ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

京大 立て看・吉田寮問題についての覚書

緊急シンポジウムが開催

昨日(2月13日)、「立て看・吉田寮問題から京大の学内管理強化を考える」と題するシンポジウムがありました。

本エントリーはそれに対するメモ・覚書です。私はこの問題の当事者や関係者ではなく、あまり予備知識も入れずにシンポを聴きに行きました。

おもしろくも変人でもない京大というページで緊急アピールへの賛同署名も集めているようです。)

 

・・・・・・でシンポを聴きに行った感想なんですけど、なんというか正直、問題の全体像がよく分かりにくいというか、これで広く共感を得られるのだろうかという風に感じてしまいました。

いや、別に冷や水を浴びせたいわけではなくて。むしろこうした動き自体は応援する気でいるんです。よく分からないと言っておきながら賛同するのもおかしな話に聞こえるかもしれませんが、それは方向性には賛同するという話ですので。

 

これは習性のようなものかもしれませんが、問題がよく分かんないときはとりあえず非権力側を応援するというやつです。判官びいき、ウォッチドッグジャーナリズム、弱きを助け強きを挫く…

考えてみれば「弱きを助け強きを挫く」ってすごいですよね。「善を助け悪を挫く」ではないんですよ。興味深い正義感かもしれません。まあ、強い側は自分で正義を実現できるということなんでしょう。

 

閑話休題。方向性に賛同するといっても、細部が分からないと、ただなんとなく賛成ってだけで終わってしまいます。予備知識がなかったことも関係あるかもしれませんが、それじゃ多分、賛同の輪は広がっていかないでしょうし。

そこで以下簡単にですが、問題の整理をつけておこうと思ったわけです。

 

なにが問題となっているか

立て看問題

まず、立て看の問題ですが、これは大学当局が立て看板の規制・管理を強化するというものです。これが学生の自由な活動・自主的な活動を委縮させるというので反対の声が上がっています。

 

直接的な契機は京都市から大学に行政指導があったことだそうです。そして2017年12月19日に「京都大学立看板規程」が公表され、2018年5月以降は立て看の設置場所が限定されることになると。

規程の中では、総長が認めた公認団体しか看板を設置できないこと大きさが制限されること(200センチ×200センチ)、設置が指定した場所に限られること(具体的な場所は未定)などが問題視されています。

 

京都市の行政指導がどういうものだったのか具体的に分かりませんでしたが、単に景観条例に沿うようにするだけなら、大学側の規制は行き過ぎなのでしょう。そもそも京都市条例は大学構内には適用されないので、これはほとんど大学当局の独自の判断だということです。規程が制定されるまでの経緯も不透明なもののようです。

 

吉田寮問題

寮の問題は、大学当局との正規の話し合いの場として団体交渉が伝統的に設けられてきました(団体交渉には寮自治会や関係当事者がすべて参加できるとのこと)。

ところが川添副学長の就任以来、一度も団体交渉の場は持たれなくなります。そして立て看規程と同日の2017年12月19日に「吉田寮生の安全確保についての方針」が一方的に公表されました。

 

方針の内容は、2018年9月末日までに全寮生が退寮しなければならないこと新規入寮募集も停止させることでした。老朽化に対する安全対策を理由としていますが、2015年に新設されたばかりの西寮に対しても退去が勧告されています。したがって安全確保を名目とした自治寮つぶしではないかとのことです。

 

なお、退寮者には代替宿舎が斡旋されるとのことです。しかしここにも選別があるとのこと。つまり対象となるのは大学側が言う「正規生」のみ。科目履修生や聴講生、留年や休学で最短修業年限を超えている人は「非正規生」の扱いになっているそうです。

そして非正規学生には個別の通知で3月末を目処とする退去を求められているとのことです(つまり通知から約3か月という期間です)。こういった動きも寮自治会を通さずになされています。

 

大学の狙いはなにか

以上自分の中で整理してみたつもりですが、こうやって文章にするとまだ分かりやすいですが、シンポジウムの登壇者の発言だけ追ってるとこれが分かりづらいんですよね。

 

反対運動というのはそういう人が多いのかもしれませんが、具体的な事実関係と、その解釈やあるべき論がごっちゃになって語られるんですよね。すでに問題点は共有されているとの前提なのかもしれませんが、それだと予備知識なしに行くと理解しづらい。

 

今回の件で言えば、まず事実関係の確認から話をはじめてほしい。どんな経緯で規程なり方針ができたのか、そしてその規程や方針の中身は具体的にどんなものなのか。それによって、具体的にはどんな不利益が生じるのか。

なぜ大学がそんなことをしてきたのか、どんな狙いがあるのかについてはその後の話でしょう。

 

大学の管理強化?

