ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

打ち上げ花火、アニメから見て、実写を見て、ノベライズを読む

どのルートを選択するか

公開中の映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を見てきた。

この作品は、ループもの、あるいはマルチエンディングとして楽しめる。もちろん、それは登場人物たちがどういうルートを選ぶかという物語なのだが、それは同時に制作者の側がどういうストーリーを選択するかということでもある。

 

この作品は実写版、アニメ版、そしてノベライズといくつかのパターンが存在しているので、作品群自体がマルチエンディングとして考察できる。

この作品に限らず、オリジナルとそのリメイクやノベライズ作品を比較するのが、個人的には結構好きだったりする。どの部分を変え、どの部分を変更しないか。そうした箇所に注目していくと、制作サイドの意図や考えがより理解しやすい。複数の視点から作品を眺められる気がする。

 

視聴・鑑賞したのは以下のもの。実写版はアニメ版を見た後に見たくなって、TSUTAYAに行って借りる*1

 

アニメ版:新房昭之総監督、シャフト制作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

実写版:岩井俊二監督『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(1993年)

ノベライズ:岩井俊二少年たちは花火を横から見たかった』(2017年)

 (アニメ版の脚本を担当した大根仁氏によるノベライズもあるが、そちらは未読。以下、岩井氏のノベライズは『横から見たかった』と略す)

 

各作品の位置づけ

最初に系譜的な覚え書き*2

 

まず、実写版は1993年にテレビドラマとして放映されたもの。監督・脚本は岩井俊二氏。

小学生が駆け落ちするという構想自体は、岩井氏が大学在学時に思いついていたものだという。フリーランスで仕事中をするようになった後、そのアイデアをもとにプロットを書く(タイトルは『檸檬哀歌』)。しかし企画は通らなかったため、映像化は実現していない。

 

再び映像化の機会が巡ってきたのが1993年で、『ifもしも』というシリーズドラマの1つとして依頼された。主人公が2つの選択肢を迫られるのだが、ドラマとしては両方の結末を描くという、マルチエンディング。

ただ、岩井氏自身はマルチエンディングという企画に違和感を覚えていた。肝心の分岐点を作者が決めないのは、物語を未完成で提示するような感覚だったという。そこで氏は、物語を群像劇として描くということを思いつく。群像劇なら主人公が選ばなった選択肢を主人公以外の人物に選択させて描くことができる。こうして元となる脚本を書いた(この時のタイトルが『少年たちは花火を横から見たかった』)。

ただし、そうして書き上げたものは“ifもしも”という企画から外れてしまう。タイトルも『○○○○、□□するか、△△するか』というルールがあったが、それも無視した形に。プロデューサー・石原隆氏は今回の企画としては見送って、2時間ドラマでやらないかと提案された。しかし岩井氏はその提案を断り、企画に合うように書き直した。

こうしてできたのが実写版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?*3

 

そして、川村元気プロデューサーからアニメ化の申し込みがあったのが今から2年前*4。映画の打ち合わせが終わったころに、川村氏からノベライズを書いてくれないかと依頼されたという。岩井氏は、かつて書いた2つのプロット(『檸檬哀歌』と『少年たちは花火を横から見たかった』)を融合させる形でそれを完成させた。それが今のノベライズ版というわけである。

 

離ればなれの物語として

最初に一般論として感じていることを、少し。

男女が離ればなれになる、あるいはすれ違いが起こる。そうしたストーリーは今でもあると思うが、単純に距離が遠くなってしまうという話より、近くにいるのにすれ違ってしまうという話のほうが、現代では共感を得やすいように思われる。

 

今やケータイ、スマホで24時間つながっていることが可能な社会。高校生、中学生であれば電車や夜行バスでそれなりに遠くに行くこともできる。遠距離恋愛というものは昔よりずっと容易になっていると言えるだろう。

そうなると当然、物語としての描き方も変わってこざるを得ない。新海誠のすれ違いの描き方も、現代でも共感を得られるよう工夫していると言える。

 

『打ち上げ花火…』で言えば、実写版から今年までに実に24年経っている。

ストーリーの根幹としては、ヒロイン・なずなが引っ越してしまうという状況に、主人公・典道、あるいはその親友・祐介の様子を描くというもの。

時代が変わってしまえば、引っ越しや転校という事態に対する感じ方・考え方も変わってしまう。

 

で、24年の時を経てアニメ化したわけだが、話の幹自体は大きく変わっていない。だからと言って決して第一印象として古びたイメージを受けなかったのは、良い点だったと思う。

