ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

京アニ特集上映 鑑賞記録

贅沢な時間だった。またとなく楽しませてもらった。途中からは耽溺していたと言っていい。これはその記録である。

 

・全体で10万字以上ある。あえて分割はしなかった。継続的に鑑賞し続けられたこと自体に一つ意味があったと思う。連関天則だ。

・てか、自分でも長いと思うので、読むなら「小括」以降の箇所を先にすべきかもしれない。

・作品レビューの記事ではない。私がどんな風に鑑賞して楽しんだかの記録である。

・ネタバレには何の容赦もしていないし、逆に作品の説明やあらすじ、登場人物紹介もしていないので、未見の人が読んでも解らない部分が多かろうと思う。「おすすめ作品が知りたい」というような人は、別のとこに行ってくれ。

・言うまでもなく、私個人の主観的な感想に溢れている。作品理解の仕方が間違っているとか言われても知らん。

・『けいおん!』と『Free!』はなんか……あらかじめ詫びておく。ごめん。

・足かけ4か月という期間。書く熱量が変化している。『境界の彼方』あたりからテンションが化ける。

 

 

2019年8月16日

京都アニメーション映画作品 特集上映について

この度、松竹と松竹マルチプレックスシアターズは、京都アニメーションの皆様が生み出した数多くの素晴らしい作品を映画館の大スクリーンでお客様に観ていただく機会を作りたいと考え、MOVIX京都にて京都アニメーション映画作品の特集上映を企画いたしました。

京都アニメーション映画作品 特集上映について | MOVIX京都

 

 

 

 



『映画けいおん!』(8/23~8/29)

10番シアター(332席)

 

ごめん行ってない。

 

小鳥遊六花・改〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜』(8/30~9/5)

9/2(月)鑑賞。1番シアター(149席)

 

客入りは半分満たないくらいの入りかな。左のほうの席から鼻をすすってる音がたびたび耳に入ってきたのを覚えている。

 

TVシリーズ1期の総集編+新規映像なわけだけど。

TVシリーズ見てたときのほうが、面白く感じたような気がする。総集編ってそういうもんかな。ストーリーがあんまり伝わってこなくて(むしろ話の時系列混乱して)、六花がかわいいだけの映画だった。

冒頭のバトルシーンは『Take On Me』より気合入ってるんじゃないかと、ちょっと思った。


たまこラブストーリー』(9/6~9/12)

9/9(月)鑑賞。5番シアター(142席)

 

今見たら9/11~9/12は3番シアター(365席)になってるんだが。マジかよ、3番シアターってMOVIX京都で一番大きい場所じゃね? ちょうどこの週公開の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』も10番シアターだったのに。

 

私が鑑賞した5番シアターは前のほうまで席が埋まってて、ほぼ満席と言っていいだろう。前週の『小鳥遊六花・改』より客入りは断然多い。*1

 

たまこラブストーリー』を映画館で鑑賞するのは2度目。

……というか初めて観たのは出町座での上映だった。今年(2019年)の1月。「お年玉」として主演声優の洲崎綾のメッセージがあったな。そのあとパッケージでも視聴してる。「映画館で」は2度目。

demachiza.com

 

2度目となった今回は完全にみどりに重点を置いて観ていたな。初めて鑑賞したときより悶える。

ブコメの部分は声出して笑いたかったくらいだが、映画館だったので自重し堪えた。シリアスめのシーンも、スタッフのオーディオコメンタリー見た後だと笑らけるところがあったりして*2、終始楽しんでた。

上映終了後、観客から拍手が起きていた。比較して申し訳ないが、前週はそういうのなく淡々としていた。

 

ついでに21時からのレイトショーで『ヴァイオレット』外伝も鑑賞した。レイトショーだというのに、結構客入りがあった。*3

 


『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 過去篇』(9/13~9/19)

9月17日(火)鑑賞。12番シアター(153席)

 

TVシリーズも全く観てないから完全初見だった。京アニだと全く観たことなかったのは『境界の彼方』と『甘城ブリリアントパーク』くらいだったんだけど。

内容に関わる前提知識はほんとになかった。なぜか聖地巡礼はしたんだけど。知ってる場所が舞台になったとかではなく、未見のまま先に聖地巡礼したのだった。事件後、橿原市の観光センターで募金箱が設置され、巡礼マップも併設で展示されていた。それをスマホで写真に撮ってそれを参照しながらブラブラ散歩した。

 

……という程度には思い出のある作品なのだけど、どんな内容なのかは全く知らん。あまり人気がない作品だろうと思っていたが、映画館行ったら予想より人がいて驚いた。

なぜかその日私は上映30分以上前に着いてしまって、MOVIXの外で時間潰すのも微妙だったので早めに12番シアターに向かったのだが、すでに待機する人たちがフロアに溜まっていた。

MOVIX京都の南館6Fには11番シアターと12番シアターの2つがあって、シアター11では『ロケットマン』が18時40分か45分だったと思うが、開場になった。ところがフロアの誰も動かない。みんな19時からの『境界の彼方』目当てだった。もちろん開場と同時に入っていく人がいなかっただけで、その後何人かが11番シアターのほうに入っていった。ちなみにこのとき、フロアの担当スタッフは1人が在中しているだけで、しかもその1人が12番シアターのほうに行って席を外す瞬間があったので、チケットをチェックされずに11番シアターに入っていく人が2人はいた。これで大丈夫なのだろうか、MOVIXよ。

 

さて、私の想像以上の客入りだったので、がぜん期待度が高まる。

客席はわりあい埋まってる印象だった。比べるのは失礼だが、『小鳥遊六花・改』よりずっと人数が多い。こっちのほうが人気作品だなんて聞いてないぞ。*4

 

作品の前提知識がないことはすでに書いたが、それだけにTVシリーズ未視聴でも十分楽しめるのかと多少の不安はあった。『過去篇』と『未来篇』の二部作なのかとか、TVシリーズの続編として考えればいいのか外伝として考えればいいのかもよく分かっていなかった。いや、たしか映画で完結という流れだったと聞いたような、と曖昧な記憶を引っ張り出す。後述するように『過去篇』はTVシリーズの総集編だったのだが、上映前は総集編なのか新作なのかもよく分かっていなかった。

 

そして上映開始。

 

いや、このときの衝撃はなかなか正確には伝わらないと思う。初っ端からエンジン全開。というか笑いを(こら)えるのに必死だったぞ。自分だけがギャグ攻めに遭っている感覚。

 

まず、いきなりOPで男女4人組が変身して歌って踊りだす。それだけで度肝を抜かされる。待ってくれ、これってそういうアニメだったのか? ぴちぴちピッチ』的な?『シンフォギア』的な?

いや正確には踊り出す前に回想(?)的に文字が流れる演出があった。・・・んだけど、はっきり読めたのが「臭いです」みたいなとこだけ。で、一体これからなにが始まるんだ、と軽いパニック。

考えてもみてくれ。ほとんどこの作品の情報を仕入れておらず(予告編も観ていない)、いわば情報に飢えた状態にあったわけだ。そんな状態の下の人に最初にもたらされた情報が「臭いです」だったんだぞ。冷静でいられるかよ。

そしたら踊りだして、しかも表情は笑みというよりも無表情に近く(とくに男)、後ろの背景も賑やかさのない、踊るのが場違いな雰囲気。シュールだ。これは、TVシリーズから見てたらどういうシーンか分かるのか。その絵面と驚きでもう笑ってしまいたかったんだけど、映画館なのでそういうわけにもいかず、声や吐息の音が漏れないように堪えてた。

 

なんの説明もなくいきなり踊りだしたのは何なのか、これはこのアニメでは普通のことなのか、踊りが終わるとどうなるんだ、などと考えつつ、ようやく気持ちを慣れさせつつあったそのとき、

ここで5人目のキャラがまさかの登場。

 

なんだこの新キャラは! だれ何者キャラ増えるの?

そもそも初めから踊っている4人についてすら情報を持っていないから、新キャラもなにもないのだが、新たに5人目が登場するのは完全に不意打ちだった。

登場の仕方もマジックみたいに突然現れたし、しかも驚いたことにセンターに居座りやがったぞ。

というか『境界の彼方』のメインキャラは4人じゃなかったのか。なんの事前情報も入れていなかったと書いたが、橿原市には行ったんだ。そのときにメインキャラは4人だと認識していた。

 

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すでに数多の混乱。

ところが歌唱パートが終わると、エンドロール的な感じでスタッフクレジットが流れ出す。え、終わりなの?ってもちろんそんなわけない(はず)。つまり、あれか。『たまこラブストーリー』で冒頭に『南の島のデラちゃん』が「同時上映」としてくっついているのと同じパターンか。そういう理解でいいのか。

 

でももしかしたら歌って踊るのがこのアニメの重要なパートなのかもしれないと覚悟しつつ展開を見守る。

 

最初は主人公(?)の女の子が洞窟みたいな場所に行き、自分の血で武器みたいなのを作る場面。異界だか血のなんとかだか境界だか影だったか、たぶんそんなような説明をしていたはずだ。私は初見なので、このわざわざ挿入される説明台詞をちゃんと聞いておかないと世界観が理解できない。

そう考えていたはずなのだが、なぜかカメラが主人公の足・太ももをパンアップして映し出す。

なんだこの構図は。どういう演出意図なんだ?と考えてしまって、世界観説明のセリフが頭から流れていく。。。(決して女の子の脚に見とれた、とかではない)

 

そんでなに、金髪の男の子が標的だったの? 一緒に踊ってたやん。

男のほうは「君みたいなメガネが似合う美少女は死んじゃいけない」と告白。

心臓突き刺しながら距離縮んでるし。

半妖だった男の子が妖狐(?)化してそれを抑え込むという、クライマックスみたいなシーンが開始30分くらいで登場。展開はやっ。

 

こんなに油断できないテンポでズバズバ進んでいく作品、ほかに観たことないのだが。

さすがにこの辺りになるとTVシリーズの総集編なのだろうと頭は理解する。でなかったらこの展開の速さはありえないだろう。

 

ありがたいことに世界観自体はどっかで聞いたことあるようなそんなイメージなので、なんとなく話についていくことはできる。どうせ説明台詞は右から左に流れていくので、細かい部分はもういい。そんなことにこだわらなくても十分楽しめる。

 

ギャグやシリアスが次々と押し寄せてくるので飽きさせるところがない。

総集編としてのまとめ方もよくできているのだろう。途中いきなり場面が切り替わって、「なんか飛んだ?」と思うところもいくつかあるのだが(それがTVシリーズでもそういう演出なのかどうかはもちろん知らない)、そういう切り替わりの速さで観客を置き去りにしない程度にはフォローが入る。

見かけないキャラが出てくるたびにこちらは「誰だこいつ?」状態なのだが、簡単に説明されるか、説明されなくても関係性がなんとなくわかる程度に話が進んでいく。

 

そんでいつの間にか話はメガネ女子と金髪男子の2人の関係と世界の滅亡が関わる話になっている。

なるほどセカイ系になっていくわけね。最大の敵が好きな人だったなんて展開、ベタかもしれないけど王道でいいじゃないか。最初は初見で情報もなく、楽しめるか不安だった自分が、ちゃんと物語の盛り上がりに乗れていけている。

 

と、ここで「子持ちシシャモ」

 

くっそ、これは油断した。ちゃんとギャグを忘れねーな、こいつら。

終盤のクライマックスにかけての場面でもギャグを挟みこんでくる。直前の「脇が弱い」の部分でギャグをやり過ごしたと思っていたからやられた。2段蹴りで来た。少し噴き出してしまって、他の観客にも聞かれてしまったぞ。

 

なんやかんやあって世界は平穏に戻る。

アップテンポというかドタバタというか、それは総集編だからかもしれないけど、そこが逆に飽きさせずむしろ楽しませてくれた。

前々週にみた『中二病』の総集編は、モリサマとか凸守とかはっきりダイジェスト映像の部分があったし、併せて六花を描くからTVシリーズよりややこしく感じたけれど、この『過去篇』は不明な点は多々ありつつも置いてけぼりにならない程度に飛ばしてくれたのでよかった。知らない回想シーンも出てきたが(最初の「臭い」も歌唱シーンも5人目のキャラも謎のままだったが)、きっとTVシリーズでなにか描かれているのだろう。こういうカットの仕方なら全然問題ない。

あと『中二病』より中二病してる。

 

セカイ系の話としても『天気の子』より好きだぞ、私は。ダルさを感じることは全くなかったし、「不愉快です」はむしろ『天気の子』に感じくらい。

女の子がいなくなって落ちてきた指輪を掴む、というところなど、『天気の子』とダブって見えてしまったが、結末含めこっちの持って行き方のほうが好みかな。

 

ラストシーンはいなくなったと思われた女の子が主人公の男のもとに戻ってくる。

冒頭のシーンをリフレイン的に想起させ、再びの「メガネが好き」告白。

ここでキレイに終わったかと思いきや、振り返った女の子はなんとメガネをかけていない。

大声で「メガネが…」といった後なのに当の相手がメガネかけてないって。散々この作品の意外・突然・唐突な展開に笑いを堪えてきた私としては、またギャグシーンを挟んできたのかと思ったわ。

幸い(?)2人の空気が気まずくなったりすることはなく。

 

記憶喪失という不穏なエンドとなるのは次回作へのまきびしだろうから、そこを除いて考えると、かなりこの作品への満足感は高い。はじめの期待度がほぼ皆無だったというのもあって、「大穴が当たった」みたいな感覚がある。

 

強引に一言で感想をまとめるなら、、、

こんなにメガネの似合うかわいい女の子が出てくる作品、みたことなかったわ。

 

 

 

9月19日(木)、2回目の鑑賞。

改めてポスター見ると、幸せを問いかけてるんだな。

 

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動画配信でも観れるわけだけど、やっぱ映画館で観たい。ほかの観客がどう受け止めているかという雰囲気も感じられるし、笑いそうになるのを堪えたりするのがときに快感ですらある。背徳感・

 

この回の上映は前々日より若年女性層が多かったような気がする。私が座った列とかほぼ女性だったし。曜日で客層違うのだろうか。サンプルサイズが小さいから誤差とも言えそうだが、もし初見時でこうだったら女性人気も強い作品なんだなと、別の感想を抱いていたかもしれない。

 

さて、2度目の鑑賞で私は気づいた。

5人目の人(名前忘れた。CV山岡ゆり)、初めから出てるやん。変身して歌って踊る前のところで、ちゃんと5人映ってた。そのあと歌い出したときに4人になったから勘違いしてたのか!

でも2回見ても5人目謎のままやぞ。だんご頭の子のほうが要所で出てくるじゃん。5人目の人、モブだよね。モブキャラだよね? モブがセンターだったのか!?

 

2度目の鑑賞ということで、ちょいちょい挟みこんでくるギャグの効果を確認しながらみてた。ギャグとして見せといて伏線になってる箇所とかを確認できた。

たとえば、、、

・冒頭近く、異界師(異界児?)とか境界の彼方とか、特有の用語を使いつつ真面目に会話してる場面で唐突に「盆栽?」と入るところ。「盆栽?」の入れ方が唐突すぎるだけでなく返事をしてくれないというツッコミ不在のボケになっている。しかしこれが終盤の盆栽が消える演出のためには実は不可欠のシーンだったというね。考えてみれば盆栽が出てくる場面は(TVシリーズは知らないが)ここだけ。ギャグとして見せることで観客の印象には残しつつ、伏線だと気づかせないようにしていたのだ。

・凪のまえ、「こんなときは妹と早く家に帰りたい」云々のセリフ。初見時にはこのセリフによってこの2人が兄妹であることを知ることになるのだが、やはりここもギャグとして挿入することで説明台詞と感じにくい形で兄妹関係(+シスコン)を説明している。盆栽のとこと同じで、シスコンだと分かるシーンはここくらいなのにしっかり刷り込まれ、次の(シスコンみたいの)「『みたい』は余計だ!」のシリアスギャグを際立たせる。そして妹もブラコンじゃねーかという3段オチ。

・ミロクって呼ばれてた人は結局よく分かんなかったな。裏で手ぐすね引いてそうな雰囲気だけど、『過去篇』でははっきりしない。それで2度目はより注意して見ようと思ってたけど、役割不明なままだった。コーヒーを飲むシーンで、「こいつめっちゃミルク注いでんな。入れすぎじゃね?」と思ったくらい。

 

あとあれだ。

冒頭、洞窟みたいな場所で血の一族的な小難しい深刻そうな話をしているシーンで、なぜかヒロインの足と太ももをパンアップで大写しにする演出。

氷解した。ラストでヒロインが消え去ってしまうときに、最初に膝のあたりにヒビが入るような描写がされる。つまり冒頭でシリアスな場面にもかかわらず謎に足が強調されたのは、足から消えてなくなっていくという不吉なエンドを暗示していたというわけだ。

気づけて良かった。

 

 

この上映回のときには、上映途中~鑑賞後すすり泣いている人がいて、それが耳に残っている。

私も思いっきり感情出して笑ったり泣いたりしたいなと思った。

上映開始の2時間前に不採用の電話が来て、私の面接全敗記録を更新してしまったというのがあって、そっちのほうが泣ける。

 

 

『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 未来篇』(9/20~9/26)

9月24日(火)鑑賞。2番シアター(142席)

 

客数は『過去篇』と同じくらいかな。

この作品に限らずだけど、特集上映にご年配の方がちらほら見えてらっしゃるのが、普段のアニメ鑑賞時と違う。私の場合は例の事件前から京アニのことは存じていたわけだけど、報道で初めて名前を覚えた人も少なくないだろう。過去に観たことあるアニメが実は京アニ制作であったり、作品の舞台になった場所が縁のある場所であったりということを知った人も多いかもしれない。

私は別に橿原市とは縁もゆかりもないのだが、報道でここが舞台だということを知り、しかも未視聴の状態で聖地巡礼したのだった。

 

前週上映していた『過去篇』の続編、あるいはTVシリーズ未見の私には2部作と称してもいい『未来篇』。

 

上映後にとある観客が「過去篇よりは良かった」と漏らしていた。

うるせい。「過去篇よりは」は余計だよ。思っても黙っとけよ。だいたいストーリーも演出も過去篇とセットだろ。つーか過去篇傑作だったろ。

 

たしかにね、泣けはしなかったんだよね。いやぁむしろ泣きたかった。感動系を好き好むわけではないんだけど、「泣かせてくれよ」って思うときあるよね。それよりお前は就活しろよって言われそうだけど。

 

満足度は高いな。

「感動した」というより「上手いな」と感じる内容だった。

高評価ポイントとして挙げたいのは、笑顔、メガネ、「不愉快です」だ。どれか一つというよりそれぞれ絡み合ってかけ算的にいい。

 

なんといってもエンドロール後のエピローグの場面。「不愉快です」と発言しながら満面の笑みを見せる主人公・栗山未来。ここが最高。「不愉快」だという言葉を吐きながら、にもかかわらずここまで最高の笑顔を見せるヒロインがかつていただろうか。私は観たことがない。アニメーションというより、綺麗な一枚絵として完成されていると感じた。

 

そしてこの構図が『境界の彼方』という作品のテーマを最も象徴的に表している。

すなわちこの作品で描かれたのは、人間の心に湧きたつ憎悪の感情にどう向き合うかということであり、それに対する答えが憎悪を上回る愛情で包み込むことであった。これを1枚の構図で見せたのが、「不愉快です」という(表面的には)負の感情を呟きながら、しかし笑顔を浮かべるこのシーンなのである。

 

イイ。

 

この最後の画を見せるためにここまでのストーリーが描かれてきたといっても過言ではない。私にはそのようにも感じた。

ここまで来て私は、『過去篇』のラストの意味に気づいた。『過去篇』のラストで記憶喪失の直前、栗山未来が振り返り笑顔を見せるシーンがあった。このシーン単独でも個人的には好きなシーンであるのだが、『未来篇』と対比させることで一層際立つ。そもそも『過去篇』でもやはり「不愉快です」と言いながら笑顔を見せるのだったが、『未来篇』のように象徴的シーンとまでは感じなかった。

それは『過去篇』ではまだ栗山未来の(『未来篇』で描かれたような)葛藤には踏み込んでいなかったからである。「憎悪を覆いつくす愛情」という形ではなく、「普通」に思い焦がれる未来と、秋人(こいつの苗字なんだっけ?)の克己心が主に描かれていた。

したがってこのときにはまだ、件の振り返り笑顔は、「不愉快」という言葉と笑顔の正負のおかしさ(ギャップ萌え)として印象付けられたにすぎなかった。

それが『未来篇』において、作品のテーマが付加されるのである。「不愉快」の笑顔読点では、類似した描写であるにもかかわらず、観客は異なる印象を持つものとしてそれを受け取ることができる。『未来篇』のストーリーによって、新たな意味が描き加えられたからだ。

『過去篇』のラストのあの笑顔は、『未来篇』を含めた演出上の必然だったのだ。

 

同様に、「不愉快です」という口癖も、『未来篇』までを射程に入れれば、決定的な気ワードだったことがわかる。ほかの口癖ではダメだったのだ。負の感情、ネガティブな思考を一言で表すこの言葉が口癖であったことに意味があった。

 

『未来篇』において、当初栗山未来は記憶喪失により、自分がだれなのか、以前どんな生活を送っていたのかを忘れてしまっている。

その忘れてしまった過去を思い出すうえで、効果的に挿入されるのがこの口癖だった。記憶を失っている彼女は、「不愉快です」が口癖だったことを「おかしい」とさえいう。秋人のほうでも、記憶を取り戻してしまうのは不幸なことであるはずだと思い込んでいた(思い込もうとしていた)。

そう。取り戻すべき記憶にはネガティブなものをまとっているのである。それでも未来を志向するのであれば、不快であったもそれに向き合わなければならない。

 

『未来篇』と題された本作であるが、対峙しなければならないのは過去だった。未来に向かうためには過去を見つめなおさねばならなかった。それは苦しいこと、不幸なことを内に含んだ過去にほかならない。

「不愉快です」といういつもの口癖が戻ったとき、それは単に従前の生活に戻ったというだけを意味しているのではない。彼女の取り戻した過去には「不愉快」なことと切り離せないのであり、しかしなお彼女は笑うのである。

 

「過去」というのは、決して栗山未来個人だけのものではない。『過去篇』のエピソードだけが「過去」なのではなく、呪われた血の一族という、一族の歴史・運命をも含んでいる。もし忘れてしまった過去というのが、彼女個人のものだけであったならここまで悲劇とはならなかったであろう。一族の悲劇、それを引き継いできたことまでもが彼女の過去であったのだ。

 

そしてメガネである。

秋人というメガネ好き変態の嗜好の対象として、『過去篇』でも欠かせないギャグ要素だったわけだが、『未来篇』も合わせると、秋人の心情変化を示すキーアイテムとなっている。

 

『過去篇』の幕引きの仕方は、不思議というか、不自然・強引にも捉えられるような終わり方であった。

屋上で2人が再会したとき、栗山未来はまだ先輩の秋人のことを覚えていた。であるからこそ「不愉快です」と振り返りながら笑顔を見せたのだった。ところがその笑顔の後で彼女は記憶を失うのである。

彼女が屋上に現れた時点ですでに記憶を失っていた、という描写のほうが自然である。ところが彼女は、現れた直後は記憶がしっかりしていたのに、そしてあんな笑顔を見せるほどだったのに、そのすぐあとに記憶を失くすのである。ややひねった展開になっているといっていい。(実はあの笑顔は秋人の妄想に過ぎなかった説もありうるが、ここではその説は採らない。)

 

では、なぜ記憶を失ったのか。

トリガーとなったのは、そう、メガネである。

メガネをかけたあとで、「私はだれ、あなたはどなた」状態となるのである。この時点で直接的に解釈するなら、メガネが記憶喪失の引き金になったとしか思えない。

 

『未来篇』の冒頭で秋人のモノローグが入るが、そこでは記憶喪失の原因は明確には明らかにはされていない。「境界の彼方」の最後の悪あがきなのか、それとも栗山未来の防衛機制*5なのか、推測がなされるのみである。

しかしメガネをかけた直後に記憶喪失になった(ように見える)のだから、真因や根本原因としてはともかく、直接的原因はメガネである。彼がそのように考えないはずがない。考えないとしたら不自然だ。彼の栗山未来への愛が足りなさすぎる。

 

したがってこう解釈しなければ辻褄が合わない。すなわち、秋人は自分の差し出したメガネのせいで(メガネという嗜好のせいで)栗山未来が記憶を失ったのだと疑っている。それは自分という存在が記憶喪失の原因になってしまったのではないかという猜疑心である。

そうであるからこそ、そのことをはっきりとは周りには言えないのだ。そのために彼が一人で問題を抱え込んでしまっているのだ。

 

『過去篇』と比べると、『未来篇』においては秋人の心の動きというのは、あまり深く描写されないように見える。しかし描写が少ないからといって、心の葛藤がないわけでは当然ない。むしろ『過去篇』以上に彼は思い悩んでいたはずである。

そうした彼の内面部分についてあまりスポットが当たっていないように見えるのは、作劇上の問題であろう。『未来篇』においてメインとなるのは栗山未来の心の内であるため、秋人の内面描写については抑制的になっているのだ。彼の葛藤は、周りの人間からの視点で描かれる。そのため作中においてはそれほど強調されては見えない。

 

しかし普通に考えれば彼が悩まなかったはずがない。メガネをかけたことによって栗山未来は記憶を失ってしまったのだから。

メガネというアイテムは、彼の変態っぷりを示す嗜好の対象であるとともに、彼と栗山未来の関係性の象徴でもあった。2人が出会ったとき、秋人はなんと言ったか。「メガネが似合う美少女だから死んではいけない」とそう言ったのだ。

メガネは彼が魂を注いだものであり、栗山未来を救おうとしたときに出てきた言葉でもあった。「メガネが好き」というのは栗山未来に対する彼の思いであり、そして「メガネが好き」に対して彼女は「変態です」と呟くのだった。

彼、および2人の関係性を象徴するアイテムこそメガネだった。

したがってメガネをかけたときに記憶を喪失するという描写によって、秋人が抱え込んだ心の懊悩を強く表現しているのである。彼の懊悩の強さを示すために、メガネをかけたあと記憶喪失するという描写にしたのである。そうでなければ『過去篇』のエンドロール後の描き方は不自然だ。メガネを触媒とすることでより深いショックとなっているのだ。

 

メガネが2人の関係性の象徴として描かれている、と書いた。『過去篇』の全編と『未来篇』の終盤まではまさにそのようなアイテムとして描写されてきた。

しかし『未来篇』のエピローグにおいてそれは変化する。

秋人は「メガネをかけていなくても栗山さんが好きだ」とついにそう告げたのだ。ここまでの彼の「メガネ好き」はこのための伏線だった。伏線というか〈溜め〉である。ここまでタメられてきたものが一気に解放された。

メガネという属性に対する好きから、栗山未来という個人に対する好きへと変化したのである。

 

属性への愛から、一個人への愛へ。

この変化は大きい。

2人の関係性は、両者の属性からスタートしていた。「境界の彼方」を抱え込んだ半妖という存在と、それを倒すのが目的の一族の末裔。この関係性のために2人は出会ったし、対峙し続けることとなってきた。

しかしそれはもう関係ないのである。栗山未来と秋人の2人の関係は、彼が「境界の彼方」であるかどうかはもはや関係がないし、彼女が呪われた血の一族であるかどうかもどうでもいい。

彼女が「普通」を求めたのは、出自という自らの選択できない属性ゆえであった。この作品のストーリーはそういう生まれついた属性をめぐるものとして語られてきた。

そうした属性の呪いをついにようやく乗り越える。そのことを「メガネをかけていなくても好き」という一言に凝縮して表現したのがこのセリフなのだ。

 

秋人が「メガネをかけていなくても栗山さんが好きだ」と言ってから、彼女が最高の笑顔でもって「不愉快です」と述べるまでのシーン。

簡潔でありながら、作品のテーマを象徴し凝縮し最大限に魅せる。これはそういうシーンだ。

 

 

あと、結局歌って踊るシーンが何だったのかは最後まで分からなかった。ミロクもよくわかんねえ。

しかし、もはや分からなくても良いと思っている。この作品は細かい部分をあえてぼかしている部分があるのではないかと思っている。

秋人が不死だった理由についても「推測だけどな」と語っていたし、秋人母の正体も冗談っぽくやり過ごしている。前述したように、栗山未来の記憶喪失の原因も、あくまで推測としてモノローグでは語られていた。なぜか登場人物たちが世界の秘密や真理を知っている、みたいなものよりも、こういう風に「推測」のように語らせているほうがよい。

中二病的な全知全能感でいうと、私は全能感より全知感が鼻につく。これはどうでもいい話だけれど。。。

 

それからセカイ系的、非日常的展開になる前までの部分は、普通にラブストーリーとしてすごく好き。もう少し具体的に言うと、夜桜の公園のところで「デートみたいでしたね」っていうところまでの部分。記憶喪失+恋愛ってそれだけでも十分に話としては成立してしまうんよね。

 

ブラコン・シスコン成分は『過去篇』のほうが強かった。

「アニキ」呼びから「お兄ちゃん」に思わず変わってしまっているあそこ。事前情報なしに見ていた私にはかなり破壊力あった。

 

 

9月26日(木)、2度目の鑑賞。

なかなか稼働率高い。気持ちおっさん比率上がったか。

前々日はシアター前のロビーに特集上映の日程と『未来篇』のポスターが掲げられていたのに、この日はなくなっていた。残念だ。

 

まず再確認したこと。

・記憶喪失に関する懊悩が、栗山未来にスポットを当てて描写されているということ。文芸部に入ろうとするのも、秋人を追いかけるのも、涙ながらに真相を教えてくれとせがむのも、全部彼女なんだよね。アクションを起こしているのは彼女のほうで、秋人は避ける逃げる側。周りの人間が「ちゃんとしてよ」「話をするべき」とやはり彼を促す立場。逆に言うと、彼の抱え込んだ悩みの深さが観客に伝わらなければ、こいつがただウジウジだらしなく、じれったいやつに見えてしまうということ。いや、じれったいんだけどね。倉庫裏でこっそり泣いているという描写があるだけで、あとは彼のことを映していない。あえて描写としては見せてないんだと思うね。

 

・栗山未来がバケモノ化した場面で、スクラップブックがスクラップされた。これも記憶にまつわる暗示だろう。「今度は忘れないように」と自分の好きなものをスクラップしていたその本は吹っ飛ばされる。思い出さなければならないのは、嫌な過去、つらい過去だというのが強調される。(そういえばミロクとかいう奴が「僕のことも忘れてしまったんですか」的な台詞を吐いてたけど、忘れるとかの前にお前誰だよって感じだよな。『過去篇』だと黒幕感を醸しつつも、結局謎のまま退場して行ったから正直印象薄いのだが。)

 

・栗山未来がバケモノ化して以降、彼女はメガネをかけていなんだよな。秋人はメガネをかけていない彼女の暴走を止めようと戦ったわけだ。そして「メガネをかけていない栗山さんも好き」につながると。

 

以上はどちらかと言えば初見時の印象を再確認したという感じだったけど、新発見の気づきもかなり多かった。なるほどなあ、と一人感心してたわ。

・もしかしてオムライスって秋人の好物なの? 『未来篇』では回想場面でも、母親との会話場面でも登場していた。『過去篇』で栗山未来が民族料理風(?)オムライスを作ったのは、彼がオムライス好きなのを彼女が知っているとかそういう話?

 

・冒頭で「おじいさんは山へ柴刈りに……」の昔話のところで、前時代的な性別規範だと批判する会話があった。ギャグシーンとして畳んでいるのだけれど、初見時は正直あまり切れ味よくないなと感じていた。でもこの性別規範の話がラストにつながっているわけか。「僕と…」「私と…」一緒に生きていこうってお互いに言い合うシーン。単なる告白じゃなくプロポーズだよね、と思うあのシーン。

もののけ姫』のサンとアシタカの、「アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない」「それでもいい、ともに生きよう」の会話を彷彿とさせるシーンだと思っていた。しかし「ともに暮らそう」と言ったのはあくまでアシタカ。だから少なくとも形式的にはアシタカがプロポーズしてサンが受けるという形になる。

この作品の場合はそうではなくて、文字通り同時に告げてるんだよね。同時にプロポーズするという。「男は仕事、女は家事」という考え方が古いと言っていた冒頭の会話の帰着点を示しているということだ。

 

・「選定」と「剪定」の掛け言葉だった!

文芸部の活動は芝姫(部誌?)に収める作品を選定すること。そして栗山未来の趣味の盆栽は剪定するもの。「せんてい」でつながっていたとは。なぜメガネ美少女の趣味が盆栽という設定なのか、なぜ文芸部の部室に普通に盆栽を置いているのか、その理由がつながった!

 

・「臭いです」がEDで回収される!

事前情報なしで『過去篇』を見た私にとって、上映が始まって最初に目に飛び込んできたのが「臭いです」だった。情報に飢えていた人間に対する最初のファーストインプレッションが「臭いです」で混乱の極致なのに、結局「臭いです」がなぜ出てきたのか分からないままという状態だった。

しかし『未来篇』のエンドロールの場面カットで、臭い顔をする彼女たちとガスマスクが描かれているではないか。ここにきて遂に「臭いです」が回収されたのだ。(依然意味は不明)

 

・あと山岡ゆり

変身して歌って踊りだした『過去篇』の冒頭シーンは未だに最大の謎のままなのであるが、あのとき5人目に登場した山岡ゆりはやっぱりモブだよね。ついに長いセリフが出てくるかと思ったら「一生け…」でカットされるし。なんでモブがセンター踊ってんたんだ。。。

そして関西弁の女の人の「ウチら妖夢も」ってセリフ。ん? ウチら?

初見で鑑賞したときは「妖夢」のほうに気を取られ、「え?この人妖夢なの?」となった。実際その後に名瀬家の長女と対決する際にデカい狐に化けていた。『過去篇』ではそんな説明なかったから、「お前、妖夢だったんかい」と一つの衝撃だった。

しかし2度目の鑑賞で気づく。「ウチら妖夢」って言ってるぞ。ウチら、だと?

…ってことは山岡ゆり妖夢ってことか。マジか。モブとか言ってる騒ぎじゃねーじゃねーか。え?ほんとに?

