ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

ナイター

かつて労働基準監督署では、夜間に臨検を行うことが多々ありました。時期的には1960年代が最も活発だったようです。

性労働者に深夜業の規制があったころの話です。

(時間外労働について1日2時間、1週6時間、1年150時間までの上限。休日労働は全面禁止。深夜業も原則禁止*1となっていました)

 

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これは送検数の推移です

 

標題にした「ナイター」はジャーゴンとして使われることがあったようです。全国的なものかはわかりませんが。

 午後四時半。真夏の太陽は、カンカン照りつづいている。きょうは、T地区メガネ枠工場のナイター(薄暮終業時間のパトロール監督の意味)。北陸特有の湿度の高い、ねばりつくような暑さの中を、いつものナイター要員三名の監督官が、バイクにまたがり出勤する、T地区まで十五粁。田舎道の巻きたつ砂煙りと、ふきでる汗とで、たちまち”ホコリ(・・・)高き男”と早変り。・・・五時半。監督開始!!頭に刻みこんだ工場配置図に従って、一軒づつ終業状況を確認する。一軒目・・・終業、二軒目・・・家族夫婦のみで操業中・・・。ある工場からラジオの音楽が流れてくる。メガネ工場では、単調な手仕事が多いせいか、仕事中は、バック、グラウンド、ミュージックよろしく、ラジオをつけ放しにするのが習慣。これも精神的なストレス解消のための一策か。さっそく、この工場をのぞく。女二名、男一名の従業員を使っているはず。仕事中の主人は、ズボンのセルロイド紛を払いながら応待にでる。

「女の人は、二人とも五時半に帰したよ」

「あの仕事をしている女の人は?」

「あれは、わしの家内ぢゃ。納期遅れできょうは、わしらと男の人で七時まで、残業するつもりだ」

 このあたりでは事業主夫人も欠かせない労働力である。あまり時間をかけられない。先を急いで予定工場を見回る・・・夏の陽が西山にかかるころ、ようやく予定工場の監督完了。

 きょうは違反工場皆無の好成績だ。一ころは監督するたびに違反工場が続出し手を焼いたものだった。そのころの苦労を思いだし隔世の感がする、と満足と感謝の気持で疲れも忘れ、心温かく帰路につく。

(『労働基準』第17巻8号1965年「〈地方通信〉めがねわく」(武生労働基準監督署的矢監督官))

 

トロール監督と書かれているように、複数の工場を見て回っていくイメージでしょうか。

「いつものナイター要員三名」とありますが、夜間臨検のほかの記述を読んでも、複数人の職員で実施するのが通例であるようですね。

一般の臨検監督だと、ひとりで監督に行くことが多く、それは戦後労働基準監督行政が指導した当初からその様子でした。小松[2006]は、「昭和20年代中頃の話」として、女性の監督官でもひとりで事業所に監督に赴き、ニセモノの監督官ではないかと疑われたエピソードを紹介しています*2

夜間臨検ともなると、さすがにチームで監督を行っていたようです。

 

深夜業違反は現場さえ押さえれば言い逃れがしにくいというメリットがありました。深夜に工場を訪問して、女性が働いていたらそれでアウトなので。

これが賃金や帳簿等の違反と比べたときのわかりやすさですね。

▼三二条違反の時間外労働とか女子の六一条違反とか年少者の深夜業とかいうものを監督して違反をあげるためには、やはり夜間臨検を行わなければならない。ただ帳簿台帳くらいで挙げたものは、経営者の方でも、忙しいものだからついやりました。しかし三七条の割増賃金だけは払ってありますからというようなことになってしまう。しかし、夜九時頃臨検すると、従業員自体もいいところへ来たという感じがするし、経営者の方も弁解の余地はないというようなわけで、臨検の効果がある。ところが、夜間臨検をやっても、われわれは超勤手当をもらえないのだ

労働経済旬報243号[1954]「基準法は守られているか――監督官からみた労働者の実態――」6頁)

 

▼申告があったところを夜間臨検をやらなければならぬという場合、監督署長などは出張命令を出して夜間臨検をやる余裕がないといって二の足を踏むことがある。しかし監督官の方でどうしてもやりたいというと、それでは全然超勤も出ないのだから署長としては晩飯ぐらいは心配してやろうということを考える。そこで外郭団体などの援助を受けるということがおきてくる。

(同7頁) 

 

