ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

メモ)泉州機業地対策

覚え書きということで

 

 

大阪労働基準局[1998]『労働基準行政大阪50年の歩み』に寄せられたOBの寄稿の中で、次のような文章がある。

かかる泉州機業地の無法ともいうべき状況を一掃すべく、昭和35年5月に「岸和田監督署管内における紡織業の深夜業違反絶滅措置要綱」が大阪局から発せられ、同署に泉州機業地対策本部」が設置された。対策を実施するためにワゴン車も1台、運転手とともに配置し深夜監督等の足がまず確保され、局から監察官2名、他署の監督官も5~6名が常駐し、岸和田署の監督官ともども監督指導を行う局署をあげての強力な体制が敷かれた。昼間の定期監督も行われたが、人員と機動力がそろったので深夜臨検の回数も飛躍的に増加させたため法違反の摘発数もそれまでと比較にならぬ位の数になり、その中から悪質事業場をリストアップし、片っ端から書類送検を行った。

現地の岸和田署の監督官が主として昼間と夜間の監督による違反の現認、局他署からの応援部隊は送検処理を行うというような、一種の流れ作業方式が採用されたが、効率的であった。結果として送検件数は増加し、対策本部が設置された昭和35年から3年間で173件を送検したのである。昭和36年だけでも100件という数字であった。悪質な事業場では2回にわたり送検されたが、なかには4回連続送検された事業主もおり、体刑の判決も出たのである。

……

泉州機業地対策は、大阪局として広い地域にわたる多数事業場の法違反是正に取組んだ異例、かつ最初の貴重な事例である。しかし従事した職員の労苦は多大という他はなかった。一口に深夜臨検といっても初期の交通手段は自転車或は中古の原動機付き自転車であり、夏冬を問わず片道10キロ以上の道程を駆けめぐり一晩に数十件の事業場を臨検した。深夜に閉門された事業場の戸をたたいてやっと工場内へ入れてもらい、就労中の女子労働者に現認書の記名指印を得るのは一苦労であったし、深夜臨検に抵抗して暴力を振るう事業主もいたのである。

(高橋壽雄「泉州機業地対策」106頁)

 

「違反絶滅措置要綱」とは物々しいが、1961年で100件というのはかなりの数だ。1961年の全国の送検数が451件だ。

全国的にいえば1964年を境に送検数が増えるわけだが、大阪や愛知はイレギュラーだったりする。

f:id:knarikazu:20210101162622p:plain

送検数