そうか。妖夢だからテニスめっちゃ強かったんだな。あの運動神経の良さは〈人間離れ〉してることを表現してたわけかー。まさか人間じゃないとは。

 

 

 ちなみに舞台となった橿原市の市長が放火殺人事件の後でコメントを発表している。

京都アニメーションの事件について
 
 去る7月18日に起きました京都アニメーション放火事件につきまして、「境界の彼方」聖地の代表として、またファンの一人として、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。同時に、被害にあわれた方々の一日も早いご回復と京都アニメーションの早期の再開を心より願っております。
 京都アニメーションさまには、アニメ作品「境界の彼方」において、橿原市の風景を描いていただき、今もなお国内外を問わず、多くのファンの方々が聖地巡礼として橿原市を訪れていただいております。
 このような事件が二度と起こらないことを願いますとともに、被害にあわれた方、ご家族・関係者の皆さまに心からお見舞い申し上げます。
令和元年7月23日  
橿原市長  森下 豊 

京都アニメーションの事件について | 橿原市公式ホームページ(かしはらプラス)

 

 「ファンの一人として」と述べてるのがイイよね。私も上映を観て、この作品のファンになってしまったわ。

 

 

『映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-』(9/27~10/3)

9/30(月)鑑賞。5番シアター(142席)

 

たぶん作品の人気に比して席数が少ないパターンだと思って、3日前の22時になった途端にサイトにアクセスしたつもりなんだが、すでに何席か取られてたな。早えな。

 

観客は満席に近いといっていいくらい。

案の定というか、圧倒的女性比率だった。男性とか初老めの人も見かけたけど、ちらほらというレベル。

逆に言うとなんで男性にはリーチしてないんだろうね。普通に青春ものとして良いから、女性向けって考えなくてもいいのに。『Free!』シリーズは家族で見れる(見てた)アニメのひとつ。

 

こんなこと書きつつ、かくいう私も特に追いかけていたわけではなかった。この映画も初見だし、TVシリーズも細かい内容は記憶の彼方。3期も流しで見てたから記憶が怪しい。

 

上映前にポスターを眺めてて、「あ、これ総集編じゃなくて前日譚・過去編か」と気づく。

どうせなら、下手に記憶が曖昧より、完全初見のほうが良かったかもしれない。「あのキャラ見覚えあるけど誰だっけ?」みたいなのが余計な引っかかりとならずに済むから。

 

ストーリーはぶっちゃけあまり入り込めなかった。中学生の青っぽさは出てるんだと思うけど、懐かしいとかそういう感覚は湧かない。こんな中学時代を過ごす人もいるんだろうな、って感じで観てた。

この手の作品を私は〈ありえたかもしれない青春〉として感傷に浸ることが多い。ただ本作品のストーリーに関しては、メドレーのチームというものがどうもわからなかった。なんで4人の息が合うかどうかがタイムを左右するのだろう。引継ぎの巧拙が結果に影響するというのは分かる。しかし泳いでる人が飛び込む人に対して、なにか出来るのだろうか。最初にバック泳ぐ人とか、タイミング関係なくね? 「自分のことしか考えてない」というのが、引継ぎの上手さにどうして関わるのだろう。

ここが分からないと、4人が何にもがいているのかが感覚として入ってこない。

この1点さえ突破出来たら、もっと楽しむことができたのにと思う。個人競技にすぎない水泳というスポーツを友情ものとして描く、4人それぞれの悩みや焦り、不安といった感情を絡めていくのは上手い描き方だと感じた。

上映終了後、拍手の手が鳴ったのは『たまこ』振り。

 

 

もうひとつそもそもの話だけど、郁弥ってこんな初期に出てたんだな。3期の新キャラかと思ってた。

この辺のをちゃんと覚えてて鑑賞したら、また印象変わるのだろうな。私は3期のエピソードの記憶とか飛んでたから、あんまりそういうことはなかった。

 

 

爆音映画祭 in MOVIX京都(10/1~10/6)

www.smt-cinema.com

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映画 けいおん!』 

10/1(火)鑑賞。10番シアター(332席)

 

けいおん!』また10番シアターなんだ。大きいシアターだけど、しっかり観客席が埋まってる。前回の『Free!』があったから余計にだが、なんで男性比率こんな高いんだろうな。

 

爆音上映であった。音デカかった。

私は爆音上映は初めてなのだけれど、最初の目覚まし時計の音を聞いてこんなボリュームでやるのかと正直感じた。目覚ましの音じゃなく、秒針のチクタクの音すらデカい。

その直後の演奏シーンの音響も凄まじい。音で振動が伝わってくる。

しばらくすると少し慣れたけれど、終盤の演奏シーンでもブルっと震えたな。音が大きかったからだろうな。

 

 

正直『けいおん!』って苦手なんだよな。どこが面白いのか分からない。特集上映のラインアップのなかで、一番とっつきにくいかもしれない。

今回の上映中もこの作品はどこが面白いのだろうみたいな思考を巡らせながら観てしまっていて、そういう意味じゃ、純粋に楽しめなくなっている。

 

ある種私の中で、不協和な作品だったんだよね。

つまらないとは思わないけど、積極的に見たいと思うような作品かと言われるとそうじゃなかった。だからなぜメガヒットしたのか、普段アニメを見ないような層にまで波及したのか理解できなかった。

そういう世間の評価みたいなものは気にしないでも全然平気なのだけれど、7つ離れた妹がアニメの中で一番好きだと言ってたんだよな(数年前のことだから今はどうか知らない)。アニメに限らず兄妹のなかで価値観の相違なんて茶飯事だけれど、この嗜好性の違いは、茫漠とした謎だ。

京アニの象徴みたいに言われてるところも。私は他のアニメスタジオと比べれば京アニ作品を多く観てるし贔屓してると自覚してるが、なのに『けいおん!』シリーズには付いていけないから。

 

 

そしてこのたび上映を鑑賞しての収穫。

寿(ことぶき)さんが琴吹(ことぶき)さんを演じてるんだと気づいた。

 

それは冗談として。。。

 

鑑賞順って大事じゃないかと思った。私の『けいおん!』の理解が及ばないのって、最初に見せられたのが映画だったからじゃなかろうか。

日常系と言われている『けいおん!』ではあるが、『映画 けいおん!』はその日常系の枠から外れている部分がある。卒業というイベントを挟むし、ロンドン行ってしかも演奏して、教室にステージ作ってしまうし、後輩のために曲も作る。これを詰め込んだ映画は、やはり日常系とは思わない。

また、映画では物語の進行の主軸は後輩・梓にあったと思う。私が初見時に、すなわちキャラの名前もはっきりしないうちに見せられた映画で、唯一はっきり名前を覚えたのが「あずにゃん」だった。他のキャラは状況によって「澪」と呼んだり「秋山さん」と呼んだりという呼び分けがあったのも紛らわしかったのだと思うが。

あと、「でーもねあえーたよすてーきな天使に」の歌が妙に頭に残った記憶がある。

 

その後だよ、TVシリーズを見たのは。そこまで言うならと(いや、だれに言われたわけでもないんだがNHKで再放送がなされた折にちらほら見ていた。

分からなくはないんだけどね、箸が転んでもおかしい日常なんだろうなとは思うけど、映画からの落差を感じる。落差というか不足感・不在感。映画よりも〈日常〉の枠に収まってしまうし、あずにゃんいないし、「天使にふれたよ!」の歌も出てこないし(当たり前)。

 

この順番で観てしまったがゆえに、余計にとっつきにくい作品になってるんじゃなかろうか。

 

今回は映画館という環境で観れて楽しめたから、良しと考えよう。

上映後は拍手が湧いていた。

 

 

そういえば内容からは外れるけど、、、

京アニの柱と伝えられる、亡くなられた木上益治さん。同じ原画でも、『映画 けいおん!』だと木上益治名義だけど、『たまこラブストーリー』だと多田文雄名義なんだな。監督(木上益治)、原画(多田文雄)、演出(三好一郎)で使い分けてるのかと思ってたけど、そうじゃないんだな。

 

たまこラブストーリー

10/2(水)鑑賞。10番シアター(332席)

 

前日に続き、爆音上映。平日の昼間だけあって人数は少なめ。連れ合いで来てる人も少なかったが、たまたま私の少し後ろの席にカップルっぽい2人組が座って、ひそひそ声で話してはいるのだけれど会話が聞こえてしまった*6。なんかスゲー期待して見に来てる感じで、「(14時)50分からだよね」とか2,3回確認してたし。

 

この作品、主題歌、OPEDに加え、劇中歌が5曲あって、『けいおん!』ほどじゃないにしても、音楽は多い。それで爆音映画祭のラインナップに入ったのだろう。

 

たしかに正直な話、最初に爆音で上映するって聞いたとき、「なんでこの作品を爆音?」って思ったよ。

いやー、分かってなかったわ。

 

爆音にすることで何が変わるか。

クライマックスでたまこが「もち蔵大好き」って告白するシーンが最高になる。これは耳が悶える。

 

伝わってほしいんだけど、私の個人的なフェチとかで耳が幸せってことじゃないからね(たしかに個人的にも好きだけど)。そうじゃなくて、このクライマックスに合わせるために、音響上そういう演出がされてるってこと。

爆音上映で鑑賞して、初めてその音の演出に気づいた。

 

さきほど書いたように『たまこラブストーリー』は挿入歌も多いし、印象や雰囲気が変わる場面でもだいたい劇伴がかかる。それだけでなく騒音・雑音のたぐいも結構あって、いつもなにかしら背景音がしているくらいの感覚がある。

 

たとえばもち蔵が鴨川デルタの飛び石のところでたまこに告白するシーン。川のせせらぎの音もそうだが、自動車の走行音も目立つ。はっきり言ってうるさい。

爆音で聞いてるために余計そうなるのだが、ついに告白するという重要なシーンなのに、車の音が耳につくのである。

車の走行音はもちろん環境音なのであるが、これは2人の心理状態を反映した環境音と考えることもできる。心象風景ならぬ心象音か。それは迷いや戸惑い、受け止めきれぬ心の状態を暗示している。

 

その〈雑音〉が止むのが、最後の告白の場面なのだ。

もち蔵がたまこに向かって糸電話を投げ、たまこがそれをキャッチする。そのキャッチの瞬間に新幹線の到着音がきれいに合わさる。それとともにすべての音がフェードアウトし、画面が暗転する。そうして糸電話の中で反響する音として、たまこが告白する声が聞こえるのだ。

 

爆音で鑑賞しているからなおさらなのだが、この作品は音楽は印象的に挿入されるし、前述したように環境音も耳についたりする。まったくもって静かな作品ではない。

それがクライマックスにおいては背景の音も景色も無を見せる。無音になることで一層この場面が際立つ。これは最高に演出された無音であって、その無音をバックにして糸電話の中でしか聞こえない音(告白!)が耳に届くのである。

観客(私)は、あたかも自分しかこの音を聞いていないかのように告白を聞き、耳をゾクッとさせるのだった。糸電話というギミックも、うるさいと感じた走行音も、この一瞬を盛り上げるために配置されていたのだと思うほどだった。

 

要するに一言でいうと、あの声が堪らん。

 

この作品は繰り返し観たはずなのに、爆音で鑑賞して初めてこの音の演出に気づいたわ。

 

 

余談。

原作(というかノベライズ)を買いたいと思って、京アニショップの通販サイトを覗くのだけれど、在庫がなくなっている。ちょっと前まで「売り切れ」状態だったのが、今じゃ商品ページそのものが無くなってしまっている。もう入荷しないのかな。

あと、ついでに『境界の彼方』原作も再入荷してほしい。

 


『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(10/4~10/10)

10/8(火)鑑賞。2番シアター(142席)

 

え、あのさ、『響け!』シリーズの視聴者層って、年齢高めなの?

いや、ちがうな。年齢層というより、若い人の比率が少なくて意外だった。

上映30分前くらいにシアター前に行ったら、若い女性4人組がベンチに陣取ってて、『響け!』観るのかなと思ったら充電してただけで行ってまったし。

ちょうど2番シアターでの1つ前の上映が『ヴァイオレット』外伝で、しかもなぜか出入り口の扉を早めの段階で開けてたからエンディング曲のエイミーがフロアでもよく聞こえた。その時点で待機勢が10名弱はいたと思うけど、20代以下が見当たらないくらいの感じだったぞ。隣の1番シアターで『蜜蜂と遠雷』が18:40から開場になって、ベンチ座って文庫本を読んでた女性の方とか勝手にこっちだろうと予想してたら動かず、京アニのほうだったし。

私がポスターの写真をスマホで撮ってたら、後ろに初老といったら失礼か、しかし壮年というより実年めの夫婦が見えて、私の後で写真を撮っていた。しかもポスターのミドリの名前を指しながら「サファイアだよ」とか、初見では無理な会話してた。ちなみに映画のほうでは「緑輝」と書いてサファイアと読むくだりが省略されてたから、オーディションで名前を呼ばれる場面でいきなり「川島サファイア」が登場する。

客席がだいたい埋まるくらいの人数は来ててたから、その点は前週の『ハイ☆スピード』と変わらないけど、客層が全然違う。上映時間近くになってから来る人には、若い人のほうが多かったように思うけど、最終的に見ても年齢層は高めではないか。これまでの上映で、最も平均年齢高めになったのでは。

 

 

ついでだから、ストーリーとは関係ない感想も書いておこう。

本作『~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~』(長いから『ようこそ』と略す)では、京都コンサートホールが登場する。そのことは映画観る前から知識としては知っていたんだけど*7、なぜかこれが出てきたシーンで作品とは別の方向に連想が広がっていってしまったんだよね。

なにかというと、京都市の平安建都1200年事業。京都コンサートホールは、この記念事業の一環として建てられた。

そしてこの1200年記念事業、ほかの京アニ作品にも結構関係ある。

たとえば『たまこラブストーリー』等の制作に協力した京都文化博物館(通称「ぶんぱく」)。これも記念事業のひとつとしてオープンしたものだ(1988年10月)。ぶんぱくの別館である旧日本銀行京都支店は、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のCH郵便社の建物のモデルでもある。

たまこラブストーリー』で印象的な場面で登場した鴨川デルタの飛び石。あの飛び石が設置されたのは1992年ごろだそうで、これの河川整備事業も記念事業のひとつだった。

 

「京の川づくり」事業は2年後に迎える平安建都1200年事業の一つ。植樹や広場づくり、水辺に飛び石を置くことなどで、住民が自然や景観に親しめるようにするのがねらい。今年度当初予算で調査費1700万円を計上した。対象となる川は京都市内を流れる43河川のうち宇治川、木津川を除く知事管理の41河川、延長約235.6キロ。鴨川改修協議会が昨年8月に「花の回廊」計画を提言した鴨川の三条-七条間の左岸約2.3キロも、事業の対象に含まれる。

朝日新聞1992年92月2日付朝刊(京都)「風情あふれる京都の川づくりに学者らの知恵」)

 

 ちなみに引用した記事中で、「宇治川、木津川を除く」とあるが、京アニ作品では宇治川や木津川も『響け!』シリーズなり『CLANNAD~AFTER STORY~』なりで登場する。

たまこラブストーリー』には京都駅も描かれていたが、京都駅の改築も1200年記念事業のひとつとして……(以下略)。

 

記念事業では岡崎公園の再整備も行われたが、改築された京都市勧業館みやこめっせ)は、京アニのファン感謝イベントが開かれているから、これもゆかりの地だ。

 

1200年記念事業から100年遡って、平安1100年の事業といえば、内国勧業博覧会および日本初の市電、その電力を賄った琵琶湖疎水による発電がある。

疎水はやはり『たまこ』で描かれている。

内国博覧会と市電については、アニメ化企画が発表されていた『二十世紀電気目録』で登場する。まあ前者については、京都で開かれた第4回ではなく大阪の第5回の博覧会なのだけど。おそらく外国の技術を見せたかったから第5回のほうにしたのだと思う。

 

第4回内国勧業博覧会 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場

 

 

さて、『ようこそ』についての感想を書いていたのではなかったのかと思った読者もいるかもしれない。私もそう思う(笑)。

自分でもなに考えてんだって話だけど、作中でコンサートホールが出てきたときに、「そういえばここ、記念事業のやつだよな」「たしかほかの京アニ作品でも記念事業関係が出てくるよな」という連想が広がってしまったんだよ。おかげで一部瞬間で集中して観れなかったというね。

 

しかしそれを差し置いてもこの作品、というか『響け!』シリーズは名作だと思う。

『ようこそ』は総集編だからというのもあって、とくに後半の密度が高い。どこのシーンがというより、連続で鳥肌立たせられる。

もちろん、映画の尺では多少駆け足になっているようなところはあるのだけれど、そこも総集編だと分かってみているので、そんなに気にならない。総集編なのだけど、それぞれの群像劇として感じられる。

ソロが誰になるかどうでもいいと言い放つあすか先輩も、先輩を思って当人以上に涙を流す優子も、ホレるところから告白してフラれるまで超特急で描かれる葉月も、脇の彩りすら強烈。

 

そしてやっぱり色が濃いのが麗奈。

こいつが主役級にトガってる。はっきり言ってしまうと、ソロパートを巡って再オーディションが行われるところまでが山場。個人的にはここが一番盛り上がる。

そこに至るまでの場面でも、愛の告白とか、「ライクじゃなくてラブ」とか、「特別になりたい」とか、何回見せ場を持って行くんだというレベル。

 

それでも主人公は久美子なのだろう。麗奈のトガり具合は際立ってるけれど、その傍で変わっていくのが久美子。語り手の立ち位置にいて、語り手自身も変わっていくという構図がいい。緊迫するようなところで、「できるだけ」とか「たぶん」とか言ってしまう久美子の息の抜け具合がまた絶妙で、このおかげで投影しやすくもなっている。

 

この2人の関係が見せつけられるのが、一番盛り上がると書いた再オーディションの場面。

あの麗奈もさ、演奏の直前に「自分が悪者になること」の不安を垣間見せるわけで、それに対して久美子が発破をかける。たった1人支持者がいると分かっているだけで、演奏するときの気持ちが全然違うんだろうね。

 

エグイのは中世古先輩と麗奈が演奏し終わって、拍手で決めるという段。

冒頭のほうで部の目標を決めたときのころとの、強烈な対比だと私は感じた。どちらも生徒の自主性に委ねるというシーンなのだ。

かたや「全国大会出場」という目標を決めた際には、重要な決定であるにもかかわらずなあなあな決め方だった。ほとんど雰囲気・空気で決まったと言っていい。どれだけの部員が本気で全国を考えていたのか。自主性の名のもとに、流れで目標が決まったのがあのシーンだった。本気になっていくのはその後の瀧先生の指導が始まって以後だ。

 

対する再オーディションの場面。ここも中世古先輩と麗奈のどちらがソロにふさわしいか、「自主性」に委ねて、部員たちの拍手の量で決定するということになっていた。

エグさを感じるのは、結局のところ優子と久美子しか拍手しないから。他の人はみんな静観する。だれも悪者になりたくない、敵を作りたくないから当然と言えば当然だ。

しかしこの〈静観〉という空気が、対比によって強調される。「全国」を決めたときの空気とはまるで別物の重々しさ。その重々しい空気を破るのがそれぞれ優子と久美子の一人だけの拍手。同じく生徒の〈自主性〉に委ねるシーンなのに、対照的すぎて、そのえげつなさに息を呑む。

 

しかも泣き崩れるのは中世古先輩のほうではなく優子のほうだからね。優子は悪者になって憎まれても構わない気持ちで先輩を推した。中世古先輩のほうは、受け入れる手続きとして、自分を納得させる儀式としてオーディションは必要だったんだろうけど、最後には自分から(つまり自主性で)退いている。

敗北の悔しさと、それを受け入れる清々しさが、同時に表現されている。

 

 

ここでの優子の涙もそうだが、久美子にしても麗奈にしても、本作で印象的なのは悔し涙だ。これは悔し涙で魅せるアニメだと感じる。

私はアニメで描かれる涙は、嬉し涙のほうが断然好きだ。泣き笑顔がグッとくる。『境界の彼方』の絵面とかすごく印象に残っている。特集上映として連続で観てるから余計に比べてしまうというのがあるけれど、『境界の彼方』が嬉し涙の映画だとするなら、『ようこそ』は悔し涙の映画だ。

同じ京アニが描く涙とはいえ、落差が激しい。『ようこそ』を観て感じる涙のダメージの大きさは、『境界の彼方』の涙の場面ともダブって重ねてしまうというのも一因かと思う。

 

 

あとは音楽にも触れておこう。

私は音楽はからっきしなのでそんなに述べるつもりはないのだが、映画館で観ると演奏シーンは鳥肌立つね。やっぱりテレビや動画配信で鑑賞するのとは音響が違うのだろうな。

主題歌はTVシリーズと同じだけど、映画用のアレンジがあるのね。エンドロールで流れて初めて知ったけど、良い曲だね。

 

さらに、書かないでおこうかと思ったけど、蛇足。

「悔しくて死ぬ」「裏切ったら殺していい」というようなセリフが出てくる。全力でその日を生きる青春、彼女たちにとってはあれが生そのものなんだろうなとビンビンに感じる。

けど、こういうセリフが出てくると事件を連想してしまってちょっと辛い。スタッフクレジットを観て悲しく思うのとは少し違って、作品の意味内容を違った風に受け取ってしまうというか。*8

 

映画 聲の形』(10/11~10/17)

10/15(火)鑑賞。4番シアター(149席)

 

この辺が特集上映の折り返し地点という感じがする。実際には18本中の8本目なのだけれど、残りのラインナップに『Free!』3本、『響け!』3本が含まれてるから、なんとなく半分以上見終わったような錯覚がある。

『ヴァイオレット』外伝映画も、当初2週間限定となっていたものがいつの間にか7週目まで決まっている。この特集上映では、ほかの映画の予告やローカルCMは流れず、映画泥棒とこの外伝の予告だけ流れるのだけれど、そろそろこの予告も見納めになるのだろうか。

 

 

ちょうどこの上映週である10/11(金)に、『聲の形』原作者・大今良時先生のチャリティー色紙が発売された。大今先生のコメントを一部抜粋。

今になってよく思い出すのは、脚本打ち合わせで京アニの皆さんが和気藹々としている風景です。 キャラデザ打ち合わせで山田さんの発言に西屋さんが控えめにツッコミを入れる場面や、「このあいだ監督の誕生日を祝ったんです」こんな話をきいたときに、ああなんてアットホームな職場なんだと思ったものです。

打ち合わせは、まるでけいおんの部活動のように、いつもお茶とお菓子と雑談がセットでした。 この環境のおかげで仲間との連携もよくとれるんだなぁと、京アニさんが繊細で一体感のあるアニメーションを作ることができるのも納得でした。

株式会社京都アニメーション支援 大今良時先生による描き下ろしイラストチャリティー色紙 発売のお知らせ - 週マガ公式サイト

 

うん、このコメントを読んでて泣いたわ。申し訳ないけど『聲の形』を最初に読んだときや観たときよりも。

 

 

聲の形』は4番シアターでの上映。隣の5番シアターでは『人間失格』が上映されていた。割と早めに行ったのだけど、フロアには待機人がけっこういて、それぞれ開場になったときのぱっと見の印象だと、若い勢が『人間失格』に、オッサン勢が『聲の形』に流れてくような感じだった(もちろん後者も若い人や女性もいたけど)。

 

観客の話ついでに。

上映後エスカレーター下りてたら、女性2人組の会話が楽し気な雰囲気で感想を話し合ってて、「観れてよかった」みたいなことも言ってて、私はその会話は断片的に耳に入れながら自分もほのかに悦に入ってたんだけど。そのなかで「さわやかな終わり方だった」という発言に妙に得心してしまった。

私はこの映画を繰り返し観ているはずなのだけど(そういえば昨年書いた「フラれた……」の記事の最後のほうで唐突に『聲の形』の話をしている)、あんまり「さわやか」という感想を持ったことがなかった。

そうか、さわやかと表現すればよいのだな。

原作との違いを一言で表すなら、これかもしれない。

 

全7巻の原作を約2時間の尺に収めているので、省略やカットされた箇所は当然多い。じゃあ、どうカットされたのかと考えると、さわやかになっていると考えるのが実は良いのかもしれない。

永束くんには助けたつもりが毒を吐かれてたし、真柴はもっとイヤミな気がしたし、イジメのシーンやケンカのときのセリフはもっと陰湿だった。原作のほうがもっと毒々しかった気がする。

 

そのイメージが強かったせいか、私は全編にわたってツライ場面、古傷を抉る描写が連続する印象を持っていた。

でも、内容的には決してそうじゃないんだよな。アップダウンはあるけれど、笑えるシーン、くすりとできるシーンはかなり挟み込まれている。ずっと重たい内容が続くわけじゃないんだよね。

ひとつ例をあげると、パンの割引券を手に入れるシーン。原作だと配られているのを受け取るだけなのだが、映画では風に吹かれてきた券を拾う描写に変更されている。その際、「スマートな理由がほしい」と思念しつつわりと必死な感じで割引券を追いかけているのが、なかなかコミカルだ。もともと割引券がスマートな理由というのもおかしみがあるのだが、それがさらに笑いやすくなっている。

 

それに先ほどの大今先生のコメントでもそうだし、オーディオコメンタリーとか聞いてもそうだけど、スタッフ自身が楽しそうに作品を作っている。

だから、私自身はこれまでそういう印象をあまり持たずに観てきていたのだけれど、改めて考えるとこの作品、もっとさわやかに観ることができるのかもしれない。

 

 

さてと、まずカレーライスの話からしようか。

今回鑑賞して最も印象に残ったのはカレーライスだった。

 

カレーライスがどこで出てくるかというと、小学校時代の教室が映されているシーン、黒板の時間割の国語のところに、実は「カレーライス」と書かれている。

 

国語の授業で「カレーライス」ってなんだよ(笑)

・・・と私はずっと思っていた。ときどき挟まれるギャグシーンのひとつだと。背景の美術スタッフが遊び心で入れたのだと(小学生がするようなアホな落書きを再現したのだと)そう思ってた。

 

違った……。

エンドロールを読んでたら、「出典」として、重松清「カレーライス」(光村図書出版 国語小学6年)って書いてあった。

カレーライスは落書きじゃなかった。ちゃんとした出典だった。

 

家帰ったあとで原作とパンフレット見て、「カレーライス」について調べた。光村図書って「みつむら」って読むんだな。初めて知ったわ。

 

この「カレーライス」という短編小説は、作中の国語の授業で音読されているものだ。植野が読み方を先生に注意され、そのあと硝子(しょうこ)が続きを読み、将也が硝子のマネをするときのシーンで読んでいる教科書。

 

このときの文章は、創作なのかと思っていた。植野が読み上げる「僕は悪くない。だから、絶対に『ごめんなさい。』は言わない」という箇所が、(その後の展開の暗示として)内容とマッチしすぎているからだ。

高校生になって再会したあとの、植野と硝子が観覧車に乗る場面や、水門橋*9で過去のイジメをめぐって衝突する場面。このときの植野がまさに謝らない態度をとる。

正確にいうなら、植野は悪いことをしたと自覚しつつ、「そうするしかなかった」「報いを受けた」という理屈をつけて謝罪を拒む。この理屈も、それはそれとして植野らしい。

しかし先の国語の授業での音読のセリフがあるために、裏を読んでしまう部分でもある。植野は本当は悪いと考えていないのではないか、とか。いや、音読が下手だったのだから本心は逆で実は…とか。

 

植野という人物が「僕は悪くない」という文章を読み上げる、ということが意味深なのである。そういう演出意図があると考えるのが自然だ。

作中劇の内容としてはキレイにハマっている。ハマりすぎている。ハマりすぎているがゆえに、この文章は映画を作るにあたっての創作なのだろうと考えていた。

 

ところが、そうではなかった。重松清「カレーライス」の一節だった。エンドロールまで読まなくても、黒板にそう書かれているにも関わらず、私はこれまでそのことに気づいていなかった。

まじか。実在の小説だったのか。

え、私の小学校の国語は光村図書じゃなかったんだけど、光村図書だった人はあのシーンで「懐かしい」的な感想を抱くわけ?

 

「カレーライス」の一節と植野のキャラクターがピッタリなだけではない。これが小学6年の国語の教科書であるというのが重要だ。

実際調べてみると、光村図書の教科書が「カレーライス」を載せるのは、おそらく2006年度版の教科書以降で、それは2015年度版のものまで続いている。ところが2020年度版の教科書では、「カレーライス」が載るのは小学5年の教科書になるようなのだ。なお、作品を読みたい場合は重松清『はじめての文学』文芸春秋に所収されているので、そちらを。

光村図書出版 平成27年度版小学校「国語」出典一覧

光村図書出版 令和2年度版小学校「国語」出典一覧

 

単に『聲の形』と内容がマッチする作品があるということではなく、それが将也たちの学年の使う教科書に載っているのが凄い。

今回、この事実に気づくことができただけでも私は小さな感動を覚える。

 

ちなみに原作ではどうなっているかというと、こちらは植野の音読のセリフが描写されていないうえ、硝子のセリフからもこれが「カレーライス」なのかは判然としない。別作品のように思われる。

読み切りで載ったときの文章から考察している人がいたが、この文章だと「カレーライス」とは別作品だ。

硝子が読んだ教科書の文章はなに?: なぞ解き・聲の形

 

  

だから「カレーライス」の文章が出てくるのは、映画オリジナルだと判断して差し支えないように思える。

ただし黒板の文字にまで注目するなら、この認識は改めるべきかもしれない。

原作だと、黒板の時間割の文字は人の陰に隠れていることが多く、はっきり読みとることができない。しかし第1巻74頁の1コマ目には「ライス」の文字だけは見える。確証にまでは至らないが、「カレーライス」だとしても矛盾はない。

・・・ということは大今先生、この時点から「カレーライス」を仕込んでたんですか。熟成仕込みですね。

 

 

 

 

 

よし、感想書こう。

今回の上映でどこが目頭に一番ダメージ来たかというと、170万円を母親に返すところだった。

 

この映画ってさ、模擬自殺が描かれてると思うんだよね。自殺のシミュレーション。

それは将也の自殺であり、硝子の自殺でもある。結果的に2人とも死なないで済むけれど、どっちも自殺未遂なんだよね。

その自殺未遂が、このたびのワタクシメにはなんか立派に見えた。

 

自殺を思い立った将也がさ、母親にお金を返そうとするわけじゃん。……というか、むしろ死ぬためにお金を貯めたわけじゃん。

すごいよね。自暴自棄の自殺とかじゃなく、死期を意識している人間の行動だよ。私にはこれができる気がしない。うん、できない。

仮にいま私が死んだら、借金(奨学金)がそのまま親に行ってしまうし。悲しいかな、死んでなお人に迷惑かけてしまう。そう考えると将也が取ろうとしていた行動っていうのは、あながち悪くないというか、立派と言ったっていいんじゃないか。

そんなことを私は考えてしまっていた。

 

これは硝子にしても同じだ。

彼女も自殺する際、周りの人間との関係を一応整えてから死のうとしている。

将也と自分の母の距離を近づけようと計らっているし、不登校の結弦と社会のつながりを作ろうと、コンテストに応募させている。将也たちの関係は空中分解したままだけど、ここだけは準備してから死のうとしたんだよね。

そういう風に観ないと彼女の行動は不可解だもんね。「自分のせいで周りが不幸になっている」という理由であるなら、水門橋でケンカした時点で自殺する理由には十分で、その後将也とデートに行ったり、ケーキを作ったり、花火を観に行く必要はないから。この期間は死ぬための準備の時間だったんだ。

 

そして死が「未遂」となることで、気づくことができた。自分の気持ちにも、自分を想って泣いてくれる人の存在にも。

 

艶やかな花火と、対照的に死に向かっていこうとする描写もすさまじいけど、そのあと2人が橋のところで再会するシーンがなんといっても出色だな。これは映画館で観た甲斐があるというもの。

 

「君に、生きるのを手伝ってほしい」

 

あのシーンは、色合いもすごく幻想的。硝子の涙がややピンクがかっていて、これがまた美しい。これまで作品の感想で、『境界の彼方』が泣き笑顔で、『ようこそ』が悔し涙が印象的だと書いたけれど、この涙は幻想的というか、えもいわれない良さ。

 

この場面は、映画の始めのほう、高校生になって最初に2人が再会したときのシーンが、映像的な伏線になっているのだろう。

2人は左右同じ位置だし、硝子がしゃがみこんだ姿勢をしていたのも同じ。場所的にも、吹き抜けになっていて橋っぽいところになっているのは相似的で、セリフの「友達になろう」というのも同じ。硝子が将也の存在に気づくのが、手すりの振動を通じてであるのも、2つのシーンで共通だ。

 

これは2つのシーンが重ね合わせになるように、意識させようとしていると思われる。最初のシーンは将也に硝子を一旦追い越させてから振り返らせている。その前の部分で、階段を下りる→追いかける、という描写をしているので、このようにしないと建物の構造的に、硝子が左、将也が右という配置を作れないのだ。逆に言うとわざわざこのような動きを指せたのは、両シーンをダブらせられるようにするためだ。

原作コミックでも硝子が左、将也が右という配置は同じだ。ただ、追い抜いてから振り向く、という描き方はされていない。映画のほうが動きを見せる描き方だし、建物の構造上も自然な気がする。

 

硝子が将也の存在に気づく瞬間も、原作だと少々分かりづらい。どちらのシーンも、将也が手すりをまず掴み、その振動が伝わることで、同じく手すりを握っていた硝子がそのことに気づく。

そうしないと硝子は耳が聞こえないし、将也が来る方に目を向けてもいないので、気づけないわけだ。

 

この、音ではなく振動で気づくというやり方は、花火のシーンで描かれていた。手話だからはっきりしないのだが、硝子が手話でなにかを話しかけ、将也が「なるほど」と応じるやり取りがあった。あれは確か、花火を振動で感じ取ることができるというやり取りだったはずだ。

この場面は手話を翻訳してくれないし、手話の動き自体見えづらいのだが、たしかそうだったと思う。

振動で気づけるということを描いておいて、そのあとのシーンにつなげているのだ。

 

高校生になって再会するシーンから、「生きるのを手伝ってほしい」と告白するまで。

この2つが重ね合わせにすることで、それまで2人が時間を共有し、考え、重ねてきた歩みを感じることができる。2人がどのように変わったかが、そしてこれから生きていくのだということが、ここに集約されている。

(『境界の彼方』のときよろしく、「事実上のプロポーズじゃねーか」と胸が熱くなったのだけれど、それはいいかな)

 

 

要所要所で、観客席から鼻をすする音が聞こえたんだけど、たしかに感極まってしまう作品だよな~。

 

 

『劇場版 Free! -Timeless Medley-絆』(10/18~10/24)

10/24(木)鑑賞。12番シアター(153席)

 

鑑賞前に丸善の書店に寄ったら、「#Pray For 京アニ」のコーナーがなくなってた。でもこのタイミングで原作を購入。『ハルヒ』とか『響け!』のまだアニメ化されてないやつ。

 

この日は雨だったし、上映週の最終日だし、総集編でもあるから『ハイスピード』のときと比べると、人は少なめだった。それでも『境界の彼方』くらいには入ってたが。

あと、たぶん最終日だったからポスターの掲出がなくなっていた。写真撮り損ねた。

 

上映前の予告が変わった。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の外伝の予告が流れていたのが、新作の「鋭意制作中」のものに変わっていた。この点は前週の予想が当たった。一応、外伝はまだ上映中ではあるのだが。

 

 

 

作品内容についてだけど、ちょっとこれは分かりづらいな。

序盤でダイジェスト回想が2連発。記憶が痛い。TVシリーズをざっくり視聴した憶えはあるんだけど、結構忘れてるし、というか全話欠かさず見たっけ。総集編だから見れば思い出すだろうと安易に考えてたが、最初のほう一気に飛ばされる。

これ、TVシリーズを観てない人にも分かりやすいつくりにはなってないよね。そう考えると同じ総集編でも『境界の彼方』とか『ようこそ』は上手かったな。もちろんこれだって、総集編しか観てない人だとミドリがいきなりサファイアと呼ばれてたりして驚いたり的な部分はあるだろうけど、それでも大筋の話は理解できるじゃん。それが『絆』だとちょっとキツイかったように思う。

 

たとえば 「水泳部に誘ってくれてありがとう」のセリフのところ。

その辺りの経緯は映画ではがっつり飛ばされてるから、背景が分からねえ。順番に特集上映を観てきた身としては、中学時代編の『ハイ☆スピード!』で水泳部に誘うくだりがあったのに、高校でもまた水泳部に入る入らないをやってたのかと思ってしまう。

バッタの人よりバスケ部の人のほうが見覚えあったんだけど、バスケどうなったんだろう。

 

枝葉の部分はともかくとして、中心人物の遙が何考えてるのかが非常に分かりにくい。もともと寡黙なうえに、途中の描写がないから余計だ。『ハイ☆スピード!』を見た後であるので、「俺はフリーしか泳がない」の印象が残っているけれど、そうでないとキャラクターが分からん。

地方大会に向けて、なにか心に抱えてるというのは演出から察せられるのだけれど、一体何に悩んでいるのか。すごいモヤモヤしながら観ている感じ。

 

地方大会の競技中に泳ぎを止めてしまったとき、プレッシャーに圧しつぶされたのだと最初は思った。

スカウトが注目してるとか、学校の誇りであるとか、将来のこととか、周囲の目線が期待や羨望ばかり。自分はただ泳ぎたい、自由(フリー)に泳ぎたいだけなのに。そういうギャップの問題なのかと思った。心技体のうち、ほかはずば抜けてるのに心は追いついていないというような。

 

オーストラリアから帰ってきて、メンバーに独白する場面で心情が明らかになるわけだけど、プレッシャーとかではなく目標の欠如からくる不安が正体だったようだね。具体的なイメージが持てていなかったのだと。

そういえばオーストラリアの唐突感もすごかった。「決まってるだろ、オーストラリアだ」って、なにが決まってんだよ(笑)。しかも「勝手に考えを押しつけて悪かった」と謝って一人スッキリしてるっておかしいよね。「勝手に」を謝るわりに、勝手にオーストラリアまで引き連れてるし。

総集編だからではなく、もともと唐突なのだろうが。。。

 

遙の心情が分かりにくかったもう一つの理由は、冒頭の伏線だろう。

郁弥が出てきて「なんで辞めたんだよ」と言ってくる夢を見るシーン。本人が「なんで今この夢を見たんだろう」的な意味深なこと言ってたら当然関係あるように思うのに。

泳ぐのを途中でやめて立ち止まってしまったという、その後の出来事とも重なってるから、なんか関係あるんだろうなと想像させるに十分すぎるほどなのに、結局郁弥関係なかった。

エピローグでちらっと出てくるだけやん。今回の内容とは関係ないのかよ、と。

 

 

 

エンドロールを眺めていての発見は、「原作」ではなく「原案」と表記されていたこと。

マジか。知らなかった。え、『ハイ☆スピード!』は原作準拠だけど、『Free!』は違うのか。そういうことなのか。

 

 

京都ヒストリカ国際映画祭(10/26~)

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京都ヒストリカ国際映画祭

 

10/5の10時少し過ぎにチケット取ろうとしたら、アクセス集中でつながらなかった。

京アニ作品のラインナップは10/26(土)13:30『涼宮ハルヒの消失』、同17:30『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ~』、10/27(日)11:00『映画けいおん!』、同16:00『たまこラブストーリー』となっていた。

聲の形』が入ってないじゃんと思った以外は、妥当なラインという気がする。これまでの京アニTVシリーズがメインという趣きが強く、映画作品の多くはTVシリーズの総集編・続編となっている。実際上記作品も、『ハルヒ』『けいおん!』『たまこ』はTVシリーズの続きと言えるし、『ようこそ』は総集編だ。

逆に言うと、TVシリーズを前提としない映画作品は思いのほか少ない。映画祭として、京アニを知ってもらうという目的で上映するとなると、選択肢は限られてくる。『けいおん!』『たまこ』は続きものとはいえ、TVシリーズを視聴していなくても楽しめる作品だから、選ばれたのも頷ける。『響け!』シリーズから1作を選ぶなら第1期の総集編である『ようこそ』か、外伝的な『リズ』だろう。

少し意外だったのが『ハルヒ』で、これの代わりに『聲の形』のほうが個人的にはしっくりくる。『ハルヒ』を低く見るわけではなく、映画単独で推すなら、という意味だ。『ハルヒ』を薦めるならTV→映画の流れだろうから。

 

ただ、もしも『けいおん!』『たまこ』『聲の形』『リズ』という作品ラインナップになっていたら、それは山田尚子監督特集になってしまう。京アニという制作会社にスポットを当てるという意味合いであれば、一人の監督に集中しないほうがよい。

このラインナップとなったのは、そんなところが理由だろうか。

 

そのうち私が観に行ったのは、『~北宇治高校へようこそ~』と『たまこラブストーリー』。『涼宮ハルヒの消失』は個人的に所要があったため、観に行ける時間帯ではなかった。

 

 

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』

なぜか観客が右寄りに偏って座席に座っていた。入口が右側にあったからか?