ところで、上の座談会の発言に見られるように、1950年代前半ごろは監督官の側にも超勤手当が出ていないという話もありました。違反を取り締まる行政サイドが違反を犯すような状況ですね。

それがその後どのように解消されたのかは知りませんが、最初のころの監督行政は金欠エピソードに事欠きません。

よく出てくるのは、労働省発足まもない時期。庁舎がなかったという話。

デパートの2階を借りる*3、旅館の2階を借りる*4、お寺の庫裏、印刷所で間借り*5、間口三間、奥行三間の店先*6、明治時代の郡役所の一室を借りる*7、酒造店の倉庫住まい*8などなど。

東京でも厳しい実情で、中央署は栄養食品(株)(昭和22年9月)→私立中央商業学校(同年12月)→(財)共済会ビル(昭和23年3月)→(社)労務管理協会(昭和24年)と移転して新庁舎を建てたそうです*9。品川署は藤倉ゴムの倉庫を改造、三田署も労政事務所と一緒だったが狭いということで工場の一間に。渋谷署はオリンパスの工場の3階、三鷹署は雨が降ると電線を伝ってショートしたとか*10

庁舎の予算も厳しくて、新庁舎の屋根が予算が削られて瓦が葺けなくなりそうになって折衝したとか*11、備品・落成式等の費用については工場・事業場に寄付をお願いする*12、机や椅子などの備品や消耗品を安定所のお世話になることも多かったとか。

監督旅費が不十分だったために、国鉄にお願いして監督官証票での無賃乗車を条件付きで黙認してもらう*13、庁費などをコマ切れ配布し、給料も月に何回かに分けて支給*14ということもあったそうです。

で、お金がないのでマージン稼ぎ。法規の解説書をつくって売った*15、関係法令の解説書や許認可用紙の取扱で手数料稼ぎ*16、36協定や賃金台帳の用紙を販売、労働本省から無料で送られてくる労災の請求書を有償で販売、集団健康診断の実施機関(民間病院)から1人いくらのマージンをとる*17など。

あと、賃金構造基本統計調査を社労士に手伝わせるなんてことも*18

さきほど寄付の話もありましたが、事業主から直接募れないので、外郭団体を作って会費を集めたなどとも語られています*19

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井上浩「監督官労災日記」『安全センター情報』192号、28頁

 

さて、1960年代は地域によっては頻繁に夜間臨検が行われていたようです。

次は石川の話。

番匠 繊維業の労働時間問題は、全国的なものでしたが、わけて石川は代表的な産地ですから大変だったということでしょうネ。当時は監も事もなく臨検に出ていますが、薄暮、夜間、深夜、黎明の時間帯(笑)を、事態に応じて選択、あるいは組合せてやるんですが、激しい時期では週2~3回もやりましたネ。

(石川労働基準局[1977]『労働基準行政30年のあゆみ』 記念座談会「石川の30年を語る」116頁)

「監も事もなく」というのは、監督官だけでなく労災部署の事務官なども動員されたということですね。

 

日比野 さき程の繊維の時間問題は[昭和41年には]収束の段階でしたが、それでも1年余り小松で経験しました。夜間は既に車でした(笑)が、先輩がたは、工場の織機の音だけを聞いて“金属、半木製何台稼働、回転数何回程度”と云って、それがズバリ当たるんです(笑)。驚きでしたネ。

(石川労働基準局[1977]『労働基準行政30年のあゆみ』 記念座談会「石川の30年を語る」118頁)

それと車がすでにあったことが笑い話になっています。公用車がなかったころは、自転車で工場をめぐっている時代でもありました。

機械の音で稼働台数がわかるというのが印象的ですね。真偽はともかく、職人芸を極めるほど頻繁に臨検を行っていたのでしょう。

 

 ところで、私が監督業務に従事した昭和40年代前半には、まだ女子の長時間労働を取り締まるために夜討ち朝駆け”による夜間臨検(監督)が行われており、一晩に一直勤務の就業時刻(17:30)、二交替勤務の就業時刻(22:30)、次いで翌日の二交替勤務の始業時刻(5:00)、一直勤務の始業時刻(8:00)と連続4回の出勤を余儀なくされたものである。この夜間臨検には、先輩監督官諸氏にも様々な経験や体験をお持ちの方もお有りになる方もあると思うが、違法就労をやっていると認められる事業場(織物・撚糸工場等)に立ち入った途端、私共監督官の姿を認めた女子工員や責任者らは、蜘蛛の子を散らすように非常口の方へと逃げ、これを追って監督官は彼氏・彼女らを追い詰め織機の騒音の中で「職種・氏名・就労時間」などを尋問して手帳にメモし、粛々として職権を行使した若き監督官時代の思い出が今でも生々しく蘇ってくる。

