ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

ナイター

かつて労働基準監督署では、夜間に臨検を行うことが多々ありました。時期的には1960年代が最も活発だったようです。

性労働者に深夜業の規制があったころの話です。

(時間外労働について1日2時間、1週6時間、1年150時間までの上限。休日労働は全面禁止。深夜業も原則禁止*1となっていました)

 

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これは送検数の推移です

*1:病院、旅館、料理店、電話交換等の業務を除く

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労基法第40条の違反

ツイッターで指摘を受けたので、確認してみました。

労基法第40条の違反数が集計されていないのではないかと疑問です。

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『ジョゼと虎と魚たち』

かつての角川映画のキャッチコピー「読んでから見るか、見てから読むか」 になぞらえるなら、今回私は原作小説(角川文庫1987年、初出1984年)、実写映画(2003年)、アニメ(2020年)の順に堪能した。

以下はそれぞれの感想だが、多分にネタバレを含む。

 

原作小説

30ページほどの短編。

ドラマチックな展開や出来事が起きるわけではない。恒夫とジョゼの関係性の描写も、淡泊と言ったほうがしっくりくる。心情描写から一歩退いて淡々と描いている、という印象だ。ふと幸せを感じる瞬間を、日常に滲みださせるような作品。

 

それだから非日常的なイベントや、人生のターニングポイントをフォーカスはしない。

ジョゼと祖母は生活保護を受けているが、困窮した生活描写に重点があるわけではない。恒夫が就職する話はさらりと記述されるだけだし、祖母は亡くなったことを恒夫は事後的に知るに過ぎない。ジョゼと恒夫が口喧嘩するような箇所はあるものの、そもそもジョゼは圭角ある性格として描かれている。

 

ジョゼの本名はクミ子だが、フランソワーズ・サガンの小説を読んで、ヒロインの名前を取ってジョゼと名乗るようになったものだ。小説好きで、車椅子生活ということもあり、内の世界に閉じこもりがちである。小説の人物の名前を勝手に名乗りだしてしまうあたり、浮世離れなところがある。

久々の外出でジョゼが希望したのが動物園。怖がる気配を見せながら虎を見る。ジョゼはその理由を「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎見たい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうがない、思うてたんや」(199頁)と口にする。

動物園に行く場面だって、ほんの1ページちょっとに過ぎない。だから描写の分量的には大きな比重が割かれているわけではない。恒夫がこのジョゼの言葉をどの程度重く受け止めたのか、その辺の心情描写はない。わがままな言動を見せるジョゼのことだからと、言葉半分に受け流していた可能性だってなくはない。恒夫の内面の様子を、あえてはっきりとは描かなかったのだろう。

 

表題の「ジョゼ」が小説の登場人物から採られた名前ならば、それは内なる精神世界の象徴だ。反対に「虎」は外側の世界に踏みだしたときの、怯えや刺激をもたらすもののメタファーだろう。すがれるような好きな男の人ができなければ、ジョゼは虎を見ることはできなかった。ジョゼにとって恒夫は、外の世界に一歩踏み出すためのパートナーなのである。

 

表題にある「魚たち」が、この短編小説の締めくくりとなっている。

 水族館で「恐怖にちかい陶酔」(203頁)をおぼえたあとの、部屋に帰った夜更けのこと。月光が差し込む部屋が海底洞窟の水族館のようだと感じたジョゼのモノローグが「アタイたちは死んだんや」というものだ。読者の前に唐突に表れる「死」という言葉は、しかしジョゼにとって幸福に満ちた状態の表現なのだった。

魚のような恒夫とジョゼの姿に、ジョゼは深い満足のためいきを洩らす。恒夫はいつジョゼから去るか分からないが、傍にいる限りは幸福で、それでいいとジョゼは思う。そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。(204頁)

 

魚=「死んだもン(屍体)」=完全無欠な幸福という図式がここに示されている。

なぜ死と幸福が等価とされているのか。小説中に明示されてはいない。

ひとつにはジョゼの生い立ちの問題があるだろう。産みの母親はジョゼが赤ん坊のころに家を出ており記憶がない。父が再婚した女には施設に入所させられ、しばらくして父親も会いに来てくれなくなる。17のときに父方の祖母の家に引き取られ、祖母はジョゼにはやさしかったものの、人目を気にし夜しか外出させてくれなかった。恒夫が出会ったとき、ジョゼと祖母の2人は生活保護で暮らしている。