おかげでというか、整理番号40番台だったのに、スクリーンの正面の位置に座ってみることができた。

 

上映前にぶんぱくの森脇さんが、京アニの取材協力の際のエピソードを簡単に紹介されていた。楽器をCGじゃなく手書きの作画で書くことに驚いたと言い、『けいおん!』のギター、『響け!』の楽器、そして『ヴァイオレット』の義手と、積み重ねで進化してきている、というような話だった。

 

 

先日この作品を観たときよりもサンライズ・フェスティバルが印象的に残った気がする。思えばここが転換点だったんだな。そのあと部員同士がライバル関係となっていくことを考えると、この部員全員がまとまって笑顔で演奏というのが。ここがあるだけその後の展開がくる。

 

登場人物としては山岡ゆり(なんか役名より声優で認識してしまうから、もうそう書くわ)に目が行ってしまうな。主人公より気になってしまうのは、私の目の問題か。

麗奈にわざと負けてくれって頭を下げるシーンの前後で、山岡ゆりオーボエとユーフォの人にそれぞれ会う。オーボエの子に対しては山岡ゆりは普通に振る舞おうとし、オーボエの子も淡々と練習するだけ。一方ユーフォの子には背中に泣きつく。

この2つのシーンは、ほかの部員の目を通して見た山岡ゆりの姿、ということなのではないだろうか。

この作品の主人公は久美子であって、物語の視点はあくまで彼女が中心。ユーフォの先輩やトランペットの中世古先輩が一人で自主練したり、山岡ゆりが麗奈に頭を下げるシーンは、久美子が目撃する形で描いている。この描き方を見ると、久美子が語り手の物語だとわかる。

対して上の2つのシーンは、久美子視点ではない。久美子の視点ではないものを描写として入れている。

 

とくにユーフォの人(夏紀)の、背中に泣きついてきた山岡ゆりに対する目つき。だってこの人は山岡ゆりと違ってオーディション落ちてるんだぜ。後輩の久美子が受かったのに夏妃は落ちていて、かたや山岡ゆりはトランペット吹けるわけだから、このシーンは本来ならおかしい。落ちた夏紀の背中に受かった山岡ゆりが顔を預けているのだから。

夏紀はどんな感情で山岡ゆりを見つめてたんだろうね。当の中世古先輩より感情的になっている山岡ゆりに。違う立場にいる自分に泣きついてくる山岡ゆりに。

 

オーディションでの麗奈の演奏を前にして、目を潤ませる山岡ゆり。同じトランペットなのだから、もっと前から気づいていたはずだが、この瞬間はっきり実力差を感じたのだろう。ひいき目なしに見れば麗奈がソロを吹くべきだという事実を、はっきり自覚したのだろう。

それが分かってて、なお中世古先輩を推す。実力の差も、実力で決めるべきだという考えも当然に理解していて、だから第三者がとやかくする問題でもないこともわかっている(オーボエの子のように、介せずに自分のことに集中してればよいのだ)。

しかし自分が間違ってると半ば認識しつつも、中世古先輩を推す。推さざるをえない。

熱いな、山岡ゆり

 

 

たまこラブストーリー

 27日は富山のアニメ制作会社P.A.WORKSの堀川社長とぶんぱくの森脇さんのトークイベントもございました。地方でのアニメづくりや人材育成の話題もあり、京アニのことももちろん言及されていました。

ほんと申し訳ないんですけど、途中寝てしまったので詳しいこと書けません。ごめんなさい。

 

 

『たまこ』についていえば、ちょうどP.Aで『有頂天家族』の企画が進んでいたときに『たまこまーけっと』の発表があったそうだ。舞台がかぶっているし、京都は京アニのお膝元ということもあって、堀川社長が京アニに挨拶に行ったという。

森脇さんが『たまこ』のロケハン協力で京アニスタッフの案内をした際に、堀川社長訪問のエピソードを聞いたらしい。ゲストで堀川社長を招いたのは、こうした経緯あってのこと。そのあとの『たまこラブストーリー』の上映も、それを踏まえてか。

 

 

たまこラブストーリー』上映前の前振りでは、11/3・4に予定されている「お別れ そして志を繋ぐ式」に言及し、「志を繋ぐ」ということの意味についての解釈を述べられた。

また、上映場所として本館のフィルムシアターではなく、別館を選んだ理由として、この場所で木上監督や武本監督を招いてトークイベントを開催したことや、別館の建物の外観が(明言はされていないが)『ヴァイオレット』のCH郵便社のおそらくモデルになったことを話されていた。

 

 

さて、作品の感想。この記事の中だけでもすでに2回書いているから書かなくても良いような気もするが、一応感想記事として書き始めたのでなにかしら書いておこう。

 

爆音上映で音響上の演出について書いたけれど、やっぱり鴨川デルタのシーンはそういう造りにしているのだろうね。

たまこの回想シーンが一度入るので自動車の騒音はフェードアウトするのだが、その後もち蔵が東京の大学に行くことを伝える際には再び騒音が入ってくるし。その後は川に落ちての水音。

音以外の点でも、たまこが帰宅した後のザーザー降りの雨に、鍋を焦がし黒くなった餅、コンタクトを落としぼやけている視界。この辺りがたまこの心象を表す情景描写にもなっている。

考えてみれば銭湯のシーンで「コンタクトつけたままだ」とたまこに一人言を言わせているのは、たまこがコンタクト使用者であることの説明であったわけだ。なぜそんな説明を入れたのかと言えば、この「コンタクトを落とし視界がぼやける」という演出のためか。

 

最後の京都駅のシーンも、多くの人が行きかう雑踏の音に、新幹線の発着音に構内アナウンスの声。こうしたザワザワした騒がしさから一転、糸電話のコップの中でくぐもって聞こえるたまこの「好きだよ」の一言。

 

それ以外のとこの感想でいうと、やっぱ山岡ゆりか。昨日に引き続いての出演。

別にそんなこと考えてなかったのだけれど、山岡ゆりの声を聴きに映画祭に行ったみたいになってるな、私。

 

本作では、山岡ゆりはチョイ役で出ている。ちょい役ではなくチョイ役だ。出番は確かに少ないけれど断じてちょい役ではなくて、クライマックスの告白シーンの前にインサートして「たまこの風が吹いている」というちょっと謎な名台詞を吐く、重要な役どころだ。

というか本作で一番かわいいのって山岡ゆりだよな。インサートされるのが南の島界隈じゃなくて妹のあんこだったら、印象変わってたかもしれんな。謎の名台詞もなかったろうし。

 

ところで、個人的な都合も重なって、ここ数日連日でスクリーンに足を運ぶという状況が続いている。木曜のFree!『絆』、金曜24時の『冴えカノ』、昨日の『ようこそ』、今回の『たまこ』、その翌日はFree!『約束』の予定。木金土日月と5日連続でスクリーンに行くみたいなことになっている。

これら作品はみんな高校生主人公のものだけれど、『たまこ』に特徴的なのは大人や地域というのがよく描かれているということ。『冴えカノ』なんて親も教師も出てこないのに(いやディスってはないけど)。

 

冒頭のもち蔵のモノローグで「たぶん誰も気づいてないけど」的なこと言ってたと思うけど、むしろみんな気づいてるんだよね。誰も気づいてないと思ってるもち蔵の気づかなさがスゲーわ。親も友達も、あんこにすらバレてるぞ。

というかもち蔵さ、あんこが出てきたときに、たまこじゃなかったからって露骨にがっかりするなよ。その後もあんこと歩いてる途中で突然走り出して絶叫するって、おいおい。小学生の前で何やってんだよ(笑)。あのときのあんこの反応、大人だったよな。

たまこもたまこで、あんこに向かって連絡網回さなかったらどうなるかって訊いちゃうし。いや、訊くなよ(笑)。黒電話(!)なんだから何考えてるかモロバレだぞ。あんこはきっとそんな姉を見ながら、口出しせず見守ることにしたんだろうな。

結局、作戦どおりにはならなかったけど。*10

 

物わかりいいのはあんこだけじゃなく、かんなも意外とそうなんだよな(当事者2人が一番ニブイというあれか)

教室で1人のみどりにかんなが会った場面、指でフレームを作って、「いい顔してる」と言う、この励まし方がキマってる。同様のポーズを作るのが前のシーンに登場していて、そこでは明るくふるまってるみどりをじっと覗いてただけだった。みどりがもち蔵に向かって「見直した」と声を掛けたあとのシーンで、自分が背中を押してしまっただけに複雑な気持ちでいたのだろう。

かんなはそのことに気づいている。少なくともみどりの顔つきの変化に彼女は気づいていて、それで「いい顔してる」と言葉をかけたのだ。走っていくたまこを目撃し、みどりがそれをけしかけたことを聞いたのだから、その気持ちも察していたとしてもおかしくはない。みどりは「ありがと」と答え、かんなは自分も一皮むけるために木登りする。2人で走るカットが青春っぽい。

 

もち蔵とたまこが互いに気を寄せていることは、「たぶん誰も気づいてないけど」のモノローグとは裏腹にみんなにバレていた。みんな陰ながら(ときに表立って)応援していた。

むしろ「誰も気づいてない」が当てはまるのはみどりのほうだった。もち蔵にひそかに想いを寄せ、しかしたまことの関係を後押しするのだった。バレバレな2人とは違って、こっちの感情に気づいている人はいない。

その密かな感情に唯一気づいてくれた(かもしれない)人物がかんななのだ。もしかしたらかんなはそこまで気づかずあのセリフを言ったのかもしれないが、とにかくそれでみどりは元気を得た。

だから同じ励ましを受けた後でも笑顔の輝きが違った。「自己嫌悪」のとこでたまこに励まされたときはやや陰みを帯びる感じだったのに、かんなのときは屈託なく笑えたのだ。

 

この映画の登場人物の構図はだから、中心2人が互いに好いているのに鈍感で、周りの人物はみんなそれに気づいてて応援し、しかしその中でひとり心を焦がしているみどりがいて、それを慰めてやれるのがかんなくらいしかいなかった、という恰好になる。

初見で鑑賞したときはもち蔵とたまこの2人を主に見てしまったのだけれど、脇の存在が実に愛らしいのだ。繰り返し観ても楽しめるのはそのためだろう。

 

 

ノベライズが読みたいから公式ショップの在庫が復活するのを待ってるのだけれど、相変わらず動きがない。もう再入荷しないのか?

 

 

ついでのついでに。

昨日今日と連続で観て、その前に『冴えカノ』を挟んだせいかもしれないが、京アニの描写ってエロいよな。いや、エロくないんだけど、エロい。

デートもキスシーンも手をつなぐ場面も出てこないんだけど、表情や仕草の描き方にエロスがある。『冴えカノ』が状況やシチュエーション的にエロいのだとしたら、こっちは表情や仕草として魅せる。入浴シーンとかの話ではない。エロという語義対象からズレてるかもしれないが、萌えとか尊いではないし、エモいとも違う気がする。

たとえばなんだろ、自己嫌悪を口にするときのみどりの表情とか? 微妙に歯が見えるくらいの口元の動きで、艶めかしさ的なものを感じてしまったりしたのだが。

うわ、なんか自分でもなに書いてるか分かんねーな。今のなし。

 

 

『劇場版 Free! -Timeless Medley-約束』(10/25~10/31)

10/28(月)鑑賞。7番シアター(142席)

観客は前回の『絆』と同じくらいかな。

 

なるほど、そういうことだったのか。

『絆』では岩鳶サイドから、『約束』では鮫柄サイドから描いているってことね。たしかに『絆』の後の時系列に突入したらTV3期に入ってまうもんね。

これはしかし1期の総集編がほしかったな。微妙にだけ見た記憶が残ってるから、モヤモヤが募る。「去年の地方大会で」というようなセリフが出てくるたび、「なんかあったな、なんだっけ?」と引っかかってしまう。あまりよくない。

 

継続のシリーズであることを考えればこれで良いのかもしれないが、単体として楽しむにはちょっとハードルがある。

たまこラブストーリー』ってよくできてるよな。TVシリーズ(『たまこまーけっと』)をほぼ憶えてないにもかかわらず、単体で十分に楽しめる。『Free!』と『中二病』の総集編は、他の作品よりとっつきにくい。もちろん、『たまこラブストーリー』にしても『境界の彼方 過去篇』にしても分からない部分は出てくるのだけれど、それは主に山岡ゆりの部分だから「ま、いっか」と済ませられる。いや、山岡ゆり妖夢だったという驚きは未だに残ってるけど。

Free!』も『中二病』もダイジェストで巻きが入って、ストーリーの背景が飛ばされてしまったように感じちゃうんだよな。今回の『約束』はダイジェストが冒頭にあって、セリフ・ナレーションはなしなのだけれど、これが結構長く感じられる。『ハイスピード』や前週の『絆』を見ていただけまだマシではあったが、やはり自らの記憶のなさを自覚してしまう。このダイジェスト映像のあとにOPもしっかり挿入されるから、そこまでが長い。

 

いまのところ山岡ゆりが出てればハズレがない法則が続いてるから、来週は期待しよう。

 

 

内容もう少し書いておくと、『絆』より今回の『約束』のほうが入り込みやすいとは感じた。宗介が闇抱えてるのがすぐわかって、凛と宗介の2人を軸に話が展開されていくというのがすぐ呑み込める。『絆』だと遙が何考えてるのか読み取りにくかったけれど、『約束』は凛と宗介の間に考え方の相違、衝突があって、そこに着目すればいいというのがすぐ伝わる。

リレーにこだわる理由というのを描いてくれたのもよかった。これは『ハイスピード』にも『絆』にもともに関わるテーマであって、『ハイスピード』の感想のところで書いたように、リレーでチームワークが強調される意味がいまいちピンと来てなかったので、そういう意味では最初に宗介がリレーに対して感じていたことに共感しやすかった。

 

『絆』と比べて練習風景がちゃんと描かれているようにも感じた。目標があって、そのために努力して、チームメイトが励ましてくれるという構図が、なんだかんだ良い。部活を描いたアニメであれば、こうした風景はそれほど珍しいものではないだろうが、そういう描写が『絆』だとダイジェスト、カットされがちだったのではなかろうか。

 

で、最後はやっぱ郁弥なんだね。前週に引き続いて。どんなけ期待させんねん。

 

 

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』(11/1~11/7)

11月5日(火)鑑賞。5番シアター(142席)

ずーっと19時から上映だったのに、19:05からの上映に変わったぞ。なにが起きた。

 

11月に突入し、いくつか動き。

延期されていた京阪と『響け!』のコラボ企画が11月から開始。「京阪電車×響け!ユーフォニアム2019」

11/3・4の両日には「お別れ そして志を繋ぐ式」が開催。11/4の朝はNHKにて『バジャのスタジオ』がTV初放送された。これにタイミングを合わせてか、「バジャのスタジオ Blu-ray」の再販予約も開始された。

 

京都府義援金受付は10月いっぱいで終了。

ただしMOVIX京都では12月末まで受け付けているようだ。義援金配分委員会のスキームとは別になるのだろうか。

2019年11月1日

株式会社京都アニメーションご支援のお礼とご案内

この度、京都アニメーションで発生した放火事件に関し、

お亡くなりになられた皆様のご冥福を心よりお祈りしますとともに、

ご遺族の皆様にお悔やみ申し上げます。

また、負傷された皆様の一日も早い回復を祈念申し上げます。

 

(株)松竹マルチプレックスシアターズでは、今回被害にあわれた方々の支援を目的に

8月2日(金)より順次各劇場にて募金の受付を行っておりましたが、10月末日をもって受付を終了致しました。

皆様の温かいご支援・ご協力に感謝申し上げるとともに、これからも京都アニメーションの再建を応援して参ります。

 

※МОVIX京都のみ12月末日までと致します。

 

令和元年11月

株式会社松竹マルチプレックスシアターズ

株式会社京都アニメーションご支援のお礼とご案内 | MOVIX京都

 

 

それから、アニメイトKAエスマ文庫*11を見かけた。メロンブックスでは以前から取り扱っていたんだけど、アニメイトでは初めて見た。京アニの特設コーナーが設けられているからそれでかもしれない。『聲の形』のチャリティー色紙を購入したときにはKAエスマ文庫は置いてなかった。

一通り置いてくれているみたいだったが、『境界の彼方』は第2巻だけだし、『たまこ』も置いてないし。変な品揃えだなと思ったら、公式通販ショップの在庫状況と同じことに気づいた。はやく在庫復活してほしい。『中二病』は第4巻だけあったんだけど*12

『響け』シリーズの原作(宝島社文庫)もあったんだけど、こちらも第3巻がない。『波乱の第二楽章』と『決意の最終楽章』はすでに購入していたので1~2巻を買ったのだけれど、考えてみれば今回鑑賞した『届けたいメロディ』の内容は第3巻だよな。*13

 

 

映画の『届けたいメロディ』は未鑑賞だが、献血に行った記憶はある。

これだ。その名も「響け!献血!」

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まあ、どこかでやってた献血広告の騒動は引き合いには出さないけれど。

京アニは京都の赤十字とは繰り返しタイアップしてるし(個人的な話だけど、『誓いのフィナーレ』のときのキャンペーンは数値が足りなくてできなかった)赤十字社に寄付も行ったりしている。

 

京都アニメーション様には、献血キャンペーンで大変お世話になっております。
この度の放火殺人事件は、あまりに痛ましく凄惨さに言葉を失います。
お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りいたしますとともに、ご遺族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。
負傷された方々にお見舞いを申し上げるとともに、一日も早い回復をお祈り申し上げます。

京都アニメーション様へ|新着ニュース・プレスリリース・イベント|京都府赤十字血液センター|日本赤十字社

 

 

 

話が脇道にズレたので元に戻す。

 

今回の『届けたいメロディ』も観客席は満杯近かった。前も書いたけど、『Free!』とは性・年齢層が違うんだなとまた感じた。

上映終了後、明転してちょっと遅れて拍手の手が上がる。つられるように拍手が広がって私も拍手したけど、なんとなく気持ちわかる。拍手したいけど、ちょっとためらっちゃう感じだよね、たぶん。

 

このシリーズだとしかも、演奏シーンが作中に出てくるわけじゃん? むしろその演奏終わりで拍手したくなるよね。当然ながら映画の上映中だからそれは控えるのだけど。

上映後は圧倒された感覚に浸っていて、思わずため息を吐いていた。上映中なんども体震えたし、TVよりスクリーンで観たいと今さらのように思う。

アニメ作品であるから、演奏中のシーンはその表情であったり、目や口元が大映しになったり、あるいは演奏していない裏での部員たちの様子のカットが挿入されたりする。滝先生が指揮を振るうときの、空気の音さえ聞こえる。

現物の吹奏楽の演奏を聞くより感動している自信がある(それでいいのだろうか)

 

というかこれで銅賞と言われても、今後よりレベルの高いの聴いても識別できる気がしないんですけど。

 

 

ストーリー的にも圧倒してくるよね。前回の『北宇治高校吹奏楽部へようこそ』(例によって『ようこそ』と略す)の内容を引き継ぎつつ塗り替えてくるような内容だと感じた。

今回はあすか先輩を主軸に話が動いていく。

『ようこそ』ではそれほど多くはあすか先輩は描写されてなかったような気がするんだけど、それでもしっかり印象に残っているキャラクターで。

トランペットのソロを誰が吹くかを「どうでもいい」と言い放ったのがこのあすか先輩だった。このセリフが入ることで、オーディションに対する部員の距離感・立ち位置が多層的であるのがわかりやくなっていた(拍手したのは久美子と優子(あ、山岡ゆりね)の2人だけだったということを上で書いた)。

 

このときのあすか先輩は、強烈な印象を残しつつも、脇役としての華だった。

それが今回の『届けたいメロディ』では生い立ちも含めてクローズアップしていく。「どうでもいい」と言い放ったのはなぜかというのが、より人物性として見えてくる。

 

前回『ようこそ』における中心テーマは「特別になりたい」だったが、今回の『届けたいメロディ』で描かれるのはむしろ「特別」の裏側、代償の部分だ。

部活を一生懸命やって上手くなるというだけなら単純だ。実際には部活に打ち込むことによって犠牲にしているものがある。そのトレードオフの問題を現前に持ってくる。

 

心が痛い。私もアニメ見てる時間減らして、ほかのことに労力を割くべきだと考えてしまうから痛い。

 

前回は主人公より主人公してた麗奈は、今回は影が抑え気味。代わって存在感大きいのが親とか姉なのである。そして大人の現実というヤツを目の前に差し出してくる。まるで前回のストーリーを「こどもっぽい」とでも言ってきているかのようでエグい。最終的には久美子が「大人ぶるな」とぶちかますわけであるが。

 

あすか先輩の問題に対して、周りの人間が直接の手助けができないという構図がまた、前回の『ようこそ』とは対照的だ。

いやもちろん前回のオーディションの一件だって、個人の実力に過ぎない話ではあるのだけれど、しかし先輩のために涙を流すほど感情的になってなんとかしようとする優子(山岡ゆり)が印象的だった。香織先輩や(オーディションそのものに落ちた)夏紀先輩の胸中の描写は間接的だったが、それは自分のレベルに自覚的でもあるからだろう。

今回のあすか先輩はそうではない。実力があって、部員みんながそれを認めている。しかし演奏の実力とは関係ないところで問題があって、阻まれるのである。

それに対して他の部員ができることというのは何もない。毎日メールを送るくらいしかできない。仲間のために奔走して、友情の力でどうにかなる、なんて話ではないのだ。

 

滝先生も平常運転である。生徒の自主性に任せるという方針のもと、熱血教師よろしく何かをなすなんてことはない。教育としてはこのほうが厳しい。決断をすべて生徒個人に委ね、その選択の責任は自分で背負えということである。

あすか先輩もそのことをわきまえていて、はじめから頼ろうとはしていない。「誰にも迷惑かけないから」と口癖のように言う。

頼ろうとしない、迷惑をかけないというのは「大人な」態度のようであるけれど、その実「どうせ他人がどうこうできる問題じゃない」という冷めた認識が彼女にあることの表れでもあるのではないか。

こう考えると、前回のトランペットソロを巡る一件をこの人はどう見てたのか想像すると空恐ろしいところがあるよね。とくに他人のために奮闘する山岡ゆりに対して。「どうでもいい」ってセリフが出るわけだわ。

 

最終的なケリの付け方も、マッチョなものだった。

模試で30位以内を取って、それを盾に親と交渉するというものだ。ごりごりに取引、ネゴシエーションで解決。

久美子の姉のほうも、「家を出ていく」で決着がついている。美容師学校の学費って全然安くはないし、生活費も自分で出すって結構な覚悟いるだろう。大学より忙しいだろうからバイトも大変なはず。それでも家を出て、自分の選んだ道を歩もうとする。

さすがスポ根アニメと感じないでもなかった。

 

でもこれこそが、この作品で描かれる青春の情熱なのだと理解できる。

あすか先輩と母親の関係が上手く行って、部活を認めてもらう、とはならない。

久美子の姉が父親と和解して、双方折り合いをつける、とはならない。

そんななあなあ(・・・・)な解決は選ばない。

 

選択には犠牲や大きなコストが伴う。しかしそんな犠牲を払ってでも、自分の道を歩む。好きなことのためなら代償を払える。自分の力でなんとかしてみせる。そういう決断がここでは描かれている。

もちろん、どうするのが「大人」な選択肢かなんてのは本人はわかっている。久美子姉はこれまでの人生がその「大人」な選択だったし、あすか先輩は「大人」に部活から身を引こうとしていた。

なにが正しいとかふさわしいとかじゃなく、犠牲を払ってでも我を貫く。そういう青春劇。

 

 

ちなみに今の私も、毎週京アニ上映を観に行ってこうして感想を書くのにエネルギーを費やしていて、その分なにかが犠牲になっている。「就活やれよ」と言われたらお茶を濁すしかない。

でも、いま京アニ観に行かなかったら後悔するから、きっと。私もそういう決断をしているのだ。

なんか自分に引きつけて話そうとすると、話のレベルが。。。

 

 

戻る。

忘れちゃいけないのが、主人公は久美子ということだ。あすか先輩や姉を巡るエピソードは久美子の目を通したものだ。

 

では、久美子自身はどう変わったか。

 

ユーフォニアムが好きかと問われて「いざ訊かれると、怖気づく」だったのが、大好きと言えるまでになっていた。

大きな変化だ。

「好き」という言葉は呪縛の言葉でもある。自分自身を縛る。好きか嫌いかなんて感情は、ただの趣味嗜好に過ぎないのだから、本来「好き」と表明することは難しくもなんともないはずだ。なのに、言えない。

 

なぜ最初は素直に好きと言えなかったか。(そもそも吹奏楽部に入るかも怪しかったし、楽器選びもユーフォ以外の楽器を考えていたくらいだ。)

理由は複合的だろうし、自信の有無という側面もあっただろう。

だが、上記で書いたようなストーリーの文脈に照らせば、「好き」と述べることが大きな決断であるからだ、と考えることができよう。

なにかを選ぶということは、なにかを捨てることでもある。とくに将来のことを気になりだすとなおさらだ。ユーフォニアムを好きだと述べることは、代わりのなにかを犠牲にすることでもあると、薄々感じている。自分にとってユーフォニアムは、そこまでの存在なのかと。

 

そういうトレードオフの苦悩を、姉やあすか先輩の問題としてまざまざと目撃したうえで(目撃したからこそ)、最終的には「好き」と言えるようになるのだ。

久美子が決断した瞬間だ。

 

そして映画のクラマックスで「響けユーフォニアム」という曲名が明らかになる。

 

あー、やっときた。ここでタイトルに回帰。なぜユーフォニアムが、ユーフォニアムを吹く久美子が物語の主人公なのかが、ようやく示される。

前回までの話は前菜でした、と。たしかに『ようこそ』って副題だもんな。

俺たたエンド的に、ここで完結でも十分なんだけどな。

 

でも「次の曲が始まるのです」と続くのだ。

 

 

特別版 Free!-Take Your Marks-』(11/8~11/14)

11/8(金)鑑賞。1番シアター(149席)

上映開始時間が20:00からと、さらに後ずれしている。毎日19時はスケジュール組みづらいだろうか。

 

私は鑑賞後にしばし余韻に浸っていたいタイプなので、同じ日に2度映画観るのは極力避けているのだけれど、この日は『Free!』の前に『リゼロ』を観たのだった。

この週は『届けたいメロディ』『リゼロ』『Free!』という流れとなってしまったのだが、『リゼロ』の観客層がすごく若く感じるね。若いカップルだとか、一人で観に来てる女子高生だとか……それを思うと京アニ作品は年齢層が幅広いな。特集上映ということもあるんだろうが。

 

特集上映では通常の予告編宣伝が流れなくて、映画泥棒と『ヴァイオレット』の予告があるのみだということをすでに書いたはずだけれど、この日はもう一つ追加があった。2020年3月にドルビーシネマがオープンするという宣伝。

気のせいだろうか、『リゼロ』の上映前にはこの宣伝を観なかった気がするのだけれど。ま、気のせいだろうな。

 

 

今回の作品は『特別版』とタイトルについているのだけれど、正直なところその辺意識してなかった。

アバンの段階で察した。時系列的にはTV2期と3期の間のエピソードってことね。アバンまでの映像と、「特別版」「Take Your Marks」の言葉から理解できたわ。アバンの段階でここまで把握できたのは、むしろ幸先良いほうだ。『絆』『約束』を観たときは1期があんな風にダイジェストされると知らなかったし、じゃあ2作品分あるのはどういうことだってなってたからな。

でもOP後に「#01」って出てきて、またしても「どういうことだ」ってなったけど。

 

TVサイズの話を4話分やるという構成なのね。なるほど、そうきたか。

#04が一番面白かった。実際笑ってしまうほどで、館内だから一応堪えたんだけど、私以外にも笑い声漏れてる人いたし、私も漏れ聞こえるくらいの声では笑ってしまった。

ブコメの道具仕立てが揃ってて、伝言ゲーム式のすれ違い拡大ギャグよね。桃栗三年柿八年というワードがこんな笑えるワードになるとは。。。

 

ただ、他のエピソードがどうだったかというと、登場人物勢揃いのサービス回的な意味合いがやっぱ強いよね。もちろんそれで満喫できる人もいるとは思うけど、私はTVシリーズが消化不良なとこあるからな。

 

でも『Free!』シリーズの特徴がなんとなく分かった気がする。映画には向いてないんじゃね? 4話分をまとめた形になってるのも、この辺の事情ではないかと勘繰る。

キャラクターが多いんだよね。それぞれのキャラを登場させて見せ場作ろうとすると、話の筋が拡散してしまう。群像劇として、TVシリーズのように話数をかけてやれるなら良いのかもしれないが、映画単品でまとめるのは窮屈になるところがある。

今回のように「4話分をまとめて上映します」の形であれば、それぞれのエピソードが多少バラバラでもそれほど気にならなくなる。もしこれを1本の映画として、岩鳶高校を出し、鮫柄学園を出し、中学時代の友人やスイミングクラブを出し、旅行にも行かせて……とまとめるのはなかなかに詰め込み感が強い。

前回の総集編でも『絆』『約束』と岩鳶、鮫柄両サイドからそれぞれ描くという形をとっていた。

 

高校部活青春ものという点では『響け!』シリーズと同じはずなのに、描き方が全然違うのはこういうところか。

『響け!』も群像劇のところはあるけれど、フォーカスする人物を絞り、筋を分かりやすくできている。それに、基本的に久美子視点で進むから、観客として観る場合も視座を安定しやすい。部員の数で言えば北宇治高校のほうが多いはずだけれど、『Free!』シリーズのようには拡散していかない。そんな印象を受ける。

 

まあ、TVシリーズが記憶の彼方にある私が言うのもなんだけど、『Free!』という作品はTVシリーズで話数をかけて描くほうがタイプに合ってるんじゃなかろうか。

マジメな話、主人公が誰って言いにくいよね。エンドロールのキャストの順番がこういう並びだから、っていう先入観を捨てれば。最低ダブル主人公。

 

 

「特別版」ゆえのところもあるだろうが、遭遇すれど接触はせず、みたいな部分が多かった印象がある。あくまで番外編の位置づけだから、接触させてしまうと本編ストーリーに影響してしまう。そんな事情もあろう。

けど、そういう描き方としてはむしろ上手いという感じだ。登場人物同士が遭遇はしていないのに、観客の側にだけつながりを想像させる。この作品に思い入れが深かったら満喫できるところだろう。

バスケ部くんに関しては便利キャラ化してね?と感じないではないが。。。

 

 

『特別版』の(引っ掻き回し役として)主役は百太郎だったな。

4つのエピソードで良かったのは、4話目のラブコメと、2話目のお守りのところ。どっちも百太郎が引き立て役・盛り上げ役。

凛と宗介でシリアスな話に持って行くのかと思いきや、寝言で邪魔してくるし。

『約束』のときは寝たふりして実は似鳥の言葉をしっかり聞いてたという描写があったけれど、今回はそういうんじゃなく道化役だよな。どんなけカピバラ好きなんだよ。

でも宗介に贈るお守りとしては、「障害治癒」ではなく「必勝」を選ぶ。

 

こういうところがあるからいい。こういうとこがないとただ騒がしいだけのキャラだ。うん。

 

今回もまたお約束のように郁弥が登場。

中学生編から始まって、『絆』『約束』でも意味深に出てきて。引っ張りまくりだろ、おい。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』

11/14(木)鑑賞。9番シアター(87席)

 

この間もいろいろ動きがあった。青葉容疑者の事情聴取があったり、義援金配分委員会第1回会合があったり。ここでは書かないでおくか。

 

『誓いのフィナーレ』のパッケージ発売日も決定になったようだ。これまではコメンタリーが音声特典につくのが通例だったが、今回はつかないのかな。事件があった後だし。

京アニ公式HPのスタッフブログ「アニメバカ一代」も事件後から更新が途絶え、ついに「準備中」と変わってしまった。

 

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の新作映画も公開時期が決定した。

 