(石川労働基準局[1997]『労働基準行政50年のあゆみ』 杉本鐵夫「時短今昔」104頁)

 

交替制勤務のそれぞれの時間帯に合わせているということなんですね。

そして工場に立ち入ると「蜘蛛の子を散らすように」 逃げてしまうと。

次の回顧でも、女子労働者が「蜘蛛の子を散らすように」と語られています。監督官で集合して自転車を1時間ほど漕いだということは、まだ車がなかったんでしょうかね。

 特に印象深いのは監督でも夜間臨検です。昭和35年頃までではなかったかと思いますが、紡織とか漁網製造等の繊維産業にあっては長時間労働、女子年少者の深夜業が盛んにおこなわれていて、これらの事業場に対して時折、午後10時以後の夜間臨検を行い、女子年少者の深夜業の摘発にあたったものでした。

 ある時、夕食をすませて監督署に集合、自転車のペダルを踏んで1時間ほどかかって目指す工場に午後10時ごろ到着、工場の周囲から工場の内部をのぞき見して労働者の作業をしているのを確認して、午後10時を過ぎるのを待って工場の守衛氏にはじめて来意を告げるのでした。

 そうして工場内に入るとすぐに機械は止まり、女子労働者が蜘蛛の子を散らすように姿を消してしまう、たまたま逃げ遅れたのか居合わせた女工さんに氏名を聞き、時刻を確認して貰って帰ったこともありました。

 また、時間を決めて監督官が集まり、定められた数軒の事業場に行くとその日に限り、深夜業が行われていないとか、工場入口で番犬に吠えられてとどまっている間に機械の音が止まり、労働者が何処に行ったのか、いづれにしても夜間臨検は労働を費やしたわりに成果というか、空振りに終わったこともたびたびありました。謀りごとは密なるがよしか、敵もさる者と言うのか、このようなことを繰り返した結果、長時間労働、女子年少者の深夜業も、時代の要請もあったでしょうが無くなったのではないかと慰められるものもあります。

(三重労働基準局『50年のあゆみ』 栁野茂[1997]「昔を思い出して」67-68頁)

 

 

 

番犬の話も出ていますが、多かったのは守衛に足止めをくらってしまい、働いているところの現認を逃すパターンでしょうか。

 昭和二十六年秋頃。管内の紡績会社で女子、年少者に違法な深夜業(当時は午後十時から翌午前五時までの間の労働、ただし監督署長の許可を受ければ三十分間の猶予がある)を行わせていた事業、労働者からの申告も度重なり、また再三の是正警告にも改善をしない、遂には事実を隠蔽するようになって来た。署の決断で署僚、担当監督官と私の三人で深夜臨検を実施して、深夜業実行現場を確認する事となった。事業所は電車でも一時間半有余はかかる遠方であったので、帰りの終電車がなくなるおそれがあり、付近に旅館もないことから、当の事業所の近くにある他社の寮を借りることにした。

 さて、当日、深夜業を実施しておれば、違反を確実に把握できる午後十時四十五分過ぎ頃事業所に踏み込もうと、三人で時刻を合わせながら歩む。守衛所から入ろうとすると、会社の命で夜間は責任者の許可がないと入場は駄目、連絡を取るから待ってくれという。連絡に時間かかる。あらかじめ予想をしていたとおり、これでは現場が仕事を止めてしまうと判断し強行に立ち入ろうとしたが、今度は我々に抱きついて行かせまいとする。やむをえず、今までやったこともない監督官証票を提示してやっと工場に入ることができた。現場に走り赴くと、工場は、先刻まで仕事をしていたのだろう、機械だけが動いている、二、三人の男子作業員が機械を止めて歩いている。工場の外には、三三五五女性従業員が何か持って歩いている。聞くと、今風呂に行っての帰りだと答える。確かに洗面器と手ぬぐいを持っている。初めての深夜臨検ではあったが、女子・年少者の就労現場をキャッチできず、不慣れか、事前準備の不足からか失敗したと反省しながらあらかじめ借りていた寮へ向かった。