一般に言ってそれは不遇な生育環境だろう。決して生きやすいとは言えない。ジョゼにとって生きるということはそうした不自由さと結びついたものだった。かたや水の中を泳ぎまわる魚たちは、何ものにも縛られない自由な存在と目に映ったのかもしれない。

ジョゼにとって、生=不自由であったなら、その反対は死=自由である。それゆえに死=自由=幸福の図式が生れる。

 

作中に登場する死としては、祖母の死がある。祖母のお骨はまだ段ボールに入ったまま部屋に置かれている。自分にいちばんやさしくしてくれた存在が今現在いるのが死後の世界である。ジョゼは死の世界を縁遠いものとは考えず、むしろ身近なものと捉えているようにも思える。死を幸福と語るのに違和感を伴っていないのは、その表れではないだろうか。

 

しかしジョゼが自分たちを魚に見立てているように、その幸福は泡沫のものとしても描かれている。前述したように、ジョゼと恒夫は入籍していない。上で引用した箇所にも「恒夫はいつジョゼから去るか分からない」と述べられている。永遠に続くものというよりは、いつぞや途切れるか分からない状態として幸福感が語られているのだ。

それでいいとジョゼはいう。むしろ死のように儚いからこそ、そこに幸福を見出している感さえある。

 

ジョゼの幸福観あるいは死生観は、一見すると常識にそぐわないようにも思えるけれど、それでいて「そういう幸福の感じ方もあるよな」と思わず感じてしまう部分もあって、それがこの短編の魅力なのだと思う。

 

実写映画

2003年公開作品。妻夫木聡池脇千鶴の共演。

eiga.com

文庫30ページに満たない原作が2時間映画になるのだから、そりゃ設定や描写のボリュームが膨らんでいる。ジョゼの祖母は原作と大分イメージが違った。偏屈な性格に見えるし、ジョゼを仕方なく世話しているような感じがする。原作と違って児童福祉施設を脱走したエピソードが挿入されており、ジョゼの生い立ちの描写が異なることで、祖母に対する印象も変化しているように思える。

 

タイトルに登場する「ジョゼ」と「虎」と「魚たち」のうち、「ジョゼ」はいいとして、「虎」「魚」の出番がめっきり薄くなっている。

原作でも「虎」の場面に多くのページが割かれているわけではないのは前述のとおりだが、2時間映画に尺が伸びたのに「虎」はワンシーンに登場するだけなのは変わらない。その結果、相対的にウェートが軽くなっている感さえある。

もっとも「虎」に関しては原作の描写をなぞっているので、実写化に際して特にストーリーをいじったりはしていない部分と言える。これが「魚」のほうとなると、こうはいかない。

このシーンが削られるのか、と個人的には意外度が大きかったのだけれど、水族館に行ったら休館日なのだ。恒夫とジョゼが水槽の魚たちが泳ぐ光景を眺めることはない。

もし私が原作を読まず、かつタイトルを伏せられて映画を観たとして、そこから映画のタイトルを推測しても多分当てられない。いや、原作の段階でもタイトル当ては難しい気もするが、映画となるとより一層難しさが増していると言えよう。

 

補足しておくと、水族館には入れなかったが、「魚」が登場しなかったわけではない。ただしそれはラブホである。

はっきり言おう。この発想は持ちあわせていなかった。この作品で「魚」に対して付託されるイメージは、まぐわいだったのだ。上の感想を書いた時点では、全くその解釈を採っていなかった。映像の文法で表現しようとすると、こうなるのだろうか。

私に新しい視点をもたらしてくれたという点で、これは快哉を送りたくなるほどだ。

 

 

しかし原作と実写映画の相違点で大きいポイントはここではない。

原作にはいない香苗という登場人物の存在と、ジョゼと恒夫が別れた後が描写されるという点である。

原作は恒夫とジョゼの二者関係であったが、実写映画版では香苗が絡んで三角関係が生じる。これはもしかしたら作品から受け取るイメージを大きく変えてしまうかもしれない変化だ。