京都市からの行政指導、あるいは川添副学長の就任が直接のきっかけということになるのかもしれません。ですがそれはただのきっかけであって、背後にはもっと大きな狙いがあるのだと。

 

それは分からなくもないんですが、そこから話が飛躍してしまうんですよね。学内の管理強化、自治切り崩し、成果主義の風潮、ブラック企業化……

 

なぜそういう話につながっていくのかをもっと丁寧に説明してほしい。

それなのに大学全体の置かれた状況や何十年前からの歴史の話をしたりする。

 

成果主義の話だって、「そりゃ時代の流れだよね」で片づけられてしまいそう。大学とはどういう場であるべきで、なぜ大学の自治が重要なのかを語ってくれないと伝わらない。

管理強化とか成果主義って、なにも大学に限らず日本全体で進行していることでしょう。だからこの問題に関係のない普通の人からしたら、なにをそんなに騒いでいるのかも分かりにくいでしょう。

 

結局、今後どんな行動を取っていくのか

べつに管理強化や成果主義を嘆くのが悪いことだと言いたいんじゃありません。そういう大局的な流れを見つめることも大事でしょう。

 

でも、それだと具体的なアクションとかが見えない。

今回の件で言えば、立て看の規制や退寮問題をどう撤回させるか、変更させるかを一番に考えなければならないはずでしょう? その話が出ないままに管理強化反対みたいな大きな話になってしまうから、飛躍してるように思えるんですよ。

 

もちろん、大学の自治を重んじる立場からすれば、そこまで見据えた議論をしていくべきでしょう。

けれど当面の問題としては、この具体的に生じる不利益をなんとかしなければならないわけで。大学の自治を取り戻すのだって、そうやって果実を積み上げていくしかないでしょう。

 

だったら大きな戦略だけじゃなく、具体的な戦術の話も必要でしょう。どうも戦術の話を抜かして戦略の話をしたがっているように思えるんですよ。緊急アピールの署名だって、立て看や退寮問題の署名を集めているのか、管理強化反対という運動の署名を集めているのか分かりにくい。

参加者からの意見で情報開示請求をやっていくべきではないかとの声がありましたが、あんまりそういう話はしてないんじゃないかと思ってしまう。

 

おもしろくも変人でもない?

それから「立て看・吉田寮問題から京大の学内管理強化を考える」のページのタイトルが「おもしろくも変人でもない京大」になっています。

 

これもどうなんでしょう。問題意識伝わりますかね?

最初コピーを見たとき、「おもろしろくない、変人でもない、普通の京大生だっていっぱいいるんだ」って言いたいのかと思いましたよ。

 

だって、そうでしょう。大抵の京大生は「普通の学生」だと思いますよ。

ノンポリみたいな学生が大半でしょうし、熊野寮に住んでる人だって「過激」なのは一部で、あとは真面目な学生が多いんじゃないですか。京大に来る人なんて進学校で学んで、受験テクニックをしっかり身に着けた人が多いんだから、そうなるでしょう。

 

「普通」の人たちにとっては、「京大生は変人が多い」っていうのが迷惑なレッテル張りでもあるんですよ。大学が変人ばっかな訳ないでしょ。勝手にコミュ力とか推測されたくないでしょう。

 

だから「おもしろくも変人でもない京大」って聞いたとき、そういう実態を伝えるのが目的なのかとも思ってしまいましたよ。これが今の学生にどれくらい響くのか

「おもしろくも変人でもない京大」を嘆く人は、古き良き大学像へのノスタルジーを抱いている人が中心になってしまうんじゃありません?