(小松昇[2006]『労働基準監督官奮励記』新風舎84-85頁)

 

次は1949年3月。投書をもとに紡績工場に臨検した際のエピソード。三重・松阪の事例。

「注文が急に増えまして、納期に必要な数を準備しなければなりませんでした。労基法違反になることを知りながら女子工員の中で、時間外労働に同意を得られる人だけに残業してもらいました。勿論割増手当はちゃんと計算して支払いましたので不平をいう人はおりませんでした。誠に申訳ありません。今後法違反は絶対にいたしませんから、今回、処分だけはお許し下さい」とその非を認め、誠意ある口述をした。

 私は、この申し出を諒解して法違反をしないという誓約書を提出させ、この件は一応落着した。

 それから一ヶ月程は平穏に過ぎ安心していると、また一通の葉書きが届けられ我々の行動を見ていたかのように認められていた。

《先般は工場に来られ夜中操業を止めさせて頂いたので附近の住民は久しぶりに静かな夜を過ごしていました。ところが、この五日程前からまた深夜操業がはじまりまして、騒音がやかましくて眠れません。もう一度、監督をお願いします》

と書かれており、私は会社に裏切られたことに失望した。

 そして、私は坂田次席に今後の当署としての対策は、夜間臨検を行って証拠を掴み、司法処分にしなければ女子工員たちの保護はできないのではないですかと提案した。坂田次席は渋面を作りながら、「厳しい措置ではないか」といい、署長と三人で検討しようと言うことになった。署長は「この経過からすれば、違反をかくして通り抜けようとしていて悪質ではないか、実情把握するには夜間臨検しかないと思う」と言う。

 そして今度はこれでいこうと翌々日深夜臨検を決行することになった。

 臨検の日、午前0時に塀の外側の出口に職員を待機させ、通用門から出てくる人数を数え、時には逃げだす者もいるが、氏名を聴いて記録するよう指示した。私が正面から入ろうとすると工場の機械の音がぴたっと止まった。同時に電灯も全部消され門灯だけが点灯されていた。これはしたり、察知されたな、と思う間もなく一匹のシェパードを連れた男性が私の前にあらわれ威嚇してきた

「こんな夜更けに何のようですか」と異常な声高で言いよってきた。

「私は松阪監督署の加藤監督官です。貴方の工場では深夜業、時間外労働が常態となっているとの、この附近からのふれ込みがあったので内定しているところです。さっきまで機械の轟音を立てていたのではないですか」と言うと、

「終業した機械の整備で、明日の作業準備のため男子工員が機械の点検をしていたのです」

「未だ深夜業、時間外労働をさせていないと言われるのですか」とただすと、相手は答えない。

「…………」

 此処で問答をしていても埒があくわけはない。我々は全員署に引きかえした。そして、翌日、会社の強制捜査を実施し関係書類を押収して引揚げ、関係者に対する質問を行って供述調書を作成し二、三日後、司法処分とし送検した。

 この事件で女子工員達の供述調書を作成中、こんな後日談があった。

「監督官が会社へ調べに来られた時、突然機械が止まり電灯も消えました。暗闇の中で工場長が大きな声で〈機械の間にもぐれ〉と叫ばれたので、私達は何事が起こったのかわからぬまま急いで機械の間に身を寄せ合い、綿ぼこりをかぶりながら息を凝らして隠れていました」

「今回のことで時間外、深夜労働から解放されるようになったと思うと夜が明けたようになり、私達は嬉しくよかったとおもいました」

と喜んでくれました。

 正に彼女達の実感は私の喜びでもあった。

(加藤卓雄[2008]『第一線労働基準監督官の回顧録』歴史研究会出版局55頁)

 

当時は是正勧告書の様式が整っていないので、誓約書を提出させて是正を約束させる手法をとっています。

いちどは一件落着かにみえましたが、再び投書が舞い込んできて、送検手続に入ることを決めます。そのための実情把握として夜間臨検の運びとなったということですね。

 

以上見てきたように、夜間臨検はほとんどが工場での事例です。

下の引用は朝日新聞の1958年のものですが、ちょっと珍しく商店を夜間臨検したケースです。人手不足はずーっと言われていることですが、工場のほかは手が回りづらい状況にありました。それでも投書があった場合であればともかく、というところでしょうか。ただし記事では「商店関係の投書は極めて少ない」とも触れられています。