原作においてストーリーの主軸は、引きこもりがちだったジョゼが恒夫と出会い、外部の世界に触れるというものだ。外部の世界とはいっても、恒夫以外の人間と交友関係が構築されている描写はないし、ジョゼはすでに恒夫との関係性に幸福感を覚えてもいる。ジョゼと恒夫の生きる範囲は、ある種閉じられたものだといえる。

実写版だと、恋人を奪われる格好になった香苗とジョゼの間で対立が生まれている。しかも香苗は、ジョゼが「障害者」という武器を使って恒夫の好意につけ込んだと思っている。そうなると単に恋敵として設定されているというよりは、障害者対健常者という対立構図すら浮かび上がってくる。原作でもジョゼが身体障害を抱えていることは重要な要素であったとは言えようが、しかしフォーカスがあったのはあくまで2人の関係性や内面の心理であるような気がした。それが映像化されてみると、障害という生々しさもあって、純粋に2人だけの世界で完結しておくことはできない。周囲の目線がつきまとい、ジョゼと恒夫の関係は通常の恋人関係とは見做されない。障害者という存在を好奇の目で見られたり、介助をしていて立派だと称されたり、香苗には「武器」とさえ言われる。2人がお互いをどう想っているかという肝心なポイントよりも、ジョゼが障害者であるというフィルター越しに他人からは解釈されてしまうのだ。

 

ジョゼと恒夫は最終的には別れてしまう。恒夫は香苗と縒りを戻すことを選んだ。

別れた理由は「色々あった」ことになっているが、恒夫のモノローグでは「逃げた」のだとも語られる。

恒夫が逃げる選択をしたのは、ジョゼが障害者であることがやはり大きかったのではないか。法事で恒夫が親許に帰らなければならなくなったとき、彼は初めジョゼを親に紹介する気でいた。ところが土壇場になって「仕事」と言い訳して帰省自体を取り止めにする。ジョゼと恒夫の2人は彼の地元に向かう代わりに海を訪れ(水族館は閉館だったが)、楽し気に時間を過ごしている。つまり恒夫が帰省をキャンセルしたのはジョゼとの関係に問題があったためではない。ただジョゼを親や親族に紹介することはできなかったということだ。これは、どのような目で見られるかという反応を恐れるところがきっと少なくなかっただろう。恒夫が「逃げた」のはジョゼ本人というよりは、障害者をめぐる世間の空気だ。

 

なぜ原作と実写版で大きく印象が異なるかといえば、ここが最大の要因ではないだろうか。

原作はむしろ世間体を意に介していない。入籍や親への紹介はしていないが、結婚したつもりで同棲している。贅沢はできていないし、周囲の人間と豊かな人間関係を築いているようには見えない。けれど2人はそうした生き方に満足感を覚えている。ジョゼは恒夫が自分の元を去ることを予期するかのようだが、それが不安として表れているわけではない。現在の状態が一時的なものかもしれないと自覚したうえで、むしろそれを肯定するように幸福感を味わっている。

実写版も、ジョゼと恒夫という2人の関係性だけ見れば、原作と大きく違うところはないように見える。ところが2人を取りまく周囲の目線、世間のまなざしがそこに付加されている。その結果として、ジョゼが障害を抱えていることの重さが増している。

決して離縁が不幸として描かれているわけではない。とはいえ愛情だけでは乗り越えられなかったカベの厚さが強調されることになっているのではないかと思う。

 

 

アニメ

joseetora.jp

一言でまとめれば、「24時間テレビ」の空気が好きな人にはマッチすると思う。(ここ何年か24時間テレビを視聴していないので、違ってたらゴメン)

 

実写は原作の方向性にややひねりを加えた感じだったが、アニメは向いている角度が違う。それくらいテイストが異なる、というのがまず率直に思うところだった。だから原作のイメージで観に行くと、かなり戸惑う部分も少なくないだろうね。

法務省とのタイアップだと聞いた時点で、この路線はある程度織り込み済みではあった。

原作は入籍しないまま同棲して夫婦生活。式も挙げず、親許へも知らせていないが二人は結婚したつもりでいる。それを法務省が推奨かというわけではなく、「夢に向かって頑張る」ことの応援なのだ。

 

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法務省とのタイアップ

 

