ぽんの日記

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組織の軋轢

ふと井上浩氏の退職経緯が気になった。

退職時は54歳、慣行より4年早かったようだ。『労働基準監督官日記』には「退職辞令をもらってもなんの感慨もわかない」と記している*1

どうも退職間際には、組織の軋轢がいろいろあったようでもある。

 

退職時は埼玉労働基準局行田署長。形式的には依願退職であったようだが、そもそも当時は定年制がない。署長は58歳での退職が慣行だったようだ。「クビになった」との噂が流れたとか。

 

 

 

1976年(退職の前々年)の7月。『労働安全衛生広報』に書いた記事について、本省から注意を受けている。製造禁止物質のベンジジン鑑定能力がないため事件捜査に支障があったことを記したのがその理由。

 

その事件では、経営者はベンジジンを使用して染料を作っていたことを認めていたが、自白のみでは公判を維持することが困難とのことで、ベンジジンの鑑定が必要となった。しかし労働省関係の機関に電話で当たってみたが、どこも分析器具がない。県関係の研究所、通産省関係の研究所(都内及び近県)にもあたったがいずれも不可能。警察関係は中央・地方ともに分析する技術はあったが、部内の鑑定のみで手一杯。結局、埼玉局と関係の深い公的な環境測定機関に鑑定依頼したとのことだった。

 

 

氏は注意を受けた際の一部始終を次のように記している。

事の発端は、労働基準調査会発行の労働安全衛生広報第169号(昭和51年5月1日発行)に私が書いた"●いま……現場で……監督官は……● ② 化学工場の監督ができない?“という一文である。近藤局長は、局長室に入ってきた私に笑いながら言った。

「井上さん、本省で局長からやられたよ」

「?」

「局長がね、労働安全衛生広報を読んでね、監督官ともあろうものが、労働省にベンジジンの鑑定能力がなどと書くのはもってのほかだ、と怒っていたよ」

私は驚いた。事実そのままに書いたのに。近藤局長は続けた。

「この前の全国局長会議でね、従来そんなことはまったくなかった労働衛生研究所の見学をさせたよ。これもどうも井上さんの一文のせいらしいね」

そういうと近藤局長は大きな声で笑った。普通の局長なら私は大目玉を食うところであった。出版社の社長で私に書かせたということで、本省に呼ばれて怒られた人もあったという。近藤局長も呼ばれたらしい様子であった。

私は、局長室を出ると安全衛生課の益田衛生専門官に会った。ベンジジンの鑑定は益田さんが中心になって進めたのであった。

「益田さん、本省局長の話だと労働省にもベンジジンの鑑定能力はあるということですが」

益田さんは少し色をなして答えた。

「ええ!? そのことは私が本省労働衛生課の中央労働衛生専門官に直接電話して聞いたところ、鑑定能力なしということでした。間違いありません」

益田さんは工業化学系で、6級職の監督官試験で入った優秀でしかも人格者であった。私は強い調子の返答を得て笑って辞した。

(『安全センター情報』(247)1998年10月号「監督官労災日記56」)

 

 

同1976年9月。兵庫県労働者安全センターで講演の際、肩書に「全労働」とあったことが問題視された。「全労働」とは全労働省労働組合のことだが、当時氏は署長であったため組合員ではない。

勝手に肩書を使われた組合ではなくて、本省の職員が怒ったらしい。(これについて組合はむしろ同情的だったそうだ)

 

労働省は、日本労働者安全センターの発行している”いのち”を539部取っていた。ところが、76年7月25日発行(No.118)の48頁に兵庫県労働者安全センターニュース(6月21日発行No.66)の1面がそのまま掲載され、第3回安全学校開催が報ぜられており、10日間のうちの8日目の8月27日が「職場の労働安全衛生点検」という講座名で、講師は「全労働労組 井上浩」とあった。これが問題になったのである。署長である私は非組合員であった。しかし、近藤局長によると、当初本省幹部はこのことを全く問題にする気はなかったという。ところが、”いのち”を見た某職員が”ご注進、ご注進”とかけ込んだという。結局、私の理由書だけでは足りず、”いのち”の翌月号32頁の下の方に編集部から”訂正とおことわり”ということで、13行役320時の説明文が掲載され一件落着した。

(『安全センター情報』(246)1998年9月号「監督官労災日記55」)

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安全センターニュース

 

氏が手帳の記述をもとに、このときの経過を残している。

 1976年9月3日(金)

庶務課長より、明日昼に出頭するようにと電話あり。

 9月4日(土)