始末書や念書という措置は当時取られていたもので、現在とはやや異なっていますね。

 今年の夏、夜十一時すぎに五人の労働基準監督官が、さる洋品雑貨商を突如臨検した。約三十人の女子店員たちが、労働基準法で禁ぜられている深夜労働をやっている。とみるまに仕事をやめ「終電車に遅れます。仕事はもう終わったんです」と二十人ばかりが、逃げるように帰ってしまい、結局十人ばかりの氏名を確認し、この名簿をもとにこの店の摘発が始まった

 渋谷の目抜き通りにあり、約三百人の従業員がいる大きい店での話である。この店、終戦直後にささやかに始まり拡張に拡張が続けられたもの。地元の渋谷労働基準監督署が目をつけたのは三十一年の暮だった。店員から密告があり「休みがなく、夜遅くまで働かせる」という。まず同年十二月三日、休日出勤や深夜労働の実情を調べて、違法な点を指摘「是正勧告書」を発行した。三十二年六月二十八日、再び行って見ても前のまま、こんどは日を区切って違法をなおすことを約束した「始末書」をとった。それでもダメ。八月三十日には「こんごはどんな処分を受けても不服は申しません」という「念書」までとった。いわば労基署にとっては札付きの店だ。今年の夏になって、またまた投書や電話がかかるようになった。労基署は強硬手段にふみ切った。「零細企業ならともかく、こんな大きな店で、労基法を全く無視しているのは許せない」ということからだったそうだ。

 盛り場のこのあたりの商店は夜が遅い。生地や雑貨を売り、婦人服の仕立もやるこの店では、そのころ夜十時四十分ごろにしまり、それからあとかたづけ、売上げの計算、翌日のためのかざりつけなどをするから、毎日相当数の女子店員が深夜労働をしていたと労基署はみている。時間外勤務手当もあいまいであるという疑いもあった。

 臨検に引続き、捜索も行われ、多数の書類を押収したが、その書類も不完全だった。従業員全部の勤務時間を正確に記録していると認められる書類もない。一方、休みをきめた勤務表もないようだ。適当な日に休んでいるが、一カ月に一ぺんも休まない人もいる。そこで問題を、特に女子労働者に厳重に禁止されている深夜労働と休日出勤に限ることにし、証拠固めに入った。約百八十人中十二人の店員をピックアップ、七、八両月の間に三十二回の休日労働をさせ、同じく十九人に対して最も遅いもので午前一時半まで、延七十回、百四十九時間の深夜労働をさせたという「犯罪事実」を固め、書類送検した。

「全部を洗い出すことはとてもできなかった。氷山の一角とわかっていても仕方がなかった」と労基署の話。このほか時間外勤務手当も一律二、三千円を支給しているだけだったので違反の疑いが濃かったという。

朝日新聞1958年12月17日東京朝刊12頁「労基監督官のメモから 守られぬ労基法 投書もこない商店関係」)

 

 そのほか苦労の体験談として、東京の事情についての座談会をやや長いですが載せておきます。

〇菅原 夜間監督を元八王子、柚木村、川口村あたりを夜の大体7時から8時頃になって自転車で……。

〇鈴木 猛犬に吠えられてね、どぶ川へ飛び込んだりなんかして。

〇菅原 それで、「今晩わ、今晩わ」といえば、がちゃがちゃ、がちゃがちゃと言っていたやつがぽっと音が止まってさあっと逃げる。私は八王子に1年1か月間いましたが、その間に私は11件送検しています。

〇鈴木 あの時、警視庁の工場課時代にはこんな夜間予告なしに監督臨検があるというのは滅多にないことで、監督署というのはどうして不意打ちにやるんだと、どうも不公平だとか、やり方が強過ぎるとかいう非難もありましたね。それでも、夜間臨検というものでぴりっとさせる必要もあるというので、小林主任監督官の応援を得て、懐中電灯を持って夜やったのですよ。

〇川端 八王子の監督署というのは非常に問題があるというので余り行きたがらなかったというムードが当時あったのですね。私もそのあとやらされましてね。

〇鈴木 それで、帰りに飲みたくなると八王子では絶対に飲まないのです。必ず立川まで来て、そしてカストリか何かしらないが、そういうのを飲んで帰るというように、監督官としても神経を使っていましたね。