どっちが好きかというと、私は原作テイストが好みだ。優劣を論じる気はないけれど、原作既読済みであるために、アニメのテイストがnot for meに感じてしまう部分があったのは事実だ。

そういう意味で私の感想もねじれている部分がたぶんある。けれど、今年観に行った新作映画のなかで満足度上位であるのもまた事実なんだよな。恋愛系、青春系だと、今年下半期でみても『海辺のエトランゼ』、『泣きたい私は猫をかぶる』、『どうにかなる日々』、『君は彼方』などがあったがどうだろう、『ジョゼ』に軍配を上げたい。

 

アニメ化して良かった点の第一に、ジョゼのキャラデザがある。かわいい。

日本人の「クミ子」が「ジョゼ」と名乗るイタさがアニメになると減じており、キャラクター性として親しみやすくなっている。癇癪もちな性格だが、ナイーブさは増しており、その辺が愛しやすさにつながっている。

アニメとして観て初めて感じたが、ジョゼってツンデレ成分を含んでるんだな。紋切型の描き方ではないからツンデレと呼びたくはないけれど、タイプ分けするならツンデレキャラになるだろう。原作や実写を鑑賞した際にはこのように感じていなかったから、これはちょっとした再発見だ。アニメというメディアを介することで、ヒロインとして入れ込みやすくなった。

 

映像的にみても実写よりダイナミックなカメラの動きが多かった印象があり、幻想的なシーンや色彩なんかもアニメで観れて良かったところだろうな。恒夫とジョゼの出会いや虎、桜並木なども、時間を隔ててシーンを重ね合わせる映像的伏線となっていて、印象付けられる。

車椅子の車輪の跡を追いかける演出は特に気に入るものだった。唸りそうになるね。原作にも実写にもない。恒夫とジョゼをつなぐ一筋の手がかりが、文字どおり雪に残った一筋(二筋か)の車輪の跡であるという暗示になっている。2人を結ぶものが車椅子であるというのも、これまでの関係性を象徴するものとして良い。

 

 

さて、原作ないし実写と、アニメとではテーマが大きく異なっているように感じられる。いくつか設定が改変されているが、それもテーマ性を明確にする意図と思われる。

先に書いたように、私は原作のテイストのほうが好きだ。パンフレットなどを読むと、当初からハッピーエンドを意図して作ろうとしていたようだから、アニメのこの描き方は原作の曲解や誤読ではなくて、解釈の多様性なんだろうな。それだけ原作が豊穣に解釈できるということでもある。

私は原作至上主義の立場に立つものではないから、原作・実写・アニメのそれぞれの差異や落差を楽しめばいいと思うし、原作のほうが好きとは言っても、今回のアニメも存分に楽しめるものだった。

それどころか、対比されることで理解が深まる面というのが実際ある。アニメを観ることで原作や実写のどこに自分が魅かれていたのかが、より明確に再認識できたということだ。それぞれの作品が、どうしてほかの描き方ではなくこの描き方を選んだのか、を意識しやすくなるからだと思う。

 

原作のときの感想に書いたけれど、この作品は幸福についての問いかけを含んでいる。その描き方が原作とアニメでは方向性を違えている。

アニメだと、夢を追いかけること、それも挫折を乗り越えて夢を掴みとろうとすることを真正面に据えている。青春劇のド定番だ。原作はむしろ定番を外したうえで、「でもここに幸福感があるんだ」と訴えるところがあった。ベクトルの向きは180度違うと言っても言い過ぎではなかろう。

アニメにおける「魚」とは夢の象徴である。海洋生物学を学び、メキシコにしかいない魚を見に行くことを目標としている恒夫にしても、海が父親との思い出の一つで、幻想的な海の絵を描くジョゼにしても、「魚」は重要なキーワードになっている。

原作における、魚=屍体=幸福という図式はアニメでは提示されない。原作は自分たちを魚に喩えたのであるが、アニメにおける魚は追いかける対象である。

これに合わせて原作の設定は変えられている。恒夫は大学を出て市役所に勤めることとなっていたものが、アニメでは留学を目指して勉学とバイトに励んでいる。また原作や実写において描かれていたジョゼの家庭や家族についても、すっきりした描かれ方に変わっている。ジョゼの母親は幼いころに家を出て、父親の再婚後は捨てられるように施設に入れられたのだったが、アニメでは両親が亡くなったという設定になったようだ。

