ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

団塊の世代と戦後史(後編)

前回のエントリーで、〈団塊の世代〉が戦後の日本社会に与えたインパクトを考えたいという話をしていました。今回はその続きです。

あまりまとまっていないところはあるのですけれど。

 

kynari.hatenablog.com

 

専業主婦の時代

注目したいのは、〈団塊の世代〉という人口動態的な影響です。この世代の人口が前後の年齢層と比べてボリュームを持っていること、〈人口変動の波〉であるということが重要です。

それは一義的には量的な影響ではありますが、それにとどまらず質的なインパクトもあったのではないか、というのが私が書きたいと思っていることです。

 

〈人口の波〉の影響は、特定の年齢と強く結びついている制度・慣行、たとえば受験であったり、新卒労働市場であったり、あるいは定年などに現れると考えられます。

 

そのひとつとして、ここでは専業主婦について論じておきたいと思います。これを取り上げるのに、とくに大きな理由があるわけではありません。ほかの制度・慣行については、文献を紹介するくらいでいいかなと思いますが、以下で書く専業主婦の話は、あまりほかで言ってる人がいないかなと思ったので。

 

 

専業主婦についてですが、女性の離職行動という観点から眺めたいと思います。

団塊の世代〉の退職問題としては、「2007年問題」あるいは「2012年問題」と呼ばれるものがありました。〈団塊の世代〉が60歳に到達し始めるのが2007年、継続雇用後の65歳に達するのが2012年でした。

 

ただ、「2007年問題」「2012年問題」はどちらかといえば、男性正社員の日本型雇用的な問題だったと言えます。

どういうことかというと、女性の視点がここにはあまり含まれていないということです。だってこの世代の女性であれば、60歳定年なんかよりももっと早い段階で、職場の退職圧力にさらされたであろうはずだからです。

団塊の世代〉の女性が20代~30代になるころであれば、「女子定年制」や「寿退社」が根強く残っていたことでしょう。

 

これは女性に対してのみ、25歳や30歳の若年定年制や結婚退職制を設けるものです。

本稿では具体的事例については取り上げませんので、事例については大森真紀[2017]「性別定年制の事例研究-1950年代-60年代-」などを参照してください(丸投げ)。

 

 

就業人口

団塊の世代〉のころに、M字カーブの落ち込みが最も深くなったというのは、よく知られていることかもしれません。ただ、ここでは〈人口の波〉の問題として考えたいので、労働力率や就業率といった割合ではなく、絶対数で動向を把握しておきたいと思います。

団塊の世代〉をその人口数の多さという点から捉えるのであれば、比率よりも絶対数で見たほうが、インパクトを見やすいでしょう。

 

図は国勢調査から作成した、性別・年齢階層別の就業状態の推移を示したものです。

グラフを4つ並べる形で見にくくて申し訳ないですが、左上が20代後半の女性人口を就業状態別*1に見たものです。比較のため、「男性25~29歳」「女性20~24歳」「女性35~39歳」も示しています。

 

20代後半の女性にフォーカスするのは、ここに結婚・出産・子育て期の女性の特徴が表れているからです。(図は省略しましたが、30代前半の女性にもこの特徴は表れます)

 

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注目したいのは、高度成長期~安定成長期にかけてです。

 

グラフで見ると、20代後半の女性人口がピークを迎えるのは、1975年になります。〈団塊の世代〉がこの年齢に達した時期ですね。

ところが、全体の人口ではなく就業者に限定すると、1955年~1985年にかけて、20代後半女性の就業者数は、一定の水準、200万人程度で推移しているのです。仮に〈200万人ライン〉と呼んでおきましょう。

 

男性や他の年齢層では、人口の変動に応じて就業者数は変動しています。そのため〈200万人ライン〉の特徴が見いだされるのは、出産・子育て期の女性に限られます。この年齢層の女性だけ、なぜか就業人口が一定に保たれているのです。

労働力人口は、あたかも〈200万人ライン〉からはみ出た部分、仕事のパイからこぼれ落ちた余剰人口であるかのような、そんなグラフに見えます。

この〈200万人ライン〉が成立していないのは、戦前か、あるいは90年代以降の「均等法」世代ということになります。

 

裏返して言えば、この〈200万人ライン〉を上回る分は、労働市場から退出せざるを得ない人が多数存在していたということです。「退出せざるを得ない」と書きましたが、もちろん、はじめから参加しなかった人もいるはずですし、必ずしも否定的なニュアンスばかりであるわけではありません(「寿」退社というくらいですから、当時はむしろ肯定的な価値観でしょう)。