 

 

 

 

 

 

小坂流加『余命10年』

書店で目にして手に取った1冊。

 

買ってしまったのは著者プロフィールを見てしまったから。

本作の編集が終わった直後、病状が悪化。
刊行を待つことなく、2017年2月逝去。

 

本作の主人公は難病のために10年以上生きられないという設定。

難病や死を描く作品は、それもドラマチックに仕立てるようなものは色々あるけれど、本作の場合は著者自身が本当に亡くなっているという……。それがこの本を読んでみようと思わせたことでした。

 

そうであるがゆえに、どうしても作者と登場人物を重ねて読んでしまう。それがいけないわけではないでしょうが、作者と作品は別物で、作品は作品単独で評価すべきだろうとも思ってしまうので。いえ、本作は作者の事情なんか抜きにしても十分楽しめるものではあると思います。でも、本作のリアリティや説得力を高からしめているのも、作者が夭逝したという事実である気がする。

 

この手のタイプは純粋に小説として面白かった云々だけでなく、どうしても作品が書かれた事情を想像してしまう。このブログでも前に麻枝准さんのことを少し書きましたがが、どういう経緯で、どういう思いで作られたかということに、思いを馳せる形になる。

 

だから逆に言うと、作品単体としての評価がちょっとしにくい。

ただ、なんとなく個人的には、こんな風に作者その人のストーリーも込みで本を買う機会は今後増える気がする。

 

この時分、図書館でも中古本でも、あるいはフリマアプリとかで買って読むこともできる。安く済まそうと思えば手段は色々ある。その中でわざわざ書店で本を買うという行為は、純粋に読みたいからというだけでなくて、応援のような意味合いが含まれている気がします。

そうなると、やっぱり作者の人物を知って買うことが増えるのかな。もし人工知能が小説を書く時代になっても、こういう形態の購入は残るのだろうか。

 

 

 

グリーンディスプレイの過労事故死

過労事故死

グリーンディスプレイの「過労事故死」を巡り、遺族と会社の和解が報じられました。通勤時の交通事故も過労が原因とされ、会社の責任を認める内容での和解となったことが注目されています。

 

news.yahoo.co.jp

 

「過労死」が社会問題になり始めたのが1980年代後半ごろから。「過労自死」については2000年代に入ってからだったと思います。それ以前は「突然死」とか呼ばれていたり、自殺は労災認定されなかったりという時代でした。

そう思うと、今回の「過労事故死」は「過労死」「過労自死」に続いて、過労による死亡がより広く認識されていく契機となるのかもしれません。

 

ただ、少し意外だったのは過労を原因とする事故って、これまで責任を問われてこなかったんだなということ。

労働基準行政のなかでは、交通災害の原因のひとつに過酷な労務管理があることは早くから認識されてきました。自動車運転者を使用する事業に対する監督は、他の監督に比べて重要視されてきましたし、運輸業の過労死認定が多いことは繰り返し指摘されてきたはずです。

 

交通戦争と労働基準行政

70年代は交通事故による死傷者数は年間100万人を超え、死亡者だけでも年1万人前後に達していました。「交通戦争」と喩えられたことは有名です。

労働基準行政においても、交通災害の防止に取り組まれたのは、その背景に働き方の問題があると認識されていたためです。

 

1966年5月の交通安全期間中には、自動車運転者を使用する事業場約3,000について全国的に調査的監督が実施されました。調査的監督というのは、監督官が事業場を訪れて監督する際に、併せて実態調査も行うものです。

『労働法令通信』19巻13号の記事によれば交通災害の大きな原因として、運転手に対する労務管理のあり方を問題視し、全国のトラック、ハイヤー・タクシー事業者に対し、労働時間・休日・割増賃金・安全衛生管理などを一斉監督したとのことです。

 

交通安全運動と合わせて一斉監督を実施するというのは、その後しばらく続きます。70年代から陸運行政機関と労働基準監督機関の相互通報制度が始まっていますし、件数は少ないですが、自動車運転者の就業中の過労運転事案について警察機関からの通報する仕組みもあったようです。

『労働行政要覧』にも毎年、自動車運転者を使用する事業場への監督結果が掲載されており、重点が置かれていたことが窺えます。

 

 