私、毎週のように京アニ作品を観に行っていて、HPも定期的に覗きに行ってるのに、この情報を知ったのは新聞のベタ記事でだった。ツイッターをフォローしてないからな。

予告編はまだ「鋭意制作中」のまま変わっていなかった。

 

その『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だが、9/6から公開していた『外伝』がついにMOVIX京都での上映の最終日を迎えた。もともと2週間限定と銘打っていたものが、10週におよぶ上映になっていた。

最終上映ということで、見納めに参る。

・・・と思ったら、出町座では12/21より上映するらしいね。年明けとかに行こうかな。*14

 

22:05開始のレイトショー。

私と同じく最終日だからと来た人も多かったのかもしれない。座席数が一番少ないとことはいえ、前2列を除けばおおむね埋まっているくらいの客入り。

 

初日初回、レイトショー、舞台挨拶と行ってきたから、都合4度目となる。

時間をおいたのが良かったか。今回のほうが楽しめた気がする。公開直後は落ち着いていなかったというか、こうして毎週通っているうちに、全開で楽しめるようになってきたというところ。

 

 

それにしても画が綺麗だよな~。

いや、だって、承知のとおりこうしてほとんど毎週のペースで京アニ劇場作品を観てきたわけだぜ。それらの作品たちももちろん作画のレベルは高いわけじゃん。なのになんだ、この『ヴァイオレット』という作品は。こんな凄かったのか。

というか、おかしいよな。印象的なシーンだけ美しく描くというのでなく、全般的にだよね。個々のカット、部分的な作画ということではなく、CG、撮影処理、色彩、そういうのが全部相俟って画面を構成してる気がする。

煙とか光とかガラスの反射とかに「おお」と思ってしまう。

あのメタリックの義手で髪を三つ編みにするって、ようやるよな。TVシリーズのときにあったような、義手で闘うようなシーンよりも、こういうカットのほうが私は好き。京アニっぽくない? 私は門外漢だから何もわからんけど、繊細な日常芝居を違和感なく描くって大変だよな。コミカルな誇張表現でのゴマカシが利かないし、一方で見慣れた日常の場面だから感動してもらえるような場面ではないのに、作画カロリーは高そう。

ヴァイオレットの場合は、それを義手で描かなアカンという……

 

 

ヴァイオレットという少女(推定14歳だぜ?)は、タイプライターをむしろ常人以上に器用に使いこなす。彼女に難があるのは感情表現のほう。作中ではそのように描かれてきた。

自分の手ではない義手を意のままに動かすって簡単ではないような気がするのだけれど。それとも義手のテクノロジーがめっちゃ発達しとるんかな。

ともかくとして、京アニのスタッフにとっても、義手を動かすのってめちゃ大変なんじゃなかろうか。

 

 

なにを今さらな感想を綴ってしまったので、ついでに今さらな発見を書いておこう。

いや、4度目にして気づくってすげー遅え話なんだけど。

このエイミー(イザベラ・ヨーク)とテイラーの2人の話って、「魔法の言葉」に助けられてたのって、ずっとエイミーのほうだよね。

 

なんで勘違いしてたのかというと、手紙そのものは内容が逆だからだ。

TV版の『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』では、手紙の持つメッセージをシンプルに受けとればよいシナリオになっていたように思う。ヴァイオレットが上手く手紙を書けなかったり、気持ち・感情を理解できなかったり、という要素はあった。

しかし視聴者としては、手紙の文章はその書かれた意味通りに解せば済むものだった。そこに捻じれたメッセージはなかったと言っていい。TV版第2話での「裏腹」のようなこと、素直に気持ちを表現できないようなことは、手紙の外側、手紙を書くまでの出来事として描かれていたはずだ。

 

劇場版『外伝』は違う。手紙の内側にある「裏腹」だ。TV版で描かれてきた手紙とは毛色が異なっている。

 

原作小説の『外伝』と劇場版『外伝』を比べるとその点は一層明瞭になる。今回の4度目の鑑賞でようやく気づいたのに、「明瞭になる」とは気の引ける言い方だが。

原作版と劇場版は、ストーリーの大筋を共有してはいる。原作版ではほとんど書かれていないテイラーのエピソードが、劇場版では後半パートとして描かれているのは大きな違いだが、話の道筋としては変わっていない。

 

にもかかわらずというか、エイミー(イザベラ・ヨーク)の印象はだいぶ異なっている。

映画版のほうが、暗い影を大きく落としている。原作版のヴァイオレットとの会話では、冗談を言ったり、からかったりがもっと多くで、映画版より快活な印象を受ける。苦しみを感じさせてしまう描写が、映画のほうがおそらく多い。

 

ヴァイオレットがホッジンズ社長から郵便を受け取るシーンも対照的だ。送付状に記してあったベネディクトの落書き。それを見たときのエイミーの反応は、原作版ではこうなっている。

――そうか、外にそういう人がいるのか。

 今までの僕だったら、きっと嫉妬で頭がいっぱいになってた。

 でも三ヶ月経って、彼女という人を知って、彼女を通して自分を知って。僕という人間は少しだけ価値観が変わっていた。

 あまり表情の変化は無いけれど、嬉しそうで僕も嬉しい。勿論寂しさもあるけれど。

(原作86頁)

映画版はおそらくこうではない。はっきりと表情に出してはいないけれど、瞬間に瞳が揺れる描写が入っている。自分とは違って、学園の外に気を配ってくれる人がヴァイオレットには存在していることに気づいて、嫉妬している。

 

「アシュリーと呼んでくださる?」のミス・ランカスターとのやり取りはアニメオリジナルで挿入されている。ところが映画後半、4年後の時点にはとくに登場してこない。

ヴァイオレットとの手紙のやり取りも、結局しばらくして途絶えてしまう。少なくとも原作版では、手紙の交換は「いつまでも続いている」と記述されている。

 

映画版のエイミーのほうが境遇がつらいものになっているのだ。貴族・家系に縛られるという運命が重いものになっている。アシュリーさんやヴァイオレットとのやり取りだけでは、それを軽減しきれていない。

 

そして「魔法の言葉」だ。ここの違いが大きい。勇気を出すときの言葉、寂しくなったときに唱える名前。その点はもちろん変わらない。

だが、実際に「魔法の言葉」を唱えるのはだれか。ここが異なっている。

 

「魔法の言葉」は、エイミーがテイラーに対して授けた言葉だ。だから普通はテイラーが唱えるものと思う。

ところが実際にはそうなっていない。「魔法の言葉」に勇気づけられているのは、エイミーのほうなのだ。

エイミーが学園での生活に挫けてしゃがみ込み、「テイラー」と呟く場面がある。寝込んだ後にヴァイオレットをテイラーと呼んでしまう場面がある。原作版にはない描写だ。

逆にテイラーが「エイミー」を唱える描写が原作にはある。こちらは映画版にはない。考えてみればテイラーはずっと「ねぇね」と口にしているので、回想シーンも含めて「エイミー」とは呼んでないのだ。

4年後成長してテイラーがCH郵便社を訪れたときも原作版とは異なり、「エイミー」とは唱えない。

 

そうなのだ。テイラーのほうはエイミーの存在をそれほど必要としていない。そもそもエイミーのことはうっすらとしか憶えていない。

郵便社を訪れたのはポストマンになりたかったからだ。ベネディクトに憧れたからだ。根本の動機には当然エイミーからの手紙があるけれど、とはいえすでに前を向いて歩こうとしており、孤児院を抜け出し、船で海を渡るくらいの行動力を持っている。

 

「魔法の言葉」は手紙を介してエイミーからテイラーに贈られた。しかし映画版ではこれはむしろ、贈った側のエイミーが救われているのだ。言葉を贈ることによって、相手のことを想い、それによって自分自身が勇気づけられる。

映画のラスト、エイミーが湖畔に向かって「テイラー」と叫ぶ。作中最も大きな声で清々しく。

つらいとき、寂しいときに思わず呟いていた言葉。テイラーのためにした選択だったのだと思い出すことで、奮い立たせる言葉。それが実際にテイラーから手紙が返ってきたことによって、もっと前向きなものに変わっている。幸せを願ってか、感謝を込めてか。

 

映画版はこのように、「魔法の言葉」を贈られた側ではなく、贈った側が元気づけられている。原作版はこうはなっていないし、手紙の内容とも逆向きだから見過ごしてしまっていた。

しかもこの構図はTV版を踏まえてのものとなっている。

 

エイミーが過去話を打ち明けたときに、ヴァイオレットは自分と境遇が似ていると言った。ここも原作版にはない箇所だ。

同時にヴァイオレットは気づいていたはずだ。今は会えない人に書く手紙であっても、そこに希望があることに。

まさにヴァイオレットとギルベルトとの関係と同じだから。航空祭のとき、ギルベルト少佐に対して手紙をしたためたヴァイオレットであれば、エイミーがテイラーに対して手紙を贈るということの意味をきっと想像できただろう。

やはりTV版での航空祭のエピソードは、原作とは内容が改変されている。原作版のままではこの構図は成り立たない。TV版をオリジナルの展開にして、そのうえで『外伝』のエピソードにもオリジナルを加えることで、この構図を成り立たせている。

ヴァイオレットからギルベルトへの手紙。エイミーからテイラーへの手紙。両者が二重写しになっている。ヴァイオレットは自分自身が経験しているからこそ、エイミーのことをより理解できるようになっている。

 

原作版ではギルベルトは生きており、TV版では亡くなったことになっている。どちらの展開を好むかは人によって分かれそうな気もする。しかしこの改変があることで、TV版と劇場版『外伝』がつながる形になっている。

私は正直原作版のほうが好みだったのだが、こうして劇場版を観た後だと、TV版の展開がより一層輝く。

 

 

 

今回の劇場版『外伝』の鑑賞で、ようやくそこに気づけた、ということになるかな。

来年公開の新作映画の前にもう一度アニメと原作とを読み返しておきたいな。原作のラストの道はもう取れないだろうから、どう完結させるのか。

KAエスマ文庫原作の場合は、自社レーベルということもあってか、かなりオリジナルを加えてくるので、そこが楽しみでもある。『Free!』の場合は「原案」となっていたのは知らなんだけど。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の場合も、アイリス、エリカ、ルクリア、ローランドがオリジナルとして出てくる一方で、ラックスは出てこない。先述したようにギルベルトは生きているし。

ベネディクト、カトレア、ヴァイオレットの絡み合いも、原作ほどじゃない。ベネディクトは戦闘狂の元傭兵で、妹がいて、ヴァイオレットを妹分として「ヴィー」と愛称で呼ぶ。カトレアはアニメ版だと踊り子だったと話しているが、原作を読むと拳闘士となっていたし、ベネディクトとも……。

 

まあ、これまで出てきてない原作設定を新作でいきなり登場させはしないだろうから、完全オリジナルという形になるのだろうね。

 


『映画 中二病でも恋がしたい!-Take On Me-』(11/15~11/21)

11/18(月)鑑賞。 6番シアター(138席)

 

18日で例の事件から4か月となる。

京都新聞ではこれを節目に全6回の特集記事が連載されるようだ。内容は事件を機に加熱したマスコミ報道を内省するもの。この時点ではまだ完結していないので書き控えるが、なかなか面白そうだ。面白いという言葉を使ってしまうと不謹慎かもしれないが、悩み模索しながら取材していった様子が興味深い。

ルポやノンフィクションでは、書き手の苦悩が垣間見えるような文章が、私はわりと好きだ。書き手もまた我々と同じひとりの人間であると感ぜられて。答えのない中で手探りしていくさまを、どうやってそれが書かれたのかを知ることができるのが、面白い。

 

むりやり京アニの話に戻すけれど、私が京アニを贔屓している理由の一端は、ここにあると思っている。クリエーターの話を聴くのは面白い。京アニはスタッフトークイベントや音声特典のコメンタリーなどで、スタッフの喋りを聴ける機会が多い気がする。監督や声優以外の方の話を聴けることも少なくなく、それがけっこう気に入っている。

アニメを作るのに直向きで、一生懸命で、それでいて楽しそうで、仲良さげで。それを聴いているのが好きだった。こういう風に作られているんだと知れたから、より一層作品を好きになることができるのだった。

 

京アニの映画でいうと、私が舞台挨拶に足を運ぶようになったのは『聲の形』から。京アニが舞台挨拶をするときは、必ず京都でもやってくれるので、それも嬉しい。

今回鑑賞した『映画 中二病でも恋がしたい!-Take On Me-』でも、当時舞台挨拶回に参加した。実を言うと修論の締切直前という時日だったのだが、締切前に早めに書き上げて行ってきたのだった。でないとせっかく抽選で当選してお金払ったのがムダになるし。抽選に応募しないという選択肢はそもそもなかったし。

 

今回の特集上映では無かったが、公開当時は冒頭におまけ映像がついて、フォトセッション時間が設けられていた。*15

折角だからアップしておこう。画面にズームして撮った写真もあるのだが、折角だから写真を撮る観客も一緒に写りこんでいる写真を上げておこう。

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舞台挨拶はメインキャストと石原監督の登壇。

コンテを書いていたら、キャラクターがひとりでに動き出すときがある。そういうときに良いものが描ける。そんな話を確かされていた。

そうして生まれたカットが、北の大地に到着した後、頬をぽんぽん叩きながら首を傾げる六花の動き。六花がとにかく可愛い。キスシーンや鼻チョン・でこチョンよりもこういうカットのほうが見てて可愛いよな。

 

 

 

京アニの描く女の子は可愛い。うん。京アニの描く女の子は可愛い。

 

 

 

あまり他作品を悪く書くのもはしたないから名前は出さないでおくけど、この日それを再確認させられてしまったんよね。

普段私は1日に2本の映画は観ないようにしている。作品の余韻を大事にしたいというのがあって、次の作品を観るまでに1日くらいは時間を空けたいと考えている。

ただ、ここまで読んできてくれたなら承知のとおり、ここ3か月くらいは毎週京アニの特集上映に行くことが続いており、そのためその日程の合間に他作品の鑑賞を組み込む、といった感じにここ最近はなっている。

基本的にはそうしているのだが、日程的に少々タイトであったこともあって、この日は日和って2本観たのだった。某アニメ作品とだけ書いておこう。

 

これは失敗だった。考えずとも比べてしまうのだ。。。これが某作品を観てから京アニを観る流れだったら違ったろうに。京アニ→某作品の順で観たから感じてしまったのだ。

身も蓋もない言い方をすると、見劣りする。

『映画 中二病』を観た後に某作品を鑑賞したら、見劣りしてしまったのだ。絵だ、絵。女の子の可愛さが違う。

 

これが『すみっコぐらし』だったら別に気にならなかった。絵の方向性が違うから、画面的に比べることはせずに済む。

ところが某アニメ作品の場合は、本作と同じくお年頃の女性が出てくるわけで、比較する気なんて全然なかったのに、いきおいその差が印象に残ってしまう。

それは表情であったり、髪の毛や瞳(の輝き)であったりとさまざま。(キャラだけでなく背景や特殊効果の話をすると話題が拡散するので措いておく。)

 

とりわけ驚いたのは指。手の作画に技術の巧拙が表れるみたいなことを聞いたことがあって、私自身はそもそも全く絵が描けないしセンスもないから全然その辺のこと判らんのだけど、もしかしてこういうことか、と思った。2人で手をつなぐ、指輪をはめるといったカット。京アニ作画のほうが、ドキドキを感じる(なんだこのフワッとした表現)。後で観た某アニメのほうは、一見艶めかしそうでどこか無機質さを感じ取ってしまったんだよね。これはある種の衝撃だった。京アニの作画はもちろん良い。けれどもう片方の作品だって劇場アニメのクオリティに仕上げてきているわけで。決して質が低いわけではないはずなのに。それなのに絵面、画面の差を感じてしまったから。京アニを観た後に別作品のアニメを観るのは今後絶対避けることにするわ。それにくらいにはショックを覚えたね。そんでそのモードに入ってしまうと、画のことが気になって肝心の内容が頭に入りにくくなるから、これはよろしくない。うん。京アニの描く女の子は可愛いという教訓を得た。

 

 

ここまで各作品の記録的な意味で、客入り具合について言及するのが通例であったので一応記しておくと、先週までの各作品と比べて芳しくはない。場内のセンターラインが埋まるくらいにはもちろん来ていたが。

あれかね。当日に京都を悪天候が襲ったせいかね(すっとぼけ)。

 

開場20分くらい前に行ったら待機してるのは1人。フロアの椅子のところに座っておられたのだけれど、ちょうどその背後にポスターが位置してて、「すみません、写真撮りたいので……」と言ってちょっとどいてもらった。

なんかそのときに「毎週観に来てるの?」「はい、そうです」みたいな会話を交わしたのだけれど、なんで向こうは私が毎週来てるのが判ったんだろう。

 

まあ、いいや。

そろそろ内容の感想を書かなくては。六花が可愛いからストーリーに多少目をつむっても気にならない説あるけど。

 

 

この特集上映でいうと、「中二病」シリーズで前回観たのは『小鳥遊六花・改』になって、これはTV版1期の総集編(+新規映像)に当たる。そして本作『Take On Me』はTV第2期のその後のお話となる。

・・・が、ぶっちゃけ、(あいだ)が抜けてるはずなのにそれがほとんど気にならない。

 

 『小鳥遊六花・改』では、六花と勇太がなぜか同棲するに至った経緯までが描かれる。第1期と第2期をつなぐ新規の映像カットによる部分だ。第2期の新キャラ・七宮の登場も予告される。

そしてTV第2期をすっ飛ばして本作『Take On Me』だが、とくに違和感を覚えない。時期的に間があいてしまったという問題はあるのだが、本作で同棲が既成事実と化していることも、恋人契約(名前はなんか違うかもだが)が結ばれた後であることも、すんなり頭に入っていく。あれ、恋人契約のくだりは『改』でやったよね? 私の記憶が混濁しているのか?

 

ともかく、TV第2期をすっ飛ばしているはずなのに、あまり気にならずに入っていくことができた。『Free!』シリーズとは大きな違いだ。

逆に『中二病』のTV第2期は一体なにをやってたんだ。視聴済みとはいえ、あれから見返してはいないから記憶不鮮明な箇所が多々あるはずなのに。なぜだろう。

 

むろん、第2期で大きな存在は七宮である。七宮という人物の背景を深く知っておけば、本作『Take On Me』もより一層満喫できる・・・はず。

七宮については後述することにして。

 

 

本作はある種、京アニのメモリアル的な作品だ。

作中に、これまでの京アニ作品の〈聖地〉がたくさん登場する。〈聖地〉に限らない。京アニ作品を思い出させるような仕掛けが随所に仕込まれている。

 

とりあえず列挙しておこう。これは私が実際に映画の鑑賞中に思い出したり連想したりしたことなので、実際は無関係のものも含まれる。が、あくまで私がどう感じたかという話であれば、厳密さはどうでもいい。

京都タワー~たまや・うさぎ山商店街:『たまこ』

・京都駅:『響け!』『たまこ』

伏見稲荷大社:『二十世紀電気目録』(まだアニメ化してねぇ)

・ファミレス:『ハルヒ

・その後通った道、十花さんが佇んでた海岸:『AIR

・ラブホで勇太がしてた六花のコスプレの妄想:『小鳥遊六花・改』のOP

・購入したアイテムとともに指を回す六花:『中二病』第1期OP

・UFOキャッチャー:『たまこ』のデラ・モチマッヅィ

・北の大地:『Kannon』

・本州最果ての地:『CLANNAD アフター』で汐と旅行したところ

・勇太の妹になりすます六花:『CLANNAD』の朋也とメイ(春原の妹)のデート

・「中二病でも恋がしたい!」というメールの文面でタイトル回収:『届けたいメロディ』で「響け!ユーフォニアム」という曲名が明らかになってタイトル回収

・ブーケトスをキャッチしに行く六花:『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』で湖の上を歩いてみせようとするヴァイオレット

・妹の名前が樟葉:京阪電車

・フェリー、フェリー乗り場:『響け!』と京阪電車のコラボチケットが販売されたびわ湖浜大津駅

・勇太が六花に指輪を渡すシーン:『たまこ』鴨川でもち蔵が告白するシーン。いや何も関係ないんだけど、『たまこ』はこの場面で自動車の走行音のノイズそのままだったのに対し、本作ではちゃんと劇伴がかかってて、「やっぱり演出意図があるんだよなぁ」と連想してしまった。

 

こうして並べてみると結構な数になる。TVシリーズ作品は観てないのもあるし細かくチェックしきれていないだろうが、映画作品については一通り拾えたのではないだろうか。毎週MOVIXへ通ってきたのだから。

 

ところが、である。

エンドロールを眺めていて重大な見逃しが発覚する。

まず、、、

 

 

 

山岡ゆりぃ~~~!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

ウッソ。マジかよ。出てたの?山岡ゆり。気づかなかったんだけど。

役はなに?チェスト?え? 名前把握できなかったうえに、心当たりもねぇ。どこで出てたん?(チェストじゃなくチェントだった。空目していたようだ)

 

いや、誇張ではなく本作一番の衝撃を心に喰らった気がする。

この特集上映に通ううちに、私の中ではいつの間にか山岡ゆりという存在が極大化していて、「山岡ゆりが出てればハズレはない」くらいの法則が確立されつつあったというのに。。。

マジか。本作でも山岡ゆり登場してたのか。完全に油断してたうえに、どこで出てたのか全然思い当たるフシがない。人間じゃない役?

 

エンドロールでこんな動揺を受けることになるとは・・・と気をもんでいたところに追撃。

「協力」のところで境界の彼方制作委員会、岩鳶高校水泳部の名が。

は? 本気で言ってんの? 鳥取県なんか今回かすってもいないよね?

あれか、舞台ではなくて素材か何かで登場してんのか。

 

これは、悔しい。

山岡ゆりにしろ、境界の彼方にしろ、岩鳶にしろ、私がこの映画を初見で鑑賞したときにはほとんど気にも留めない要素に過ぎなかった。過去作品の〈聖地〉が登場することも、それほど気にかけなかった。

しかし曲がりなりにも毎週特集上映を観ていると、愛着が全然変わってくる。山岡ゆりや『境界の彼方』に対する好感度は、この期間に爆上がりしている。後者の認知なんかほとんどなかったくらいだから、文字通り爆発的、ビックバン的に変化している。

初めてこの作品を観たときとは、当然感じ方が違う。

山岡ゆりや『境界の彼方』が出ていると知って嬉しい気持ちもあるのだ。だがそれ以上に「見逃してしまった」という悔しさが先行する。

 

マジでどこで出てたんだよ。

猫が実は妖夢だったとかいう設定ないよね? 猫の中にヤキイモが混じってたりしないよね?(というかヤキイモと呼ばれてたあいつが何者なのかは未だよく判ってない)

 

で、私はとりあえず自分で発見に至る喜びを大事にしておきたいので、ググったりせず自分で探そうと思う。

中古のパンフレットはポチって買ったけど。

 

 

 

ストーリーの話を全然してないな。六花が可愛いからストーリーに多少目をつむっても気にならない説あるけど。

 

本作は「なんでこんなヤツ好きになってしまったんだろう」の勇太のモノローグで始まり、同じモノローグで終わる。文言的には同じなのだけれど、その意味する内容は全く異なるセリフとなっている。同じ言葉を、物語を経たあとで違うものとして見せるという、きれいなまとめ方だ。

この辺、原作との相違が表れているように思う。

 

そうだった。今回は映画を観る前に原作小説を読んだんだよね。原作第4巻を。

なぜ第4巻なのかというと、例のアニメイト京アニコーナーで売られていたのが第4巻だけだったから。第1~3巻は売ってなかった。

それで第1~3巻を読まずに第4巻だけ読んだのだけれど、なかなか弾けてるな。レインボー先輩という未知のキャラが出てるし、マビノギオンがここで初出みたいだし、モリサマと凸守が初対面ぽいし。知らない同級生が決定的なことしてるし。

 

「なんでこんなヤツを好きに…」の話に戻るけど、映画は勇太が六花に抱く気持ちを再確認していく過程を描く。だから最初勇太から倦怠期みたいな言葉が出てくるし、逃避行に至る経緯も周りから圧されて、というところがある。

原作小説は大筋もっとシンプルだ。倦怠期じゃない。ラブラブしてる。親とか成績の問題も出てこない。中二病からの卒業はテーマですらなく、むしろ六花を中二病に戻すために腐心する。そして「中二病の六花が好きなんだ!」となる。

ブコメなんだ、と素直に感じる。中二病×恋となっているこの作品において、原作は(少なくとも私が読んだ第4巻は)後者に重心がある。鈍感系ハーレムという感じ。七宮、モリサマは勇太に気があるという解釈で良いんだよね、原作?

 

映画はその点、もっと立体的に見せようとしているのか、複雑になってる感がある。というか改めて文章として書いてみると「ん?」となる。

イタリアに連れていくという唐突感は十花さんだからよしとして、最初は六花の成績・進学の問題が出てきて、それが駆け落ちの方向に行く。例によって十花さんの盗聴技術はスルーするとしても、勇太・六花を追跡するのに一人で十分なのに(というか実際ファミレスで2人に会ってるのに)凸守とモリサマが手駒に繰り出される。ファミレスで対峙したときには六花が中二病を卒業するかどうかが問題となっており、しかし北の大地に行くころには、六花が自分の中二病の「能力」が失われることを悩んでいる。そしてなぜかGPSの一瞬の信号で空港に向かうのを先読みして凸守・モリサマに指図できる十花さん。で、結末としてはイタリアに連れていくというのは実は結婚式に呼びたかったのだというオチ。

 

あらすじを書いてみると、こんなにごちゃごちゃしてたかと驚く。映画を観てるときはそれが気にならないのは、場面がどんどん変わっていくテンポの良さと、強引さが気にならないキャラの良さだろう。

 

十花さんは言うに及ばず、七宮*16の存在も大きい。

前述したように、物語の前半ではなんやかんやがあって、最終的に六花が中二病から脱するか否かというテーマが立ち現れる。でも七宮はそうなることが初めから判ってたかのように振る舞っており、なぜかラスボス的な位置で六花の前に立ちはだかる。

 

なんで七宮はこうなることが判ってたのか。

魔法少女だからだ。

違うか。自分も経験してるからか。それが確かTVシリーズ第2期で描かれていたことだった(はず)。観返していないから私の記憶が朧気だ。

七宮は経験者として六花に迫る。中二病を取るか、勇太を普通に好きになるかを。

ちなみに原作小説第4巻も七宮が六花の前に立ちふさがるのだが、恋敵としてのポジションだ。横恋慕しているのは原作もアニメも同じだが、原作が2人の間に邪魔して割り込もうとするのに対し、本作『Take On Me』の七宮はむしろ2人の恋仲を後押しする。その代わり「中二病を卒業すればいい。それで誰も困らない」と迫るのだ。

 

・・・フツーのアドバイスって感じだよね。魔法少女らしからぬ。

だって、十花さんは六花の中二病卒業を望んでいるし、当の六花は中二病「能力」が失うかも状態になっている。それに対して「じゃあ失えばいいじゃん」ってことだよね。

 

ここで七宮が突き付けているのは「中二病か恋か」という選択になっている。これは別に二項対立な問いではない。そもそも映画の前半では、六花が駆け落ちを決断したり、間接キスに妬いたりと、フツーに勇太への恋慕が描かれている。(だから六花の中二病問題は母親ファクターが大きいと思うのだけれど)

しかし七宮自身は自分がその選択をした過去があるためそれに囚われている。「中二病か恋か」が二者択一の決断になってしまっているのだ。

『届けたいメロディ』で言えば、あすか先輩や久美子の姉と同類の悩みだ(なんか違う気もするがトレードオフの板挟みというのは同じはずだ)。

 

結末的には、六花は「中二病か恋か」ではなく「中二病も恋も」を選ぶ。タイトル通りだ。

 

問題はここで七宮の存在が不憫になってしまうことだ。自分は「中二病か恋か」という問いのもとで苦渋の選択をしたのに、六花は両立を取ってしまうのだから。

『届けたいメロディ』で言えば、吹奏楽部を辞めたあすか先輩がそのまま戻ってこなかったみたいな状態だ。親の言うとおりに大学行って「いい子」を演じたままの久美子の姉みたいな状態だ。

これでは七宮が浮かばれない。

 

そこで登場するのが影のフィクサー・くみん先輩となる。「連関天則」とか言って七宮の選択にも意味があったんだと総括する。素晴らしい。

そもそも駆け落ちを提案したのがくみん先輩だった。逃避行を煽動し、そして大団円を演出するという。

 

ここまで来てようやく私は気づいてしまった。『たまこラブストーリー』におけるみどりとかんなだったのだ。

密かに想いを寄せる相手にはすでに意中の相手がおり、その2人のために自分はキューピッドを演じようとする構図。これがみどりであり七宮だ。

ところが七宮はみどりには成り切れなかったのだ。自分の助言通りの道を六花は選ばなかった。

その七宮を癒し丸く収めたのがくみん先輩で、たまこを見送って気を落としていたみどりを励ましたかんなと重なる。かんなもバトン部のフェスティバル参加を提案して物語を動かしていた。

 

なるほど。連関天則だったのか!(なにが?)

 

 


リズと青い鳥』(11/15~11/21)

 11/26(火)鑑賞。7番シアター(142席)

 

先週からの動きその1。

『天上人とアクト人 最後の戦い』(劇場版MUNTO)のDCP化によるデジタル上映、5.1ch化と舞台挨拶が決定。

「天上人とアクト人 最後の戦い」12月20日より劇場上映&舞台挨拶決定! - 新着情報 | 京都アニメーションホームページ

 

DCPがなんなのか私は解っていないのだけれど。いままではデジタルじゃないフィルムだったってこと?

 

今回の特集上映は基本的に公開年月の時系列順で上映が行われている。ただ、『劇場版MUNTO』(2009/4/18公開)と『涼宮ハルヒの消失』(2010/2/6公開)については上映を終盤に持ってきている。

この2作品の特徴としては、他の京アニ作品と違い、配給元が松竹ではなく角川となっている。それが関係してるのかなと邪推してたのだが、そうだとしても『MUNTO』→『ハルヒ』が時系列順なので、なぜ『MUNTO』がラストなのかとも感じていた。

 

このたびデジタル化ということで、その準備・調整のために少しでも時間的余裕を持たせるため、一番後ろに持ってきたということだろうか。

京アニの初公開映画から10周年だと謳っているけれど、特集上映という形がなければデジタル上映・5.1ch化は実現してなかったんだろうな。これも邪推か。

 

 

その2。

京アニが運営するプロ養成塾が新たに塾生募集を開始。一方で「京都アニメーション大賞」の選考は中止が発表された。

塾生募集と京アニ大賞の中止については、朝日新聞の11/22付で3段くらいの割と大きめの記事で掲載された。

養成塾は来年度で20年の節目を迎える。京アニは「ともに学びあう、成長する場として是非継続していきたい」とコメント。アニメーター科講師の北之原孝将さんも「塾の中で多くのことと出会い、考え、感受性を高めていくことで上達の機会が増える。状況に負けず、この出会いの場を続けていきます」との談話を寄せた。

朝日新聞2019/11/22朝刊32面「京アニ、新たに塾生募集 来春入塾『状況に負けず、出会いの場続ける』」)

 

私はこのニュースを前日に京アニHPの「お知らせ」欄で知ったのだけれど、そこでは石立監督のメッセージが掲載されていた。上の記事では北之原さんのコメントが紹介されている。ほかの大手紙もざっと確認したけど、朝日は記事が大きいしコメントも取っている。

記事の署名は、アニメファンとしての記事も書いていた川村貴大記者。

 

 

 

その3。

京アニショップ通販では、缶バッジやら「響け!ユーフォニアム」シリーズの資料集・原画集やらが再販になった。*17

この調子で『境界の彼方』『たまこラブストーリー』のKAエスマ文庫の在庫復活も頼む。

https://twitter.com/kyoani/status/1197064733506990081?s=20

 

アニメイト京アニコーナーは、KAエスマ文庫が平積みされるなど充実しとるのだけれど、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』原作本とか『二十世紀電気目録』とかいっぱい置いてくれてるのだけれど、京アニショップ在庫無しのものはさすがに入荷しない。

『響け!』の原作本は宝島社文庫なのだが、これも第3巻とか短編集は欠けたまま。これ、重版かかっとらんの?