〇川端 そうね、これは当時八王子の署員は10数人しかしないのですが、あれだけの町をしょっちゅう機屋を中心に監督をやっていましたから、監督署の人だとすぐに分かっちゃうのです。機屋に行ったらお茶1杯飲むなという合言葉があったのですよ、私らの時は。というのは、お茶を飲んでいますと、しかも機屋は事務所というのはなくて、普通の日本間みたいな所にテーブルを置いて座敷でいろいろ話を聞かなければならない。そうすると、女工さんというか、機屋で働いている人はみんな住み込みですね。何かお客さんがあったり、誰かがくるとしょっちゅう工場と自分の部屋との間を行ったり来たりしてひょっとのぞくのです。それでお茶でも飲んでいると「あ、監督官は酒を飲んで行った」とか、そういうような話にぱあっとエスカレートする。それからなるべく八王子の市内で飲まないで、他へ行ってというような話はよくありましたですね。

〇鈴木 身辺をきれいにしていませんとね。

〇菅原 機屋のあの風潮というのは、先程川端さんが言われたように上がりかまちではなく、ちょっと畳板敷の所があって、そうしていろんなことを質問すると、あの附近の言葉でしょうね「そうかね、そうかね」と言ってぬかに釘みたいなような調子なんですね。

それで、お茶を飲まなければ、うちのは毒が入っているのかなんていうようなことを言われたことがあるし、私達の前任者の屋田さんがご存知でしょうが、ぼくは当時の署僚の橋本とし子さんから聞いたのですが、ある時、監督署に鉄砲をもって押しかけられたということもあるし、チンピラみたいのが来てえり首をとって一せいに上衣をぬいでやったという話も聞いておりますが、当時はさまざまなことがありましたですね。

〇都筑 ああ、今おっしゃいましたように、本当にあの当時はさまざまでしたね。

あの頃は本当に大変だったです。

 先程お話がありましたように、本当に気持もすさんでいて、われわれの同僚にもいろんな者がおりました。

 ただ、いい点はそういう当時の人はやはり気迫がありまして、一つがっちりぶつかって、自分で切り開いてやっていこうという気迫がありまして、それはぼくら非常に貴重だと思っています。いろいろ御苦労なことがあったし、十手を持って歩いたり、ヒロポンをぽんぽん打って手がヒロポンの傷だらけになっているやつもいたし、だけどそれなりに頑張って仕事に取っ組んで、ぶつかっていったわけです。それで、今はぼくも自ら反省しているのですが、サラリーマン的になっておりまして、もっと初めに帰って創業時代の苦労とか、苦心だとか、すさまじかったことを思い出して、それに向ってぶつかっていくような、ちょうどいい時期ではないかと思っています。むかしに帰るのですね。

〇菅原 そうですね。自転車で、今の三鷹の監督署でいえば清瀬あたりまで、かけまわる。それから八王子でいうならば、恩方村とか遠くの方まで行ったし、稲城あたりまで行って、片道で2時間も3時間もかかりました

 帰りには尻が痛くなって、もうどうしようもなかった。この自転車ぶち投げてバスか何かで帰ろうかと思ったが、また思い直して何とか帰ったりして……。

(東京労働基準局編[1977]『東京労働基準局30年の歩み』1座談会「法施行当初の思い出」87頁)

 

ひところは頻繁に行われた夜間臨検ですが、その後は実施されることがめっきり少なくなります。

法律的には1985年の改正を受けて、女性の深夜業の制限が緩和*20、1997年改正で労働基準法上の女性保護が撤廃となります。

 

昭和60年に改正されるまで、女子の時間外労働に関する規制は、1日2時間、1週6時間であった。

そのため昭和50年代頃までは、女子保護規定に対する監督指導として、「夜間臨検」が度々行われ、また、2重帳簿等悪質な事案については、司法処理が積極的に行われた。昭和60年に改正されてから「夜間臨検」は、ほとんど行われることがなく、平成3年の京都下署での勤務の時、久し振りに「夜間臨検」を実施することになった。金融機関に対する女子の時間外労働についての申告が度々あったため、第二方面主任監督官をチーフとし、作戦名「M作戦」として事前の調査を十分に行い、計画を作成し、実施された。「夜間臨検」の経験者は私と第一方面主任監督官ぐらいで、ほとんどの監督官は初めての経験であった。当日は、全監督官と労災課の職員の応援を得て実施した。違反労働を現認すると責任者から「現認書」を徴して、翌日の午前9時からの呼出状を渡し次の金融機関に急いだ。久し振りに「夜間臨検」を実施したが、「夜間臨検」を経験していない監督官等には良い経験であったと思う。平成11年4月からはいわゆる女子保護規定が解消されるが、現在の男子労働者の時間外労働等の現状からすると、特に、既婚女子労働者にとっては、益々働きにくくなり、働く意欲のある既婚女子労働者の働く場を狭める恐れがあるように思えてならない。