なお、労基による自動車運転者を使用する事業場への監督件数は、下の図のようになります。60年代末が一番件数が多いですが、これは前述したように一斉監督が広く行われたためです。

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定期監督の業種別監督件数の推移

監督機関による定期監督の内訳の推移について、そういえばまだ書いてなかったことに気づいたので、載せておきます。

いずれも『労働基準監督年報』からの作成です。

 

まず、分母となる労働基準法適用事業場数です。*1

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労働基準監督署の監督は企業単位でなく事業場単位で行われます。

業種別にみると、2015年だと約3分の1が商業です。製造業、接客娯楽業、建設業と続きます。

 

これに対して、実際に定期監督を実施した件数は下のグラフです。

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なお、定期監督件数の業種別の内訳が把握できるのは1957年以降なので、その部分についてグラフ化しています*2

やや比率が低下してきたとはいえ、製造業、建設業が多いですね。両者で6割ほどを占めています。対して商業は10%台です。

事業場の数では商業が多いにもかかわらず、監督先は製造業や建設業が多いということです。*3

 

これはもちろん、故なきことではありません。近年は長時間労働への取り組みがクローズアップされていますが、監督署が長らく最重要視していたのは災害防止でした。そのため機械や危険有害物質を扱う事業に対する監督が多くなっているのです。

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このグラフは労働災害の死亡者数を業種別に見たものです。いわゆる工業的業種のほうが命の危険が大きいことが分かります。*4

 

なお、定期監督の実施率はこんな感じです。

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全業種載せると見づらいため、工業的業種だけにしています。ただし「計」とあるのは、非工業的業種も含んだ全業種の平均です。

 

監督実施率というのは、事業場数に対する監督件数の割合です。もしすべての事業場に年1回監督を実施している場合、実施率は100%になります。年2回監督できていれば200%、逆に10年に1度しか監督できていなければ10%となります。

直近の定期監督実施率は約3%です。なので全ての事業場を回るのに約30年かかる計算です。(あくまで計算上の話ですが)

 

この監督実施率は業種別にみると、工業的業種は平均以上に高い数字となっています。やはり相対的に重視されていると見て良いでしょう。

運輸交通業で60年代末に高くなっているのは、交通安全運動期間に一斉監督が取り組まれた影響だと考えられます。

 

*1:なお1972年までの『労働基準監督年報』には、「資料出所」として労働省労働基準局監督課「適用事業場及び労働者数調べ」と記載がある。73年以降は記載がなくなり、86年から事業所統計調査報告(その後経済センサス)から作成との注が付されている。

*2:それ以前については定期監督以外の監督(再監督など)を含めた件数となっている。

*3:建設工事で下請が入っている場合、元請・下請それぞれが監督されることになる。たとえば1992年の建設業に対する定期監督件数は、47,404現場、65,238事業場である。1現場あたり1.38事業場の監督を実施している計算だ。

*4:1973年以降の交通運輸事業には道路貨物運送業を含まず、道路貨物運送業は陸上貨物運送業に含まれている。

もし安倍総理の国会答弁が入試問題だったら

阪大、京大の入試の出題ミスが相次いでニュースとなりました。

www3.nhk.or.jp

入試と言えば、センター試験ではムーミンの舞台を巡って、ちょっとした騒動になってましたね。

ムーミンの舞台、入試センター「設問に支障なし」:朝日新聞デジタル

 

入試は進路を左右する問題だけに、関心が高くなるのは当然かもしれません。

一方で、国会論戦ではこんなことが。

lite-ra.com

 

エンゲル係数についての総理の説明が批判されています。経済学の常識的な説明とは反対のものでしたから。

これなどは、もし入試問題として出題されていて、総理答弁のような答えが正答とされていたら、前記のニュース並みに騒動になっていてもおかしくありません。

 

でももし、今後の公務員試験とかでエンゲル係数の正誤問題とか出たらどうなるんだろう。一国の首相が言ったことですからね。

 

 

それでふと思ったのが、エンゲル係数の話に限らず、国会答弁を試験の題材にされたら、結構ムズくなりそうだな、ということ。

試みにこんな問題を作ってみたのだけれど

 