 

 

もう一個。

事件のあった第一スタジオの解体が来年(2020年)1月からと決まる。11月23日に住民説明会があったそうだ。跡地利用は「未定」とのこと。*18

 

 

さて、映画の話をしよう。

本作『リズと青い鳥』でまず驚いたのが、作品の人気だった。

 

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販売開始から3分余りですでにこれだけの席が埋まってる。平日の回なのに。MOVIXでチケットを取る際に、「アクセス集中画面」が出てきたのは初めてだったわ。思わず「なんですか、これ」と呟き……はしなかったけれど。そうか、私は最初の『映画 けいおん!』に参戦してないものね。

この作品って、そんな人気だったの? 公開当時、なんやかんや2度映画館に足を運んだけれど、TVシリーズや総集編のほうが楽しめると思うんだけどな。

私が観に行った回は平日(火曜日)だったのだけれど、満席状態だった。ペアシートのとこに空席があるくらい。水曜、木曜の上映回は前日時点で、ペアシートも含めて完売だったようだ。

 

けいおん!』を除けば、これまでの各上映作品のなかで一番人気なのではないか。『ようこそ』『届けたいメロディ』もここまでではなかった。総集編じゃないからか。心なしか、総集編のときより観客の年齢層は若く感じた。

 

『響け!』シリーズって、人気なんだな(何を今さら)。

報道によると、宇治市文化センターでのクリスマスコンサートのチケットは、秒で(正確には3分で)売り切れたらしい。*19私は、演奏会はいいやと思って、チケットを取ろうともしてなかったが。いやあ、すごいね(他人事感)。
それと比べたら、MOVIXのチケット争奪戦のほうはまだマシなくらいか。

 

当日私がシアター前のフロアに到着したのは、上映15分前のタイミング。フロアに人が溢れていた。ざっと数えたら30人以上いた。これまでの特集上映のなかで最大だと思う。すまん。もう一度謝っとくけど、『映画けいおん!』は知らない。

待望の人気作の封切間近とかだったら別に驚かんのだけど、過去作なのにな。土日を経た平日の回なのにな。

 

しかし苦言になるけど、上映終了後の拍手の手は完全に出し遅れだったな。

速攻でチケット取る人がいて、開場前に30人以上が群れを成すくらいの作品なら熱心なファンが多いのだろうに。拍手の音は場内が明転したあと、足早な人がすでに席を立ったくらいのタイミングだった。もうワンテンポかツーテンポくらい早く拍手してやれよ。これだけ熱心なファンがいるのにか。

・・・あ、速攻でチケット取って開場前の時刻から待機するほど熱心なくせに拍手のタイミング逃したのは私も同じか。失礼しやした。境界の彼方』のとき、私ひとり拍手しようとして同調者が現れなかった記憶が……うっ。。。

 

 

本作は『響け!』シリーズの作品ではあるけれど、タイトルは『リズと青い鳥』となっているし、映画のポスターにおいても「映画『聲の形』のスタッフが贈る最新作」と銘打っているのが目立つ。『響け!』作品であることは全面には押し出されず、外伝的な、あるいは独立な作品の扱いだ。

 

絵の雰囲気も大きく違う。キャラデザについては前売り特典の冊子が手元にあるので、あまりよろしくないかもしれないが、一部上げておこう。池田晶子さんがデザインしたうえで、西屋太志さんが本作用のデザインをしたようだ。

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ほかの『響け!』作品と比べて苦手だと記したけれど、キャラデザが苦手だというわけではないんだ。上の写真の剣崎梨々花というキャラクターだって、西屋デザインのほうがキャラの雰囲気出てて良さげに感じる。

苦手なのは、本作の解りづらさの部分だ。はっきり言って解りづらい。特集上映作品のなかでも一番わかりにくいと言っても過言じゃない。

 

まず、久美子視点じゃない。というかこれまで主人公だったはずの久美子が空気だ。セリフの量だけで言ったら、「ハッピーアイスクリーム」の緑輝(サファイア)より喋ってない。なんだこの主人公の不在感。

たしかに『ようこそ』とかだって主人公してないようなところもあったけれど、それでも久美子の視点で語られる物語ではあった。久美子のモノローグが入ったり、本音を漏らしてしまうといった解りやすさもそうだが、群像劇をなしながら基本的に一人の視点で語られるというのが視聴者的に〈安定感〉があった。そして前述したように、『届けたいメロディ』でようやくユーフォのこの子が主人公になってきたなと感じたところだった。

それなのにこの圧倒的久美子不在感だよ。

 

映画だと『リズと青い鳥』が独立する形で希美とみぞれの2人にフォーカスを当てているが、原作小説は別に分離しているわけではない。だから久美子視点のままで読めたはず。あとで読み返そうかなと思うが、それは次週の『誓いのフィナーレ』の後だな。

そういう意味で『リズと青い鳥』を本編から分離独立させたのは、京アニの、あるいは山田尚子監督の工夫でもあるのだが、そのためにこれまでのシリーズ作品より解りづらくなっている面は否定できないかと思う。

 

も少し補足しておくと、単に久美子視点でないからというよりは、希美とみぞれの2人にスポットライトがあるのが、解りづらさの主因だろう。

 

まず、この2人そもそも誰だよって問題がある。

「それはお前の記憶力が悪い」というご指摘はもっともだ。別に詳しく憶えていなくてもこの作品を楽しむことはできるという指摘ももっともだろう。

しかし相対的に印象に残りにくい登場人物であるのは、否定しがたいはずだ。

上のほうで『ようこそ』の感想を記した箇所を確認すると、みぞれについては「オーボエの子」としか書かれていない。希美については登場すらしていない。『ようこそ』のときには希美はいなかったし、『届けたいメロディ』では関西大会らへんがカットされているから、出番がなかったのだ。

この2人というのは総集編では出番がカットされるくらいのポジションだったのだ。

 

そういう印象に残りづらいキャラが、本作ではメインを張っている。

それがいけないと言っているのではない。むしろこれまで脇役(モブ)扱い扱いだったキャラを主役にできるくらい作りこまれている点を評価すべきなのだろう。

ただやっぱり(久美子視点なわけではないというのもあって)解りづらいというか、最初は戸惑う。

戸惑ううえに、テンポも遅い。丁寧に描写しているということでもあるのだろうが、たとえばOPのスタッフクレジットの場面では、2人がただ歩いているだけの描写に結構な尺を取る。やや間延びして感じるというのが正直なところだ。

 

加えて、希美もみぞれも主人公然としたキャラとは言い難い。

希美はタイプは違うがあすか先輩に近い。表向きの部分とは別に、どこか本性を掴みづらいところがある。

ただ、あすか先輩の場合は久美子のフィルターを通して見ていたから解りづらさが無かった。仮面の奥の素顔をなかなか見せてはくれないのだけれど、観客はそれを久美子の目を通して見ているので、「この先輩ちょっとニガテだな」という久美子の心情を共感することはできる仕掛けになっている。

本作『リズと青い鳥』は久美子視点ではないので、希美という人物の捉えにくさはそのまま観客にとっての捉えにくさとなる。

 

みぞれはもっと困る。感情表出をしないわけではないが、とにかく口数が少ない。ヴァイオレットより喋らない。Free!の『絆』のところで、主人公・遙が寡黙で何考えてるのか解りにくいという話をしたが、それ以上だ。冒頭で希美を待っていたけれど、会っても特に会話がない。青い羽根を受け取ったときに「ありがとう?」「なんで疑問形?」というやり取りがあるけれど、「ありがとう」が疑問形で発せられたことによく気づけるなというレベルの語尾変化。

 

結果として、ダブル主人公の双方がともに解りづらいキャラなのだ。

剣崎梨々花や山岡ゆりが登場しているシーンがだからありがたい。梨々花が「先輩とうまく行ってないないかも」と相談を持ち掛けるシーンは観客の代弁だと思う。その梨々花も後半になるとフェードアウトしてしまうんだよね。

山岡ゆり(優子)は良いキャラだよね。ついに部長にまでなっちゃって。部長になってちょっと声変わった? 『ようこそ』『届けたいメロディ』のときは、泣き虫というか、涙もろい印象だったのに。

 

考えてみれば梨々花もこの時点で新キャラなのか。

リズと青い鳥』を外伝、番外編に位置付けるとしても、本編の『誓いのフィナーレ』より前に公開してるんだよな。新しく後輩が入ってきたり、山岡ゆりが部長になっていたりの描写が飛ばされた格好になる。

この点についてまで解りづらいとは言わないけれどね。

 

 

一連の特集上映を通じて、私のなかで山岡ゆり山岡ゆりになってしまったので、もう少し山岡ゆりについて書いておきたい気もする。

希美が「私ってほんとに音大行きたいのかな」と発言したときの、夏紀と山岡ゆりの目つき。ゾクッとするね。やみつきになりそう。これもまさに観客の代弁になっている。

発言そのものが「今頃なに言ってんだよ」必須だもの。楽器続けるだけならプロになる必要ないとか、お金がかかるとか、個別にレッスン受けなきゃで大変だとかさ。そんなの始めっから解りきってたことだろ。音大受験するとなったら、真っ先に考えることだろ。何言ってんだこいつって沸騰するわ。

そう感じた観客の気持ちを代弁するように怒り心頭してくれた山岡ゆりが気持ちいい。

 

その山岡ゆりを制止する夏紀も「優子」って名前を呼ぶくらいしかすることがない。面白い。一応は形的に仲裁に入ろうとはしているのだけれど、内心では同じように希美に怒るか呆れるかしているのではなかろうか。少なくとも希美の肩を持つには分が悪い。

「その辺にしときなよ」とか「希美にも事情が…」と言って仲裁しようとしたら、逆に火に油を注ぎそう。その結果、制止役だけれど「優子」と名前を呼ぶにとどまる。2回発言したのに名前を呼んだだけ。最小限の制止。

 

 

このシーンに至る前振りとして、山岡ゆり、夏紀、希美、みぞれの4人がいる場で、希美とみぞれの2人が音大を受験することを打ち明けるシーンがある。

このときはみぞれが「希美が行くなら(自分も音大に)行く」と発言してその場を一瞬凍りつかせた。その後話題が(あがた)祭りに移っても、ひとりフリーズしてみぞれを見つめる山岡ゆりの表情が印象的だった。いや、私が山岡ゆりに注目してたから印象的に映っただけかもしれないが。

 

で、その山岡ゆりの瞠目した表情のカットなんだけどさ、私は最初、それをみぞれに対して憤ってるのだと解釈したんだよね。自分自身の進路問題なのに、付和雷同に決定して深く考えてなさそうなみぞれに対して、煮え切らない気持ちを抱えてるのかと思った。

ところが、その後の展開を追うと、山岡ゆりはみぞれに対してむしろ気をかけている。片や先ほど書いたように希美に対しては怒りを露わにする。

それで、はたと気づいた。あの時の山岡ゆりの顔は、怒りではなく心配の表情だったのだと。

 

たしかに、山岡ゆりはそういうやつなんだよな。勝気なところがあるくせに、〈弱者〉に気を配る気性も持っている。

『ようこそ』での中世古先輩を慕う気持ちもそんな感じだった。中世古先輩も一種の犠牲者だった。それはオーディションでソロを奪われるという点もそうだったし、部員を慰留するために出場辞退しようとした経緯もあった。それを「関係ないですよね」と一蹴したのはさすが麗奈。

総集編では語られてないから私の記憶が曖昧なのだが、そのときに一度退部し戻ってきたのが希美なのだから、因果がここまで繋がっている。

 

一定犠牲を受けた中世古先輩のために泣いて頭を下げたほどの山岡ゆりだったが、本作でもやはり〈弱者〉の側のみぞれに寄り添おうとしている。

〈弱者〉と書いたのは、山岡ゆりの目には希美がみぞれを振り回し続けたと映っているからだ。彼女にとってみぞれは犠牲者側だ。だから心配のまなざしを向けていた。

もちろん本当は、希美が加害側でみぞれが被害側だと割り切るべきではないだろう。2人は共依存的なところがある。自分の進路なのに、希美に合わせて決めたみぞれの側に問題がないとは言い切れない。

それでも山岡ゆりは、おそらくは中世古先輩以来の経緯も手伝って、みぞれの側に立つ。彼女なりの正義の取り方に、私はつい共感してしまう。

 

 

いま記したのは、怒りの表情だと思ったら実は心配の表情だった、という例だが、本作は後で思い返してみて「あのシーンはそういうことだったのか」と再解釈する箇所が少なくない。物語の構造自体、リズと少女(青い鳥)は実は逆だった、というもの。それ以外の個々の仕草や表情にも、類例が仕込まれているように思う。

 

希美が新山先生に音大を受けることを伝えるシーンもそうだった。廊下に立つ2人をロングに捉えるカットで、希美の足の動きや立ち位置で微妙な感情表現をしていた。

その後の展開を見た後で、あれは希美の嫉妬や見栄が表れていたんだなと気づくことができる。

 

・・・できるのだけど、それがやっぱ本作の解りづらさに相違ない。初見かつ原作未読だったら、たぶんその仕草をスルーしてしまう。スルーしてしまえば、そのシーンは印象に残りにくい。

映画を観終わったあとで、「あのシーンはこういうことだったのか」と思い出そうにも、印象に残っていないシーンはそもそも思い出しづらい。

そういうシーンがおそらくきっとこの作品には散りばめられているような気がするので、一言で言っちゃうと、解りづらい。

だから最初に書いたように、私はこの作品は苦手だ。

 

 

もののついでに「カレーライス」問題についても言及しておこう。

「カレーライス」については『聲の形』のところでクドクド書いた。本作『リズと青い鳥』で『聲の形』の「カレーライス」に相当するのが「互いに素」だった。素数の説明はしてなかったはず。

授業の内容に過剰に反応すべきではないかもしれないけれど、ここで「互いにその関係にある」という言葉が暗示するのは、希美とみぞれの関係性だろう。これによって観客に不穏を暗示・示唆している。

だが、「互いに素」を習うのは高1の数学Aなので、3年生の授業風景に出てくるのはちょっとだけ違和感を持った。別に気にするほどのことではないのだけれど、改めて『聲の形』の「カレーライス」のジャストフィット感が凄まじいと考えないではなかった。

 

 

さて、ここまでこの作品に対しては「解りづらい」的なことしか書いてないので、もう少しまともなことを書いておこうと思う。

 

本作『リズと青い鳥』もまた、「特別」がそのテーマに据えられていると私は観た。これは希美についてはとくに当てはまるだろう。『響け!』シリーズは『ようこそ』でも『届けたいメロディ』でも、「特別」をめぐる物語だったと言える。

ただしその描き方が、これまでとは異なっている。前2作は「特別になる」ことがテーマ(のひとつ)だったが、本作の希美が望んでいるのは「(他者から)特別に見られる」ことだからである。

心理描写の妙は、希美自身そのことを自覚しきれてない点だ。

「特別になること」と「特別に見られること」はイコールではない。十分条件でも必要条件でもない。ところが希美はそのことに気づけていない。おそらくだが、両者を混同してしまっている。

 

映画冒頭、早朝の音楽室で希美とみぞれが2人きりのシーン。

希美が「この曲が選ばれて嬉しい。早く演奏したい」と口にするのに対し、みぞれは「本番なんて来なくていい」と呟く。

観客をミスリードさせる箇所だ。希美が純粋に音楽を楽しみにしているのに対し、みぞれにとってそれは希美に接近する手段であるかのようだ。自分の気持ちに忠実な前者と、前者に随伴する後者。童話の登場人物・リズがみぞれで、少女(青い鳥)が希美なのだと当初の2人は解釈するのだが、映画を観ている観客にも同様の解釈をするように仕向けている。

 

この描写は観客だけをミスリードしているのではなくて、当人たちも誤認している。

希美は底流に秘めている自分自身の気持ちを、このときはまだ自覚していないということだ。

本人が自覚していない心の気持ちであるので、セリフでは直接描写されない。それが描写されるとすれば、ふとした仕草や表情としてだ。実際に希美は、フルートのソロを誰が吹くかについて、「ぜったい希美先輩だよ。だって上手いもん」的な後輩たちの会話を耳にして、こっそりはにかんでいる。

この反応こそが希美の偽らざる気持ちだろう。冒頭のみぞれとのやりとりでのセリフとはズレている。「演奏できて嬉しい」「吹くのが楽しい」と言っていた希美だったが、後輩の誉め言葉を盗み聞いてほくそ笑んでいる(「盗み聞く」「ほくそ笑む」はやや語感が強いか)

希美が欲していたのは、実は「特別に見られること」だった。これはそれを表す描写だったのだ。

 

「特別になること(なろうとすること)」と「特別に見られること」は違う。そのコントラストを強調するために対比として出てくるのが、あすか先輩であり、麗奈である。

あすか先輩は卒業していった先輩であるので、直接登場はしていない。回想シーンとしても出てこない。しかしセリフ上で言及されている。前述の希美、みぞれ、夏紀、優子(山岡ゆり)が揃った場面だ。夏紀が優子部長に向かって「あすか先輩じゃないんだから」と声をかけている。

 

ここまで読んできた読者であればお察しのとおり、私はこの場面を山岡ゆりに着目して観ていた。だから私は「あすか先輩じゃないんだから」のセリフを、山岡ゆりの部長として頑張る(けれど空回り気味の)様子を示したものだと初めは受け取った。

だが、この作品を「特別」を巡る物語なのだと読み込むなら、このセリフの演出上の意図は山岡ゆりのほうじゃない。出てこなくても構わないはずのあすか先輩が言及されることが大事だ。「特別」を象徴的に示す存在としてのあすか先輩だ。

 

希美とあすかは一見立ち位置的に似ている。周りから好かれ、物事をそつなくこなしている感じで、演奏も上手い。ところが、「特別」な存在として振る舞い、それを貫いたあすか先輩と比べると、希美は「特別に見られたい」の次元にとどまっている。進路選択の差も対照的だ。希美は「特別になりたい」からではなく、「特別に見られたい」から音大を受験しようとしたのだった。

 

「特別」を象徴するもう一人の人物が麗奈だ。

希美が音大を考え直したきっかけが、麗奈(と久美子)の演奏を聴いたことだったのがポイントだ。殻を破ったあとのみぞれのオーボエを聴いてからではなかった。

みぞれが殻を破ったのは新山先生のアシストを経てだった。こちらはわかりやすい。言葉によって説明がなされているから。一方で並行的に描かれた希美の側は、直接には言葉で説明されない。なぜ麗奈と久美子の演奏を聴いて〈気づき〉を得たのかは具体的には示されない。

演奏を聴いて自分との違いを自覚した、というのが妥当なところだろうと私は解釈する。「特別(になろうとすること)」と「特別に見られること」の決定的な差異を、おそらく希美はこのときに(感覚的に)自覚したのだ。

 

そのあとの「リズと青い鳥」の合奏で、みぞれのオーボエを聴いて涙するのは、その〈気づき〉が確信に至ったということだ。確認の手続き、儀式だったとも言える。

『ようこそ』において、中世古先輩が実力差を認めながらも、自らを納得させるために再オーディションに挑んだときのように。

 

 

みぞれの存在も、あるいはそのように考えるべきかもしれない。

希美にとってみぞれは、「特別に見られたい」願望を体現してくれる、最も身近な人物であった。みぞれならいつも自分を特別視してくれるのだった。

プールに誘ったときの反応が面白い。みぞれが「ほかの子も誘っていい?」と言ったときの動揺を隠しきれていない。(あがた)祭りに誘ったときには逆であったのに、この変化。

 

特別願望を自覚したあとの心理描写がまたいい。

大好きのハグをされたときの場面だ。みぞれは希美に伝える。入部するきっかけを与えてくれ、いまの自分がいるのは希美のおかげなのだ、と。はっきりと言葉にして伝えたのは、おそらくこれが初めてなのだろう。

ところが希美は「それ、よく憶えてないんだよね」と言って、その言葉を拒絶しようとする。

 

この、「よく憶えていない」というのは、希美が咄嗟についた嘘だ。直後の回想シーンで、希美ははっきりとそのエピソードを想起している。それに、みぞれから特別視されていること自体は気づいていたはずだから、憶えていないというのは不自然だろう。

だからこのセリフは、思わず口にしてしまった嘘なのだ。

自分を守るための、ささやかな抵抗だったとも言えるかもしれない。

 

このときの希美は、すでに「特別になりたい」と「特別に見られたい」の違いを認識し、自分が後者だったと気づいていた。であるから、「特別に見られたい」願望のもとでみぞれに依存する面があったことも、気づいてしまった。

そんな自分を、少しでも否定しようとしたのではないか。そんな心理から出てしまった嘘ではないだろうか。

 

しかしその嘘だけでは、みぞれの勢いを抗しきれなかった。大好きのハグは続く。これまであれば退いていたかもしれないが、このときのみぞれは負けずに気持ちを強く表明したのだ。

そこに至って希美はそのみぞれの気持ちを受け止める。ハグ中、最初は「軽蔑されるべき」だと捉えていた。それなのにみぞれからは特別視されている、と。しかし言葉を受け止めていくうちに、みぞれにとって自分が「特別」の存在であること、「見られている」ということではなくて本当に「特別」であるのだと、気づいたのかもしれない。

その後の回想を挟んで嬉しい顔をしているのは、ささやかな満足感に喜びを見出したということだろう。

音楽の世界では「特別」にはなれなかったが、みぞれにとっての「特別」の存在になることができた。それがこの時点での答えだ。

 

 

解りづらいという話をしたから長めの文章になってしまった。やっぱ外伝とするには解りづらい、というのが正直なところだ。

上記の私の解釈も、直近で『ようこそ』『届けたいメロディ』を観ていて文脈が頭に残っていたから比較的話が解ったにすぎない。そうでなければちょっとつらい。麗奈やあすか先輩が「特別」の象徴となっていることは、本作のみの描写では読み取りがたいからだ。そして「特別」を巡る物語である点は、むしろ『響け!』シリーズの本筋に関わっている。

だから外伝的に打ち出してしまっていることが解りづらさに拍車をかけている面は否定できないと思う。『響け!』シリーズであることを前面には出さず、『聲の形』スタッフ最新作などと、独立した作品のように謳っているのはどうも。

 

 

ところで、本作『リズと青い鳥』については映画公開当時にも本ブログで紹介したことがあった。なにを書いたかをてんで憶えていなかったので改めて読み返したのだけれど、鼻で笑ってしまうわ。内容らしい内容がなんも書かれてない。

「希美」が「希実」になってるし……

いや青春というよりも、青春の終わりの一歩にどう折り合いを付けようかというところ。この点はこれまでの久美子視点を離れたほうが、希実とみぞれの進路問題にフォーカスできていてよい。

『リズと青い鳥』感想 - ぽんの日記

 

しかも久美子視点でないことを評価してる。私の中でなにがあったんだ。。。

 

おそらくこのときは、独立した作品として捉えようとする向きが強かったのだと思う。実際、本作単独でも楽しむことができるのは事実だろう。

それでも『響け!』シリーズであることは変わりなく、その文脈を踏まえたほうが楽しめるのは間違いない。そして『響け!』シリーズの中に置いてしまうと、どうも難解さが目に付いてしまう。そんなあたりだろうか。

 

 

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』(11/29~12/5)

12/3(火)鑑賞。2番シアター(142席)

 

その手があったか。

上映スケジュールを確認して驚いた。なんと19:00の上映回が2回ある。それぞれ2番シアター(142席)と8番シアター(87席)だ。(土曜は2番シアターのみ)

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この特集上映企画は、1日1回の上映が決まりとなっている。そのため人気作品となると、満席状態になるというのがしばしばあった。

 

前週の『リズと青い鳥』はまさにそれだった。キャパシティ不足。チケットが売れてくのが他作品より明らかに早いし、ペアシートも含めて完売状態の日が続いた。人気的には本作『誓いのフィナーレ』が上回ってそうなので、キャパシティが増えないとキツくなるのではと予想された。

 

ただ、いくらシネコンでも対応には限度がある。

MOVIX京都には全部で12のスクリーンがある。座席数規模で並べると、3番シアター(365席)が一番大きく、その次が10番シアター(332席)となる。

300席以上のシアターはここまでで、それ以降は153席(12番シアター)、149席(1番、4番シアター)、142席(2番、5番、7番シアター)、138席(6番、11番シアター)、87席(8番、9番シアター)となっている。

施設・売店案内|MOVIX京都

 

これまでの特集上映では『けいおん!』と『たまこラブストーリー』の一部の上映回が10番シアターを用いたのみ。それ以外の回では150席前後のスクリーンとなっている。劇場運営的にデカいスクリーンを割り当てることはできないということか。

そのため『小鳥遊六花・改』が1番シアター(149席)である一方で、『響け!』は142席であったりした。作品の人気と座席数が比例していない。そもそも人気度に合わせて座席数を調整するなんてできなかったと考えるべきだろう。

 

今回もそういう意味では座席過少になるかと思って上映スケジュールをHPにて確認したら、上述のとおりだった。19時からの上映が2回ある。もともと「劇場からのお知らせ」では「※上映は1日1回となります。」と注記があったものだが、これなら「1日1回」と見なせるということなのだろう。

私は同一時刻に同一作品を別のシアターで上映というパターンは初めて見た。吹替と字幕版がある映画でも、同一時刻に被るというのは無かったと思うのだが。それもあって「その手があったか」と感心してしまった。

 

なお、この時間帯の3番シアター(365席)を埋めたのは、公開6週目となる『冴えない彼女の育てかた Fine』(18:10~20:15)だった。*20すでに1日1回の上映回数になっていたのに、複製原画15枚を入場者プレゼントするとかいう特典商法により来場者数を増やし、1日2回の上映に増えた『冴えカノ』だ。

アナと雪の女王2』の3番シアターの上映が15:45~17:40と21:05~23:00であるので、その間隙を縫ってである。

一方10番シアター(332席)ではどの作品の上映もなかった。なら10番シアターを『誓いのフィナーレ』にあてがって1か所で上映すればいいのに、と思うけれど、その辺は劇場にも都合があるんだろう。たぶん10番シアターをドルビーシネマにするからだと推測する。立ち入れなくなってるから。知らんけど。

なんにせよ、2番シアター(142席)+8番シアター(87席)=229席での上映。

 

土曜日の回の埋まりは早かった。木曜朝9時の時点で全席埋まってた。

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私は例によって平日に鑑賞。

一連の特集上映では、映画のポスターがフロアに掲示されている。本作は上映場所が2ヵ所あり、建物自体北館と南館で分かれているが、ポスターは両方の場所にあった。

私は2番シアターで鑑賞したが、こちら側のポスターは監督の石原立也さん、キャラクターデザインの池田晶子さん、作画監督西屋太志さんのサイン入りであった。さすが

 

チケット予約したときの所感としては、『リズと青い鳥』のほうが出足が早かった気がする。『リズ』のほうが人気あるのか。私は『リズ』のほうが苦手なんだが。 

開場前の人だかりは『リズ』の半分ほどだった。もちろん、今回の場合は場所が2つに分かれているので、人も分散しているはずだから単純比較はできない。

 

それと、なぜか今回はフライングで開場した。MOVIXでは上映の10分前開場が決まりだが、普段の上映では開場が遅れて5分前くらいになることもしばしばある。京アニ特集上映ではちゃんと10分前には開場するようになっていたように思う*21。今回はさらに早く、13~4分前の段階で開場になった。

場内アナウンスは定刻通りだった。同じ作品タイトルを同時刻に別の場所で上映するので、どのようにアナウンスするのかと思っていたら、2番シアターへの案内が流れたあとにそのまま普通に8番シアターの案内が流れた。あたかも別の作品かのように放送しているのに作品名は同じだから、事情を解らない人が聞いたら混乱したかもしれない。

 

上映後の他の観客の様子だけど、「またか」の話になるが拍手する人のタイミングが出遅れている。『響け!』シリーズはなぜか毎度になってしまっている。

今回私はしばし余韻に沈む。そろそろ他の観客も()けたし帰るかと思って席を立ったら、後ろの座席に座っていた女性が放心状態にあるのか、微動だにして動かない。怖いと感じるほどで、それがなんか印象に残っている。

 

 

鑑賞状況の話をしておこう。

本作『誓いのフィナーレ』については未鑑賞だった。先週散々『リズと青い鳥』は苦手だという話をしていたから、さも本作を鑑賞済みだとの誤解を与えたかもしれないがすまぬ。

リズと青い鳥』のほうは劇場で2回鑑賞しており、記憶がはっきりしていないが、映画→原作小説→映画の流れだったはずだ。2回目に行ったのは石原立也さん、武本康弘さん、小川太一さんの舞台挨拶付き上映回だった。

 

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ところが結局『誓いのフィナーレ』のほうには行っていないままだった。なぜ行かなかったのかの詳しい事情は憶えていない。献血タイアップキャンペーンに行ってヘモグロビン濃度が足りなくてクリアファイル貰えなかった記憶が何か残ってる。

リズと青い鳥~大切な人と行こう、献血。~|新着ニュース・プレスリリース・イベント|京都府赤十字血液センター|日本赤十字社

 

『誓いのフィナーレ』の内容は原作シリーズ『波乱の第二楽章』(前後編)のアニメ化であるので、原作は既読である。

なお原作小説についてはこの部分以外未読で、前述のとおり第3巻や短編集が在庫切れの状態のままで入手していない。なので1~2巻、決意の第三楽章は購入したけれど、間の巻が揃うまで積読の予定。

久美子3年生編のアニメ制作発表がなされて、その後事件の余波でどうなるかと危ぶむところはあるけれど、パッケージにPVを収録するそうなので、ということはアニメ化してくれるのだろう。待つ。原作を先に読むか、アニメを先に観るかは悩んでおく。

 

こんなことを記したのは、『リズと青い鳥』と本作『誓いのフィナーレ』の関係を、やっぱりどうしても考えてしまうからだ。

原作では両者は一体となっている。前後編の構成にはなっているけれど、アニメのようにそれぞれが独立しているわけではない。逆に言うと、2本の映画に分割して制作されたことによって、それぞれのストーリーにも多少影響が及んでいる(と私は見ている)。『リズと青い鳥』に解りづらいところがあると前回書いたのも、そうしたことが一因にあるはずだ。

 

だから楽しみ方としては2本とも見たうえで各自頭の中で再合成したらいいのだろう。・・・それ言ったらTVシリーズからしっかりと見直せって話か。はい。

 

前言を翻す意図はないのだけれど、たしかに原作『波乱の第二楽章』を分割して映画にするなら、このような形での分け方のほうが良いと思った。前後編の分け方だと、間を置かずに連続上映にしないと厳しい。

というか現に本作『誓いのフィナーレ』も歯切れの悪いところがある。

関西大会での演奏シーンが本作の盛り上がり最高潮となるはずだが、そこで演奏する「リズと青い鳥」の練習シーンは、むしろ前作を思い出さないといけない。特集上映として観ているから先週の記憶で済むが、実際の公開タイミングだと約1年の時間的スパンが空いている。どうもマイナスファクターとして働いているように見えてしまう。

 

『誓いのフィナーレ』のもうひとつ不運なところは、区切りが悪いことだろう。

『ようこそ』は京都府大会の結果発表(関西大会出場決定)で終わるし、『届けたいメロディ』は当時の3年生の卒業(とくにあすか先輩からのバトンタッチ)で幕を閉じる。『リズと青い鳥』も一応の決着はついているだろう。

本作『誓いのフィナーレ』ではどういう終幕だったかというと、久美子が新しい部長になったことが明かされて終わっている。敗れて悔しくて終わり、というのでもなく、先輩からバトンを引き継ぐ具体的な描写も省略されている。3年生は引退しただけで、まだ卒業してはいないという理解であってるよね? 

 

フィナーレってどういう意味だっけ? そう考えてしまったわ。

他の3作品と比べると最も完結編っぽいタイトルにもかかわらず、むしろ一番畳まずに終わっている。伏線張りっぱなし。そりゃそうだ。繰り返すけど原作は『第二楽章』だからな。フィナーレではない。

麗奈との絡みも伏線のままだよね。大吉山で久美子に向かって不安を吐露したところ。プロになりたいと思う一方で、その道を歩んだらリズと少女のように離ればなれになってしまうんじゃないかと口にする。冒頭クラス替えの話題のときには友達要らない発言していたので、対照的な発言となっている。友達は要らないが、友達以上の存在(=「愛の告白」をした相手)である久美子は必要としている、ということだ。

この不安にどう対峙していくかは今後の展開となっている。リズと青い鳥』のパートを分離独立させたために、このシーンが余計に伏線張ったままに感じてしまう。

忘れがちだが、塚本との恋路の行方も本作で改めて伏線を張った。もともと『ようこそ』の段階で描写されてはいたが、『届けたいメロディ』『リズと青い鳥』を経て、すっかり塚本の存在をうっかりしていた。

そして言うまでもなく、久美子が部長として挑む全国大会と、それと並行して描かれることになるであろう、将来の進路問題。将来のことで悩むシーンはたびたび挿入されたし、父親とも会話させている。これの答えも今後の展開ということになる。

 

過去作から延長してきたことも含めて、伏線が散りばめられている。細かい伏線を挙げればもっとだろう。未回収の伏線のほうが多い。

 

あ、待って。ここまで書いていて勘違いに気づいたかもしれない。

「誓いのフィナーレ」って、あれか。「フィナーレを誓う」って意味か。フィナーレへの決意表明ということか。

未回収の伏線が多いのは、むしろそういうことじゃん。フィナーレは今回じゃなく次ってことね。

 

 

中身の感想に入る前に、映像的に気になったことを2つほど記しておこう。

 

まず、希美の存在。

前回の『リズと青い鳥』では主役の位置づけだったのに、今回は影が薄くなる。……だけならいいんだけど、完全に認識阻害を起こしていた。みぞれのほうは視認できていたのに、希美のほうは描かれてないようにさえ感じていた。大会での演奏シーンでフルート吹いてるのを見て、「あ、いた」とマジで思った。

『届けたいメロディ』を鑑賞したときには、ちらほらとは希美の存在を認識できていたのに不思議だ。『リズと青い鳥』のときのキャラクターデザインの印象が強すぎたんだろうな。

 

もう一点は宇治橋宇治橋が出てくる。宇治市が舞台の作品だから特段強調すべきことでもないが。

何かというと、上で『映画 中二病でも恋がしたい!-Take On Me-』について書いたときに、宇治橋を書き漏らしていたことに気づいたという話だ。作品数が多いから見落としがあるような気はしていたが、ここを見落としていたとはなぁ。

え、総集編で宇治橋って出てきてたっけ? 本作での宇治橋と『Take On Me』での宇治橋のカットは、アングルもすごく類似していたように思う。同じようなアングルで総集編でも出てきてたかが記憶に残ってない。

 

 

気を取り直して作品内容の感想。

あまりストーリーに関係ないとこから述べていくと、まず、ラブコメ要素が増したのが良かった。個人的主観だけど、ラブコメ臭が入るだけでぐっと楽しみが増す。

部活動に力を入れるほど恋愛が犠牲になってたわけで、これもトレードオフの問題であった。『届けたいメロディ』のときは恋愛要素が入ってこなかったけど、トレードオフの悩みという点は通底してるんだよな。もちろん、部活と恋愛を両立できるという人もいるだろうけど、その場合にはまた別の何かが犠牲になってるはず。人間の可処分時間は限られている。滝先生の「若さにかまけてムダにしている時間をかき集めれば…」のセリフを思い出すね。

まあ、そういうトレードオフ云々関係なしに、奏が久美子をからかってるのとかが好き。

 

久美子視点であることの安定性も先週との違いとして感じた。安定性というか安心感というのか。

面倒くせぇなって後輩が続々入ってくるわけでしょ。でもそれを見てワクワクしてしまう。自分が後輩の世話するのはイヤだけど、やるのは久美子だから。久美子がまた厄介事に巻き込まれたりするんだろうなって考えながら眺める。新しい登場人物がいろいろ増えるわけだが、観客としては久美子に視点を置いておけばいいから苦にならない。

久美子が主人公であることの大きなメリット(?)だと思う。

 

源ちゃん先生のくだりなんて、久美子視点だから成り立つ伏線よね。奏や緑輝ははやくから気づいてたろうから。久美子が苗字を確かめていたなら、観客に対しての伏線にはならなかった。

 

 

山岡ゆりに関しては『リズと青い鳥』の描かれ方のほうが個人的には好きだな。希美やみぞれとの絡みが良かった。大会後の演説も悪くはないんだけど、優等生臭い。ときに私情を露わにしながら人とぶつかったり、口ではカッコいいこと言いながら表情が崩れていたりと、そういうところに魅力を感じていた。

もちろん、空回ったり慌てふためいていた山岡ゆりが、最後には立派に部長を務めているというのは感慨深いところはある。ただそれに関しても、演奏前に夏紀に感謝を述べるところのほうが気に入っている。山岡ゆりの感謝の言葉と、それに対する夏紀の照れ隠し。こちらのほうが〈らしさ〉もある気がするし。このシーンのほうが私は感じ入るところが多い。

 

この描写がないと、観客としては山岡ゆりと夏紀の関係性に少しモヤモヤが残らないでもない。それは、すでに書いたように、『ようこそ』で山岡ゆりが夏紀の背中に顔を預けるというあのシーン以来の問題。

本作『誓いのフィナーレ』では、『ようこそ』で描かれたオーディションの葛藤が再び取り沙汰された。興味深いのは実力主義か人間関係(上級生優先)かという形で、昨年のオーディションの問題が単純化されて伝わっている(伝えられている)点だ。

対立の構図はそうではなかった。だってあのとき麗奈がソロに選ばれたことへの異議申し立ては、コネ(滝先生と古くから知り合い)だったことにあったのだから。

一番大きく抗議の声を上げたのが、本作では部長の山岡ゆりだった。彼女の抗議は、少なくとも表向きには実力本位論だった。麗奈が選ばれたのはコネがあったからだ、そうではなく実力によって選ぶべきだと主張した。上級生である3年生の先輩が選ばれるべきだ、と主張されたわけではない。

したがって実力本位で選ばれるべきという考え方自体は共有されていたのだ。そうでなければあのような形での異議申し立てにはならなかった。

ところが本作では、〈実力なのか上級生優先なのか〉という対立軸が生まれてしまっている。『ようこそ』のときには実力本位の競争であるべきという点自体に異論はなかった(ように描かれていた)。ところが『誓いのフィナーレ』ではその点に対しても異論が差し込まれているのである。

 

オーディションの論点がズレて伝わっている(伝えられている)ことは、こちらの対立軸のほうが本質的ではあることを浮き彫りにしていると言える。つまり、あのときの山岡ゆりの抗議は「上級生を優先してほしい」というのが本音だったのだ。だが本音そのままの抗議が許される環境ではなかった。だからこそ麗奈のコネ疑惑が持ち上がることが再オーディションの正当化のためには必要だったのだ。

ところが、そのような問題提起の仕方であったために漏れ落ちる人が存在した。その典型が夏紀だ。もしも山岡ゆりの抗議の理由が「上級生を優先すべき」であったなら、その声は夏紀にも届くものとなっていたはずだ。彼女もまた後輩の久美子(主人公!)に席を奪われた。しかも誰がソロを吹くかどころではなく、こっちは出場ができなかったのだ。

それなのに山岡ゆりが案じたのは中世古先輩のほうであって、夏紀ではなかった。3年生と2年生の違いはあるとはいえ、だからといって落ちた夏紀の背中に泣きつくというのは異様ですらある。そういう強烈な対比があのシーンだった。