(京都労働基準局[1997]『京都労働基準局50年のあゆみ』上谷文雄「50年を振り返り、21世紀を目指して」218-219頁)

 

 

京都下労働基準監督署の例ですが、平成3(1991)年のころには、夜間臨検の経験者がとんと少なくなっています。工場ではなく金融機関がターゲットになっているのも時代の違いでしょうか。

全監督官どころか、労災課の職員も駆り出されているようですね。

 

さらに時代が下って2000年代。夜間臨検の手法を選択しなかったという話として、こんなことが語られています。

 検討を要したのは、臨検監督の手法である。例えば、賃金不払い残業が組織的に隠蔽されているケースでは、賃金台帳等の関係帳簿をいくら調べても、これを確認することは難しい。時間外労働の記録自体が改ざんされているからである。

 このような場合、夜間臨検を実施し、違法な時間外労働をその場で現認する手法を用いることがある。しかし、この手法を用いると使用者は、監督署が事前に賃金不払い残業の事実を確認していたことに気付き、情報提供者が社内にいることを疑い、いわゆる「犯人探し」を始めるおそれがある

 本件では、投書の差出人である労働者が在職しており、匿名を希望していた。そこで夜間臨検ではなく、一般的な定期監督、つまり監督署が主体的に計画した監督を装って臨検することにした。

(労基田剛[2006]「労働Gメンは今日も行く――一通の投書から不払い残業解消へ」62頁)

 

かつて夜間臨検は、違反の現場をその場で現認するという分かりやすさが特徴としてありました。それは深夜業自体が女性の場合はアウトだからですね。

しかし深夜業の禁止がなくなると、以前ほどの分かりやすさはなくなってしまいます。違法な長時間労働自体はまだまだ残っていても、深夜業自体が禁止されているわけではありませんから。

それに行政的には、法改正の少し前くらいから、夜間臨検の頻度も少なくなっているようでした。

そうなると頻繁にやっていたころとは逆に、夜間臨検を行うことは例外的で珍しいケースになりました。それゆえに、なぜ目を付けられたのかと、使用者が「犯人探し」をするリスクが増えたということになるでしょう。

さっきの京都の事例でも、金融機関に対して順に夜間臨検をかけました。業界全体で問題となっているなら、こうした一斉監督はキャンペーンにもなりますし、「犯人探し」にもつながりにくいというメリットがあるでしょう。

ところが、現状では夜間臨検は例外的なケースになり、ますます実施しにくくなっているといえるでしょう。

 

 

 

夜間臨検は当時の監督行政を象徴するようなエピソードとして語られやすいところがあるように思います。

第一に、攻防の様子が素人的にもイメージしやすいこと。使用者は、女性に深夜業をさせているところが見つかったらアウト、監督官はその現場に乗りこめばいい、というのは比較的単純な構図として描くことができます。

監督官を工場の入口で足止めし、その間に機械の稼働を止める、労働者は一斉に散るように逃げ出す。スリリングと言ってしまってよいかはともかく、逃げる隠れる妨害するなどのアクションは、すごく「攻防戦」をやってる感じがあります。

これが二重帳簿のごまかしをして、関係者で口裏合わせをして、という違反になると、映像的には地味ですよね。そして頭脳戦の様相を呈してしまうと、監督官のほうはあまり語りにくいでしょう。使用者の手立てにしても、監督官のノウハウにしても、話してしまうとマネされたり、手の内をさらすことになってしまいますから。

危害防止関係の違反などの場合は、専門的な内容だと、精通していない人にはわかりにくい話題ですし。

そう考えると、夜間臨検のエピソードって、すごく分かりやすいんですよね。

第二には、迷いや葛藤を少ないまま語れること。頻繁に臨検に赴いたとか、守衛や番犬の抵抗に遭ったということは語られるのですけれど、反面、心理的な懊悩については相対的に触れられていません。

