないが、入門者にとっても興味深く読める本だったと思う。面白い本だった。

 

国際法はときに無力だと叫ばれ、著者自身もその欠陥や限界については強く意識している。それでも国際法の意義について、これに賭けるという著者のスタンスが見える。

たとえばICJについて述べたこのくだり。

もっとも国際社会において裁判が国家間紛争の解決に無力だからといって、国際法が無力だということにはならない。法の意義・役割と裁判の意義・役割は別の問題である。法によらない裁判はありえないが、裁判によらない法は多くの社会で常態である。裁判は法を実現する一手段であり、それ自体が価値あるものではない。法が正しい内容を含むかぎりにおいて法が実現されることが大切なのであって、それがいかなる手段によるかは二次的な問題である。社会に法が存在しそれが人々の規範意識として定着していれば、その法は遵守される。裁判による強制は法の実効性の一部を担保するにすぎない。国際裁判への過大な期待は禁物である。(322頁)

 

国際法というものがどういうものなのか。その見方を広げてくれるような感じがする。それが「生きた国際法」を見つめるということなのかもしれない。