しかしながら、20代前半の女性の就業者数は300万人を超える水準に達したことから考えると、〈団塊の世代〉が出産・子育て期にあたるまさにその時期に、多くの女性離職者・休業者が発生したというのは、事実として指摘できるはずだと思います。

 

高度成長期の終わりのこの時期は、M字カーブの谷が最も深くなった時期です。

しかしそれは労働力率という比率的な問題にとどまらず、絶対数で見て専業主婦が最も多く誕生したというところに、社会的インパクトの大きさがあったのではないかということを考えなくてはなりません。

 

「日本型福祉社会論」が80年代に唱えられるのも、専業主婦の絶対数が多いということと無関係ではないでしょう。専業主婦が家庭や地域の「福祉」の担い手として多数存在しえたわけですから。

けれども、歴史的に専業主婦が最も多かった時代を想定してモデルを組み立てたりしたら、その後の時代の変化に対応できないでしょう。 

 

失業保険

制度への影響ということで、失業保険を例に取り上げたいと思います。

というのも、当時の失業保険は、季節労働者や、「寿退社」した女性が退職金的に失業手当を受給する例が多いことが問題視されていたのでした。

そのため季節労働者や結婚退職者の受給抑制が目指されました。このことが失業保険から雇用保険への制度改正につながっていくのです。

 

高度経済成長の末期、政策立案者の問題意識は主として、出稼ぎ季節労働者の半ば定期的な受給と女子結婚退職者の退職金的受給が全体の7割を占めるという状態を何とかしなければならないという点にあった。労働力不足の下で、失業保険受給者の非常に多くが保険金目当ての層に占められるという事態に対し、使用者団体やマスコミから惰眠養成との批判が相次ぎ、失業保険無用論すら議論されるにいたった。

濱口桂一郎[2018]『日本の労働法政策』労働政策研究・研修機構、160-161頁)

 

もっとも、雇用保険の歴史を論じるなら、この後のオイルショックのほうが重要だということになるでしょう。

ただオイルショックが起きる以前の当時の認識としては、70年代半ばごろに〈団塊の世代〉の女性が大量に結婚退職期に突入するという事実への対応が求められていたと言えるではないでしょうか。

 

実際に完全失業者と失業手当の受給者の推移をみると次の図のようになります*2

 

興味深いのは失業手当の受給率(受給者実人員/完全失業者数)が、60年代から70年代初頭にかけて極めて高い水準にあり、100%を超える年もあったということですね。計算上でこれだけ高い受給率となっているのは、「出稼ぎ季節労働者の半ば定期的な受給と女子結婚退職者の退職金的受給」が多かったためということでしょう。

 

しかしオイルショック以降はむしろ受給者数はさほど増えず、結果として受給率は低下していくことになります。

 

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失業給付の受給者数の増加は抑制されるわけですが、 一方で働きたいと考える専業主婦が増えた時期であるとも思います。

 

就業構造基本調査でこのことを確認しておきます。

20代後半および30代前半の女性について、有業/無業の内訳と、就業希望者数を示しています。就業希望者は無業者のうち「何か収入になる仕事をしたいと思っている者」の数になります。就業希望者数はデータが得られていない年もあるので、得られた年のみ折れ線で表示しています。

 

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平成24年就業構造基本調査「用語の解説」

 

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20代後半層で見ると、1960年代前半に100万人を切っていた就業希望者は、1977年には200万人近くに達し、倍増しています。ところが有業者の数は〈200万人ライン〉で前後し、それほど変動していません。

30代前半の女性についても、似た傾向を見出せます。

 

つまり、「就業希望」を持つ女性は大きく増加しているにもかかわらず、それが実際の就業とは結び付いていないということです。

 

この就業希望者数は有業者に匹敵するほどの数にのぼり、その多さに驚かされます。失業者の数字としては表れない、潜在的な求職者数が多く存在していたということです。

 

 

保育所

潜在的な就業者が多くいたのではないかということを、保育所のデータも傍証になるでしょう。保育所の待機児童問題です。すでに過去このブログで紹介したグラフです。

 

データは京都市に限ったものになります*3

 

簡単に用語の説明をしておきます。

当時の京都市の保育行政では、「保留件数」という言葉が使われていました。これは、保育所への新規入所申込件数(申請件数)から入所件数を引いたものです。

「保留児童」などという使われ方もしており、今でいう待機児童に近い概念ですね。ただし「待機児童」の定義は変更されたので、現行の「待機児童」≠「保留児童」であることには注意が必要です。