 

この対比は山岡ゆりの性格や心情をうまく表してはいるけれど、夏紀との関係性という点に関しては、少々しこりを残すものであった。あくまで映画を観ている側としての話なので、原作やTV版や描かれていない設定があるのやも知れぬが、気がかりな点ではある。すなわち山岡ゆりの夏紀に対する感情だ。

もちろん山岡ゆりが夏紀のことを見えていなかったわけではないのだ。むしろ近い位置で夏紀の努力や頑張りを見ていたはずだ。山岡ゆりの感謝の言葉は、単に副部長としてのフォローのみならず、そうした夏紀への評価も含んでいよう。

照れ隠ししようとして隠しきれていない夏紀の反応がまたいい。平素と異なる。2人の関係性をよく示している気がする。このシーンがあるかないかで、2人に対する印象が違ったものになっていたかもしれない。

 

 

しかし、まあ、本作の軸になるのは新入部員の久石奏だ。久美子と奏以外のパートは言ってしまえば周辺部だ。加部ちゃん先輩や鈴木2人組も、奏との関連のエピソードだと言える。

各登場人物ごとにエピソードがあるから、てんこ盛りな総集編みたいな映画に感じるが、主軸となるのは奏だ。

 

夏紀に、久美子に、吐露した奏の本音。これ以降の一連のシーンが屈指。

その奏に対して、「もっとうまくなりたい」と両手を上げて答える久美子がまたいい。そして奏のこれまでの努力をしっかり肯定する。

本作はここが秀逸だと思う。例によって私はいま一歩泣けなかったんだけど、隣で座ってた女性が涙をたぶん拭ってた。

 

関西大会の演奏のまさに直前で久美子が麗奈のエピソードを伝え、その後、それに重なるように「悔しくて死にそう」のセリフ。久美子が「悔しい?」と尋ねるのがいい性格してるわ。そして久美子自身も自分の原点を再確認する。

 

みっちゃんや加部ちゃん先輩の話はこのくだりを一層盛り上げるための役割をストーリー上果たしている。みっちゃんに関しては、適切な言い方ではないかもしれないが、奏が久美子を試すための出しのような形で用いている。奏のイヤらしい性格も垣間見えてて良い。

 

原作を読み返してないので曖昧だが(後で読み返したい)、奏のファーストインプレッションは、アニメのほうが強調されているように思う。慇懃無礼なイヤらしさというの。本当に嫌味な性格とはまた違うような。

たとえば久美子と奏の出会いの場面。短いシーンでセリフもそう多くないのに、情報が凝縮されている。

奏は久美子に対して「優しいですね」と言う。久美子はそれをあすか先輩に向けられたものだと勘違いしたわけだが、奏がそれを否定しているので、「優しい」の言葉が向けられたのは久美子にほかならない。

では何をもって「優しい」と言ったのか。ハイコンテクストであるので、初見かつ原作未読だったらすぐには解らないような発言だ。当然久美子自身も「?」だ。

その前の発言から考えればそれは、久美子がそれほどユーフォニアムを好きではなかったにもかかわらず、先輩に薦められて今もユーフォを吹いている、その状況を指して「優しい」と言ったのだろう。これまでの作品を観てきた観客ならその点は理解しやすいが、奏は初めて接したにしては察しが良い。久美子の発言はそれほど詳細なものではなかったから、かなり的確な状況把握だ。

これは奏が空気を読める(読みすぎる)キャラクターであるということであるのだけれど、ここまで察しが良いのは久美子と奏が似ているからであろう。周囲の空気を読み、それに合わせながら、つかず離れずの距離感を取るようなキャラ。麗奈が引っ剥がしてやりたいといった優等生ヅラ。そういうのが(かつての久美子と)共通しているから、少ない発言から大体の状況を読み取ってしまって、「優しい」と評したのだろう。

だから「優しいですね」という短いセリフなのだけど、奏のキャラクターであったり、奏が久美子をどう捉えているかであったりを濃縮して伝えるものとなっている。

 

ダブル鈴木のどっちが好きかを久美子に尋ねたのも、久美子を試す意味合いが強いように思う。

奏はみっちゃん(定時帰宅で付き合いが悪いが実力はある)の側にいるように最初は見える。しかし後に明らかになるように、実力主義で良いのかという疑問も胸に秘めている。久美子に問い迫ったのは、そこに白黒つけたかったのだろう。

「どちらも好き」と答えた久美子の回答は、確かにちょっとズルい。ただ、それを聞いた奏も失望したわけではなく肯定しているから、久美子がそういう答え方をするのがなんとなく分かっていたのかもしれない。こういうところでの〈溜め〉が、最終的には「人畜無害な顔して人の懐に忍び込んで本音を引き出す」ような後の展開で爆発する。

 

改めて書いてみるとスゴイな。最初みっちゃんサイドにいるように見えているのは、ある意味友達を売ってるよな。本当は自分も思いっきり演奏したいのに、下級生が選ばれたらヤッカミをうけると思ってその気持ちを隠す。代わりにみっちゃんを使って観測気球を上げる。凄まじい。こういうキャラ大好きなんだけど。

奏がヒドいキャラということではなくて、空気が読めて計算高い人ならこれくらい普通なんだろうと思う。夏紀に向かって「策士ですね」という発言があるけれど、なぜそのような発想を自然としてしまうかというと、やっぱ自分自身が「策士」だからなんだろうなという気がする。

 

 

本作『誓いのフィナーレ』の本題は、報われない努力に意味はあるのか、ということだ。なぜ奏が自らの力にフタをしようとしてのかの理由の淵源はここにある。

結果がでないのなら頑張るだけ無駄ではないか。上級生を差し置いて下級生が出る意味はないではないか。昨年麗奈が選ばれたことだって結果が出たから文句が出なかっただけじゃないか。そういう一連の問いの根本にある、努力の意味についての普遍的な問い。

 

加部ちゃん先輩の件はこの前段にある。

ところで「加部」ってどんな漢字だろうと思って掲示ポスターのキャストを確認しようとしたら、書かれてなかった。主要キャラ扱いされてないのか。実質新キャラであるのはその通りだが。

 

久美子、麗奈たち主人公サイドの裏面、対照的な位置にいるのが加部ちゃん先輩だ。

ここに来てのこの対比がえげつない。『届けたいメロディ』のとこで「特別」になるための代償について書いた。トレードオフ問題として。しかし代償を払っても「特別」になれない人も存在する。当たり前なのだけど、作品的にはそれをスルーしてしまうこともできたわけだから、改めて示されると考えさせられる。

 

別に「特別」に限らない。「特別」に至る前の段だ。加部ちゃん先輩は敗れた側だ。しかも半ば敗れたことを自分で認めている。というより、敗れることで解放されることを望んですらいる。

求めているのは敗れ方だ。敗れることは構わない。それで楽になれるから。だが敗れたことを同情されたり、哀れまれたりするのは辛い。そういう心理がある。

顎関節症と言うんだったか。これがたとえば麗奈の身に起きたのならそれは間違いなく悲劇だ。しかし加部ちゃん先輩にとっては、諦める理由、きっかけを与えてくれるものにさえなった。これによって正当にドロップアウトすることができるから。

 

この気持ちにすごく共感してしまう。たぶん、私自身が半ば〈敗れた側〉であることを自認しているからだ。

比喩的に語るが、「死にたい」と思ったことがある人間は少なくないだろう。でも自殺までは選べない。死んでもいいくらいの気持ちはある。が、自らの手でそれを選ぶのはやはり躊躇するし、残された周囲の人も色々言うであろう。

だから不幸な事故に巻き込まれて死ぬとかがいい。それなら「仕方がない」と諦めるほかない。周りの人間も、不運な事故として悼んでくれるだろう。

ドロップアウトしたいと薄々は考えてはいるが、それができないでいる人間にとって、これは望ましいドロップアウトの仕方であるのだ。

 

加部ちゃん先輩にとっての顎関節症はまさにそれになった。

彼女だって努力しなかったわけじゃない。必死に食らいつこうとしたのだ(だからこそこの症状が出たはずだ)。それでも届かないときがある。でも歩みを止めることはできない。周りが歩みを止めないなかで自分だけが足を止めてしまうと、もうそこにはいられなくなってしまうから。

報われない努力は辛かったはずだ。だが、辛いなら止めればいいというほど単純なものでもない。それが〈努力〉〈競争〉が持つ構造だ。

 

これまでの『響け!』シリーズの作品では、〈敗れた側〉は表立っては描かれては来なかった。しかし存在していなかったわけではない。間接的には描かれてきたと言える。

本記事ですでに記したところで挙げれば、たとえば『ようこそ』でのオーディション後の拍手の場面。拍手したのは久美子と山岡ゆりだけであったことはすでに強調した。それ以外の部員は沈黙を選んだわけだ。どちらが選出されるべきか答えられない、どちらかに肩入れしたくない、自分と無関係な対立に巻き込まれたくない、多くの部員はそんな気持ちだったろう。そして中には、「上手い人が吹くべきとは理解しつつも、上級生が吹いたっていいじゃん。そのほうが丸く収まるし」と考える人だっていたはずなのだ。その一人が加部ちゃん先輩ということだ。

こう思い返せば、『届けたいメロディ』でのあすか先輩の発言も伏線だったと捉えなおすことができる。久美子の「みんなそう思ってます」に対して、「みんなって誰のこと」と返したあのセリフだ。久美子の心をくじくための言葉だったと考えられるけれども、あすか先輩は実際に部員の気持ちが一枚岩でないことを念頭に置いていたのかもしれない。加部ちゃん先輩のような人物が登場することで、このときのセリフが裏打ちあるものだったとの真実味が増す。

 

もちろん、実際には加部ちゃん先輩は新規キャラだ。『ようこそ』『届けたいメロディ』でも存在はしたはずだが、スポットは当てられてこなかった。『誓いのフィナーレ』に至って、ようやく名前あるキャラとして描かれることになったと言える。

これは今後部長を務めることになる久美子の経験として必要だったのかもしれない。一見部活動の秩序に調和的に見えて、内心では違うことを思っている部員がいること。部長としてはそうした部員たちにも目配せをしていく必要があること。加部ちゃん先輩の真意を聞けたことは、久美子の視野にプラスになったかもしれない。

 

〈敗れた側〉の加部ちゃん先輩ではあるが、このキャラが実力主義の論理を内面化していることは記憶されてよい点だ。

さきほど加部ちゃん先輩の心理として、「上手い人が吹くべきとは理解しつつも……」と書いた。この人は自分が〈敗れた側〉でありながら、一方で「上手い人が演奏すべき」ことを十分に理解していた。それを示すのが新入部員にガイダンスを行っているシーンだ。

みっちゃんと奏が「オーディションは純粋に実力で選ばれるのか、それ以外の要素が加味されるのか」という趣旨の質問をする。それに対して言い淀んだのは久美子だった。加部ちゃん先輩は実力だと即答した。

ポジション的に言えば、勝ち組は久美子で負け組が加部ちゃん先輩である。久美子は先輩である夏紀を蹴落として大会に出たのに対して、加部ちゃん先輩は出れなかったほうだ。オーディション選出のメリットを享受したのが久美子であり、割を食ったのが加部ちゃん先輩になる。しかし「実力で選ばれるべき」と即答したのは後者の側だった。久美子が返答に際して一瞬迷いを見せたのとは対照的だ。

加部ちゃん先輩は〈敗れた側〉だからこそ理解しているのだ。「実力で選ばれるべき」という論理を。そして理解しているからこそ余計につらいのだ。ドロップアウトしたときにほっとしてしまうほど追い込まれていたのは、競争の論理を内面化していたからなのだ。

 

加部ちゃん先輩は奏者としての道を諦め、マネージャーに転身する。奏者としての気持ちは久美子に受け継がせる形を取った。自らの夢の断念を、他人に希望を委ねることで昇華する。これが彼女の花道となった。

 

これが、奏の「報われない努力に意味はあるのか」の前フリとなっている。奏は加部ちゃん先輩の一件について多くを知るわけではないが、久美子にとっては(そして観客にとっては)加部ちゃん先輩のような例があることを知ったうえで、この問いをぶつけられることになる。

 

奏の夏紀に対する物言いが直截的だ。下手な先輩というのは存在が罪だ、と。ここまで強烈な言説が存在するような環境であればこそドロップアウトを内心望む者も出よう。

しかし夏紀は脱落しなかった。それどころか後輩に教えを乞うてまで上達しようとした。たぶんそれは奏にとっては理解不能な行動だったに違いない。

 

前述のように、久美子は奏の問いに対して「もっと上手くなりたい」と答えるのだった。合理主義的な打算のない、純粋な答え。その先に何があるのか、本人もわからない。知らないからこそ知りたいのかもしれない。

答えはシンプルだが、何も考えていないナイーブさから生まれた答えではない。『届けたいメロディ』であすか先輩や姉の存在を目の当たりにしてきた。2年に上がり将来のことに頭を悩ませるようになっている。父親との会話や、あすか先輩に再会していの一番に大学生活について尋ねたのは象徴的だ。

久美子も考え、悩んでいる。その末に、現時点での答えとして「もっと上手くなりたい」が出てくるのだ。初めからそう考えていたわけではなく、高校で一生懸命打ち込むうちにそう考えるようになった。麗奈の「悔しくて死にそう」を間近に見たのが出発点だった。

 

全国大会に出場できなかったという意味では、結果が出なかったということもできる。

ではそれは、奏の中学時代の状況と同じだろうか。違うが答えだろう。だが、なにが違うのだろうか。

ひとつ、夏紀も出場できていた点。もし奏が夏紀を差し置いて出場していたのなら、感じ方も異なっていただろう。

もしくは、負けたけど最高の演奏をしたと、そう山岡ゆりが総括した点だろうか。

あるいは、そもそも結果は関係なかった説。奏の頑張りを久美子は評価した。自分の努力をちゃんと見てくれる人がいた。そこだろうか。

 

もうひとつは、やはり「悔しくて死にそう」を挙げておきたい。

確かに全国大会出場を果たせなかったのは、〈結果〉を出せなかったということではある。しかし「死にそう」になるほどの悔しさを経験することにはなった。必死の努力を積み重ねていなければ体感できなかったであろう悔しさを得た。これも一つの〈結果〉であるはずだ。

初め久美子は麗奈の語る「悔しくて死にそう」を理解できなかったのだ。これができるようになったのは、彼女自身も必死の努力をするようになってからだった。

『誓いのフィナーレ』では奏も「悔しくて死にそう」の言葉を漏らす。おそらくは彼女も中学時代にはそう感じることはできないでいたのだ。陰口によるトラウマで、悔しさに至っていなかった。今回「死にそう」なレベルの悔しさを噛み締めているのは、北宇治高校の場に身を置き、頑張った〈結果〉であるのだ。

 

この種の強烈な悔しさというものは、必死の努力を伴っていなければ生まれるものではない。

勝つのと負けるの、どちらが嬉しいかという質問をされたら、前者と答えるのが普通だろう。では、楽に勝ってしまうのと、苦労の末に勝ちを手にするのだったら? 後者のほうが達成感、充実感を得られるはずだ。

それでは、辛く苦しく大変な思いをしたうえに負けてしまうのと、なあなあに楽しく過ごし、その結果として負けるのはどちらだろうか。奏が久美子に突き付けたのはこの最後の質問だった。どうせ負けるのだったら、後者のほうがマシではないか。

しかし2つの負けは同じではないのだ。本気で悔しさを感じることができるのは前者だけなのだ。

報われない努力に意味はあるか。この限りにおいては意味がある。この悔しさを味わうことができるというのが努力の意味だ。ここまで『響け!』シリーズで、麗奈、久美子、奏と、「悔しくて死にそう」の涙が描かれたのは、そのことを示しているのだ。

 

 

さてと、書くつもりのことは大体書き終わったと思うが、蛇足な妄想を付け足しておきたい。

最初に書いたように、私は原作の続きを読んでいない。読んでいないうえで、久美子の3年生編を勝手に妄想する。当たり外れとかは気にしない、願望だ。

 

全国大会金賞が次の目標となるのだろうが、これを別に叶えてほしくない。敗れ散ってほしい。麗奈は「特別」を目指してプロの道に歩みを進める一方で、久美子は一般の大学を志望してほしい。音楽は続けるが、それはあくまで趣味としてだ。

逃した金賞は奏の世代で取ってほしい。久美子はそれをOGの立場から眺める感じ。

 

全国金賞で終わったほうがハッピーエンドということにはなるのだろう。でも私は『響け!』作品を悔しさ溢れる作品として観てきたので、最後まで悔しさで終わっても全然問題ない。むしろそれを望んですらいるかもしれない。

これは久美子は〈こっち側〉であってほしいという、勝手な願望だ。〈こっち側〉というのは、「特別」にはなれない側。久美子には〈こっち側〉に属していてほしい。

こんなことを考えてしまうのは、久美子に勝手に自己を投影したくなるからだ。早くから才能を示していたわけじゃない。吹奏楽部に入ったのも、ユーフォニアムを選んだのも、大した理由がないなんとなく。一生懸命頑張っているのは事実だが、それは麗奈という存在に当てられ焚きつけられたのがきっかけだ。そんな久美子に自分を重ね、重ねるがゆえに「特別」になってほしくないと感じてしまうのだ。悲しいことに。

 

あまり自分語りをするのは避けたいが、結局、私は自分という存在を「特別」になれると思っていないのだ。いや「特別」になりたいと思いつつ、上記の文脈的に言えば〈敗れた側〉であると考えているのだ。

私の場合の悔しさの体験は高校ではなく大学に入ってからだった。むせび泣きを止めたくても止められないくらい泣いた。シャワーを浴びながら流す涙は、なかなか流れ切ってはくれなかった。翌日になって大学ノートに記録を付けているうちにまた涙が流れ、まともに文章を書くことができないほどだった。

そういう体験があって、一時はその道を歩もうとも思いつつ、しかしあの時は超えられないと感じてしまっている。あの時と同じくらい悔しがることがもうできない。それを自分で悟ってしまっている。あれがピーク(の悔しさ)だったと。

超えられないと思うのは、期間限定の努力だったろうと感じるから。期間限定の努力というものはある。期間が限られているからこそ瞬発的に頑張れた時間。でも、ずっとそのペースで頑張り続けることはできない。受験生の生活は、受験の期間が限られているからこそ続けられるような。

 

そして私は〈敗れた側〉なのだ。でもいいじゃないか。一時でも悔しさを味わえたのだから。それ自体は趣味として続けていくことができる。

趣味として続けていくだけなのだから、もう苦しい思いをしてまでのめり込むことはないだろう。楽しい部分だけかじって、気軽に続けていく活動だ。

悔しさを体験できたことは、趣味として続けるうえでもきっとプラスになっているはずだ。楽しい部分だけしか知らないで続ける趣味と、一度悔しさの底まで沈んでから続ける趣味は、きっと何かが違うはずだ。

そのように受け取れるだけで、とりあえずはいい。

 

身勝手な願望だが、久美子は〈こっち側〉であってほしい。「特別」を目指し、そうはなれなかった側。自分と近しい存在でいてほしいというだけの理由。

でも、思うのだ。そういう主人公を肯定してほしいと。

久美子は才能があって、その才能を持って周りを変えてきた人物ではない。どちらかといえば傍観者で、他の才能を見て、そこから刺激を受けてきた人物だ。「特別」でない人が「特別」ではないまま、でもその人生を肯定される。そういうのが見てみたい。願望として。

 

 

そんな願望を抱きつつ、でもやっぱ全国金賞を取っちゃうんだろうな、とかいう気持ちも抑えられない。私の自己満足的な妄想を粉砕してくれるような未来も見てみたい。

矛盾してるようだが、どっちもきっと本心なのだ。

中途半端でどっちつかずで、曖昧にぼかしてどっちとも解釈できるようなクライマックスだけは避けてほしい。それが私の今のところの希望。

 

原作の続きを読みたいが、しかし読みたくない。アニメ化まで待つか、でもアニメ化の前に読みたい気持ちもしないでもない。

人間の感情って、いい加減だな。。。

 

 

『劇場版 Free!-Road to the World-夢』(12/6~12/12)

12/10(火)鑑賞。5番シアター(142席)

 

おいこら。先週の私の「その手があったか」を返せ。

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19時の上映が2回あるとかいう、普段見かけない手を用いたのは「1日1回」の縛りがあるからだと思っていた。しかしMOVIXさんも気づいてしまったようだ。普通に別時刻に上映すればいいじゃん、と。

 

ちなみに、今週の18ー19時台の3番シアターを制したのは『ルパン三世 THE FIRST』(18:05~19:50)であった。『【吹替】アナと雪の女王2』が20:15~22:10を占める。

 

 

 

この間のニュースとしては、京アニの養成塾のブログが再開したことが報じられた。私がそれを知ったのは朝日新聞の報道だった。前回と同じく川村記者の記事。公式HPのスタッフブログのほうは以前封鎖状態。

 

『劇場版MUNTO 天上人とアクト人最後の戦い』の舞台挨拶上映回の当落発表もあった。私は当選。やったぜ。3番シアター(一番大きいとこ)だそうだ。

空を見上げる少女の瞳に映る世界』を視聴できていないのだが、なんとかなるだろうか。

 

それから『バジャのスタジオ』のブルーレイが届いた。

やけにデカい箱で届くなと思ったら、茶封筒も付属していた。コンテが付くのは知っていたが、封筒について商品説明あったっけ?

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そういえば、アニメイトに立ち寄ったら『中二病』の原作第4巻が補充されていた。公式通販サイトはまだ在庫切れなのに、仕入れできるのか。

境界の彼方』『たまこラブストーリー』『響け!』第3巻ほかも入荷してくれ(定期)

 

 

 

さて『劇場版 Free!-Road to the World-夢』。

まず会場の様子。

1日2回の上映となっているけれど、開場前のフロア待機勢の量はそれほど変わらない印象。上映回数が増えたおかげか、総集編だからか、あるいはこの前公開したばかりの作品だからか、まだ座席の余裕はあった。

フロアには『ハイ☆スピード!』のときにも設置されていた人物大のパネルが再び。何人か写真を撮ってて、私も一応また写真を撮ってた。

女性比率が多い話はすでに書いたけれど、単に女性が多いだけでなく二人連れとかが多い。だから上映前に談笑がよく聞こえる。予告編が流れていないだけに余計に。

このあたりが『中二病』との違いだな。やけに静かだったもんな。人がいないわけじゃなく、物音が聞こえないことはないんだけど、会話してる人がいない。みんな黙って上映までの10分弱を待っているという感じ。

 

唯一流れる予告編映像は来年公開の『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。公開時期が暫定的に「鋭意制作中」となっていたが、4.24の日付入りに変わっていた。

すでに記したと思うが、11/9には延期後の公開日が発表されていたのだが、予告編の日付はしばらく「鋭意制作中」のままであったのだった。

単に私がボケっとしていただけで『リズ』とか『誓いのフィナーレ』のころには差し替えられていたのかもしれないが*22、とにかくこのころには変わっていたということだ。

 

 

作品自体の感想をなにか書きたいところだが、書きあぐねている。特集上映では『Free!』シリーズの作品が多かったけれども、ここまで綴ってきた文章を読んでくれているならお察しのとおり、どうも『Free!』は苦手だ。

わりと切実にどうやって楽しんだらいいのか知りたいほどだ。もう今さら遅いかもだが。

 

本作『夢』(この略し方でいいのか)TVシリーズ第3期の総集編だ。新規カットも入ってるのか。もう自信ない。あまり真剣に見てなかったからな。

春に家族で一挙見もしたが、途中寝てしまったし。*23

 

映画冒頭部分ではやはりダイジェスト回想シーンが挿入される。

気後れする。この時点でもうダウンワードする。ダイジェスト回想には『小鳥遊六花・改』以来、あまり良い印象がない。ダイジェスト回想が入っていない総集編が見たい。

 

でも、今回見せ方がすごかったな。小学生時代を持ってきて、あたかも回想シーンの風体で未来のシーンを流してた。未来回想だ。ダイジェスト回想にするとセリフが入れられないからな。小学生時代を現在から回想するという形ではダメだったわけだ。

そして夢について語る場面から一気に魔法のランプに持って行く。ここをつなげてくるとは、まさかだったぜ。

怜がギャグ要員になってるけど、その認識でいいのか。

あと、ここに来てキスミ(漢字がわからん)と宗介が同じ小学校だったことを知る。

 

 

ほんとになんだろう。なにがテーマなのかもイマイチ掴めない。なのに新キャラが続々と出てくる感じ。ちょっと待ってくれ、ついていけない。

郁弥の扱いも前半だけなのかよ。『ハイ☆スピード!』に始まり、『絆』『約束』さらには特別版でも引っ張って、どんなけ引っ張るんだよと感じさせつつ満を持して登場かと思いきや、その割には早いよね。もっと色々あるのかと思ってたわ。いや、なんとなくはTV版も見てたから知ってたけど。

ハイ☆スピード!』『絆』『約束』のときってメドレーリレーが描かれていて、チームというものを描いているだってのがまだ伝わるけど、本作はもうリレーの話じゃない。自由形(フリー)が混戦だ、みたいな話になってて私の頭が混線する。久美子みたいなキャラをくれ。

 

上映終了後にいろいろ考えた挙句の結論。同窓会だ、これ。同窓会アニメなんだ。そうに違いない。そう考えるとしっくりくる。

・松岡凛が宗介だったり遙だったりに再会したときに「久しぶり」と口にする。久しぶりも何も半年も経ってないだろ、卒業旅行とか一緒に行ってたやんけ、と勘繰ってしまう。しかし彼らの中では「久しぶり」という感覚なのだ。その時間感覚をまず共有する必要がある。

・郁弥と一緒に泳ぐためだけに個人メドレーを泳ぐ遙。「どういうことだよ」とツッコミを入れてはならない。彼らのとっては、同じプールで隣に並んで泳ぐということに、高い価値があるのだ。そういう再会の場面なのだ。郁弥「約束憶えててくれたんだ」遙「忘れるはずないだろ」。それに対する私「約束ってなんだっけ?」

・郁弥の傍にいつもいた人(ダメだ。名前が思い出せん)。実は幼いころに出会っていた2人だった。ヒーローに憧れた郁弥だったが、彼にとっては郁弥こそヒーローだったのだ。

・ついに再会を果たした怜と旭。『ハイ☆スピード!』で会話して以降はニアミスですれ違いを繰り返してきた2人。それが本作では運命(?)の再会を果たす。名前も知らなかったのに、2人ともよく憶えてたよな。赤いメガネはこのために外せないアイテムだったのか。観客としては、これまでの焦らしにもどかしさを感じつつ、このときにボルテージを解放させればいいんだな。

・郁弥と旭。鏡に向かって「自分は天才だ」という、中学時代の思い出話に花を咲かせる。

・遙と凛が後輩の大会を見に行くのは、同窓会のために練習休むという体だよな。

・遙と凛のコーチ。この2人も知り合いだった。というか浅からぬ因縁を持ってたっぽい。

・松岡ゴウと御子柴の妹。筋肉フェチで意気投合ってなんだよ。

・バスケ部くんが同小(おなしょう)同中(おなちゅう)の友達の橋渡し。

・似鳥と渚の組み合わせもあった。2人とも顔が少したくましくなってた気がする。

・最後のほうに出てきた泳ぐの速い人。郁弥たちに喧嘩売ってたけど、そんなことより「ここも知り合いだったんかい」がまたしても発生。

 

思いつくとこだけ列挙してみたけど……いや、多くないかこれ。

ほとんどが再会のパターンであり、そうでなくても「噂で聞いてるぜ」がデファクトスタンダードになっている。

大学・東京へと世界が広がったのに、あまりそのように感じないのはこれが原因じゃなかろうか。

きっとこのアニメは再会を楽しめばいいんだ。久しぶりに会って「成長したな」とか「変わってねーな」とか言い合ってお互いを確認するんだ。つまりこの作品で描かれているのは同窓会的なことなのだ。

 

涼宮ハルヒの消失』(12/13~12/19)

12/17(火)鑑賞。3番シアター(365席)

 

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火曜の朝にMOVIXのページを覗きに行ったらこうなっていた。

左が当初のもの、右が現在のもの。「※上映は1日1回となります。」の文言が削除されている。説明もなく、しれっと。いつ変更されたかは分かりかねる。前週の『Free! 夢』がすでに1日2回上映になってたからな。それに合わせた修正だろう。

 

朝に確認した段階ではなぜか日曜と火曜の19時の回しかなく、しかも6番シアター(138席)だったから「?」となっていたのだけれど、昼に改めて確認したら更新されていた。

19:00が6番シアター、20:15が3番シアター(365席)の上映である。後者は、MOVIX京都で一番広いところだ。

 

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 まだ画像サムネイルが準備されてない。

 

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6番シアターのほうが売れるのが早い。時間帯の問題もあるだろう。

18~19時台の3番シアターは『【吹替】アナと雪の女王2』(17:40~19:35)が入っていた。

涼宮ハルヒの消失』は20:15の回は3番シアターだが、上記のとおり土、月、木曜はその回がない。土曜日の3番シアターは『冴えない彼女の育てかた Fine』(20:20~22:25)がこの時間帯を占有した。公開8週目の『冴えカノ』である*24

 

本作は上映時間が長いため、20:15の回は上映終了が23時。ギリギリで18歳未満OKだな*25

京アニの映画作品は100分前後の尺が多い。短いものだと『たまこラブストーリー』の83分、長いのは『映画 聲の形』で129分だけれど、大体が100分ほどの作品となっている。本編150分の本作は最も長尺になる。

 

 

私は3番シアターで鑑賞することにした。こちらのほうがデカいスクリーンになるから、迫力も大きいに違いない。せっかく映画館の画面で観るのならそのほうがいい。

いつも通りというか、上映の15~20分ほど前には到着したのだけれど、3番シアターということもあって開場前でも人がすでに多い。ポスターの写真を撮るのも小さく列ができていた。今回これまでと違ったのは、フロアのポスターと、「開場中」の札のビジュアルが異なっていたこと。

 

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ざっとした印象だけど、『響け!』の総集編が一番観客の年齢層が高かった気がする。ちゃんと観察してたわけじゃないけれど。

『響け!』はなぜかいつも拍手が不発か遅延発射みたいになってた印象があるけど、本作は先陣切って大きく拍手してくれる人がいたから、こちらも拍手しやすかった。

 

 

私が『消失』を初鑑賞したのは昨年夏のニコ生。8月31日にかけて「エンドレスエイト」を垂れ流し続ける企画の次の日に上映したやつだった。

涼宮ハルヒの憂鬱 エンドレスエイト88時間放送|ニコニコインフォ

 

バカげた企画だなと思いつつも、エンドレスエイト見てたな。あれが去年のことなのか。もっと前の気がしてた。でも確かにその通りだ。当時就活に敗れた後の傷心した状態で眺めてたんだった。残念ながら就活に惨敗してるのは今年も同じなのが辛いところだ。

 

本作『消失』は、これまでの伏線や小ネタを回収している作品でもあるので、TVシリーズを見直してから観に行ったほうがいいとは考えていたものの、なかなかまとまった時間が取りにくかったのもあって、代わりに原作を読んでいくことにした。

原作小説は『涼宮ハルヒの憂鬱』『涼宮ハルヒの溜息』『涼宮ハルヒの退屈』『涼宮ハルヒの消失』…の順に出ている。角川文庫版が出版された折に本だけは買っていた。

時間的に『憂鬱』『溜息』『退屈』までしか読めなかったが、『消失』以降は今回の鑑賞後にじっくり読むことにする。

 

 

うーむ。

改めて鑑賞したわけだけど、面白いなこの作品。いやいやいや、むっちゃ面白いんだけど。逆にどう感想を記したら良いか迷うレベルで、面白いのは間違いないというか言うまでもないというか、なんだかんだ出てくる言葉が「うむ、面白い」ということになったりする。感想書いてるうちにもう少しこの気持ちを整理できるだろうか。

 

嘘じゃなく言っとくけど、冒頭からワクワクが抑えられなかった。「冒頭」と書いたけれど、プロローグとかOPとかそういうことじゃないぜ。期待に胸を膨らませていた、とかそういう意味でもなくて。(期待はしてたのは事実だけど)

冒頭というのは、本編前の会社の名前がいくつか出てくるところだ。

すでにどこかで書いたが、本作(と次週の『天上人とアクト人最後の戦い』)は配給が松竹じゃない。だから冒頭映像が異なるのだ。はじめに角川書店が出て、角川映画京都アニメーションランティスクロックワークスと紹介される。この度の一連の特集上映で観てきた作品群と異なっている。しかも京都アニメーションの地球のところ、効果音が入っている。派手めなサウンドエフェクト。ほかの作品では無音だったはずで、たしか『リズと青い鳥』のときだけ吹奏楽部の練習音が被せられていたくらいだ。この始まりは新しい。(むろん、実際の公開年は本作のほうが古いのだけれど)

 

会社名の紹介がいつもと違うからといって何がそんなに、と思われるかもしれない。しかしこの部分だけで私の中のワクワク感が一気に増したのは事実なのだ。

理由を考えてみたけれど、おそらく「いつもと違って珍しい」ということと、角川、京アニランティス…とてんこ盛りな感じが良かったのかもしれない。これが『ハルヒ』に対して持つ印象にマッチした、と言えるのではないか。

珍しいもののてんこ盛りというのは、『ハルヒ』シリーズのひとつのキーポイントだ。

作中には宇宙人、未来人、超能力者が登場する。まさにキョンが語るとおり、どれか一つでも十分なはずなのにそれが一堂に会してしまっている、そのてんこ盛り感。これは『ハルヒ』という作品の大きな魅力のひとつだ。

無理やり結び付けてしまえば、そういう『ハルヒ』作品の魅力的な雰囲気を、はやくも会社名のくだりで感じてしまったということだ。いやもう、単に私が待ち焦がれていたのだという心理状態が、そう感じさせるように作用させたのかもしれない。なんでもいい。早くも私は胸躍る高揚感を感じ始めていた。

 

次の胸が高鳴るポイントもその直後にやってきた。キョンのモノローグだ。日付を言うだけの本来なんでもないセリフだ。その日付がだが、12月16日だった。

なんとタイムリーな、ドンピシャなジャスミートなタイミングであることか。この瞬間まで完全に失念していたが、本作は12月16日からクリスマスイブまでの期間が描かれる。この時期での公開は、これ以上ないくらいのグッドタイミングだ。

偶然でこうなったのだとしても、なかなか洒落ている。先ほど上げたポスターの写真に公開日が記されているが、当時は2/6の封切であった。実際の映画公開当時よりもタイミングが符合しているではないか。

もしかしてMOVIX側は意図的にこれを狙ったのか?

