ぽんの日記

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京アニ事件の鎮魂なのか?:藤本タツキ『ルックバック』

『ルックバック』という読切マンガが話題となっているようだ。

ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+

 

私が気になったのは、この作品を京アニ事件あるいはその鎮魂と結びつける人が多いことだ。以下、その違和感を書き留めておきたい。

 

 

 

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79頁

最初に読者に事件の概要が提示されるのは77頁~の部分。

2016年1月10日。山形の美術大学で男が刃物を振り回すというもの。

「2016年」「刃物」といった情報から私が思い出したのは相模原障害者施設殺傷事件のほうだった。「山形」の「山」を「やまゆり園」の「やま」に結びつけるのはやや強引だが、それをいうなら「京本」を「京アニ」に結びつけるのも同レベルだろう。

あるいは2007年1月15日に京都精華大学マンガ学部1年生が通り魔に刺されて亡くなった事件を想起した人もいるかもしれない。「1月」「刃物」「マンガ」「京」といった要素が共通する。

 

その次に「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」という報道がある。

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p.87

 

この時点でも京アニ事件の犯人像は想起されるわけではない。

なにが連想できるかと問われたならば、黒子のバスケ脅迫事件を思い出すかもしれない。マンガ家、ジャンプ、「罵倒する声が聞こえた」といった共通項が挙げられる。

長めになるが犯人の手記を引用しておく。駅舎や校門に罵倒されたというような強迫観念が記されている。

 梅雨時から夏にかけて自分のデイトレの口座の残金はジリジリと減り続けました。それと反比例するかのように「黒子のバスケ」の人気は上昇し始めました。

 その日も自信を持って原油先物の買いポジションを取った途端に価格が急落してとてもとてもイライラしていました。チャート画面を見てても腹が立つだけですので、行きつけのラーメン屋に行くことにしていました。自宅を出てJR新大久保駅の前を通ると「おい負け組の下」と聞こえました。自分を嘲ったのは駅舎でした。

 新大久保駅は「黒子のバスケ」の聖地(作中に登場した場所のモデル)の一つでした。自分は駅舎からの嘲笑を無視して大久保通りを東に進み、十字路を左折して、明治通りを北にしばらく進みました。すると「やい底辺以下」と聞こえました。周囲を確認すると道路を挟んだ向かいに、自分が卒業した田舎の自意識過剰な進学校とは違う由緒正しき進学校の校門が見えました。自分を罵倒したのは校門でした。自分はさすがに耐えられなくなって、そのまま大急ぎで走って帰宅しました。

(中略)

 自分は街から嘲笑と罵倒を頻繁に浴びるようになりました。悪いことに自分の住まいは「黒子のバスケ」の聖地に囲まれていました。と申し上げますより街全体が「黒子のバスケ」の作者氏を育んだ聖地でした。自分の住まいも地獄と化しました。

(中略)

 自分は8月下旬に勝負に出ました。残金を商品先物の口座にかき集めて、白金先物で大きな売りポジションを取りました。「後は天に任せるしかない」と思った自分は、白金価格の下落を祈って取り引き画面を閉じました。

 すると自分の右隣に「黒子のバスケ」の主人公の黒子テツヤが、左隣には副主人公の火神大我が立っていました。黒子は、

「お前は負け組じゃないよ。負け組ってのは努力したけど力が及ばず負けた人のことなんだよ」

 と言いました。火神がそれを受けて、

「てめえは努力すらしてねーんだから負け組ですらねーよ」

 と続けました。自分は言い返したかったのですが、上手く言葉が出てきませんでした。黒子は、

「この街は努力したことがある人が住む街なんだよね」

 と自分への軽蔑を露わにした口調で言い、火神は、

「だからてめえが住んでいい街じゃねーんだよっ! そもそもここは藤巻先生の縄張りだっ!」と声を荒げました。自分が黙っていると黒子は、

「同人誌の世界もこれからは僕たちのものだからね。お前がいていい場所なんてどこにもないんだよ」

 と続け、火神は、

「出てけっ! この街からも同人誌の世界からも出てけっ!」

 と自分を罵倒しました。そして二人で声を揃えて、

「お前(てめえ)は、この世から出てけっ!」

 と自分に言い渡しました。

(渡邊博史『生ける屍の結末』15-18頁)

 

 そのURLをクリックすると「黒子のバスケ」のアニメで副主人公の火神大我の役を演じた声優のブログに飛びました。ブログには「黒子のバスケ」の作者氏と一緒に酒を飲んだことと12月開催のジャンプフェスタ(年一回、千葉県千葉市幕張メッセで開催される集英社主催のジャンプコンテンツのイベント)の「黒子のバスケ」ステージに出演するという内容が記されていました。自分の頭の中にそれまでジャンプフェスタという単語は存在していませんでした。しかしこれを見て「黒子のバスケ」の作者氏から、