 

それぞれのルート

24年前に実写作品があり、それが今年になってシャフトによるアニメ化と、岩井氏自身によるノベライズがあった。だから比較としては、実写とアニメ・ノベライズという形が分かりやすいかもしれない。

アニメ版

アニメならでは、あるいはアニメでないとやりにくい表現が駆使されていたのは、アニメ化の良い要素。幻想的なシーンの表現とか、走る泳ぐのときの躍動感やスローモーション、水中から見たシーン。独特のカットの取り方や目による演技などは、シャフトっぽいと感じる部分でもあった。

 

ストーリーや展開としても、実写版より主人公・典道の意思が表現されているように思う。アニメを見た後に実写版のほうを見たせいもあるのかもしれないが、元の実写版だと、正直、典道の行動に主体性が感じられない。ずっとなずなに引っ張られている印象で、下手すると典道がなずなのことをどう思っているのかもよく分からない*5

アニメ版は前半は実写版にかなり忠実に沿っているが、後半部分はほとんどオリジナル要素が強い。自転車に乗って駆け出すシーン、“もしも玉”を投げるシーン、ループ要素が強くなっている分、典道がなずなのために行動する場面が目立つようになった。

 

あとは音楽や挿入歌の入る場面もすごく良い。

実写版でもラスト近くで「forever friends」が流れるが、アニメ版はもう、いろいろバージョンアップして盛り上がれる感じ。

 

以上のような演出や音楽が逆に、豪華、華美すぎる(?)と感じないでもない。

引越しのせいでしばらく会えなくなってしまうなずなが、最後にひと夏の思い出を作ろうという物語にしては、盛り上げ過ぎなのではないかと思ってしまう。

 

実写版との設定の違いとして、年齢設定がある。実写版では小学6年だが、アニメ版では中学生。実写のキャストは、下は小3、上は中3だっというから、そのほうが極端かもしれない。

中学生設定にしたのはアニメ表現上の都合もあったと聞いたが、もともと大人びていたなずながさらに大人びている。この変更は決して些細なものではない。

作中で「女の子はどこ行ったって働けると思うの。年ごまかして、16歳とか言って」というセリフが出てくるが、少なくない観客が「?」と思ったに違いない。普通に高校生くらいに見えてしまうから。

なにより実写よりなずなが色っぽい。シャフト的な演出も加わって、エロさが増している。それが儚く淡い、プラトニックな恋という印象を疎外しているとするなら、少々残念ではある。

 

ノベライズ『横から見たかった』

ドラマから24年越しとなる、岩井氏自身の手によるノベライズ。

ストーリーは実写版に比較的忠実だけれど、前日譚として花火大会より前の日のことが書かれている。正直、実写のほうは典道がなずなをどう思っているのか分かりにくい気がしたが、ノベライズはなずながどういう存在かが十分伝わってくる。

 

このノベライズ版の最大の特徴は、ループ、マルチエンディングを回避している点だ。これはドラマともアニメとも異なっている。“ifもしも” “もしも玉”というギミックを使っていない。

ドラマの企画上取り入れた要素が、あるいはアニメらしい表現となっている要素が、このノベライズ版では抜かれている。この変更は好感を持てる。ストーリーとして、より洗練された印象だ。タイムリープやループものに少々うんざりしている人でも楽しめる作品となっている。

 

もうひとつ小説の良さとして、内面の心理描写が挙げられる。

実写版だけだと、なぜそんな行動を取ったのか、すぐには分からない部分があった。ノベライズは、主人公・典道の回顧録的な体裁で書かれているので、典道の気持ちが率直に記されているし、友人たちの気持ちについても、典道が推測する形で書かれている。

あんまり気持ちを地の文で説明しすぎてしまうのは野暮ったいかもしれないが、実写版やアニメ版よりもすんなりと感情移入できたのは事実だ。

 

また回顧録のような書き方となっている点も、小説ならではの要素で面白い。いつの時点から回想しているかは明示されていない。少なくとも典道が高校生以上になっている時点から書かれている。ドラマから24年経ったことを考えると、大人になった主人公が少年時代を回想しているともとれる。

こうした回想という形式を取っていることが、この作品や岩井氏と重なってくる。ドラマから24年。着想の段階からだと32年の歳月。典道が過去を振り返る物語であると同時に、岩井氏が当時を思い出し、脚本・シナリオとしてどう決着をつけようとしたかの物語としても読むことができる。

