ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

松沢裕作『生きづらい明治社会』

岩波ジュニア新書だ。ですます調で語り口が柔らかで読みやすい。内容的にはジュニアである必要もない気がする。

 

本書を貫く視座は「通俗道徳のわな」だ。

 

「通俗道徳」というのは、広く庶民一般の人が素朴に感じる道徳観のことだ*1。深い思想や哲学的な根拠があるわけではないから、「通俗」と付されている。

具体的には、勤勉に働くこと、倹約すること、親孝行するといった行動を「良いおこない」として考える、というようなこと。考え自体は素朴であるから、自然と広く共有されるということだろう。

 

これが「わな」であるというのは、この通俗道徳が現代で言うところの自己責任論に容易に転化しうるからだ。

まともに働き、贅沢浪費しなければ、お金に困ったりはしないはずだ。もしその人が困窮しているとすれば、それはちゃんと努力してこなかった本人が悪いのだ。

そういう発想に陥りやすい。

 

努力をすることと、望ましい結果を得られることは、イコールでは結びつかない。しかし素朴な道徳感情としては、両者を結びつけたものとして考えがちになる。単に「○○すべき」と言うだけよりも、「○○すればうまくいく」「○○しなければダメになる」というメッセージのほうが強力だろうから。

 

そして現実の事態が、この道徳観のもとに解釈され、メッセージが強化されていく。

成功した人間にスポットライトを当てるときは、努力・苦労を乗り越えて成功したという側面が強調され、貧困層がフォーカスされるときは、頑張りが足りない、怠け者とみなされる。

本当は努力が報われるとは限らないというのに。人生には偶然や運の要素も大きいというのに。

 

 

本書は以上述べたような「通俗道徳のわな」をひとつの道しるべに、明治という時代がどういう時代だったかを振り返っていく。

もちろん、これをもって現代の自己責任論の源流が明治社会にあった、などと主張する本ではない。現代との共通点を媒介とすることによって、明治の社会の特徴を描く。その社会が抱えていた一つの側面を、現代的な視点でもって見直す、ということだろう。

 

ある視点・見方から歴史を捉えなおしてみるという行為自体は、歴史学的な醍醐味であろうと思う。

ただ、少し気になるのは、現代と明治の共通点を強調しすぎている嫌いを感じること。現代的な観点から歴史を見ることは必要だとは思うが、違うものは違うとはっきり言わなければ、あまり意味が無いのではなかろうか。

 

著者は「おわりに」の部分で、明治時代の日本社会と現代の日本社会が似ているということについて、2つの理由を挙げる。ひとつは、どちらも近代的な資本主義社会であるということ。もうひとつは、明治時代も現代の社会も、「これまでの仕組みが壊れた、あるいは壊れつつある社会であり、かつ、政府があまりたくさんカネをつかわない方向の経済政策をとっている」ことである。

 

そう述べたうえで著者は、「なぜ、現代日本社会にはこのような行き詰まり感があるのか」と問うている。

この理由は、私にもわかりません。私は歴史学者なので、現在おきていることを厳密に分析する専門的な知識をもっていないからです。

ただ、明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。……

明治社会と現代日本が、……みんなが必死で競争に参加しなければならない息苦しい社会である、という点で似ているのはなぜか。その原因は、不安を受け止める仕組みがどこにもないという共通点があるからではないか。これが私の答えです。(150頁)

 

いや、なんというかさ……。

そもそも私は、明治時代と現代には大きな違いがあるという前提認識のある状態で、本書を読み始めた。しかし本書は、共通点を強調こそすれ、相違についてはあまり述べられていないと言っていい。私が当初持っていた前提認識がスルーされた感じがある。

 

いやいや、明治って〈立身出世〉の時代でしょ?

通俗道徳が強いのは明治も今も変わらないかもしれないが、立身出世ということが掲げられる時代と、そうではない現在は大きな差があると思うんだが。

 

「努力は報われるべき」という〈べき論〉、規範との話と、実際に努力が報われるかどうかという因果関係は別物だ。しかし明治のほうが「努力が報われる」蓋然性が高かったのではないのか。いや、「報われる」と信じられる、信じやすい条件のもとにあったのではないか。それは現代との大きな違いではないのか。

 

明治という時代が右肩上がりの時代であったなら、それだけ通俗道徳が信じられやすい状況にあったといえるし、通俗道徳が通用するような事実関係も(相対的に)多かったのではないか。

当時の人は右肩上がりかどうかは意識していなかったかもしれないが、追い付くべき欧米列強の存在は認識していたはずだ。現代の場合は、海外に目を向ければ目標とすべき国が見つかるという風には思われていないだろう。

 

経済に関しても、停滞どころか衰退を半ば感じているのが現代ではないのか。現代日本社会の「行き詰まり感」としてこれは非常に大きな要素のように思う。

坂の上の雲を目指すという考えが実感を持って受け止められる時代ではないはずだ。

 

にもかかわらず、自己責任論が根強い。それも単に根強いだけでなく、経済が低迷してから根強くなったのではないか?

〈立身出世〉〈坂の上の雲〉の時代に、素朴な実感から生まれる通俗道徳が強くなるというのは、理屈としてわかる。しかし現代は、明確な目標があるわけでもなく、確実に社会が上向いていくという実感もない。それなのに自己責任論や競争原理が強まっていく。そういう時代ではないのか。

 

現代のほうが明治よりも、物質的に豊かになったとか、そういう相違点を聞きたいわけじゃない。その点以外にも、明治と現代の相違点があるはずだろう。空気や雰囲気に触れるならなおさらのこと。

そこを特に書かずに、現代と明治はよく似ていると言われても、違和感は拭えないままだよ。

 

*1:71ー72頁あたりで説明されている