問)以下の発言は、参院予算委員会での辰巳孝太郎氏(共産党)の質問と安倍晋三首相の答弁である。正しい発言順となるように並び替えよ。

①辰巳氏 2016年3月16日、大阪に戻った籠池泰典氏と近畿財務局、大阪航空局とのやりとりを示す音声データを新たに入手した。籠池氏の妻が「昨日、国に行って手応えがあった」と直談判を振り返り、籠池氏は「昨日、われわれが財務省から出たとたんに安倍夫人から電話がありましてね。『どうなりました? 頑張ってください』って」と発言している。

②辰巳氏 昭恵氏は棟上げ式に来る予定になっていたか。行ったかどうかは問題ではない。確認してほしい。

③辰巳氏 籠池氏に電話したのか。

④辰巳氏 首相が答えられないなら昭恵氏を国会に呼ぶしかない。

⑤辰巳氏 棟上げ式が新たなゴミの発見で遅れるのは当然だ。3月15日の籠池氏の直談判後、昭恵氏は籠池氏に電話したのか。

⑥首相 籠池氏は「安倍晋三記念小学校」と申請したと堂々と発言したが、実際は開成小学校だった。(妻昭恵氏が)棟上げ式に来るという朝日新聞の報道があったが、民進党の会合で籠池氏は「昭恵さんは来ていない」と答えている。ころころ言っていることを変える人物が、またそういう証言をしているのだろう。

⑦首相 質問通告をすればいいだけだ。これは補正予算とはまったく関わりのないことだが、事前に通告すればちゃんと答える。

⑧首相 招待を受けていない。行く予定も最初からなかった。

⑨首相 売買について金額の交渉等には一切関わっていない。

⑩首相 真面目に審議したいなら事前通告してほしい。

 

 

 

 

 

 

正解は①→⑥→⑤→⑨→③→⑩→④→⑦→②→⑧の順で以下のようになります。

①辰巳氏 2016年3月16日、大阪に戻った籠池泰典氏と近畿財務局、大阪航空局とのやりとりを示す音声データを新たに入手した。籠池氏の妻が「昨日、国に行って手応えがあった」と直談判を振り返り、籠池氏は「昨日、われわれが財務省から出たとたんに安倍夫人から電話がありましてね。『どうなりました? 頑張ってください』って」と発言している。

⑥首相 籠池氏は「安倍晋三記念小学校」と申請したと堂々と発言したが、実際は開成小学校だった。(妻昭恵氏が)棟上げ式に来るという朝日新聞の報道があったが、民進党の会合で籠池氏は「昭恵さんは来ていない」と答えている。ころころ言っていることを変える人物が、またそういう証言をしているのだろう。

⑤辰巳氏 棟上げ式が新たなゴミの発見で遅れるのは当然だ。3月15日の籠池氏の直談判後、昭恵氏は籠池氏に電話したのか。

⑨首相 売買について金額の交渉等には一切関わっていない。

③辰巳氏 籠池氏に電話したのか。

⑩首相 真面目に審議したいなら事前通告してほしい。

④辰巳氏 首相が答えられないなら昭恵氏を国会に呼ぶしかない。

⑦首相 質問通告をすればいいだけだ。これは補正予算とはまったく関わりのないことだが、事前に通告すればちゃんと答える。

②辰巳氏 昭恵氏は棟上げ式に来る予定になっていたか。行ったかどうかは問題ではない。確認してほしい。

⑧首相 招待を受けていない。行く予定も最初からなかった。

 

これ、国会の議事録じゃなくて2018年2月2日付の毎日新聞の詳報記事から作成したので、発言そのままというわけじゃないと思うんですが。しかし正しい順を見せられても分かりにくい。

安倍晋三記念小学校」が突然出てくるし、「籠池氏に電話したのか」は2回尋ねられています。首相のほうも2回「事前通告」に言及。こういう繰り返しや似たような発言を上手く追えないと正答にたどり着けなくなっていますね。

 

 

 

労働基準監督官の残業時間

労働基準監督官の試験情報が更新され、平成30年度の採用試験パンフレットがアップされていました。

 