 

魚=夢がテーマになったアニメにおいては、障害は克服すべき対象、乗り越えるべき障壁という側面が強まっている。物語中盤、事故にあった恒夫がリハビリに励む姿はまさにそれである。祖母を亡くしたジョゼも自立したうえで、絵本作家の夢にも挑戦しようとする。

事故のシーンはアニメオリジナルゆえ強烈であり、医者から後遺症の懸念を伝えられる場面が、本作で観ていて一番重苦しくなる箇所だった。実写版で描写された健常者vs障害者の対立は、健常者→障害者の形で解消される。「だれだって障害者になる可能性がある」というメッセージは、ハンディキャップを抱える人々に対する理解を広めるための一つの訴え方であると思うのだが、それを地で行く方法で観客の面前に提示してきたともいえる。

障害を乗り越えて(健常者のころと同じように)夢を志向するその描き方が、冒頭に記したように24時間テレビ的だと感じたのだった。

原作版は障害の克服や夢の追求を描こうとはしていない。

 恒夫はあれからずうっと、ジョゼと共棲(ともず)みしている二人は結婚しているつもりでいるが、籍も入れていないし、式も披露(ひろう)もしていないし、恒夫の親許(おやもと)へも知らせていない。そして段ボールの箱にはいった祖母のお骨も、そのままになっている。

 ジョゼはそのままでいいと思っている。長いことかかって料理をつくり、上手(じょうず)に味付けをして恒夫に食べさせ、ゆっくりと洗濯をして恒夫を身ぎれいに世話したりする。お金を大事に()め、一年に一ぺんこんな旅に出る。

(203頁)

 

原作の一節はこれである。なにか特別なことに挑戦しているのではなく、自分たちのペースで生活し、1年に1度の旅行をするくらいの贅沢を楽しんでいる。こういう生活に幸福感を見出している。

アニメにおいては恒夫とジョゼの関係ははじめバイトのもとで進展していく。ジョゼの祖母が恒夫に高額のバイト代を支払うし、祖母が亡くなるとバイト代が払えなくなる旨をジョゼが告げる。

私は原作のベースが頭にあったために、経済面の描写は違和感を持っていた。元々の生活保護の設定が先入観として働いてしまったのだろう。アニメでは生活保護を利用しておらず、祖母が面談していた相手は生活保護ケースワーカーではなかったということだ。祖母がそこそこの年金を貰っていたくらいの設定なのだろう。

原作の恒夫は、ジョゼの祖母が手作りの料理を振る舞ってくれるので、ジョゼたちの家に出入りするようになった。当然ながらバイトのつながりではない。アニメ版の恒夫の設定だと、「高額のバイト代」というようなものを用意しないと、ジョゼと恒夫の接点を描けなかったのだと思われる。

原作のテイストであれば、お金の関係性で物語を進めることはできない。逆にアニメ版であれば、原作の設定はそぐわなくなる。祖母の死はいずれにおいても転機となっているが、原作や実写版は祖母の死に際してそばにいてやれなかった恒夫の悔悟に大きな比重があり、アニメ版は死去したのちのジョゼの生活の変化に焦点が合わせられていると言える。

 

 

 

夢に手を伸ばすことがメインテーマになったアニメ版は、恋愛模様の描かれ方も変わったように思われる。そもそも対象年齢を引き下げたのかもしれない。本作は「純愛」を宣伝文句としているが、原作や実写版が交合(まぐわい)でを通過するのに対し、アニメ版は初々しくファーストキスを描いている。

原作はいわゆる事実婚状態でジョゼは主婦になっていると思われるが、アニメだと同棲もしていないし、ジョゼも職業的自立を志向している。80年代に書かれた原作との、時代性の違いが反映されているといえるかもしれない。

 

ジョゼの抱える障害と物語における恋愛要素の絡み方は、原作、実写、アニメで三者三葉だ。

各作品を比べてみると、原作は障害を強調し過ぎない印象だ。障害はジョゼの抱える要素の一つではあるけれど、障害があることが2人の関係性の形を決定づけているわけではない。