 

スマホのない、ある田舎の物語。現代の物語という意味で言えば、今の都会の若い子は共感しにくいかもしれない。その点、回想として書かれている小説のほうが、ジュブナイル小説として違和感なく読めるかもしれない。

 

複数の結末

ストーリー上も複数のラストを考えられるが、作品自体も実写、アニメ、ノベライズ(『横から見たかった』)と存在するので、マルチエンディングと捉えることもできる。

 

なずなが離婚や転校のことを話すか否か。そして典道(あるいは典道の親友の祐介)が転校の事実を知っているかどうかで、3パターンの展開が存在する。

①なずなは転校のことを誰にも話さない。典道たちも転校の事実を知らない。

②なずなは転校のことを話さない。しかし典道は転校してしまうことを知っている。

③なずなが転校や離婚の事情を打ち明ける。

 

実写、アニメ、ノベライズは、この3つのパターンのいずれかを取っている。

どの展開を取るかで、物語のクライマックスから受ける印象は変わっている。個人的な感想としては、アニメ版も『横から見たかった』も、実写版より良くなっていると思う。

アニメとノベライズ、どちらが良いかは人によるだろう。

アニメ版では、別れの寂しさが残る一方で、ハッピーエンド感も漂わせている。ストーリーを盛り上げるうえではこのほうが良いかもしれないが、2つの感情が共存するので、ちょっともやもやが残るかもしれない。

『横から見たかった』のほうは、より一層切なさがある。典道の回想であるため、2人のその後や典道の現在にも、必然的に想像を促されてしまう。

 

アニメから見るかノベライズから読むか?

どちらを選んでも、それぞれの物語として、マルチエンディングを楽しめるようになっている気がする。

 

 

 

*1:原作ドラマとその編集版の映画がどう違うのかはよく知らない。それから1999年にはセミドキュメンタリーとして「少年たちは花火を横から見たかった」が制作されていますが、以下のノベライズ作品とは別と思われる

*2:記述は『横から見たかった』あとがき参照

*3:タイトルを『打ち上げ花火、横から見るか?正面から見るか』としていたが、実際に子どもたちが見る角度には正面がないので、典道の見た「下」と祐介たちが見た「横」が採用されて、このタイトルになった

*4:その際、岩井氏の側から大根仁を脚本に提案。

*5:なずなが典道に対して「わたしがちゃんと養ってあげるから安心してよ」というセリフさえある

「Long Long Love Song」制作日誌、時々入院

 麻枝准×熊木杏里「Long Long Love Song」

初回盤を買うと麻枝さんの制作日誌がついてきます。

 

前半は闘病日記さながら。

助かる確率2割と言われながら奇跡的に助かる。人工心臓を外す9時間以上にわたる手術も経験し、入院中の体力の低下の様子なんかも綴っています。

 

作曲や曲の選定過程ももちろん記されていて、いろいろあるんだなと推し量れます。

去年入院前に用意していた13曲から、結果的に7曲も差し替わった。

最後に熊木さんの声質を生かせる曲をもう1曲書く!という執念から『きみだけがいてくれた街』も生み出した。

この13曲決まるまで、たくさんの紆余曲折や挫折や苦悩があったけど・・・・・・これでよかったですか?

よかったと言ってくれるなら、おれは満足です。

(2017年1月11日)

 

自らを「オワコン」と称するなど、自己嫌悪というか、自己肯定感の低さが全体的に漂っていて、それが闘病の様子とかとも妙にリンクして、身につまされるような気がします。

想像以上に興味深く読むことができました。

 

Long Long Love Song(初回生産限定盤)(DVD付)

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労基署による、生産計画への指導

労働基準監督署は、臨検監督の際、法違反を指摘する是正勧告だけでなく、指導・助言を行うこともある。

 

具体的には、

①法違反を是正するためにどういう措置を講じたらよいかを明らかにするもの(例、プレス機械に使用停止措置を講じただけでは事業者はどうしたらよいのか分からないので、ゲートガード式の安全囲いの取付、シートフィーダーの採用等を指導する)

②法律に規定されているものの義務規定ではなく、努力義務規定であるもの

③法令に規定されていない事項であっても良好な労使関係、より良い労働条件あるいは快適な安全衛生環境実現のために指導するもの(例えば、労働福祉向上のための指導(セクハラ、THP等))