 

とはいえ、おそらく日本全体の待機児童の統計が「エンゼルプラン」以前はたぶん取られていないので、70年代当時の保育所問題を考えるうえでは参考になるデータだと思います。

 

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保育所というのはハコモノでもありますから、施設や定員を増やさなければ入所児童数も増えません。

それに対して、保育所ニーズというのは、(本来的には)そうした入所定員が多いか少ないかに関係なく生じます。

定員の数よりも入所希望者が多ければ、それは待機児童の数として表れることになります*4

 

さて、グラフから何が読み取れるかというと、「保留児童」数は70年代後半がピークだということです。近年の待機児童問題が深刻でないと述べる意図はありませんが、当時これだけの保育所需要があったことには、覚えておいてよいかもしれません。

実際、申込件数全体にはとても追いついていませんが、それでも70年代には入所定員の拡大がなされていることが確認できます。

 

80年代以降はむしろ需要の抑制が生じているのではないかということは、以前書いた気がします。

 

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〈人口の波〉という観点から言えば、70年代に〈波〉が通過したことにより、保育所の性格が変化したという仮説を立てることができます。

 

同じく京都市保育所のデータからですが、図は保育所の在籍者について、保育料の徴収基準階層別にその推移を見たものです。

 

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60年代では非課税世帯が約半数を占めていましたが、70年代から所得税課税世帯が増えていきます。

かつては主として低所得者の利用に限られていたものが、より一般的に利用される行政サービスへと性格が変わっていったことが読み取れます。

 

 

 

義務教育

〈人口の波〉によって影響を受けた制度・慣行はさまざまあると予想されます。

どんなものがあるかについて、以下では簡単に触れておきたいと思います。

 

まず義務教育にあたる小中学校です。

苅谷剛彦[2009]『教育と平等』によれば、ベビーブーマーが学齢期を通り越していくことによって、小中学校の教育環境に「静かな革命」「知られざる革命」が起きた、とされます。

 

なにが「静かな革命」だったかというと、70年代に教育費が累進的に配分されるという構造が実現したことです。それは〈団塊の世代〉の通過という人口動態的な要因が一因となりました。

というのも、その「静かな革命」は政策担当者が意図したものではなかったからでした。日本の独特な教育コストの計算の仕方によってもたらされた「思わざる結果」だったのです。

 

詳しくは同書を参照していただきたいのですが、日本では〈生徒1人当たりの費用〉を計算して教育費を配分するやり方を採っていません。学級数によって教職員の数を算出し教育コストを計算する方法を採っています。

もしも前者のやり方で、財政力の弱い県に教育費を多く配分しようと思ったら、それを実行しようとするだけの強い政策的意志を必要とします。

しかし日本では、教育資源配分の仕組みが「標準法」によったこと、そしてベビーブーマーが学齢期を通過した後に生徒数が減少していくという状況があったために、教育費の累進的な配分構造=「静かな革命」が政策的に大きな論争を経ることなく実現できたのでした。

 

以下、引用です。

 

既存の学校数を前提に、学級定数の上限を決め、児童生徒数の変化に応じて学級数が決まり、その結果として必要教員数を算出するという仕組みのもとでは、上限以下の学級数が増えれば増えるほど、PT比[=教員一人あたり児童生徒数]は小さくなり、しかも、それに必要となる教員数は増える。その結果、それに必要な人件費も増えるという関係が生じる。つまり、財政力の弱い県に対し、国庫負担金を通じて、政策誘導的に、あるいは明確な意志をもって児童生徒一人あたりの教育費を増やしていった結果として、PT比が改善したという関係ではない。それとは逆に、教員一人あたりの児童生徒数が小さくなっていくことが原因で、それを補填するために、国庫負担金を通じた財政調整が行なわれるという方向の影響力のほうが強いと考えられるのである。(170頁)

 

こうして、教育資源配分の仕組みが、大きな政治的選択に関わる議論を経ずとも、言い換えれば、強い意志の力によって、原理原則を変えようとする路線選択の機会を経ずとも、より平等な仕組みに転換できたところに、標準法の世界の「思わざる結果」があった。その証拠に、こうした論考を通じて明らかにするまで、私たち――おそらくは当の政策担当者や政治家を含め――は、日本の義務教育の資源配分の仕組みが1970年代にその意味を大きく変えたことにさえ気づかずにいられたのである。パーヘッドの世界で同様の事態を生み出そうとすれば、財政の仕組みや原則を変えようとする強い意志の力がなければできないことだろう。