実写版は障害者に対する世間のまなざしが強調されているところがある。健常者と障害者の対立構図が現れ、恒夫はそこから逃げ出さざるを得なかった。2人の出会いはきっとそれぞれの人生の歩みに影響を与えただろうが、どこか言いようもない心残りも描かれているようだった。

アニメになると、ジョゼの両親との確執や施設入所の設定が削られるために、より障害の側面へのフォーカスが印象として強まっている気がする。実写版で示されたような健常者と障害者の間のカベも現れるけれど、恒夫が事故に遭うことで、つまりは恒夫が障害者の側に引き寄せられる形で対立が解消される。

障害や世間体にとらわれない愛の形を描いた原作。そのカベに阻まれてしまった実写版。カベではなく共通項として描かれたアニメ。ビターテイストが私は良かったとは思うけれど、ハッピーエンドのテーマ選択をした分アニメは青春まっしぐらでまぶしい。

 

アニメは夢を追いかけることがテーマになったためか、むしろ夢の存在がジョゼと恒夫の関係性の足かせとして立ち現れたのが、原作・実写にない新しい点だった。というか、原作ではそのようなたいそうな夢をそもそも目指していないので、このような葛藤は生じない。原作がなにを描かなかったのかを、その代わりになにを描こうとしていたのかを、アニメ版を観ることで裏返し的に受け取ることができた気がする。

 

物語のクライマックスで、ジョゼが一人で虎を見に行く。恒夫に頼らずに生きていこうという意志の表れだ。最初に見に行ったときは、すがることのできる存在ができたからだった。ここでは誰にもすがらないで生きていこうという決意表明となっている。

自立を目指しているのはわかるけれど、それは決して独りで生きろということではないはずなのに。民生委員の就労圧力などもあって、そんな価値観が内面化されてしまったか。

だから私は、恒夫がジョゼに掛ける言葉は「管理人をしたい」ではなくて「一人だけで生きようとしなくていい」であってほしかった。自立というのは、独力で困難を克服していくことじゃないだろう。依存先がないことではなく、多くの依存先を持つことだ。恒夫自身、ジョゼや他の人たちに支えられたから立ち直れたはずである。それが「管理人をしたい」のセリフでは、一方的な愛の告白、あるいは願望の表明とも受け取れてしまう。ここは「ともに生きよう」と言って欲しかった。『聲の形』の「きみに生きるのを手伝ってほしい」のセリフが好きなのは、きっとこの辺りなんだろうな。

 

障害者は一方的に助けられる存在ではなくて。だれかを縛り付けているのでもなくて。

2人を対等な関係性として描こうとしているのだから、それをもっと端的に表すセリフで告白して欲しかったとは、やっぱり思う。

 

 

 

アニメオリジナルの主要キャラとして、バイト先の後輩・二ノ宮舞と図書館司書・岸本花菜がいる。舞が恒夫サイド、花菜がジョゼサイドの人物になる。しかし恒夫サイドとジョゼサイドでバランスが取れているかというとそうではなく、舞が一貫して恒夫側につくために、ジョゼに対して冷たかったり衝突したりする。もし舞がいなければジョゼと恒夫で衝突していたであろう部分さえ、舞とジョゼの衝突に置き換わっている感さえある。

ジョゼを世話するバイトを辞めたほうがいいと口にした場面はまだ恒夫のためを思っている感じがあったが、祖母を亡くしたジョゼに対して福祉や施設に任せる提案をしている場面は、案外こいつ心冷たいなって考えてしまった。ハンディキャップがあって、しかも生活の支えであった祖母を亡くした直後という大変な時期にあるジョゼを、恒夫とともに心配するのではなく、ただ恒夫とジョゼの距離を離そうとしているように見える。

舞がイヤな女というわけではない。恒夫に惚れていて、だからそんな言動をするんだろうなということは、映像的には分かりやすい。ただ観客としては、舞がそういう態度を取っている限り、恒夫とカップリングしてほしいとは感じないだろうね。舞に共感することはできても、恒夫と舞で結ばれるストーリーは期待しない。

もちろん、のちの展開を見れば舞というキャラの魅力的なポイントも描かれる。しかし恒夫が入院するまでは、単に趣味の合う仲間という感じ。あまり恋敵という位置づけではない。