(全労働省労働組合[1994]『労働基準行政職員の職務』p.20。見やすいように改行を入れた)

 

是正勧告が労基法関係法令に抵触するものに限られるのに対し、指導は法令に規定されていない事項に対しても実施されているというのが興味深い。

指導事項に関する統計資料はないようだが、過去の事例を参照できる。

 

1980年ごろ、主に共産党が主導して、「大企業黒書」運動というものが行われた。大企業の労働実態を調査・告発し、労働省労働基準監督署、県の労働部などに対処を求めたものだ。神奈川から始まり、他の県にも広がった。

注目されるのは、監督機関が企業の生産計画にまで言及する例があったことだ。

神奈川では、1981年2月神奈川労働基準局局長が「恒常的な長時間労働や年休取得を不可能とする出勤率を前提としている生産計画を、是正させる強力な指導を進めていく」と発言。「京都・西陣では劣悪な労働条件を恒常化させていた生産計画をも是正させてきた」と強調し、「生産計画には当然、出勤率や人員計画までふくむ」とし「あらゆる工夫をして生産計画の調査にあたりたい」と明言した。

静岡では、1981年に工場ごとの『黒書』運動の第一弾として鈴木自工磐田工場に対して、29項目の改善要請事項が申告された。82年2月、監督署が勧告5件、指導10件、助言3件を行ったことが公表されたが、労働時間の短縮については、国の方針に基づき生産計画の見直しを行い、その短縮に努めるよう指導されている。

同様に埼玉でも、県内23大企業の事業場に対して、25件の勧告、26件の指導がなされている。そのうちキャノン電子(秩父)に対しては、コンベヤーのスピードアップによる労働強化について是正指導をしている(ラインをスピードアップさせたことにより休憩時間が奪われているとの申告があった)。

 

労働基準監督署が企業の生産計画やコンベヤーのスピードに対してまで口出ししているというのは、不思議な気がする。しかし生産計画のあり方が労働条件に強く関係していることを踏まえてのことだろう。

そして、労働側による生産管理の規制というのは、本来労働組合が担うべきであるにもかかわらず、それが機能していないために労働基準監督署が身を乗り出さざるを得なかったことを示しているとも言える。

 

(参考)

小林豊「労基局が生産計画の是正指導も(「電機黒書」その後の闘い)」『労働運動』(194)、pp.44-50、1982

木村昭男「労働者の変化示した役選」『労働運動』(202)、pp.68-73、1982

秋元末光「憲法労基法無視の大企業を告発」『労働運動』(181)、pp.109-114、1981

――「51件にのぼる法違反勧告指導事項が……」『労働運動』(193)、pp.45-52、1982

『文庫解説ワンダーランド』

斉藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)を読了。

 

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)
 

 

 

なかなか面白く読めた。ほとんど全編にわたって楽しく読める。

本書は文庫本の巻末についている「解説」について論じたもの。いわば解説の批評。扱っているジャンルは名作と呼ばれるものから、青春小説やミステリ、翻訳に至るまでさまざま。

同じ作品であっても、異なる文庫に収録されれば違う人物が解説することもある。あるいは新版が出版されれば、解説者が変わったり。そうすると同じ作品であっても複数の解説が存在したりするわけだけど、それを読み比べていくとこうも面白いとは。論者によって、時代によって、解説の内容が変わる。ものによっては全く正反対の観点で書かれていたりして、読者を新鮮な世界に誘う。

 

解説というのは、一応目を通すけれども、そこまで気に留めないという人も多いかもしれない。しかし本書を読むと、解説がいかに本に輝きを与えているか、あるいはその逆か、ということを考えずにはいられない。解説は単なるおまけなどではなくて、もっとも近くにある批評なのだと。

 

本書で解説されている作品は読んだことのないものが多いけれど、それでも本書は読みやすいし、もとの作品を読んでみようという興味が湧く。優れた解説がある一方、そうでない解説に対しては鋭く切り込む。

奥付を見て思い出したけれど、本書の著者は『文章読本さん江』を書いた人。この本は以前に読んだことあったけれど、やはりざっくばらんに語り口が面白かったのを覚えている。

 解説の妙を見せられたようで、満足できた1冊だった。

文章読本さん江 (ちくま文庫)

文章読本さん江 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

労働法違反率の推移

 数年前の本ですが、『日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?』という本があります。タイトルが示している問題提起は、重要な問題でありながら意外と語られることが少ないような気がします。

 