特集上映での作品の日程は基本的には公開年順になっているのに、本作『消失』と次週の『天上人とアクト人最後の戦い』(劇場版MUNTO)についてはそうなっていないことはすでに書いた。最初は配給元が松竹じゃないから別建てみたいになったのだと推測した。『劇場版MUNTO』がデジタル化するとの報があって、それが理由かなとも思った。実はそう見せかけたミスディレクションで、本当は『消失』をこの時期に公開したかったのだ、と妄想を膨らませるのも粋がある。

 

もともとを考えると、今回の特集上映は『ヴァイオレット外伝』の公開時期に合わせたのだったのかもしれない。MOVIX京都と違って、新宿ピカデリーの上映は日替わり上映であり、その最終日が9/5だった。

 

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京都アニメーション映画作品 特集上映について|松竹マルチプレックスシアターズ

 

『ヴァイオレット外伝』の公開日が9/6(金)だった。

公開から時間の経ってない『誓いのフィナーレ』『Free!夢』を除いた14作品の上映を、9/6に合わせたと言えそうだ。

MOVIX京都の場合は日替わりではなく週替わり上映であったが、8/23(金)から始まったのは同じ。新宿ピカデリーとスタートの足並みを揃えたのだろう。

・・・と考えると、『消失』の公開時期が今になったのはやはり偶然か。しかし偶然だとしてもテンションが上がったことに違いはない。もし仮に1週間タイミングが早かったなら、「惜しい」と思わず感じていたはずだ。ならば最高に偶然が味方したと考えよう。

 

 

作品の内容に戻ろう。

例によってSOS団が集まって、クリスマスイブのパーティーを企画する。企画というかハルヒの一方的な押し付けで始まるのは毎度のとおり。

物語が開幕する前の日常パートだといっていい。この日常パートがすこぶる楽しい。眺めているだけで果てしなく楽しげな気分にさせてくれたのだが、こんなに訴求力強かったっけか。これが京アニの描く日常パートの真骨頂か。

改めて思い起こせば、ずっと特集上映を観てきたのに、日常系はそんなにはなかった。ここんところは『響け!』『Free!』が続いてたし、『たまこラブストーリー』や『中二病』だって、あるいは『境界の彼方』にしろ、笑えるコメディ要素を持っているけれど、それは本人たちが至って真面目なのを外から眺めることによる笑いだ。『特別版Free!』もあったが、遙や宗介といったキャラははしゃぎ倒すような性格ではない。

となると『けいおん!』になるのか。映画作品のためか、意外と少ないのだな。

 

ハルヒの強引っぷりと、すました顔して巻き込まれるキョンのやり合い、SOS団でのひと騒ぎを久しぶりに見た気がするが(言うてそんな時間経ってないか)、心底気持ちよく感じる。愉快な仲間たちだよな。

 

アニメーションの表現的にも、いつもと違う特別感を感じる。

フルアニメのヌルヌルやスローモーションの動き、3Dを利用した回り込みの視点、そういうのが普段より多用されている。特集上映の順番的には、制作年が大きくさかのぼることになったのに、古さを感じさせない。というかむしろ、近年の作品ではあまり用いなくなった手法を使っていて、変な感想かもしれないが豪勢だなと感じるのだ。

京アニクオリティと称されるように、質が高い点は言うに及ばない。ただ京アニはTVアニメのクオリティがもともと高いから、劇場版になって大きく変わり映えするという感じではない。ほかのTV作品だったら、劇場アニメ化したら絵が綺麗になっていたりして「さすが劇場版だな」と感じることも多い。京アニはそういう落差を感じない。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』を観たときも、たしかに映像は美しかった。しかしあの作品はTV版の映像の時点でものすごくクオリティは高かった。だから驚きの落差はそんなになかったように思う。

「豪勢」と書いたのはそういうことだ。劇場版としての特別感を感じる。本作公開当時の京アニは、今みたいに毎年映画を公開するようなペースではなかったから(本作で2作目)、それだけ力を入れていたのかもしれない。

 

最初の日常パートではモブもよく動いてたな。なんならキョンより活発に動いてたんじゃないか。日常描写だからこそしっかり力を入れて描いてるんじゃなかろうか。

この特別感や日常描写の繊細さを観客に感じ取らせたのち、ハルヒが消失した世界を目撃させる。世界の見え方が変わる。色調がすでに違う。ハルヒがいないだけで世界はこんなにも殺風景になってしまうのだと、そう示されるようだ。楽し気な日常描写からの落差に圧倒され、呑み込まれる。

キョンが起床するシーン、登校するシーン、谷口と会話をし教室に向かうシーン。繰り返しの日常で、それはこれまでと変わらないはずなのに、キョン本人と違い、観客にとってはすでに違和感が漂っている。観客は気づいているのに、当の本人は感知していないというような、ホラー的なスリルの緊張感に近いだろうか。

 

息を飲むなか、ハルヒ消失の事態についに勘づく。

決定的なのは朝倉の登場。異常状態の演出。一人の人物の登場がここまで動転を誘うことがあるのか。明らかに伝わってしまうほどのキョンの動揺っぷり。国木田にも心配される。「なぜお前がここにいる」と直接的に尋ねてしまうほどなのは、それを表している。普段のキョンならばこんな不躾な尋ね方はしなかったろうに。

その後の朝比奈さんを見つけたときもそうだ。希望の後の落胆。いくらなんでも胸のほくろをいきなり見せてくださいはヒドい。それほどまでに切羽詰まっている。

 

しかしこの状況が特異なのは、これが平常な世界であることだ。

キョンはこれまでSOS団の活動で摩訶不思議な出来事に巻き込まれてきた。それは通常起こりえないことが起きるという意味で異常なのだった。だが今回はそうではないのだ。世界は全く平常でおかしいところがあるわけではないのだ。それどころか、キョン自身が望んでいた世界でもあったはずなのだ。

周りの世界が平常であることがこんなに不気味であると想像しえたであろうか。

1年9組の教室がクラスごと消失しているとき、キョンはチャイムが鳴ったことにも気づけないくらい心を乱している。自分の教室に帰ろうとして、足が震えてまともに歩けなかった。これまでの事件では見られなかったほどの動揺なのだ。それにもかかわらず、全世界見渡しても困っているのはキョンひとりだけなのである。恐ろしい。

 

「こんな状態に置かれて発見したよ。俺はなんだかんだ言いながら今までの暮らしがけっこう好きだったんだな。アホの谷口や国木田も、古泉や長門や朝比奈さんのことも。消えちまった朝倉をそこに含めてもいい」

「……何言ってんの?」

「俺は連中ともう一度会いたい。まだ話すことがいっぱい残っている気がするんだ」

谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』角川文庫273頁)

 

閉鎖空間に閉じ込められた際の、キョンハルヒの会話だ。『消失』の状況と好対照をなしている。朝倉の名前が出てくるのもフラグになっている。

フラグということでは「この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい」(同11頁)もそうなるか。改変された世界ではキョンがある意味では異世界人に相当するのだから。

 

文芸部室のパソコンが手掛かりになると思わせておいて、そうでないという展開が憎らしい。キョンが万事休する状況が、そのまま観客の私にも伝播するようだ。光明見えない暗中だからこそ、『ハイペリオン』に挟んだ栞がどんなに希望に感じられることか。これだけではまだ何も解決の糸口になっていないのに、たったこれだけ希望の糸が見えただけで歓喜してしまう。唇をかみしめ、震える手で栞を握るキョンの心情がいたく伝わってくる。

ハイペリオン』は未読ゆえ、これも読まねばな。

 

 

 

さて、と。

本来ならまだまだ感想を記していくところなのだが、実はそれを書き終わらぬうちに2回目の鑑賞に行ってきた。もともと本記事は鑑賞後に大学ノートに箇条書きにしたメモを元にして書いている。

なぜ今そのことを書いているかといえば、2回目の鑑賞ですでに書き漏らしが生じていることに気づいたから。起承転結でいえばまだ「起」しか書いてないのに。

日常パートがすごくワクワクするという話を書いたのに、劇伴音楽やOPに触れていなかった。ここはやっぱ大きい要素だと思う。音楽がかかるだけでテンションが上がる。OP曲中の映像を見るだけで「いつもの風景」を感じることができる。

モブが動く話もしたけれど、エンドロールを確認すると、ちゃんとモブに名前がついてるんだな。クラス名簿をチェックする場面があるから、設定されてるのか。『響け!』のときには「吹奏楽部員」で括られてるのに、加部ちゃん先輩とかクレジットされてなかったのに。

 

「カレーライス」「互いに素」シリーズは、今回は徒然草と歴史の授業(室町時代?)と「塩酸と水酸化ナトリウムが仲が良いか」だったな。徒然はそのまま退屈な日常を指し示すものだし、歴史の授業は板書を消してしまう様子として描かれ世界改変を暗示させる。

塩酸と水酸化ナトリウムについて「仲が良い」とする感覚はちょっと面白い。一般の感覚で言えば酸性とアルカリ性なのだから性質は正反対。それを仲が悪いとしていないのが変わっている。この作品でこの話題が出てくるのは、ハルヒキョンのメタファーと捉えうる。あるいは宇宙人や未来人や超能力者の集まりというSOS団と、ただの人間たるキョンか。それを実は相性が良いと捉える発想になる。

 

 

2度目の鑑賞になると、疑問点を整理したうえで集中して観ることができる。たとえば結局谷口の恋人はどうなったのか、世界が元に戻ったから恋人も復活したんだろうか、という謎。谷口って完全にもらい事故だよな? 未来人や宇宙人を一般人に改変するだけでいいはずなのに、なぜか恋人がいない世界に変えられて。元の世界に戻ったんなら、恋人も元通りになったんだろうか。

これは描かれてるわけではないから、2回観ても解らないんだけどね。

 

朝比奈さん(大人バージョン)がキョンに何を呟いたのか。古泉の場合は電車の音でかき消すようだけど「羨ましいですね」のセリフは聞き取れる。朝比奈さんは口パクでセリフ喋ってないよね? 明言されてるわけじゃないから、色々考えられる。

その1。愛の告白。麗奈かよ。

その2。羨望。古泉かよ。

その3。感謝。羨望と感謝も可能性としては考えられる。朝比奈さんは「まだ時間あるから」といって少々唐突に昔話をする。SOS団で過ごした、何でもないと思っていた日々が、いつか青春の楽しかったと思い出になる日が来る。そういうノスタルジックな色調帯びる発言。蝶が舞うのは「胡蝶の夢」の故事を匂わしているのだろう。そういう環境に身を置いている現在のキョンに対しての、あるいはかつての自分が共に過ごした相手であるキョンに対しての、その言葉だという可能性もなくはない。

その4。謝罪。その後の展開を考えたらこれかな、と思う。

未来人であるからキョンが刺されることになることも当然知っているわけだ。高校生バージョンの朝比奈さんも立ち会ってるから、知らないはずはない(古泉は今回の一件のことを知らない可能性はあるわけだが)。知りながら、でもその未来に向かって誘導せざるを得ない。そのことへの罪悪感・良心の呵責ないしは自分への無力感があり、それを考えての発言なら、謝罪の言葉だったのではと想像できる。しかも朝比奈さんは黒幕を知っているのに「犯人は涼宮さんではありません」と直接には答えない。自分で説明できないわけでもないのに、長門自身の口から説明させている。悪く言えば、嫌な役を押しつけている。

長門のマンションの前で「苦手」だと呟き、それに対してキョンが「わかります」と答えているけれど、この段階ではキョンは真意をわかっていないはずだ。

 

朝倉は人間ではないよな。もちろんキョンに2回同じこと訊かれたとしても、正直に言うわけないし。エレベーターのところで「まるで宇宙人でも見たような顔して」というのは、自分がそういう存在だって自覚して発言してるんだよね? 常人がたまたま「まるで宇宙人…」と言ったわけではなさそう。そうでなかったら真夜中(早朝)にナイフ持って学校の近くにいるなんてありえないものな。

 

問題は改変後の世界の朝倉が、なぜ生み出されたのかということだ。

キョンは刺されたとき、朝倉を長門の影役だと考える。エラーの蓄積した長門が生み出した際、そのエラー部分が移ってしまった存在。意図せずして、間違ってこうなってしまったと、そう考える。

だが、この考え方はキョンの願望が強く混じっている。「長門がそんなこと望むはずがない」と。そう望んでいるがゆえに、この朝倉の存在を信じられない。脱出プログラム通りの実行を阻もうとするこの存在を理解できない。

 

しかし駆けつけた未来のキョンは「ワケあってこうするしかなかったんだ」と声をかける。この発言の意味するところは、朝倉による妨害はエラーやバグの類ではないということだ。もしエラーやバグなのであれば、単純にそれを取り除けばいい。ところが未来からやってきたキョンたちは、そうしなかった。そうできない「ワケ」があった。すなわち刃物持った朝倉の存在は、エラーではなく必要なプロセス、キョンが通過しなければならない出来事なのである。

 

だから朝倉の存在は(キョンの願望とは違って)、長門自身が望んだものだと考えるべきであろう。長門は朝倉という保険をかけたのだ。つまり長門は改変した世界を元に戻されることを望んでいなかったのだ。

 

この辺は2度目の鑑賞を経てから考えた解釈だ。この解釈の確認のためにもう一度映画を見直したら、また解釈を修正することもあるかもしれない。とりあえず現時点での解釈として書く。

 

まず3年前の七夕の日に、キョン長門に問いかけた「待つのか」の意味。これがダブルミーニングとなっている。一つ目の意味としては、この部屋で、時間凍結した2人の傍にずっと居続けるのか、ということ。これが単純な意味。

もう一つは「(何もしないで)待つのか」「待つだけなのか」という問いかけ。

この時点での長門は3年後の12月に自分が状態異常を引き起こすことを認知している。認知しながら、そのことに対して何もアクションを取らないのか。将来自分が何を引き起こすか知っていながら、なすがままに放置するのか。それを問う意図と捉えることもできる。

 

これに関しての応答は、世界を元に戻した後に屋上で長門キョンが交わした会話がある。「事前にこうなることを教えておいてくれても良かったじゃないか」と言うキョンに対して、仮にそうしたとしても状態異常になった長門はその記憶も含めて改変するだろうと説明する。

今回の一件でも、実はキョンは狂う前の長門から事前に情報を伝え聞いていたかもしれないが、その記憶も含めて改変された可能性があるのだ。

キョンは「緊急脱出プログラムを用意しておいてくれたじゃないか。それで十分さ」と応じる。

 

つまり、あの栞を用意したのは状態異常になる前の長門なのだ。そしてそのことにキョンも気づいている。

もともとキョンはこのようには解釈していなかった。世界改変を起こした長門自身が用意したものだと考えていた。元の世界と改変後の世界のどちらを好むか、選択をさせるためなのだと捉えていたのだった。

だが、朝倉が登場した事実からこの解釈は成り立たない。キョンに選択させるためなのだったら朝倉を用意してはいけないはずだ。長門は世界改変を望んだのだ。

だから脱出プログラムを残したのは、状態異常ではないときの長門であろう。そう考えれば手掛かりに乏しいハードモードだったことも説明がつく。ギリギリあのような形でしか脱出プログラムを残せたなかったのだ。もしキョンにどちらかの世界かを選択させる意図なのだったら、もっと簡単な選ばせる方法はいくらでもあるのだから。

 

なぜキョンだけは記憶を改変されなかったのか。『ハイペリオン』に栞を残すことは可能だったのか。キョンに選択をさせるためではなかったのだとしたら、理由として考えられるのは、キョンとの思い出を抹消したくなかったからだろう。改変後の世界では、長門キョンの接点は図書館での出来事しかないのだから、キョンの記憶まで改変してしまうと、キョンが文芸部を訪ねるということもありえなかっただろうし。

 

 

世界改変をしてしまうまでに長門が状態異常になってしまったのは、エラーが蓄積されたからだとされる。キョンはエラーやバグではなくて、感情が芽生えたのだと認識した。

しかしながら、その認識では不十分だったのだ。長門キョンに選択権を与えたのではなく、改変後の世界を望んだのだ。栞のメッセージは見つかりにくく解りづらいものだったし、保険として朝倉も存在していた。

「ワケあってこうするしかなかったんだ」は、この点に関してである。長門の気持ちに気づいたうえで、そのうえで判断をすることが必要だった。

 

元の世界を選択したとき、たしかにキョンにも葛藤が存在した。宇宙人や未来人のいない世界ではなくて、いる世界を自分は望んでいるのだはっきり自覚しなければならなかった。キョンのモノローグには、つまらない下らない迷惑、などと気取った態度が表れていた。でも本心は「面白いに決まってるだろ」と感じていた。それを表明せねばならなかった。

しかし葛藤がその段階にとどまるならば、そんなものは甘っちょろい。自分の気持ちに正直になるという、それだけのことだ。

 

キョンの葛藤を表す演出は、たしかに見応えがあった。自分自身と対峙し、踏みつけられ、それを跳ね返す。キョンが主体的に決断を下す際の、これまでにない描写の仕方だった。

ただしこれは自分の中での葛藤に過ぎないのだ。現実にはもっと大きな覚悟を要さねばならなかった。長門の意思を無視してでも元の世界を望むのか、ということだ。

長門は改変後の世界を望んだ。キョンは初めそのことに気づいていなかったから、自分に選択権が与えられたのだと思い込んでいた。そのため自分の中での葛藤に悩んだだけだった。でも実はそうではなかった。もしキョンが元の世界を望むのなら、それは長門の願望とは衝突することになるのだ。

自分の選択が、長門の意思とぶつかってしまうこと。その認識がキョンには欠けていた。「ワケあって…」というのは、そのことに気づかなければならなかったから。朝倉に刺され、見過ごしていた長門の意思を受け止めることが、次のステップに進むためには必要なことだった。

 

最終的にキョンは、情報統合思念体と戦う意思を表明している。

これは第3の選択肢なのである。改変後の世界でも、単なる元通りの世界でもない。元の世界に戻ったうえで、長門を守り抜くこと、感情を持ち始めた長門の存在をエラーなどとは言わせないこと。それがキョンの選んだ答えだった。

朝倉に刺される直前のシーンで、キョン長門に「今までの長門が好きだった」と伝えている。このときは気づいていなかった。「今まで」ではダメなのだ。

刺された後のキョンはモノローグにて語っている。「なんで長門を感情のない存在として生んだのか」と。長門が世界改変を望むに至ったのは、元をたどればそのせいなのだ。キョン情報統合思念体を敵に回してでも、感情を持ち始めた長門の味方をする決意をする。

単純に元通りにするだけでは、世界を改変までしようとした長門の意思を無視することになる。キョン長門を尊重しつつ、今までの楽しい世界を希望した。それが情報統合思念体との対決も辞さないという表明なのだ。

 

映像的な盛り上がりは、先ほどの述べたもう一人の自分と対峙する場面のほうが大きいけれども、よりカッコいいのは、屋上で長門にフードを被せたこちらのシーンである。私はそう感じる。

 

これまでのキョンのモノローグを聞いていると、彼があたかも傍観者であるような語りに思える。でも、そもそも傍観者というのはおかしい。彼ももともとオカルトチックな方面に興味があったのであり、ボキャブラリーの発想からもそれは感じられる。エレベーターでの朝倉との会話でも、昔は変なことが好きだったことが示唆されている。

キョンハルヒとの日常を楽しんでいたといっていい。なおかつそれは、いざとなれば長門を頼ればいいという条件が付いていた。自分は安全地帯に身を置きつつ、(非)日常を楽しんでいたわけだ。傍観者ではなく、依存者と言ったほうがぴったりする。

情報統合思念体との対決表明は、ついにそこから一歩出ることを意味する。依存者ではなく、積極的な関係者となる決意なのだ。

 

 

これも2回目の鑑賞で感じたことになるけど、キョンの名前をぼかすのが上手いな。名乗らないといけないシーンが度々あるのに、全て本名を回避している。それが全く不自然でないから感心する。

本名が明らかではないのは、匿名性に意味があるのかと考えていた。観察者・傍観者として、巻き込まれ型で主体的に関わっていないこと、読者・視聴者が主人公に投影しやすくなることが、そうした理由なのかと。

しかしことによると、本名が明らかになっていないことが大きな伏線である可能性も捨て切れないんだよな。もしかしたら叙述トリックが待ち受けてることだってありうる。そんなことを想像してしまうな。

 

 

12月18日、〈世界改変の日〉にSOS団のホームページが消失した。画像が表示されるギミックは知らなかった。

時間の経過とともに「このページは表示できません」の下に、作中に出てくるセリフや画像が表示されるなど、そのギミックが人気です。

「世界が改変されてしまった」「SOS団ホームページが消えてる!」 12月18日“世界改変の日”に『涼宮ハルヒの消失』がトレンド入り(1/2) | ねとらぼ調査隊

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12/19(木)2度目の鑑賞。6番シアター(138席)

19時の上映回。人が多い。フロアに人が溢れてる。『リズと青い鳥』のときより多い。人数を数えることもしなかった。直線的に並んでたんならともかく、団子になってるからな。

隣のシアターでは『家族を想うとき』の上映。まだ観てないが来週あたり鑑賞したい。こちらのほうが先に開場になっており、入場を呼びかけるスタッフの声が響く。しかしほとんどが『消失』のお客さん。これは『家族を想うとき』を観に来た人は人の多さに戸惑う。

 

写真を撮る人も列になってた。すでに書いたようにポスターと入場中の札の絵が違うので、どっちも並んでるんだよね。そもそも『境界の彼方』や『Free!絆』のときには木曜日には張り替えられてたのに、今回は掲示したままだ。

観客の男女比や年齢も、レイトショーで鑑賞したときとはやはり違っていた。今回のほうが談笑してる人が多い。というか上映中も笑い声が漏れるのがたびたび聞こえた。『消失』は笑えるシーンも多いからね。

上映後はそして拍手。

 

 

帰路、エスカレーター下りて左側の扉から外に出たところだった。何の気なしに振り返ると、『たまこラブストーリー』と『聲の形』のポスターが掲示されている。すでに上映は終了したのになぜと思いつつ建物正面に向かうと、なんとこれまで特集上映されてきた京アニ作品のポスターがずらりと並んでいるではないか。

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それは壮観な光景であった。連れの人の興奮気味に話しながらデジカメを取りだす人もいた。

全く予期していなかっただけに粋なサプライズ。京アニ作品がジャックして埋め尽くすさまはこれまで見られるものでなかったし、MOVIXとしても上映中でない作品ばかり並べるのは他の上映作品の告知に差し支えるはずなのに、承知の上でそうしたのだろう。

MOVIXに着いた段階ではこうなってはいなかったから、私が『消失』を鑑賞している最中に入れ替えたのだろう。作品を観た後で景色が一変しているなんて経験は、なかなかに胸に来るものがある。

翌日12/20からは特集上映の最終週になる。公開される『天上人とアクト人』はDCP化で新たに生まれ変わっての上映となり、舞台挨拶も予定されている。このポスタージャックもそれに合わせてのことか。

 

並んでいるのは向かって左から『Free!』5作品、支援金募集と特集上映の告知を挟んで『けいおん!』、エントランスの右側に『中二病』『境界の彼方』、建物側面に回って『たまこラブストーリー』『聲の形』の順番。特集上映は公開時系列順に上映してきたが、ポスターは作品ごとのまとまりで掲げる形になっている。

『響け!』4作品は外側にはなかった。

 

天上人とアクト人最後の戦い』(12/20~12/26)

12/20(金)鑑賞。3番シアター(365席)

 

18日で事件から5か月になる。

『ルポ・京アニを燃やした男』を購入。しかし公判はおろか、まだ逮捕にも至っていない段階だからな。少し時間が経ったら類書が出るか。少なくとも特集上映を観終えるまでは読まない。

 

 

これまでは月命日には各社報道が見られたものだけど、そろそろ報じられなくなったか。朝のNHKではLINEでの相談窓口について報じていたけれど。朝日新聞の京都面では記事があった。

 

京アニの動きとしては、KAエスマ文庫のキャンペーン告知がなされた。

www.kyotoanimation.co.jp

8月末締切のリレー企画とな。5か月連続で出すのか。むしろ以前よりハイペースになってね?

 

第1弾は結城弘『モボモガ』。京都、歴史SF、ラブコメと要素を揃えられてるので、これは買うわ。著者の結城さんの前作『二十世紀電気目録』は、なぜか本記事でもたびたび名前が出ている。

イラストはしらびさん。KAエスマ文庫だと『無彩限のファントム・ワールド』の絵を描いている。

 

支援金窓口の閉鎖する旨も伝えられた。

事件から5ヶ月が過ぎました。世界中の皆さまからお寄せいただいた温かいご支援、応援や励ましをいただき、弊社は現在、来春公開予定の劇場用アニメーション映画作品の制作に注力しつつ、弊社社員らが精魂を込めた作品を1人でも多くの方に届けるための各種事業、プロ養成塾を通じた次代を担う人材の育成などに取り組んでおります。事件の疵は時が経っても癒えるものではありませんが、関係者の皆さまを含めた世界中の皆さまのお陰で、弊社は今、世界中の人たちに夢と希望と感動を育むアニメーションを届け、社員、スタッフの幸せを実現し、社会と地域に貢献していくため、戦うことができております。改めまして、篤く御礼申し上げます。

……

支援金預かり専用口座 閉鎖のご案内 - 新着情報 | 京都アニメーションホームページ

 

 

 

シアターは2番(142席)と12番(153席)のダブル編成。

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私は舞台挨拶付き上映会だったので一番大きな3番シアター。

他の曜日は『【字幕】スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』が3番シアターの17:40~20:15を占めていたのだけれど、金曜の3番シアターについては本作に振り分けたということになる。

 

 

時間を少し勘違いしていた。18:30開演とあるのを「開場」だとなぜか思い込んでしまっていて、少々遅れ気味の到着となった。

3番シアターのフロアに上がると、これまでにないくらいの人いきり。『消失』のときも人で溢れていたが、それに匹敵して上回るほど。女性比率が高いのも目立っていて、『Free!』作品に次ぐくらいか。

写真を撮る人で文字通り行列ができていた。キービジュアルに舞台挨拶登壇者全員のサインが入っている。

昨日見当たらなかった『響け!』4作品+『消失』のポスターも掲げられており、このフロアを占拠していた。『リズと青い鳥』に関してはキャストと監督のサイン入りのものだった。そういえば公開当時に目にした記憶がある気がするが、特集上映の際に掲示されたのはサインの入っていない通常のポスターだった。ここでお蔵出しである。

 

当選したチケットが真ん中の座席で嬉しかった。この手の抽選は当選しても端っこの席になることが大体だった気がするので、いい位置で鑑賞できて良かった。舞台挨拶があるので、登壇者に近い前のほうの座席を希望する人も多いのかもしれないが、私は「近くで見たい」というのはなくて「話が聞ければ良い」なので、この位置は申し分なかった。

 

いつもの特集上映時と違って、ドルビーシネマの宣伝はなかった。

 

本作は字幕クレジットの字の大きさが他作品より大きい気がする。フォントも違うか? 

エンドロールの後、京アニのメッセージが表示される。京アニの映画作品は2009年公開の本作から始まったこと、多くの人の応援がかけがえのない(よすが)となっていること、10周年の節目の年にDCP化が叶ったこと、これからも世界に向けて作品を(夢、希望、感動を)届けていくこと、そういった主旨だった。

メッセージが消え、場内が明転すると会場で一斉に拍手。

拍手が止むと、会場内は鼻をすする音や咳が時折聞こえるだけの静寂に包まれ、今か今かと舞台挨拶が始まるのが待たれた。前方左右にスピーカーが設置され、最初に司会進行役として、当時音楽プロデューサーを務めた斎藤滋氏が登場。その後、音響監督・鶴岡陽太さん、ムント役・小野大輔さん、日高ユメミ役・相沢舞さんの順番で拍手の中登壇された。

以下のトーク内容は、記憶に基いて書いているので、もしかしたら差異があるかもしれない。録音は当然禁止だったし、メモを取ったわけでもない。明確にテーマに沿って話していたわけではなく、比較的自由に歓談していた印象がある。そのためにかえってどういう順番で話したかなどは記憶が曖昧なところがある。

 

冒頭の一言ずつの挨拶は相沢さん、小野さん、鶴岡さんの順。小野さんは「オレ様がムントだ」*26と自己紹介し、さっそく会場を笑いで沸かせていた。

鶴岡さんはDCP化について言及。京アニは当時すでに撮影はすべてデジタルで行っていたため、ネガフィルムがなかった。デジタルの規格DCPはまだ劇場では一般的ではなかったため、上映の際はその都度(映画館ごとに?)DVDに焼いたりしていたそうだ。

今回のDCP化とともに、音響も現在の映画館で一般的な5.1chに。公開当時はステレオだった。10年のときを経て、映画として完成したと感慨深げに語っていた。しかも本作は京アニには珍しくゴリゴリにドンパチする作品なので、その意味でも貴重、記念碑的価値があるのではとのこと。

音響の部分については相沢さん、小野さんも、今回久しぶりに観て「こんなに迫るものがあるなんて」と公開時との違いに興奮。鶴岡さんは作画の手数の多さに言及し、戦闘や爆発シーンが手書きなのに惜しみなく出てくる、もともとTV版でもあるのに毎回音をつける音響スタッフも大変だったと。

 

10年前当時の思い出を語るということで、その当時も舞台挨拶をしたという話になり、そのときは若本さんや白石(稔)くん(「あえて『くん』と呼ばせていただきますが」と)がいたね、なども話題に。

小野さん、相沢さんは本作のTV版がおそらく初共演ということで、どう接しようかと最初はどぎまぎしてたというエピソードを披露。白石くんが騒がしく、岩本さんもそれに悪ノリするみたいな賑やかなアフレコ現場だったそう。

白石くんの声はそれと分からないように加工するのがポイントだった(鶴岡さん談)。

 

小野さんは10年前の過去の自分の演技を改めてみると恥ずかしい。いま演じたら違う演技になるのだろうな、と。

この話題はトーク後半でも再び出てきて、鶴岡さんの「いま演じたら上手くはできるだろうけど、でもそれは違うよねえ」という発言に首肯していた。当時小野さんはちゃんとキャラクターが生きてる感じを出したく、すーっと息を吸う演技にこだわりたいと考えている時期だったしく、それがこのアフレコでできたとのこと。京アニは他のアニメスタジオと違ってアフレコ時にちゃんと絵ができてる。絵が演技をしてくれているので、声優としてはセリフを乗せるだけでいいが、京アニの絵があったためそれに合わせて納得できる演技ができた、というようなことだった。音響や音楽なども組み合わさり、アニメという総合芸術だからできたことだ、とも。

相沢さんは当時の心境を、少々特殊なワードで表現した。爆発だか渋滞だかなんか違うのだけれど漢字2字か3字の言葉で説明し、他の登壇者を「?」とさせた。それだけ必死で、頭の中がいっぱいになっていたという主旨だったはず。

 

お二方は京アニの他作品にも出演されているので、そのときの話題も出た。

小野さんは『フルメタ』で少し出演し、『AIR』で初主演。7~8年経ってから「当時何も実績なかったのになぜキャスティングしてくれたんですか」と訊いたら、「他の人と違ってたから」と。鶴岡さん曰く「ほかの人はカッコよく演じようとしてるのに…」それを聞いて小野さん「要するにカッコよくなかったからってことですか」で、会場爆笑。あとカラス。

相沢さんは本作のTV版『空を見上げる少女の瞳に映る世界』のラジオ、略称「(から )上げラジオ」について語った。出演者は相沢さん、内田彩さん、白石くんと京アニのスタッフ。「どんなラジオだったの?」の質問に、「みんなでコントしてました」と。「え、スタッフさんって演技経験者というわけじゃないよね?」「はい。最初は遠慮気味だったんですけど、段々主役っぽく…」

ラジオでなにか得られたかという問いに、「笑いを欲しがるようになりました」と答えてらしたので、いい経験だったのだろう。鶴岡さんが「『日常』につながってよかったんじゃない?」とまとめた。

 

次につながるという点では、小野さんのアーティスト活動についても。『ハルヒ』で歌ってほしいと3度頼まれたのでついに引き受けた結果、アーティスト活動が今に至るまでになったという。

歌で言えば、相沢さんは本作のED曲を歌っている。そのときのことについても何か語ってたが、よく憶えていない。私なんかが畏れ多くて緊張した、みたいなことだったかな。「過去の曲を全く聞かないので、今回久しぶりに聞いた」という話はしていた。

 

音楽といえば、神前暁さんの話も出た。鶴岡さんによれば、本作の音楽は劇場用に合わせてスコアリングしなおしたらしい。神前さんは当時「もってけ! セーラーふく」のような曲で、変化球というかトリッキーな作り手が現れたなと注目されていた段階なので、本作のような音楽も作れるのだと意外に感じたという。

 

本作のメッセージは心の大切さだった。このメッセージ性の強さについても語られた。

当時作っている側としてはストーリーを必死に捉えて(あるいは引っ張られて)、それに合うように作りこみをしていた。しかし今回改めてみると、ストーリー性よりメッセージ性を強く感じる。監督が作りたかったのはこれだったのかと今になって分かり、身につまされる、と鶴岡さん。

小野さんもストーリーについては引っかかるところがあって、飛ぼうとしたのに飛べない、なぜかセーラー服に着替えさせる(会場笑)などに触れつつも、「心をつなげることの大切さ」というメッセージについて語った。

鶴岡さんは、クレジットの名前が三好一郎名義ではなく木上益治となっていることを指摘し、それだけ本気で臨んだのではないかと話した。その木上監督の背中を見て、スタッフが育っていったと察せられる。エンドクレジットを眺めると、現在では監督クラスの人の名前が原画の下のほうに載っている。この作品を作ることがその後の成長にもつながったのではないかと。

相沢さんも締めの一言で木上監督が当時のパンフレットに載せたという言葉を紹介した。心でもって人を、未来を、世界を創る。それがアニメ制作なんだと。

また、本作の主人公ユメミはきっと皆さん一人ひとりのことだという解釈についても話された。

 

ウェブニュースになっていたので引用する。

相沢は「公開当時のパンフレットに『すべてのものは人の心でできています。アニメもそうです』という木下監督の言葉が書いてありました」と紹介し、「その言葉を胸に、これからも京都アニメーションの作品とともに生きていきたいと思っております」と決意を口にした。続く小野は「この作品は京都アニメーションのオリジナル作品であり、OVAからテレビシリーズ、そして京都アニメーションにとって1作目の映画作品となりました」と回想。「そこから10年の時を経て、京都アニメーションが新たな一歩を踏み出そうというときに京都へ来て、皆さんと一緒に心をひとつにして未来へ歩んでいけることを声優として誇りに思っています。未来のクリエイター、未来のアニメ業界へ心をつないでいきましょう」と呼びかける。

鶴岡は「この劇場作品はテレビシリーズとして始まりましたが、テレビとは思えないクオリティの高さで作られました。それが今の京都アニメーション作品の厚みにつながっていると言えます」と述べ、「皆さんのご声援ご支援のおかげで、10年の時を超えて映画として完成したと思っております。ありがとうございました」と感謝を伝えた。

相沢舞と小野大輔が「天上人とアクト人」舞台挨拶に登壇、京アニへの思い語る - 映画ナタリー

 

最後の一言挨拶は記事の順番ではなく、鶴岡さん、小野さん、相沢さんの順だった。小野さんは思いを胸に詰まらせ、途中言葉につかえながらお話しされたのが印象に残っている。

 

 

さて、今回も前回と同じく2度目を観に行った。先に舞台挨拶の内容を記しておかなくてはと、この部分までは書いていたのだが、その後は忙しさにかまけて、またしても箇条書きメモのまま2度目を観ることになった。なのでこの後の感想はまとめて記そう。

 

まず、そもそも私の鑑賞状態だけれど、この作品自体は初見になる。TV版である『空上げ』も全く観ていない。ただその下となったOVAMUNTO』2作品は観ていた。本作はその続きにあたるので、ストーリーの把握に難はない。声優が変わってるなどの差異はある。「アクト」や「局外者」の説明が入っているので、解りやすくなっている気がする。

 

京アニ最初の映画作品として、そして一連の特集上映の最終作品として、このメッセージが紡がれることには感慨深さがある。

ここに来て、こんなに純真さに訴えかけるような作品だとは。舞台挨拶でも語られていたが、身につまされるところがある。

すべては心が元にあるのだな。絶望するのも、夢を見るのも、何かを感じたり想像したりするのも、それは心があるからだ。そんな当たり前のことに考えを馳せつつ、信じること、信じぬくことの大切さを訴える。

訴えていることはシンプルだ。言葉の奥底に潜む意味を穿つ必要は無い。素朴に、率直に訴えかける。それが心に響く。

 

私自身の身に引きつけて考えたのは、中途半端ではいけないよな、ということ。中途半端な気持ち抱えて就活とかしてるから、そりゃ面接も落ちるさ。映画を観終わった後でふとそんな思考に至っていた。素直にそう考えることができるようになっていたのが、少し不思議な感覚だった。