これは、舞というキャラがよくないということではない。恋愛劇の側面だけみれば不足しているのではないかということだ。やはりこの作品は「夢」がテーマの主旋律なのだろう。

 

舞の印象的な場面は、車椅子の恒夫を連れ出して突然告白したシーンか、消沈しているジョゼに「恒夫をもらってやる」「くだらない夢を諦めさせる」と発言し、憎まれ役を買う形でジョゼを発奮させるシーンだろう。

だが、振り返って考えてみると、その前の「同情」発言のほうが、舞の人間味が強く表れていたのではないかと感じるようになった。

祖母を亡くしたジョゼのことが気がかりになっている恒夫を見て、舞がジョゼを訪ねるシーンだ。

舞は初め、頭を下げてジョゼにお願いをする。恒夫には子どものころからの夢があるから、もう彼を縛るのは辞めてくれ、と。ところが、そもそもジョゼは恒夫が来年春に留学するということを知ってすらいなかった。しかもジョゼは、祖母が亡くなって高額のバイト代を払えなくなったことを恒夫に伝えている、つまりはこれまでのように彼の厄介になることはできないとジョゼが観念していることを観客は知っている。むしろジョゼは恒夫を縛りつけていないし、できなくなってしまったのだが、にもかかわらず舞からは「もう縛るな」と言われ、しかも留学のことを知らされるのだ。

ジョゼは癇癪もちとして描かれてはいるが、この場面でふてくされたような反応をしてしまうのは、気質というよりは普通の反応だろう。ジョゼ自身大変な時期であったのにそんなことを告げられれば、戸惑うのも無理はない。

ところがそんなジョゼの反応を見て舞は、「恒夫がジョゼの傍にいるのは同情だから」と言ってのけてしまう。この感情の表出が、胸に来る。

 

舞本人にしたって、そんな発言をする意図は当初はなかったはずだ。励ましに来たのか、お願いしにきたのかはともかくとして、毒づく予定はなかったに違いない。そしてまたジョゼの置かれた境遇を理解しているはずだから、自分の発言が不適切であることも常識的に理解しているはずだ。それでも堪えることはできなかった。

実写版での香苗(上野樹里)は、もっと激しかった。障害を「武器」にして恒夫につけ入ったとジョゼをなじり、物理的に手を出してもいる。

アニメ版での舞も、感情的には同じかそれ以上に高ぶっていたはずだ。

ジョゼはハンディキャップを抱えており、祖母を亡くしたばかりでもある。傷つけるような発言をしてはいけないというのは、頭では当然理解しているだろう。恒夫が気に掛けるのも仕方ないと考えていたかもしれない。それでも恒夫にこれ以上思い悩んでほしくなくて、ジョゼにお願いしに行った。ところがそこで知ってしまったのは、ジョゼが留学の件を知らないことだった。舞にとってはむしろショックだったのだろう。なぜ恒夫がジョゼに留学のことを伝えていないか、直感的に察したとしても不思議ではない。恒夫はジョゼを気遣って留学のことを伝えていなかった、そう発想するのは難しいことではなかったはずだ。

自分のほうが恒夫のことをよく知っていて、強く思っているのに、でもジョゼを前にして空回りしてしまう。自分は恒夫の夢を知っているから、会えなくなるのが寂しくても恒夫の応援をしようとしているのに、片やジョゼはそんな悩みもない。なのに恒夫はジョゼを自分のことより気にかけている。悔しさや嫉妬が心にあふれたに違いない。

それでも「同情」までで堪えたところに、精一杯の自制があったのだと思われる。作劇としては、実際に手を出した実写のほうが分かりやすくはあるかもしれない。感情の横溢としては、事故後にジョゼ宅を訪問したときのほうが強烈かもしれない。しかし自分の心に渦巻く感情をぶつけてしまいたいのに、それを思いとどまらなければならないという心理の複雑さは、こっちのシーンのほうが強いように思われる。ある種吹っ切れて感情を思い切りぶつけるシーンはカタルシスさえあるけれど、こちらはそれが出来ない分だけ、リアルに人間臭いシーンになっていた気がするのだ。

 

実写でジョゼと対峙するシーンよりも心に引っかかったのは、そのためかもしれない。

 

 

それと新潮社さん。絶版になってるフランソワーズ・サガンのジョゼ3部作、再版お願いします。