本書は日本型雇用や労働組合や労基署などの関係性を見ていって、メカニズムを明らかにしようとしていますが、そもそもどんな違法がどれだけの件数起きているのか、それが歴史的にどう推移していったかというデータが示されているわけではありません。

 

違法の実態を示す統計があるのかと言われると、たしかに答えにくい。労働条件や働き方を調査した公的統計はあっても、違法状態があるかどうかは尋ねませんからね。

 

はっきり違法件数をカウントしているのは、やはり労働基準監督署の統計ですが、当然ながら労基署が監督に入った企業のみの結果となります。定期監督というのは、違法の疑いが強い企業を選定しているはずです。サンプリングバイアスがあると考えれば良いかもしれません。

とはいえ、違反状況の推移を大規模なデータで追えるのは貴重だと思います。

 

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『労働基準監督年報』の資料からは、業種別に定期監督の違反状況が判るので、それを示しています。ひとつにまとめると非常にごちゃごちゃしているので、とりあえず3つに分けました。「計」とあるのは、業種全体の違反率です。官公署は監督件数自体が少ないので、0%と100%を行ったり来たりしています。

1956年のところで線が途切れているのはデータに断絶があるためです。詳しいことはまた後日書くかもしれません。

 

業種別にたしかに状況は違うのですが、全体的傾向としては60年代半ばから徐々に低下していたのが、90年代以降上昇に転じていることでしょうか。

下に気になりそうな主な業種を取り出してみました。飲食店などは接客娯楽業、病院・社会福祉施設などは保健衛生業に入ります。

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サンプルが偏っているとしても、やはり違反率が高いというのは、実感通りという感じでしょうか。

 

なぜこのように違反率が推移しているのか、ということは一言では答えられない論点です。

法違反の状況には少なくとも3点考える必要があるかと思います。経済情勢や労務管理のあり方の変化など、企業・会社側の要因。法改正や新法などの立法側の要因。そして、労働行政や現場の監督機関の運用の変化など行政的要因。

 

そもそも監督に入る件数が変われば、つまり分母が変われば違反率も当然変化します。

業種別に定期監督件数を見たのが下の図です。かつては製造業が多かったですが、現在だと建設業のほうが上回っています。商業も増えてはいますが、第3次産業は全体的に少ない件数です。

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90年代以降違反率が上がっているのは、そもそも定期監督の件数自体が減っているということも関係しているかもしれません。

業種別に違反率に差異が見られましたが、こちらは法の適用の違いが想定されます。週40時間制が完全実施される前は、業種別に特例がありましたから、90年代後半に違反率が跳ね上がっている業種は、それが関係しているのかもしれません。

この時期は裁量労働制の導入なども含めて、ほかにも検討すべき点が多いでしょう。資料からは条項別の違反件数なども判明するので、それらを確認していけば実態が浮かび上がってくるかもしれません。

榊原富士子・池田清貴『親権と子ども』

表題の本を読みました。新書ながらかなり詳しめに記述されていると思います。具体例・ケースも多く紹介されているので、難解でとっつきにくいという本ではありません。

 

親権と子ども (岩波新書)

親権と子ども (岩波新書)

 

 

 

体罰が虐待であること

個人的になるほどと思った箇所をメモしときます。体罰は虐待かどうかという部分です。

ケースとして紹介されているのは、親子連れで遊びに行った際に、息子が友達に悪ふざけしてしまい、それを母親がしつけのために頬を平手でたたいた、というものです。

著者は森田ゆり『しつけと体罰』を引きながら、体罰の6つの問題を指摘します。

体罰は、それをしている大人の感情のはけ口であることが多い

体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である

体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法がわからなくなる

体罰は、しばしばエスカレートする

体罰は、それを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与える

体罰は、ときに、取り返しのつかない事故を引き起こす

 

これらの観点に則して、紹介したケースの問題点が検討されていきます。そして母親がした叩くという行為は身体的虐待であると結論付けています。

 

興味深いと思ったのはその後です。これくらいの行為を虐待と言うのは言い過ぎじゃないか、という読者に対する、あらかじめの反論です。

 

親が子どもを一度たたいただけで虐待だとするのは、過激な結論ではないか。著者は、そう考える読者がいるとすれば、この程度のことで虐待だと言われ、児童相談所などが介入するのはおかしいのではないか、という「ひっかかり」にあると言います。

そうした「ひっかかり」が生じるのは、家庭の自律は尊重すべきという考えがあるからです。親は原則として自由に子育てを行うことができ、行政機関の介入は一定の深刻なケースに限るべき、ということです。

