ぽんの日記

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野村正實『「優良企業」でなぜ過労死・過労自殺が?』

第4章のところが一番面白かったな。そういう解釈・認識ができるのだなと。

 

いわゆる「企業別労働組合」という言い方は、それが労働組合であるということを前提にしているから、代えて「従業員組合」という用語を使い、

従業員組合は労働組合なのであろうか。たしかに、従業員組合は労働組合法上の労働組合と認定され、労組法を適用された。それが今日まで続いている。しかし、従業員組合は労働組合ではないにもかかわらず、まちがって労組法を適用されているのではないか。そして逆に、労組法を適用されているので労働組合と思われているにすぎないのではないか。

(同書113頁)

 

会社と一体的、あるいは馴れ合い的な関係になってしまっている労組を批判する言説は珍しくないだろうけど、そうか、労働組合じゃなかったんだな……

 

日本の労働法体系は、従業員組合は労働組合であるというフィクションの上に成り立っている。従業員組合は労働組合ではないと司法が認めてしまえば、日本の労働法体系が崩壊する。日本社会は、従業員組合が結成され始めた戦後直後に、従業員組合は労働組合なのか、という根本的な問いを回避した。そしてきわめて安易に、従業員組合を労働組合法上の労働組合とした。従業員はこうしたフィクションのツケを、最悪の場合としては、過労死・過労自殺という形で払い続けている。

(同書177~178頁)

 

 

もっとも、「ブラック・アンド・ホワイト企業」という概念規定をわざわざする意味は、正直解りづらいなと思った。日本型雇用がどういうもので、そしてそれが過労死などの問題を生んできたことというのは、すでに語られているところであろうと思う。

それをいわば「ブラック・アンド・ホワイト企業」と呼んでいるだけの気が……。

日本型雇用を語る際に、ブラック企業的なことに論及せざるをえない、そういう言説的状況が表れているのかもしれない。

 

これは「あとがき」を読んだときにもまた感じた。

かつての「労働問題研究」は、労働は資本主義の「問題」だった。労働を問うことは資本主義を問うことだった。

一時、日本経済が良好なパフォーマンスを示し、「問題」を捉える研究が後退したあと、再び最近になって「労働問題」が復活した。

しかし、それはかつての「労働問題研究」が復活したわけではないのでは、と。

資本主義の問題を論じているのではなく、個人の価値観から直接的に「問題」を論じているのではないか、と。

 

なんというか、むしろ資本主義云々って言われても…という部分がないわけではないのだけれど。資本主義のオルタナティブに現実味を感じないし、社会党は消えてしまったし。

ただ、直接的な労働問題の論じ方に、限界があることは、そうなのだろうと思う。

 

著者は「良好なパフォーマンス」のときに、労働問題研究が「輝きを失った」と述べるけれども、それでも今より「輝き」はあったんじゃなかろうか。

「輝き」という言葉は適当ではないかもしれないが、まさに経済が好調であるからこそ「問題」を論じることに強い意義があったんじゃないのか。日本型雇用がもてはやされる一方で、その負の側面を見逃さずに提起し続けることに、意味があったんじゃないのか。

 

今の労働問題研究には、そういう意義はないだろう。問題があることなんて、みんな分かってる。日本経済のアベノミクスなんて、ジャパンアズナンバーワンのころと比べたら、国内的な議論にすぎないでしょ。

日本型雇用のメリットを実感しているわけでもないのに、その問題を論じる構図。正の側面の裏としての負の側面を論じているのではなく、ひたすら負の側面ばかり論じている感じ。そういう虚しさ。

 

私自身がやはり、ブラック企業などの「直接」的な問題から入ってるというのはあるのだけれど、こう改めて考えると、労働研究自体にはさして関心がないのかもしれない。

それを感じてしまったのが、本書の読後感。著者の責任ではないけれど。