ざっくりと目を通しただけですが、「若手監督官座談会」ところで残業時間が「1か月10時間程度」と述べられていました。

そういえば監督官の人手不足がよく論じられるわりに、残業時間はあまり話題になっていない印象が。発言の通りなら、人が少なくて長時間労働になっているという事実はないのかもしれません。

 

一応、昨年の「労働基準監督業務の民間活用タスクフォース」で厚労省が提出した資料の中に監督官の超過勤務時間について載っています。

 

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この資料だと最頻値は「0~5時間」となっています。一人当たり平均だと9時間34分。

これ以外の資料だと、あんまり残業時間について書かれていた記憶がないので、ちゃんと探してみないといけないですが、総じて問題化はしてないのだと思います。

 

この点、同じ国家公務員でも官僚の長時間労働がたびたび取り上げられるのとは状況が違うのでしょう。

 

清水潔『殺人犯はそこにいる』感想

清水潔さんの著書『殺人犯はそこにいる』を拝読しました。

 

 

 

清水氏のことは以前から存じ上げており、この本が「文庫X」として話題になっていることも知っていました。ただ、新潮新書の『騙されてたまるか』などはすでに読んだことがあり、事件そのものも報道等で耳にしたことはあったので、本書をあえて読もうとは思っていませんでした。

 

今回、この本を読んだのはAmazonプライムビデオ「チェイス」の盗作・盗用騒動があったためです。渦中の本書がどんな本であるのか、実際に読んでみました。

www.shinchosha.co.jp

そうした動機で本書を読んだため、野次馬的な気分があったことは否定しません。また私は遺族をはじめとした関係者でもありませんし、新潮社や著者の清水氏とも面識等はまったくありません。著作権の専門家でもないですし、Amazonの当ドラマも視聴していません。

けれど、本書を読んだ身としては思うところがありますので、ここに記しておきます。

 

 

 

記しておきます・・・と書いておいてなんですが、はっきり言って本書の凄さを表現するのは非常に難しい。「文庫X」という試みもむべなるかなと思います*1

www.shinchosha.co.jp

だって、「文庫X」って何も言わずに売ろうというわけですから。宣伝文句としては敗北宣言ですよ。たしかにカバーに書かれている文章は、この本のために書かれた文章ではあります。でもその内容は要するに「良い本だから読んで」としか書かれていない。

ただひたすら「読んでくれ」というだけのものは一級のコピーでは決してないはずです。そういう売り文句は他の本にだって使えてしまいます。この本にしかない良さというものが伝わらない。もちろん企画としては上手くいったようですが、本書の魅力を伝えるにはどこまでいっても不十分なのです。

 

・・・・・・けれども、実際に本書を読んだ後だと、「とにかく読んでくれ」って言いたい気持ちが痛いほど分かる。本書はまさにそういう本だとしか言いようがない。

本書は、あるいは本書に綴られている一連の調査報道は、日本のジャーナリズム史上、ノンフィクション史上、間違いなく傑作です(傑作という言葉を使ってよいかは迷いますが)。だからこそ、本書にどんな推薦文を付けたとしても、その推薦文がどうしたって陳腐に感じられてしまうのです。

 

本書の第8章で、DNA型再鑑定で無実が明らかとなった菅谷さんが法廷の場で元検事に「謝ってください」と迫る場面があります。その様子を清水氏は「裁判ドラマが陳腐に見えるほどの迫力だ」と表現しています。

まさにその通りだと思うのです。この場面に限らず、本書を通して言えると思いますが、この本に記されている内容というのは、あらゆる裁判ドラマ、刑事ドラマ、探偵もの、検察ものを陳腐に感じさせてしまうほどのものです。

 

はじめは栃木県警だけだった壁が、再審請求を巡って裁判所や検察が登場し、科警研も立ちはだかって、国会でも取り上げられ法務省警察庁も動き出す。

死刑判決が再審で覆った事件は免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件などと数えるほどしかありません。そのなかでも本書に書かれている足利事件は「自白」と「DNA型鑑定」という2つの強力な証拠を突き崩さねばならなかったのです。しかもDNA型鑑定は本事件のみならず、他の事件の証拠能力にも関係するため、検察、科警研がそのプライドをかけて全力で死守しようとして来るわけです。

 