これは他の違反と比べると特徴的なように思います。

賃金不払い、最賃違反などでは、会社におカネがない、経営が破綻状態ということも往々にしてあるわけです。あるいは会社の問題というよりも下請の低い地位に置かれていることとか、過当競争になっていることとか、より大きな構造レベルの問題点に直面することもあるでしょう。監督官個人の力では無力に感じる場面が増えるのです。

保護装置の設置のようなことにしたって、安全にかけるおカネがない、ペイしないと使用者は主張してきたりします。かたやケガや死者が出てしまった場合には、監督官として「防ぐことはできなかったのか」と苛まれること少なくありません。

上で紹介したエピソードでは、労働組合も存在感がありません。労基署へのタレコミが、労使トラブル・紛争の際の手段として用いられることもたびたびあるわけで、監督官としては通常の臨検とは別種の注意を要することにもなります。

そういったことと比べると、夜間臨検は、苦労話として語られるわりには、心理面の悩みは吐露されないのですよね。

第三に、1960年代ごろにおそらくは頻繁に実施されたにもかかわらず、その後はほとんど実施されなくなってしまったという時代性。つまりは過去の話として語ることができてしまいます。

もちろん同時代的な証言も多くありますが、後年の回想録や座談会の場で触れられることが多く、「あのころはこうだった」式の話としては選択しやすいのかなと思います。

むしろ気になるのは、ただの武勇伝的なエピソードになってないかということですかね。

夜間臨検という手法は、深夜業違反を取り締まるのには有効だったのかもしれませんが、結局はそれのみに特化したに過ぎないとも言えます。21世紀に入って、サービス残業や過労死、ブラック企業などが話題に上ることがふえ、監督行政としても労働時間対策に力を入れるようになりました。

しかしそれは夜間臨検をやっていたころとは断絶があるわけです。夜間臨検は経験としても途絶えていますが、ノウハウ的にも再注目をとくに集めることもありません。

深夜業の摘発に特化していただけの手法ということです。その行政経験やノウハウが蓄積されて、その後の監督行政に活かされたなんて話は聞かないわけです。特定の時代に熱心に取り組まれ、行政課題としてフェードアウトするとともに消えていった手法なのです。

つまるところは「思い出話」として語るくらいが関の山で、もはや語る人もいなくなって過去の一断片になっているってところじゃないですかね。

*1:病院、旅館、料理店、電話交換等の業務を除く

*2:小松昇[2006]『労働基準監督官奮励記』新風舎21-22頁

*3:『労働基準』第16巻第1号「座談会 地方の実情を語る~第一線の苦心と喜び~」6頁

*4:伊勢署。三重労働基準局・三重婦人少年室[1997]『50年のあゆみ』98、114頁

*5:『香川労働基準局40年の歩み』58頁

*6:太田署。茨城労働基準局[1977]『茨城労基30年の歩み』31頁

*7:大曲署。秋田労働基準局30年史編集委員会[1978]『30年の年輪』座談会、109頁

*8:金沢署。石川労働基準局[1977]『労働基準行政30年のあゆみ』「座談会 石川の30年を語る」114頁

*9:中央労働基準監督署編[1997]『50年のあゆみ』19頁

*10:東京労働基準局編[1977]『東京労働基準局30年の歩み』座談会81-82頁

*11:宮田信一[1977]「上司の労を想う」石川労働基準局『労働基準行政30年のあゆみ』107頁

*12:https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104005272X00519620223/151

*13:三輪善政[1977]「発足の頃」石川労働基準局『労働基準行政30年のあゆみ』101-102頁

*14:熊田八千雄[1977]「基準行政三十年前」石川労働基準局『労働基準行政30年のあゆみ』105-106頁

*15:茨城労働基準局[1977]『茨城労基30年の歩み』35頁

*16:三輪善政[1977]「発足の頃」石川労働基準局『労働基準行政30年のあゆみ』101-102頁

*17:『安全センター情報』190号、井上浩[1994]「監督官労災日記」33頁(事例は1950年代)

*18:井上浩[1995]「監督官労災日記」安全センター情報』206号、32頁。井上浩[1995]「監督官労災日記」安全センター情報』212号、33頁

*19:労働経済旬報』243号(1954年)「座談会 基準法は守られているか――監督官からみた労働者の実情――」9頁

*20:惣菜製造のような「品質が急速に変化しやすい料理品の製造の業務」や新聞配達など。使用者に申し出た場合にはハイヤー・タクシー業も可能になった