 

しかしだからと言って、体罰を法解釈の段階で適法だとしてしまうことはできないと著者(池田)は言います。その程度の「しつけ」がしばしば見かけるようなものであったとしても、やはり民法の考え方に照らせばそれは体罰であり、違法であると。

 

 この記述を読んでいて想起したのは、労働基準法・労基署と企業の関係です。

企業内においても、労使自治が原則として尊重され、やはり国家機関による過度の介入は控えられるべきだという風に言われます。

しかし程度問題としてはどう考えるべきなんでしょう。大企業であってもサービス残業やセクハラは存在しています。それらが深刻でないとは思いません。自治や自律を重視するというのにも一定の線引きは必要なはずです。労基署がなかなかやってこないというのは、その人員体制が不十分であるからだと思いますが。

 

ただ、労基署も児相も共通しているところがあるように感じました。

 

親権は母親か父親

 もうひとつ、未成年の子どもがいる家庭が離婚したとき、親権がどちらに帰属するかという問題。

 

そもそも戦前は父親が単独の親権者となる仕組みになっており、戦後すぐも、女性が一人で子どもを育てていくことは容易ではなく、父を親権者、母を監護者とする方法も少なくなかったそうです*1

 

そのあたりの事情がどのように変わっていったのかは、もう少し詳しく読みたかった部分です。

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上のグラフは日本の離婚件数と離婚率の推移を示したものです。下のグラフは戦後のものですが、離婚の際の親権の帰属がどうなっているかという件数を示したいます。

 

徐々に低下していた離婚率が、60年代に入って以降上昇に転じます。そしてその内訳をみると、増えているのは妻が親権をおこなう場合が圧倒的に多いのです。

親権に対する考え方、あるいは子育てに関する考え方が離婚の動向とも密接に関わっているのではないかと思えます。

 

本書の叙述では、徐々に母親が親権者となることが定着していった、と書かれています。ただ、離婚に対する考え方そのものが大きく変わっているのではないか、離婚率が上昇していることに親権が関係している(あるいはその逆)のではないか、というところまで踏み込んで解説してほしいと個人的に感じてしまいました。(まあ、本書のテーマからはみ出ることに関して詳しく記述を求むというのがおかしいのですが)

*1:親権は子どもに対する身の回りの世話、教育、財産の管理のための権利や義務のことですが、そのうち世話・教育の部分を取り出したものを「監護」と呼んでいます。

産業医の数

大室正志『産業医が見る過労自殺企業の内側』に以下の記述がありました。

この頃、大企業を中心に企業内診療所を開設することが流行しました。バブル当時、企業内診療所は軽井沢や伊豆の保養所などと同じく、大企業のステータスシンボルと考えられていたふしがあります。

この時代は現在よりもメンタル不調の問題は顕在化しておらず、製造業以外では検診の事後措置や福利厚生としての診療所業務が産業医の主な仕事と考えられるようになりました。夜勤もなく企業内で診療所を与えられる大企業の産業医は、近所の大病院を定年退職した医師の「天下りポスト」として、また産休明けの女性医師などにも人気の職になりました。(p.24-5)

 

医師は激務のイメージが強いですが、産業医は比較的ゆるやかであるということでしょう。

 

厚生労働省の『医師・歯科医師・薬剤師調査』(通称、三師調査)では、2002年以降産業医業務の従事者数が調査されています。

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この数字は主たる業務(=もっとも従事している時間が長い業務)が産業医である医師の人数です。産業医のほとんどは臨床医が兼務しているそうですので、主たる業務が産業医だという医師の人数はまだまだ少ないですね。それでも年々増加傾向にあることは読み取れます。

 

現在、女性医師の割合は3割ほどとなっています。女性医師そのものの数が少ないので(医師数全体に占める女性医師の割合は2割ほど)、産業医に就く女性医師の数は比較的多いと言えます。

40代前半以下だと女性の割合がさらに高くなって、4割ほどを占めます。

 

産業医を兼務している人がどれくらいいるかも知りたかったですが、そのデータは三師調査にはありません。事業場規模が50人以上なら1人、3001人以上なら2人の産業医を選任する義務があるので、経済センサスなどから考えれば16万人くらい産業医の数がいてもおかしくはありません。複数の会社を兼務する産業医が多いはずですので、実際の人数はもっとぐっと少ないでしょうが。

 

 

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)