その意味で、これは画期的な変化であった。しかも、その画期は、日本では気づかれることさえなかった。変化への無知は暗黙の支持を意味した。政策選択のイシューになることはなく、累進的な資源配分の仕組みを生み出す仕掛けが働いた。こうして戦後の日本では、知られざる「静かな革命」が教育機会の平等に向け作動したのである。(177頁)

 

 

高校進学

小中学校が〈人口の波〉の影響を受けたとするならば、それは高校にも及んでいたと想像するのは難しくありません。

しかし小中学校と高校の大きな違いは、後者は義務教育ではないということです。現在の高校進学率は100%近いため、高校に進学するかどうかという選択肢で悩む人は非常に少なくなっていると思いますが、団塊の世代のころは進学は必ずしも当たり前というわけではありませんでした。

 

ではいかにして、高校が当然のものとなったのか。このような問いかけをした研究としては香川めい・児玉英靖・相澤真一[2014]『〈高卒当然社会〉の戦後史』があります。

 

まず学校基本調査によって、中学卒業後の進路を簡単に確認しておきます。それが次のグラフです*5

高度成長期は高校進学率の上昇期であり、それに対して安定成長期以降は進学率そのものは上げ止まった時期になります。それため、子ども全体の数は団塊の世代のころのほうが多いのですが、高校進学者数では団塊ジュニア世代のほうが多くなります。

 

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ここでは3点、指摘しておきます。

第一に、高校進学者数の変動という点に着目するなら、団塊の世代の進学期である60年代半ばのほうが大きなインパクトがありました。60年代のほうが、急速な変化への備えが必要とされたということです。

そのことは、この時期に「高校全入運動」や「学力偏重批判」が起きるのと無関係ではないはずです。

 

風向きが変わり始めるのは、やはり1960年代である。経済的にも進学の余裕ができはじめる世帯も増えてきたこの時期に、高校進学率は上昇した。しかし、これはただの上昇ではなかった。その比率計算の分母となる中学校卒業者数も激増するからである。……政府は高校生急増問題を政策課題として議論し、一方で政策を批判するサイドからは、進学希望者全員の高校入学を目指す高校全入運動が立ち上がった。「高校全員入学問題全国協議会」ができたのは1962年のことである。

このような状況で、どのような問題が生じることが懸念されるだろうか。……当然「競争激化」が懸念されることになったのである。従来からあったいわゆる受験競争批判が、一部のエリート層に限定された問題としてではなく、多数の学生を巻き込むものとして説得的に展開されたのである。

(中村高康『暴走する能力主義ちくま新書、2018年。190頁)

 

 

 

第二に、グラフは全国的な動向について述べたものですが、そこには都市部と地方での地域的な差が存在しているということです。

実際、60年代の高校進学者数の上昇は全国的なものでしたが、第二次ベビーブーマーのころについてはそうではありません。都市部への人口集中が進んだ結果、地方の県では80年代のピークは訪れなかったのです。(地方ではとっくに、進学者の減少に備えなければならなかったとも言えます。)

 

この図〔図は省略――引用者注]によると、46都道府県のうち25の都道県では、高校入学者数のピークが1963年から65年の間にあったことがわかる。全国レベルのデータで見れば、高校に通う生徒数が多かったのは、第二次ベビーブーム世代が通過した1989年であった(564万人)。しかし、このピークは、高度成長期に人口が流入した大都市圏に特徴的に表れたものであり、必ずしも全国的なものではなかった。これに対して、第一次ベビーブーム世代の通過に伴う1965年のピーク(507万人)は、全国的な傾向として起きたものであり、日本中が急増対応に追われたできごとであった。全世代を通して現在最も人口の多い第一次ベビーブーマー(1947~49年生まれ)が高等学校を通過したことは、〈高卒当然社会〉が成立する上で決定的な契機となった。

(前掲『〈高卒当然社会〉の戦後史』30-31頁)

 

 

急増した高校進学希望者に対し、どのように対応するか。高校は義務教育ではありませから、この対応の仕方は、各都道府県によって対応が別れました。

 

前掲した『〈高卒当然社会〉の戦後史』では、各都道府県の対応の仕方を4つの類型に分類しています*6

具体的には以下の4つです。

「公立拡張型」(公立高校が主体となって教育拡大が達成)

「私立拡張型」(私立高校が教育拡大に果たした影響が大きい)