「てめえは必死みたいだけどオレは楽しくやってるぜ! こうして声優と酒を飲める原作者様の立場にまで出世したんだよ。やれるもんならやってみろよ! この底辺以下! この負け組以下!」

 と罵倒されている気がしました。そして猛然と腹が立ってきて、

「何としてもジャンプフェスタでも『黒子のバスケ』を潰してやる!」

 と強く思いました。こうしてジャンプフェスタの開催妨害が自分の行動のプライオリティのトップに躍り出ました。

(渡邊博史『生ける屍の結末』56-57頁)

 

京アニ事件を髣髴とさせる「パクった」発言は、2回目の2016年1月10日の描写で登場する。

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p.112

 

この発言は1度目の2016年1月10日の描写には出てこなかったものだ。作品外の情報を挟まずに読んでいた読者は、ここで初めて京アニ事件を思い浮かべることになるだろう。

このように読んでいけば、特定の事件をモデルにしたというよりは、いくつかの事件のイメージを散りばめる形で構成している、と解釈するのが穏当なのではないか。

作品のテーマとしても、京アニ事件が素材だと解釈する必要はないと感じたし、むしろその解釈はジャマなのではと思った。

 

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pp.93-94

 

ここでの藤野の自問は〈ひきこもりだった京本を外の世界に連れ出した結果、京本が事件の被害者になってしまった〉こととして描かれる。

自分が京本に影響を与えたことが、不幸の原因となった。この悲劇をテーマに据えているのだと私は読んだし、それが作品の読解として素直な読み方なように思う。京アニ事件と結びつけてしまうと、〈才能あるクリエーターを襲った悲劇〉のような読み方に引っ張られてしまう。藤野が涙を流しているのは、京本に才能があったがためなのだろうか。

 

ところでこの場面、最初に読んだときには違和感を覚えた。藤野の自責の念には、やや飛躍があると感じたためだ。

というより、(京本の家で4コマを目にするまで)あえて描写を抑えているというべきか。

死という事実が信じられない。もう二度と京本と話すことができない。京本の絵が描かれることはない。一緒にマンガを描くこともない。それ以外にもさまざまな思いが藤野の頭を去来しただろうが、そういった心情説明がモノローグなどの形で描写されてはいない。

自責の念という点では、「美大に行かせなければよかった」という後悔のほうが先に浮かんだのではないだろうか。普通、人が何かの原因を探すときは、もっと直接的な原因から思いを馳せるはずだ。京本を部屋から出したという根本原因よりも、美大に行かせてしまったことのほうが直近の分岐点だ。

 

しかも美大進学のときに、二人は衝突して物別れになっている。

最初は「背景はアシスタントさんに任せればいい」と強がって見せ、その次は「美大なんて行っても意味ないよ?」「美術系の就職先なんて全然ないらしいし」とメリットの小ささを説く。それが最終的には「そんなのつまんないよ!絶対!」「アンタがさっ 一人で大学生活できるわけないじゃん!」と突き放す形になった。

この言いようは、感情の裏返しの結果だろう。

本当は自分と一緒にマンガを描いていてほしかったのに、素直にそう言えなかった。

あるいは自分を「先生」と慕う京本が独り立ちしようとするのが受け入れがたかったか。

いずれにしろこれが今生の別れになるとは考えもしなかったに違いない。

 

京本の訃報を受けて、藤野はなにを思ったか。あるいは茫然自失として深く物を考えられなかったか。

少なくとも藤野が涙を流す描写はない。

藤野が涙を流すのは、4コママンガを読んで「部屋から出さなければ死ぬことがなかったのに」という考えに至ったときだ。ここで初めて涙を流すということは、それまではこの考えには思い至っていなかったということだ。

それはたしかに、普通なら発想しない後悔だ。「京本を引きこもりのままにしておけばよかった」という後悔は、ねじれている。

常識的には、社会的な自立に資する行いは褒められるべきことだ。にもかかわらずそれが自責の念へと転化している。

 

〈善いこと〉を行ったはずなのに、それが不幸を招いてしまった。

自分は本当に〈善いこと〉を行うべきだったのか。

 

ここで提起されているのはそのような問いである。

〈京本に対してもっと素直に言葉を伝えればよかった〉とか〈京本ともっと一緒にマンガを描きたかった〉などの気持ちで泣いたのではない。それだったら「部屋から出さなければ」とは悔悟すまい。もっと根源的な自責の念に駆られて、藤野は涙を流している。

〈善いこと〉は〈好いこと〉でもあった。京本がいたから、藤野は一度やめたマンガの執筆を〈好いこと〉に思うことができた。

京本がいなくなった今、はたしてマンガを描くことは〈好いこと〉なのか。

 

マンガの執筆が〈善いこと〉であり〈好いこと〉であると思わせてくれた存在の喪失。

京アニ事件云々としてしまうと、語れる範囲が狭まってしまう気がするのだけれど。