 

ユメミが下したのは全部救う選択だった。だれも諦めなかった。イチコとスズメのもとに行くか、彼女たちの存在に目をつむって世界を救おうとするか。その究極の選択を迫られたかのように見えた。でもユメミが選んだのは第3の選択肢だった。

 「未来のために誰かを犠牲になんてできない」「世界の形が変わっても捨てていい心なんかない」そういうユメミの言葉が胸に熱く迫る。

犠牲や代償を払って何かを成し遂げるという選択や、あるいは周囲がどうなるか我関せずを貫く選択だってありえなくはないはずなのだ。そのような択一を描く作品もあるだろう。

しかし本作はそのような描き方をしない。そしてこの展開を、私は「このようであってほしい」とある種強く願うところがあった。今年は『天気の子』があったから余計そう感じるのかもしれない。

付言しておくと、世界が元通り(これまで通り)になったという結末ではないことは忘れずに記しておきたい。天上界の柱は落下し、ユメミたちの世界にそれが出現している。異世界同士がつながり、アクトが循環しているということなのだろう。

それはこれまでとは世界のあり方が変わっているということでもある。世界の危機を乗り越え、第3の道を選んだ世界は、単純に過去に逆戻りした世界ではいられない。天柱が突き刺さったような街の風景は少々おどろおどろしい。とはいえ、エピローグでのムントとの対面シーンは、そうした新たな世界、ムントたちとつながった世界で生きていくことへの希望のまなざしが込められていると言えるだろう。

 

ユメミのこの考え方は、天上人にはない発想でもあった。天上人はその歴史において奪う側だった。常に奪う側であったがために、皮肉なことに守りたいものが存在しなかった。それがムントとグリドリ(で名前合ってるよな?)の戦い中の会話で交わされたことだった。

ユメミの行動は、このときのムントの考えの上を行くものだった。ムントはその戦いで局外者・ガスを失ってしまった。ガスの死と、ユメミの決断は対比となっている。ムントはその目的のために犠牲を出さざるを得なかったのだ。守りたいものを全て守ったユメミと、それができなかったムント。ムントがそのことをどう考えていたかまでは、あまり描写がない。しかしムントがユメミに「守りたいものがここにいると気づいた」と告げるのは、単なる惚気(のろけ)的な発言ではなかったはずだ。

 

心は目に見えない。でも心によって何かを形作っていくことはできる。世界は心によって作られている。アニメという表現手段は、それを最も体現するものの一つだ。本作における「アクト」という概念は、心のメタファーであり、アニメのメタファーでもある。

そしてこれはアニメに限らない。世界は心によって作られていると述べるとき、それは普遍的なメッセージとなっている。

ともすれば幼稚と受け取られるかもしれない。夢見がちな、空想的な、牧歌的な、お花畑的な、そんな考え方かもしれない。でもだからこそこの作品はそれを訴えているのだと、そう私は思う。そういう心の力を信じている。特集上映の終幕となる作品が、これまでにないくらい純真にメッセージであることを感慨深いと述べたのは、こうした意味である。

事件後にこうしてなお京アニからのメッセージを受け取っていることの縁を、考えさせられてしまう。

 

 

2回目の鑑賞の際に強く心惹かれたのは、ユメミがとにかくカッコイイこと。これは特筆して記銘していいくらいだ。

雷鳴轟き、髪たなびく中で、毅然として立つユメミの姿。

舞台挨拶でのトークで、本作が今観ても古びない映像だと讃えられていた。私は必ずしもそう感じたわけではなかった。継続して特集上映を鑑賞してきて、やはり10年前の本作は古さを嗅ぎ取ってしまう。京アニクオリティは不変のものではなく、進化変容している。瞳の描き込みやペイントは現在と比べれば簡素に見えるし、爆発などのCGエフェクトだって『中二病』などのほうが洗練されている。キャラデザも『ハルヒ』『けいおん!』以前の時代な気がする。*27

しかしそういう古い新しいを通り越して、このユメミの姿はカッコいい。これまでになかったと言っても過言ではないほどだ。しかもそれを女性キャラでやる。

 

京アニの描く女の子は可愛い、ということをすでに書いた。これは理解できる。そして私は、京アニに対する贔屓目も含めてだが、京アニの女性キャラが他のアニメ制作会社のものより格段に可愛いと認識している。

だが、カッコイイはなかった。少なくともここまでのカッコよさはこれまで感じてはこなかった。クールや凛々しさではなくて、意志の強さから来るカッコよさである。その迫りくるオーラに身をほだされそうになりそうな、そういうカッコよさである。

こんなのは男キャラにだってなかった。少なくとも特集上映で観た作品の中にはなかったはずだ。境界の彼方を再び取り込むときの秋人や、後ろ背に「届かなくていい手紙なんて無いからな」と決めゼリフを放つベネディクトや、長門にフードを被せるキョンだって、たしかにカッコよかったさ。でもそれらに匹敵するか、ことによるとそれらを上回るくらい、このときのユメミをカッコいいと感じてしまったんだ。

 

 

1度目の鑑賞のとき、作品の伝えるメッセージには強く共鳴したいけれど、自分にはそこまでの存在がないことが引っかかっていた。普通(の人)は、そこまでして「守りたい」存在なんてないのだ。揺らぐことのない信念を持ち、巨大なカベや敵を前にしてもそれを貫けるような大事なものなんて、私にはない。幼馴染や友人を、どんなことがあっても守り抜きたい存在だと表明することができない。そんな自信はない。

これはこの作品に限らないことだった。栗山未来は、自分を犠牲にしてでも秋人にこの世界で生きてほしいと願い、それを自らの幸せとすることができた。キョンは、情報統合思念体を向こうに回してでも長門の意思を尊重しよう決意したし、SOS団は自分が不要だと想像するだけで(はらわた)が飛び出しそうになるくらい愛着ある居場所となった。麗奈や久美子は、「悔しくて死にそう」と感じるまでに思い入れが強く、努力を重ねた。

大抵の人間は、これほど大切にしたり、強い感情を抱いたりするようなものを持っていないのではなかろうか。それが普通ではないのか。

 

でも、本作『天上人とアクト人』はそうした「特別」への否定の想いも込められていた。改めて観るとそれは明瞭に述べられている。

ユメミは答えた。自分だけが「アクト」を生み出せる特別な存在なのではないと。誰もがこの世界を救うことができるはずだと。

それは物語のキーアイテムが鏡であったことにも表れている。まず見つめるべきは自分自身なのだ。自分を直視し、まず乗り越えるべきは自分という存在なのだと自覚することが必要なのだ。心を閉じ、塞ぎこんでいては未来は開けない。

だから真っ先に「守りたい存在」として挙げられるのは自分自身なのだ。自分を大切にすること、それが第一歩なのだ。

 

当初私は、ユメミを栗山未来に近いと捉えていた。血の一族という特殊な運命を背負わされ、それに翻弄されるヒロイン。最終的にはその運命を肯定的に受け入れることで乗り越え、未来へ踏み出す。

だがこの構図は、彼女が特別な存在であるという事実を揺るがしはしない。結局のところ、世界が救済されるのは彼女(たち)が特別な存在だからなのではないか。

ユメミはそれを否定する。誰もが世界を救うことができるはずだ、と。

 

OVA段階においては、ユメミは選ばれし特別な存在に類するものとして描かれてきたように思う。自分が特別だと言われたことや、それに伴う責任に葛藤することがテーマであった。

本作に至って、そのテーマ自体が乗り越えられている。

世界を救うのは私たち一人ひとりであり、誰もが「守りたいもの」を見つけられるはずである。自分をしっかり見つめ、自分を大事にし、自分を信じることがその最初の一歩である。

本作が訴えるメッセージはそういうものだろう。身につまされると感じたのはそのためだ。誰しも関わる問題なのだ。特殊な人、特別な人、選ばれた人が世界を救うのではない。任せきりではいけない。もし当初(OVAやTV版の序盤で)ユメミのことを自分事として捉えいなかったなら、最終的なこのメッセージが痛烈に自分に跳ね返って来てしまうのだ。

 

 

 

12/26(木)2回目鑑賞。12番シアター(153席) 

建物外のポスターの位置が変わっていた。前回3番シアターのフロアにあったポスターが外側に張り出されている。『リズと青い鳥』(サイン入り)が『けいおん』のあった場所へ、側面に回って『たまこ』『聲の形』『けいおん』『消失』、その反対の南館に『響け!』3作品。

 

木曜日に12番シアターで鑑賞するというのは、『境界の彼方』を思い出す。人はこっちのほうが多かったろうか。写真撮ってる人は明らかに多かった。最終日だけあるな。上映スケジュールや入場中の札、外の一連のポスターなどなど。

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上映が終幕し件のメッセージが消えると、会場からは一斉に拍手が湧く。

他の人の会話をこぼれ聞きしながら、最終日の上映を観に来た人の中には完走者も少なくないだろうな、と想像をめぐらす。

私もすっかり完走した気分でいたけれど、そもそも最初の『映画 けいおん!』を観てなかったわ。初っ端から完走崩れだった。

 

2回目に鑑賞したときの作品の感想は、上記にまとめて記した通り。

素直に、正直に生きようと、そう考えてしまう。そんな作品。いい作品だよな。かなり好きな部類だ。10周年記念で再パッケージ化して販売しないかな。TV版の『空を見上げる少女の瞳に映る世界』と合わせて。

 

 

小括

以下は独断と偏見で不遜ながらも付けたランキング。自分用メモなので、ざっくりとしたものだが。

 

仕草や表情で選ぶ個人的お気に入りシーン

特集上映で鑑賞した作品について、個人的なランキングを付けようと当初予定していたが、ジャンルが違うと比べるのも悩ましいし、同一シリーズが複数あったりして、選びにくい。

そこで作品ごとでなくシーンごとで順位を付けようと計画変更したのだが、これも途中で何基準かが自分で解らなくなり、最終的に仕草や表情などの絵面的にチョイスすることにした。

なお、上記感想文で書き漏らしたことを中心に選んでいるので、ここだけ読むと変なチョイスに感じられるかも。

 

10位 4人の歩く脚

『映画けいおん!』から。

最終盤、いつもの4人が会話しつつ脚だけが映っているシーン。

描写として良いとは思う。脚を映してるだけなのに、どんな風に話してるか、どんな表情してるか、画面外の上半身の様子が想像できてしまうというのはすごい。

けど女子高生の脚だけ見てる視線て変態だよな。別作品のスタッフトークで、とあるスタッフが山田尚子監督のことを「変態(良い意味で)」と評したことを思い出した。

 

9位 郁弥の座り方 

『映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-』から。

4人が遙の家に泊まって寝る前のシーンの郁弥。

郁弥が膝を抱えて座る、この座り方。こいつ、カワイイな。そのときまでなんも意識してなかったけど、というかむしろ目つき悪い緑髪くらいに考えてたのに、この座り方見ただけで、一気にこいつがカワイイという印象に変わったんだからすごい。一瞬で印象を書き換えてしまうほどの破壊力を感じた。

そのあとの布団にくるまるときの耳が赤くなってるところもカワイかった。この色指定よ。

耳が赤くなるといえば、『涼宮ハルヒの消失』での世界改変後の長門も忘れちゃいけないな。

 

8位 「転ぶなよ」と声をかけられた直後に転ぶスズメ

天上人とアクト人最後の戦い』から。

笑った。OVAMUNTO』第2弾において観覧車に向かう場面でもイチコから同じこと言われてるんだよな。そのときは転ばなかったのに。

 

7位 栗山未来の視線の動き

境界の彼方 過去篇』から。

未来が秋人に「ただのメガネ好きの変態です」と言ったあと視線だけ一瞥して様子を窺うところ。こんな最小限の動きで如実に感情表現してくるのが強い。この子の性格と、気にかけ想いを寄せる行動と、徐々に心を開いていく様子が、凝縮された仕草だ。

 

6位 あすか先輩がかぶる表情の仮面

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』から。

これは仮面の奥なのか、まだ仮面を見せられているのか。そんなことを考えてしまうキャラだった。

一番好きなシーンは、あすか先輩が久美子に対して畳みかけた「みんなって誰のこと?」「なんで本心だってわかるの?」の連続攻撃。

よくぞ代弁してくれたと快哉を叫びたい。この発想をしてしまうのは当たり前なんだよね。だって自分自身が本音を見せずに、〈いい子〉を演じているのだから。自分が本心で付き合ってないから、他人も本心を見せてるわけないと考えてしまう。

もちろん、この後の久美子の切り返しも名場面であるのは言うまでもない。

 

5位 久美子をからかう奏の表情

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』から。

奏が秀一のことでからかうシーンは複数あるわけだが、とにかくこれが心くすぶる。私の琴線だな。

『ようこそ』では麗奈の瀧先生ラブとか葉月の失恋とか、恋愛もあったわけだけど、『届けたいメロディ』『リズと青い鳥』と経て、ともすればその辺の印象が薄れがちになっていた。

奏の登場で一気にラブコメ臭が増して、その点も個人的に好き。

 

4位 常磐みどりのやや陰みを帯びた(ように見える)笑み

たまこラブストーリー』から。

もち蔵に発破をかける~自己嫌悪の流れ。みどりはずっともち蔵のことをちらちら気にしてるんだけど、その中でもこのシーンは堪らない。「ずーっと、見てるね」の言い方とかほんとエモい。繰り返し視聴したにもかかわらず(あるいはしたからか)、琴線への刺激が弱まらない。

この自己嫌悪の後、たまこに元気づけられたときに見せたのが若干影が差したような笑みだった。あなたが自己嫌悪の元凶でもあるんだけどね。

この笑みが、クライマックスにはかんなの励ましを受けたときの笑みに変わる。

 

 

3位 麗奈にわざと負けるよう頼んで頭を下げる優子(山岡ゆり

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』から。

この作品からどの場面を選ぶかは正直悩む。エグさや鳥肌を感じたシーンが多かったなかで、上記のシーンはウルっときたところ(自己認識では泣いてない)。

単独でももちろんいいんだけど、一連の特集上映を観るうち、山岡ゆりと重ねてしまったというのが、ポイントを押し上げたと思う。『境界の彼方』とかではよく分からないモブだったのに、この作品ではこんな重要な役を張ってんだなという、謎のしみじみ感。

たまこラブストーリー』より上位にしたのは山岡ゆりだからだ。うん。

 

2位 涙

もう特定のシーンの選出でなくなっているが。。。

まず『映画 聲の形』から、硝子の涙と、将也の「生きるのを手伝ってほしい」。

この作品も良いとこ多いけど、選ぶならやっぱりここかな。*28

ほかの涙のカットとしては、 『境界の彼方 過去篇』の栗山未来の笑い泣きが好き。泣き笑顔が個人的にエモいツボでもあるからかな。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』のエイミー、テイラー、ベネディクトが泣くのも感極まるところ。

それに対して『響け!ユーフォニアム』シリーズは悔し泣きが印象深い。これは複数作品・複数キャラが該当するので、ここではあえて『リズと青い鳥』の剣崎梨々花を挙げておこう。

オーディションに落ちて、「先輩と一緒に吹きたかった」と泣く剣崎梨々花。本作で一番もらい泣きしそうになるのはここだと思うんだけど。ボディーブローのダメージがここに来て噴き出す的な感覚。*29

 

悔し涙、嬉し涙、もらい涙、報いの涙、赦しの涙。いろんな涙が描かれてきたのよね。

 

1位 栗山未来の笑顔

境界の彼方 過去篇』および『未来篇』。とくに『未来篇』ラストの「不愉快です」と言いながら笑う栗山未来。

やっぱり私は涙より笑顔のシーンを見ていたい。

境界の彼方』は笑顔を印象的に見せる作品だった。特集上映作品の中で、笑顔が真っ先に連想されるのがこの作品になる。『過去篇』終盤、栗山未来が消え去ってしまう直前の泣き笑顔と、その後屋上での振り返り笑顔だけでも十分良い。が、『未来篇』があるとなお素晴らしい。『未来篇』の鑑賞後だと、『過去篇』での笑顔も感じ取れる意味がアップグレードするようだ。

 

番外となるが、笑顔という点で、別種の意味で強烈な印象を残したのは、キョンをぶっ刺した血のナイフを持って舞う朝倉(『涼宮ハルヒの消失』)。

サイコパスの笑顔。京アニ作品のなかでも、強烈に印象に残る笑顔のカットのひとつに数えられるべき。異色の輝きを放っている。力の入った作画の場面だと思うし、驚愕の表情を浮かべる長門のメガネに血しぶきが付着するところも、その対照として鮮烈。

 

 

認識変化度

初見の作品もあれば、繰り返し視聴済みの作品もあった。後者であっても新たな気づきや発見があったりして大いに楽しむことができた。

そこで、特集上映の前後でどの程度認識が改まったか、を基準にしてランキングしてみた。上記と異なりシリーズごとにピックアップしている。

 

10位 MOVIX京都

どこかに書いておかなきゃと思うので、ここで。

特集上映の企画を組んでくれたことに感謝している。例年以上に足を多く運ぶことになり、私の中の好感度・愛着は間違いなく増した。

上映開始時刻が変化したり、「1日1回」ルールを変えたり、という動きを観察するのもなんか楽しくなっていたな。最終週に京アニ作品のポスターがズラリと並んだのは圧巻。よくぞやってくれた。

 

9位 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』シリーズ

思えば、ずーっと予告編が流れていた。封切り当初の空気と比べると、落ち着いて見られるようになったと思う。

TVシリーズより先に原作小説を読了していて、後者のほうが好みに感じていたのだけれど、それがここに来て感じ方が変わってきた。

入場者特典で小説をランダム配布はどうにかしてくれよ。シャルロッテのやつ、手に入れられなかったよ。

 

8位 『聲の形

好きな作品だけど、認識変化度なのでこの辺の順位。原作漫画持ってるし、ブルーレイも持っていた。

その割には「カレーライス」に気づいてなかったし、あまり原作との比較も考えてなかった。大きなスクリーンで観られてよかったし、好きな気持ちが増した。

 

7位 『たまこラブストーリー

リアルタイムのときは追いかけてなかったが、特集上映前には鑑賞していた作品。

通常の上映だけでなく、爆音上映やヒストリカ映画祭の上映にも行ってきた。度重なる鑑賞をすれば限界効用が下がるのが普通なはずだが、本作は鑑賞のたびに気づきがあって楽しむことができた。そういう体験ができたということ自体が貴重に思う。

にもかかわらず『たまこまーけっと』を復習する気が起きなかったのも興味深い。こっちは全然記憶に残っていない。どこかで挟んでも良かったはずなのにな。

 

6位 『中二病でも恋がしたい!』シリーズ

総集編を映画館に観に行くということをしたことが無かった。『小鳥遊六花・改』が初となった。

原作小説との違いも知った。これのおかげで、『ヴァイオレット』の小説・アニメの違いなんて大したことがないのだと自分の中で判明した。

『Take On Me』が実のところ驚きとして大きかった。ほかの京アニ作品の風景やキャラが登場するのだが、それを楽しんだり、見逃したのを悔しがれる自分になっていた。

あと、「京アニの描く女の子は可愛い」なる考えが発現した。

 

5位 『涼宮ハルヒの消失

鑑賞済みだったはずなのに、こんなに面白かったっけ?と興奮したパターン。うろ憶えということではなくて、ストーリー展開をちゃんと把握しているのに、それでも快哉を叫べる

2019年公開の『誓いのフィナーレ』や『Free!夢』の後に2010年の本作だったので、一抹不安があったけど、むしろ映像的にも存分に楽しめた。

 

4位 『響け!ユーフォニアム』シリーズ

TVシリーズは観ていたけれど総集編映画は未鑑賞であったし、『誓いのフィナーレ』も観損ねていた。

TVシリーズの段階でもともと面白いと感じてはいたけれど、今回じっくり映画館で堪能した結果、余計に火が付いた感じ。『ハルヒ』と違って、『リズ』以外は初見だったので、こちらが順位としては上かな。

総集編が楽しめるというのもポイント。毎週TVを追いかけたり、1クール分を一挙見するのとは違って、集中して味わえることの醍醐味を知った。

 

3位 『天上人とアクト人最後の戦い

これは初見で面白かったパターン。「こういうのを見たかった」と感じさせるようなストーリー展開が好きだった。

認識変化度として上位に置いたのは、OVAで観た『MUNTO』『MUNTO 時の壁を越えて』からの変化を感じたから。特別な少女が世界を救うというモチーフの問い直し。『天気の子』→『境界の彼方』→本作品、という脳内リレーが成立したのだった。

加えて、ヒロインの女の子がカッコよくなるのが私にスマッシュヒットした。こういうのを京アニ作品で見れるというのが予想外だった。

もう1点挙げるとすれば、この種の作品が私の中でストライクゾーンに入っていくことを認識したこと。たぶん、過去の自分だったらそれほど面白いとは感じなかった気がするんだよね。それは一つには事件が起きたこと、いま一つは特集上映を継続的に鑑賞してきたこと、(あと現時点の自分自身の状況?)が大きかったように思われる。

 

2位 山岡ゆり

これが実質1位じゃなかろうか。

認知革命だよ。これによって『たまこ』や『響け!』シリーズの見方に影響が及んだし。

そもそも私はだれか特定の声優の推しというものはいない。しかも山岡ゆりに関しては『SHIROBAKO』の矢野エリカ役しか知らない。

もちろん意識してない、気づいていないだけで他の出演作を観ている可能性はある。現に『響け!』のTVシリーズを観ていたが、当時は優子役を山岡ゆりだと認識していなかっただけだ。

それが『境界の彼方 過去篇』において、「何者だ、こいつ?」状態になり、一度気になりだすと次々と気にかかっていく。「この作品も出てたのか!」という驚きを人知れず味わっていた。

間違いなくこの特集上映期間を通じて好感度が爆上がりしたもののひとつだ。

声優さんとしての情報は、上記のとおりほぼ知らない。だから現時点でのイメージがチョイと新堂愛と優子をブレンドしたみたいな人物像になっている。

 

1位 『境界の彼方』シリーズ

もう意地でも『境界の彼方』を推そうと思ってるし。というか認識変化度なるランキングを作ろうと思ったのも、これを1位にしたかったからだし。まあ、最初がゼロだったわけだから、変化率を取ったら計測不能になる。

主人公は物理的に心(臓)を突き刺されていたけれど、私にとっても心突き刺さる作品となった。

総集編をいきなり見てこんなに楽しいものなのか、が初体験として大きい。そしてこの『過去篇』を映画館で味わったことの衝撃は、筆舌に尽くしがたいものがある。もうここまでの衝撃を体感することは2度とないのでは、とすら思った。山岡ゆりが私の中で大爆発を遂げたのもこの作品がきっかけである。

私は当初、特集上映をすべて鑑賞する考えは無かった。その証拠に(と述べるのは申し訳ないが)1週目の『映画けいおん!』を観に行っていない。鑑賞記録についても、各作品ごとにこれだけの分量を綴る気は毛頭なかった。『境界の彼方』は、私の鑑賞姿勢・楽しみ方そのものを方向づけ決定的にした。

 

満足度

最後に満足度。これは順位つけるのが難儀したのでざっくり5段階評価にした。この期間に最初に観た『小鳥遊六花・改〜』を基準点として★3つとした。そしたら★2以下が存在しないという結果になっておる。

作品の満足度ではなく、映画館での鑑賞体験としての満足度。ただし期間中に複数回鑑賞したものは、満足度の高いほうのみ。「1度目」「2度目」などとあるのは、あくまでこの特集上映期間中での回数。それ以前に劇場で観たり、ブルーレイ/DVDで鑑賞した回数を含んでいない。

 

順不同。

 

【別格】

『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 過去篇』(1度目)

 

★★★★★

たまこラブストーリー』(爆音*30

『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 未来篇』(2度目*31

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(1度目)*32

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』*33

映画 聲の形

涼宮ハルヒの消失』(1度目)

天上人とアクト人最後の戦い』(舞台挨拶付き)

 

★★★★

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』(4度目)*34

『映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-』

『映画けいおん!』(爆音)

『映画 中二病でも恋がしたい!-Take On Me-』

リズと青い鳥

 

★★★

小鳥遊六花・改〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜』

『劇場版 Free! -Timeless Medley-絆』

『劇場版 Free! -Timeless Medley-約束』

特別版 Free!-Take Your Marks-*35

『劇場版 Free!-Road to the World-夢』

 

 

参考

参考までに公開当時の初週動員ランキングを一覧にしてみた。

『映画けいおん!』からは松竹が配給。『天上人とアクト人最後の戦い』『涼宮ハルヒの消失』の配給は角川書店クロックワークスである。

少ないスクリーンでの公開が多い印象。順位と評価は必ずしも比例しない。

 

(参考 公開日/公開初週の順位/館数/本編時間)

天上人とアクト人最後の戦い』(2009年4月18日/圏外//83分

涼宮ハルヒの消失』(2010年2月6日/7位/24館/150分

『映画けいおん!』(2011年12月3日/2位/137館/110分

小鳥遊六花・改〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜』(2013年9月14日/9位/27館/97分

たまこラブストーリー』(2014年4月26日/圏外(11位)/24館/83分

『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 過去篇』(2015年3月14日/圏外//86分

『劇場版 境界の彼方-I’LL BE HERE- 未来篇』(2015年4月25日/9位/31館/89分

『映画 ハイ☆スピード!-Free! Starting Days-』(2015年12月5日/5位/120館/110分

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜』(2016年4月23日/圏外//103分

映画 聲の形』(2016年9月17日/2位/121館/129分

『劇場版 Free! -Timeless Medley-絆』(2017年4月22日/10位/32館/99分

『劇場版 Free! -Timeless Medley-約束』(2017年7月1日/10位/59館/99分

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜』(2017年9月30日/圏外//105分

特別版 Free!-Take Your Marks-』(2017年10月28日/8位/72館/100分

『映画 中二病でも恋がしたい!-Take On Me-』(2018年1月6日/6位/72館/98分

リズと青い鳥』(2018年4月21日/圏外(11位)/73館/90分

『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』(2019年4月19日/5位/73館/100分

『劇場版 Free!-Road to the World-夢』(2019年7月5日/9位/73館/99分

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』(2019年9月6日/6位/83館/90分

 

まとめにかえて

おかしい。本当は昨年末に本記事を投稿する予定だったのに、なぜか今日まで文章を綴っている。ちなみに年明けにはたまこの風(?)を感じながら出町座へ行き、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』を鑑賞してきたのであった。

 

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本編後の予告がまだ「鋭意制作中」となっていた。公開当時はまだ延期が伝えられたままだったことを思い出す。

あと上述の感想ではテイラーが「エイミー」と唱えてないと書いていて、私の記憶ではそうなっていたのだが嘘だった。一度目は映画冒頭部分、船上で呟く。無音のため何と言ったのかは必ずしも明らかではないが、普通に解釈すれば「エイミー」と言ったのだろう。

もう一つは、ラストの場面でバイクのサイドカーに乗っているとき。ベネディクトが「幸せを届けるのが仕事だ」のセリフを吐いた直後。でもこのときは奮い立たせる魔法の呪文として唱えたわけではないので、従前の私の解釈は間違ってはいないはず。

一つ目のほうは記憶から抜けてたな。人の記憶とはかくも曖昧であることよ。

 

 

映画館で観れるということの歓びにも触れておこう。

単に京アニの作品を鑑賞するというだけであるなら、なにも映画館での上映である必要はない。けれど、もしこれが例えば動画配信サイトでの特集であったなら、ここまで感動しなかっただろうし、毎週真剣に追いかけていたか分からない。

ひとつには大画面と音響で堪能することができた、というのがある。もうひとつは、時間的・空間的に同じ映画を観るという行為を共有したことだと思う。事件の報を目にしたとき、涙を流したのも事実だが、京アニが多くの人に愛されているという事実にもまた涙したのだった。映画館の場で鑑賞することは、それを可視的に確かめることにもつながる。テレビやパソコンの前で鑑賞するのとは違う体験をそこに感じていた。だから少々失礼なことも含め、拍手の有無や漏れ聞きした会話についても記載させていただいた。(「自分で友人を誘って観に行かなかったのか」とかいうツッコミは止しといて)

 

 

映画作品に限るとはいえ、全作品を上映するという試みは望外に嬉しかった。いくつかの代表的な作品だけピックアップしてかける、という選択肢もあったに違いない。それで後ろ指を指されることもなかったはずだ。

けど、ちゃんと全作品を上映してくれた。もしそうでなければ、このような形では『境界の彼方』や『天上人とアクト人』などには出会わなかったのだろうと考えると、感慨深いところがある。ここ10年ほどの京アニの歴史を、疑似的に追走することとなった。

 

週替わりの上映であることも幸いだった。日替わりだったら凝縮されすぎてて、とてもこのようには味わえなかっただろう。特集上映は4か月の期間に及んだが、それは濃密な時間だった。

文章が冗漫なところも多々見受けられると思うが、各々それなりの時間を割いて記したものだ。数日に分けて感想を記したものも少なくない。映画本編を観ている時間より、本記事の駄文を綴っていた時間のほうが長いだろう。

それがまた楽しかった。大袈裟に言えば幸福だった。生きる意味とまでは述べないけれど、生きる甲斐くらいではあったかもしれない。生きる目的とまでは持ち上げないけれど、日々の活力を得る源泉ではあった。喜びを見い出し、楽しみを紡いだ。

 

京アニと、京アニの映画作品を特集上映してくれた松竹に、感謝の意を捧ぐ。

 

 

私は京アニ贔屓(ひいき)は自覚していたけれど、京アニファンだとは自認していなかった。作品のファンであれば、「この作品が好き」と語れるのだろうけれど、私は特定の作品にあまりその類の感情を有していなかったから。

しかし自己認識など、どうでもいいっちゃどうでもいい。

特集上映を機に楽しみを知った作品もあるので、そういうのは今後鑑賞していこうと考えている(ブログに感想を書くかは未定)。『境界の彼方』『空上げ』はTVシリーズ未視聴だし、『響け!ユーフォニアム』シリーズも再び観返したい。

原作小説も読んでいないものが少なくなく、これにも手を伸ばしていきたい。すでに何度か記したように、どうせなら中古でなく購入したいので、再入荷してくれることを願う。

 

あ、そういえば『リズと青い鳥』のブルーレイも購入したぞ。アニメイトで。

私はこの作品に苦手意識を抱いていたので、購入する気は無かったんだが、音声特典のコメンタリーの名前を確認したら、山岡ゆりが入ってたから。

もともと私は声優のコメンタリーよりスタッフコメンタリーのほうが好きなので京アニ作品はスタッフコメンタリーが多いと思う)、あまりキャスト名で判断することはない。でも今回は目に留まってしまって悩んだ。これで購入したら声優目当てで買ったみたいになるのが嫌で自分の中でせめぎ合ったのだが、最後は山岡ゆりに負けた。

もちろん(苦手に感じていたとはいえ)作品が良作だという前提での話だけど。

 

*1:むしろ1番シアターより5番シアターのほうが微妙にキャパ小さいからそれがおかしいとも言える。それで場所変更したんか?

*2:後輩にかんなのフォロワーがいて直角ポーズをマネしてるとか、体育館で2人が座ってるシーンで最初スカートの中が見えてたとか

*3:入場特典はすでに終了。週末分で枯れたか。やっぱ書き下ろし短編小説をランダム配布って、過去作品と比べてもエグイよね。かといって1日に何度も見るのは内容的に重い

*4:事件後の報道で言及された作品の回数をカウントしたら、『境界の彼方』より『中二病でも恋がしたい!』のほうが多かったはずなのだが。

*5:自我を守るために記憶を抑圧している的な

*6:特集上映も爆音映画祭も、上映前の時間に予告が流れないのでシアター内は静か

*7:映画自体は初見だが、TVシリーズは視聴済み

*8:事件後に、『クラナド・アフターストーリー』の第10話らへんで元ロックシンガーの芳野さんの過去話を改めて観ると、複雑な気持ちが湧くのと同様かもしれない

*9:よく鯉にエサをやっている橋。モデルは四季の広場・美登鯉(みどり)

*10:たまこがその策を弄そうとしていたころ、もち蔵のスマホに映研の友達から着信がある描写があるから、たぶんそのとき学校閉鎖のこと知ったんじゃないかな。どうだろ。

*11:京アニが発行する文庫レーベル

*12:これを書いている現在、公式通販では『中二病』の在庫は枯れていた

*13:あと『境界の彼方』第2巻と『中二病』第4巻も買ったよ。不揃いだから在庫復活してくれ

*14:そういえば、2018年の一発目に観た映画が『映画 中二病』、2019年の一発目が『たまこラブストーリー』だった。偶然だが年初に京アニ映画を鑑賞するのが続いているので、これを2020年最初の一本にするのもいいかもしれない

*15:『特別版Free!』でも似た試みがあったようだ

*16:そういやなぜか原作を読んだとき、CVが東山奈央で脳内再生された。すでにアニメで声を聴いているはずなのに、原作で声優が変わってしまって、そのあと本作を観て違和感を感じるという謎の現象

*17:日常、けいおん氷菓ハルヒはすでに売り切れなんだが。今(11月28日21時)見たら、らき☆すた境界の彼方もなくなってるし。

*18:朝日新聞2019/11/25朝刊30面「京アニ現場、1月から解体」

*19:毎日新聞京都版2019年11月19日付「京都アニメ放火:コンサートの券、3分で完売 吹奏楽京アニ作品テーマ」

*20:ただし土、日、水曜は18:10の回の上映は無し

*21:予告編上映の時間が無いからそうしないと時間的にキツくなる事情もあろう。いちいち時間を記録してはいないので私の印象論かもしれないないが。

*22:現に前日に私は『ルパン三世』の映画を鑑賞し、『ヴァイオレット』の予告編もそのとき流れたのだが、日付が変わっているかどうかを気に留めていなかった。月曜と火曜の間に差し替えるというのはあまりなさそうな気がするので、このときに4.24の日付に気づけたはずなのにスルーしている

*23:メジャーセカンド』のほうが盛り上がった。

*24:土曜日以外は9番シアター。MOVIX京都での上映は最終週になる。

*25:京都府青少年の健全な育成に関する条例第23条第1項「興行者……は、……深夜においてその興行又は営業の場所に青少年を入場させてはならない。」。「深夜」は午後11時から午前4時の間(同12条第8号)。

*26:「ムント様だ」ではなかったのをなぜか憶えている

*27:後述するが、年明けに再度『ヴァイオレット 外伝』を鑑賞してきた。ラストのほうでイザベラ(エイミー)が湖の前に立って叫ぶシーンがある。そのときに髪が風ではためいて複雑な動きをする。こちらと比べたらユメミの髪のたなびき方のほうが単純な動きなのだと思うが、でもやっぱカッコいい

*28:硝子のピンク色の涙については、オーディオコメンタリーでも「血の涙」の話が。。。こういうスタッフのコメンタリーが好きなのだけれど、今後は音声特典どうなるかなぁ

*29:逆にいうとあれなんだわ。私の耳にはオーボエの演奏がどう変わったとかイマイチぴんと来ないねん。希美や泣いている部員みたいな気持ちにまではどうしても行かない。

*30:通常上映より爆音を上に付けたい。通常上映でも★5だけど

*31:2回目のほうが若干満足度高めだった。1度目も★5

*32:ヒストリカ映画祭も良かった

*33:これちょっと悩んだ。『リズと青い鳥』とセットなうえに、幕切れが『ようこそ』や『届けたいメロディ』よりブツ切りな印象があるから。

*34:4度目の鑑賞のあとでTV版の最終話あたりを見返したり、原作小説と行きつ戻りつがあるからな。映画単独で★5つまではちょっと…という感じか。

*35:#04だけだったら★4にする