「中庸型」(3つの指標すべてにおいて中程度)

「大都市型」(もともと進学率と私学率が高く、進学率が天井に達する時期に私学率が減少し、公立高校のシェアが拡大する都府県。東京、神奈川、京都、大阪、広島)

 

どのように高校教育の機会が提供されて来たかは、都道府県ごとに差異があります。

最大値をとる東京都のように高校生の半分以上が私立高校に在籍するところから、徳島県のように95%以上が公立高校に通っているところまで、比率において大きな開きがあるよって、「エリートのための特権的な」私立高校だけではなく、公立高校の「すべり止め」「受け皿」としての私立高校も多数存在している。

(同上、32頁)

 

 

そして第三に、高度成長期以後の時代は、単に〈高卒当然社会〉になったということだけではなくて、〈普通科〉の高校が主流化した時期でもあるということです。

それ以前の高度成長期は、「実学教育」が重視されていました。〈団塊の世代〉による進学者急増に対しても、職業科高校による受け皿を想定していたのです。

 

ところが、「実学重視」の路線が「頓挫」し、その後は普通科の生徒数が増えていくことになります。

団塊の世代〉の進学時期は、そのような変容の転換期でもあったと言えそうです。

 

1960年に発足した池田内閣は、同年12月に「所得倍増計画」を閣議決定し、そのための処方として、工業高校の定員増員などを含む「人的能力の向上」を掲げた。……

同時期は、ちょうど敗戦後のベビーブーム期に生まれた世代が、高校に進学してくる時期に当たっていた。こうした高校生徒の急増への対策として、文部省はそれに先立つ1960年10月「基本方針」を定め、……そこでは学校や学級の増設に関して職業高校に重点を置くことにより、高校の生徒内での普通学科と職業学科の比率を維持ないし後者を増大させる方針が示されていた。……

さらに、60年代の職業教育重点化政策は、単に量的な増強のみならず、質的にも教育内部の編成を多様化・細分化することを強く推進するものであった。……

しかし、こうした極度の学科の多様化・細分化は、産業界の変動とも、学習者のニーズとも、齟齬を来していることが、時を経ず明らかになり始める。……

このように、高校における職業学科の質的多様化政策が頓挫しつつあった1960年代後半から70年代にかけての時期には、量的な面でもその後退が目に見えて起こり始める。ベビーブーム世代の高校進学がピークに達した60年代半ば以降、職業学科の生徒数は減少を遂げていく。これは、ピーク後に該当年齢人口の推移を反映していったん減少した普通科生徒数が、70年代前半には盛り返して再び増加を遂げていったことと対照的である。

本田由紀『教育の職業的意義』2009年、ちくま新書、72-76頁)

 

 

 

高卒就職

高度成長期のころは高校に進学しない生徒も少なくありませんでしたし、進学したとしても卒業せず中退する人もいます。進学率ではなく高卒率で見るなら、今でも9割くらいです*7

 

もちろん高校卒業者数にも〈人口の波〉はあるのですが、義務教育段階と比べると、相対的に穏やかな〈波〉になるということですね。

高校卒業者数のピークは1992年卒の団塊ジュニア世代のころで、団塊の世代よりも多くなっています。(地域別に見れば異なるだろうことは前述したとおりです)

 

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図は学校基本調査より作成した、高校(全日・定時制)卒業後の進路状況です。

 

先に団塊ジュニア世代前後を確認しておきまましょう。

70年代半ば以降の安定成長期を見ると、大学等進学者*8と就職者の合計はおよそ100万人で安定していますね。一方で、高校卒業者数自体は、団塊ジュニア世代が高校を卒業する時期にかけて徐々に増え続けています。両者の差は主に専門学校が受け皿となりました。

大学でもなく就職でもない、第3の選択肢として専門学校が存在感を高めたのです*9

 

その後、バブル崩壊以降の時期に、高校卒業者数は減少していきます。大学の定員は短大が四大化したり、医療・福祉系の大学が急増したりというのはありますけれど、相対的に見れば定員の総枠の増加は小さいものです。

18歳人口が大きく減少していく傍ら、大学等進学者は減少することはなく、結果として大学等進学率が上昇することになります。

 

では団塊の世代のころはどうだったか。

やはりこの世代が卒業を迎える時期に、コブが一つできているように見えます。当時専門学校(=専修学校専門課程)はまだなく、各種学校がその後の専門学校ほどの規模で受け皿となったわけではありませんでした。高卒の就職者が増えています。