そしてここまでの書き方だと本書が足利事件について書かれた本だと誤解してしまいますが、本書は足利事件だけを追った記録ではありません。本書は当初から「北関東連続幼女誘拐殺人事件」を射程にしています。つまり日本の刑事司法上、大事件であるはずの足利事件の再審無罪というのは、本書にとって一里塚でしかないわけです。

 

信じられますか。

しかもこの一連の経緯は、ほとんど清水氏の取材班の孤軍奮闘の賜物なのです。取材源を当局に依存する他の報道各社・記者は後追い報道をしなかったし、できなかった。もし清水氏らが光を当てなかったら、小さな声はかき消されていたかもしれない。

アインシュタインがいなくても相対性理論は生まれていたでしょうが、清水記者がいなければこの事件がこの経過をたどることはなかったでしょう。別に清水氏がアインシュタインより天才だと言ってるんじゃありません。しかし物理学の最先端を研究しているのはアインシュタインだけじゃないはずですから、何年遅れることになるかはわからないですが、いずれ相対性理論は「発見」されていたでしょう。

一方で、この事件の場合は取り上げようとする記者なんてそもそもいなかった。清水氏の取材班が取り組まなければ、時間的に手遅れになっていたと言って過言ではありません。

 

まるでドラマみたいな展開だと思うかもしれません。でもドラマじゃないんです。これが現代の日本で起きたことなんです。そう思うと恐ろしくさえあります。

むしろドラマだったら大したことないんです。所詮フィクションだと笑い飛ばせます。それができないところが本書の強烈さです。

 

繰り返しになりますが、本書はあらゆるフィクションを陳腐化させるほどの力を秘めています。フィクションというのは本質的に事実には勝てません。

ミステリ作家の米澤穂信氏は「事実はリアリティを無視できる」ということを述べています。事実はリアリティになんて囚われないんです。

 

もし本書の内容がフィクションとして描かれていたとしましょう。

そしたら私はこれを一笑に付していたかもしれません。ストーリーとしては面白いかもしれないけど、リアリティに欠けるよね、と。

良くできた内容かもしれないけど、現実にはこんなこと起こりえないよね。もっとリアリティある話を書いてほしいわ・・・・・・

そうやって二流ドラマの烙印を押していたかもしれません。フィクションであるというのはそういうことです。

 

この本は、まさにこれが事実の記録であるということに重大な意味があるのです。それはフィクションなんかで絶対に伝えられないことなんです。

 

Amazonのドラマで本書の事件を知った人も多いでしょう。私のようにパクリ騒動が持ち上がってから本書を取り上げた人もいるかもしれません。そういう意味では「社会に問題喚起する」という目的があったのなら、それは一定成し遂げられたのかもしれません。

 

それでも私は、自分になにか言う資格があるわけではなくても、一読者として言わせてもらえるなら、このような形での映像化は許されるものではなかった。そう言いたい。

これはフィクションとして伝えるんでは絶対にダメなんです。映像化するのであれば、ドキュメンタリーかノンフィクションドラマでなければならなかった。

なるほどフィクションのほうが多くの人に伝わるかもしれない。でもそれではフィクションとして伝わってしまう。それは下手すると事実が伝わるのを妨げてしまうかもしれない。壮大なミスリーディングを生んでしまうかもしれない。今回の騒動のせいで誠実な形で映像化される機会が失われてしまったかもしれない。

 

フェイクニュースが叫ばれる時代だからこそ(というかそんな時代じゃなかったとしても)、この点は留意してほしかった。

 

そもそもこの事件は今も未解決なんです。ドラマはストーリーを完結させなければならないですが、この事件はまだ終わっていないんです。一体どういう結末にするつもりだったのやら。

 

 

どうもAmazonドラマを批判する形になってしまいました。肝心のドラマは視聴していません(視聴する気もない)ので、誤解も含まれているかもしれませんが、以上が本書を読んで率直に感じたことです。

 

 

 

 

 

*1:今回の件でAmazonに腹立たしさを覚えたのは事実。一方でAmazonで「文庫X」を検索するとちゃんと『殺人犯はそこにいる』がトップに表示される。こういう便利性の追求という点は認めざるを得ない