過労事故死
グリーンディスプレイの「過労事故死」を巡り、遺族と会社の和解が報じられました。通勤時の交通事故も過労が原因とされ、会社の責任を認める内容での和解となったことが注目されています。
「過労死」が社会問題になり始めたのが1980年代後半ごろから。「過労自死」については2000年代に入ってからだったと思います。それ以前は「突然死」とか呼ばれていたり、自殺は労災認定されなかったりという時代でした。
そう思うと、今回の「過労事故死」は「過労死」「過労自死」に続いて、過労による死亡がより広く認識されていく契機となるのかもしれません。
ただ、少し意外だったのは過労を原因とする事故って、これまで責任を問われてこなかったんだなということ。
労働基準行政のなかでは、交通災害の原因のひとつに過酷な労務管理があることは早くから認識されてきました。自動車運転者を使用する事業に対する監督は、他の監督に比べて重要視されてきましたし、運輸業の過労死認定が多いことは繰り返し指摘されてきたはずです。
交通戦争と労働基準行政
70年代は交通事故による死傷者数は年間100万人を超え、死亡者だけでも年1万人前後に達していました。「交通戦争」と喩えられたことは有名です。
労働基準行政においても、交通災害の防止に取り組まれたのは、その背景に働き方の問題があると認識されていたためです。
1966年5月の交通安全期間中には、自動車運転者を使用する事業場約3,000について全国的に調査的監督が実施されました。調査的監督というのは、監督官が事業場を訪れて監督する際に、併せて実態調査も行うものです。
『労働法令通信』19巻13号の記事によれば交通災害の大きな原因として、運転手に対する労務管理のあり方を問題視し、全国のトラック、ハイヤー・タクシー事業者に対し、労働時間・休日・割増賃金・安全衛生管理などを一斉監督したとのことです。
交通安全運動と合わせて一斉監督を実施するというのは、その後しばらく続きます。70年代から陸運行政機関と労働基準監督機関の相互通報制度が始まっていますし、件数は少ないですが、自動車運転者の就業中の過労運転事案について警察機関からの通報する仕組みもあったようです。
『労働行政要覧』にも毎年、自動車運転者を使用する事業場への監督結果が掲載されており、重点が置かれていたことが窺えます。
なお、労基による自動車運転者を使用する事業場への監督件数は、下の図のようになります。60年代末が一番件数が多いですが、これは前述したように一斉監督が広く行われたためです。