 

これはバブル崩壊以後の高卒労働市場の冷え込みと比べると、対照的なように思います。バブル崩壊以降の高卒向け求人の激減=就職氷河期化は、新規高卒就職者の減少と大学進学率の上昇という形で現れました。就職はしにくくなり、進学はしやすくなったという変化です。

 

60年代の団塊の世代のころは反対で、進学できずに就職せざるをえないケースが増えました。進学できないというのは受験競争というより、経済的に働かざるをえないというイメージでしょうか*10

 

この時代は、質の問題はとりあえず留保して述べれば、量的には労働需要が旺盛な高度成長期であったことは、時代的幸運と言えるのかもしれません。増える高卒者を吸収できるだけの就職の機会があったと言えるからです。

 

 

さて、このように高卒就職者が急増したことは、単に量的問題にはとどまりません。企業の雇用管理のあり方を変えていく契機ともなりました。

前掲書『教育の職業的意義』でそのことが指摘されています。

 

従来は中卒者がブルーカラーの職に、高卒者がホワイトカラーの職に就くという区分がわりとはっきり存在していたのですが、60年代は中卒就職者が減少し、高卒就職者が増えていきます。

そうすると、高卒就職者がブルーカラーの仕事に就かざるを得ない状況が広がっていくのでした。

 

高卒者にとっては、ホワイトカラーの仕事に就くことができると思っていたのに、その期待が裏切られてしまうケースが増えたことになります。

そうした不満を和らげるために、雇用管理の柔軟化が図られたのでした。

 

従来はホワイトカラー職に就くはずであった高卒者が、従来は中卒者が就くはずであったブルーカラー職に大量に流入するようになったことは、高卒者の内部ではブルーカラーとホワイトカラーが混在し、ブルーカラー職場の内部では年長の中卒者と新規採用の高卒者が混在するという事態を必然的にもたらした。こうした混乱はさらに、高卒者内部、ブルーカラー職場内部に葛藤や不満をも呼び込むことになった。

……

 

このような高卒者の葛藤や不満を緩和するためには、企業内部の職務の区分を曖昧にし、ホワイトカラー・ブルーカラー間の柔軟な異動をも可能にする必要があった。企業内での異動・昇格の可能性を提示することによって高卒者の不満を和らげることは、乾*11の指摘する定着化政策のためにも、いっそう必要だったのである。

(同上書、84-85頁)

 

 

その他

中高年とか、定年とか、高齢者雇用とか、年金とか、そういったものも〈団塊の世代〉という切り口から見れるのだろうか。

 

あるいは団塊ジュニアか、ポスト団塊ジュニアに関心を向けるべきかもしれぬ。

当面、私は手を付ける気はないけれど。

 

 

*1:「有業者または就業者」「無業者」「完全失業者」「非労働力人口」の区分としています。戦前の国勢調査の区分が「有業者」「無業者」となっていて、戦後は「就業者」「完全失業者」「非労働力人口」となっているので、このような区分となりました

*2:受給者実人員は74年までは失業保険事業年報の一般失業保険金(公共職業訓練を受ける場合における給付日数の延長、広域職業紹介地域における特別措置による給付日数の延長を除く)、75年以降は雇用保険事業統計の基本手当受給者実人員(所定給付日数分)で年度平均。完全失業者は労働力調査で年平均。受給率は受給者実人員を完全失業者数で除したもので、3年移動平均をとった。

*3:出所は京都市『民生局事業概要』および『保健福祉局事業概要』各年版、『京都市児童福祉百年史』

*4:もちろん、待機児童問題は単に量的な問題だけにはとどまりませんが、今回はそれには触れません

*5:なお、特別支援学校や中等教育学校の中学部を含んでいない

*6:1955年の「高校進学率」、1958年の「入学者私学率」、「入学者私学率の変化」の3つの指標によってクラスター分析を行っています

*7:高校卒業者数(中等教育学校後期課程、特別支援学校高等部を含む)を3年前の中学卒業者数(義務教育学校中等教育学校前期課程、特別支援学校中等部を含む)で除した割合。2018年3月卒で91%

*8:「等」というのは、短大を含んでいます

*9:学校教育法で専修学校が規定されたのは1975年

*10:それを言ったら親世代の経済的資力にかかわらず、現在は奨学金(という名の借金)を借りながら進学するのが一般化したわけですが

*11:乾彰夫『日本の教育と企業社会――一元的能力主義と現代の教育=社会構造』大月書店、1990年