局へ出頭。局長、庶務課長面談。①兵庫センター講演に全労働という肩書不可。②講演に行くことは可。③有給休暇としていくこと。④本省監督課で問題にしている。(前回は雑誌の件で本省基準局長であった。)⑤理由書を提出すること

 9月6日(月)

理由書を庶務課長に提出。夕方局長から電話。①兵庫労働センターが誤って「全労働」としたことを私からセンターへ抗議することが大事だ。②そのようなヒントを会ったときに与えたが、そのようなことが理由書に書いてない

 9月8日(水)

庶務課長来署。①私のことで本省で大へん怒られた。②そのため兵庫労働センターの始末書がほしい。(もちろん兵庫センターが労働省に始末書を出すなどお門違いであって、できることではない。結局、最終的には安全センターの石原さんの努力で”いのち”誌の記事で一件落着することになる。)

 9月10日(金)

庶務課長へ回答文投函

(以上『安全センター情報』(248)1998年11月号「監督官労災日記57」より)

 

 

 

1977年10月。NHKのテレビに出演したことで注意を受ける。

埼玉局長の注意書が、局の職員全員に回覧されたらしい(安全センター情報(261)2000年1・2月号「監督官労災日記69」)

埼基発第760号 昭和52年10月5日 局長より署長あて

署長の広報活動について

貴職は去る9月27日NHKテレビに出演した。本件について本職に対し何等の連絡、協議も行われなかったことは誠に遺憾である。

もとより、報道機関の活用については、行政の円滑な推進、発展を図り、広く国民の理解を得る上にきわめて重要であることは言をまたないところである。

しかし、このことについてはあくまで各自の行政責任と行政機構における立場を十分配慮して対処すべきは当然のことである。

今後かかることのないよう十分注意されたい。

 

氏は次のような始末書を提出した。

昭和52年9月28日

埼玉労働基準局長殿

行田労働基準監督署

NHKテレビ出演経過について

標題のことについて、下記のとおり報告いたします。

1 出演番組

 9月27日 NHKテレビ 8:40~9:30

 奥さんごいっしょに

 Ⅱ部 労働災害と法律

2 出演に至る経過

 労働災害労災保険に関する番組に出てほしいと依頼された。労働省にも行ったがはっきりとした答が得られず、出版物により選定した模様である。出ることについては署長の肩書きを出さないことで合意。

3 出演者

 弁護士 大竹秀達

 監督官 井上 浩

 出稼ニュース編集者 高橋良蔵

 地方公務員 高橋節子

 主婦 中島カツコほか3名

4 内容(関係部分)

 次の5設問について簡単に回答

(1)パートの怪我・・・受給できる。

(2)自分の過失で自動車事故・・・受給できるが支給制限される場合あり。自賠保険が出る場合はそれを先行。ただし、特別支給金あり。

(3)職場で脳卒中・・・仕事と因果関係あれば業務上

(4)帰途お得意先を接待・・・業務命令がなければ不可。

(5)食堂がない場合の外食途中の災害・・・業務災害となる場合もある。

5 参考事項

(1)出演中に視聴者により次のような抗議電話あり。

『交通事故では自賠先行と言ったが労働省通達では、本人の自由選択とされている。』(黙殺)

(2)大竹弁護士の説明について講義電話あり。

『長期傷病補償給付(NHK作成の標示)と説明したがそんなものがあるのか。』

(担当外であったが電話に出て、傷病補償年金の誤りであると言ってあやまり了解。)

(3)番組のさいごで、『問題があったら監督署にご相談ください。』と言ったことについて、終了後に出演者から『監督署は不親切で相談に行けない。』という複数意見が寄せられた。

(『安全センター情報』(266)2000年7月号「監督官労災日記74」)

 

 

1978年4月1日退職。

退職後にも本省監督課といざこざがあったそうだ。

埼玉県朝霞で新任監督官研修中の人たちが私に講演を求めてきたのであった。ところが理工系の1人が本省監督課に知らせたという。それを聞いて監督課係長が何と言ったか不明であるが、その理工系の監督官が”あんな人の話を聞くのは「恥」だ”といって中止させたという。その「恥」という意味が当時の私にはどうしても分からなかった。しかし、最近の官僚の汚職を見ていてようやく想像することができた。つまり、労災保険料を「活用」して、行政活動の全般はもとよりOBの職まで面倒見る体制をやっと作ったのに、それを裏切って内部告発したということではなかったろうか。(社)全国労働基準関係団体連合会等なかなか見事なものであるが、いろいろと心配なこともあったのだろう。

(『安全センター情報』(246)1998年9月号「監督官労災日記55」)

 

氏は裏金や天下りを批判しているので、煙たがられたのだろう。

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