ぽんの日記

京都に住む大学院生です。研究とは関係ないことも気ままに書いていきます

残業税の可能性

小前亮『残業税』 

残業税 (光文社文庫)

残業税 (光文社文庫)

 

 

違法なはずなのになくならないサービス残業。それを撲滅させるためのひとつのアイデアが「残業税」=時間外労働税。

 

残業税で検索したら、そういうタイトルの小説があることを知ったので、手に入れて読んでみました。

サービス残業はもちろん今でも違法ですが、現実にはなかなか取締られていないと言ってよいでしょう。大きな理由の一つといわれているのが労働基準監督官の人員不足。人が足りていないせいで、十分な監督が行き届いていないと言われています。

 

もし残業税を導入するとどうなるか。サービス残業労基法違反となるだけでなく、脱税にもなります。

組織人員の面では、税務行政の職員がサービス残業の摘発に乗り出すというところでしょう。現在、労働基準監督官は4,000人ほど、その他の職員を含めても労働基準行政全体で1万人に届きません。一方、国税庁の職員数は5万人を超えています。

この辺りは作中でも若干触れられています。

労働基準監督官の権限は強力だが、いわゆるブラック企業対策としては、人員の不足などの理由で十分に発揮されていなかった。そこで、企業に強い税務署員と組ませようと考えたものがいたのだ。(pp.21-22)

 ただ、時間外労働税調査官という新たな役職が誕生していて、しかも労働基準監督官とペアで行動することになっているんですね。

労基署より税務署のほうが人数が多いと言っても、法人税のみを担当しているわけではないですから、実際のところどれだけ残業税の査察に人員を回せるのかという疑問はあります。

このあたりはストーリーの都合上こうなっているのかもしれませんが・・・・・・。

 

残業税という発想そのものは、突飛かもしれませんが、ありえない話でもないでしょう。ピグー課税の1種として政策的に導入することは不可能ではないのではと思います。雇用の分野では、雇用を増やした企業に減税する雇用促進税制もあるわけですから。

 

新たな税の創設となると反発も強そうですし、導入まで時間かかるかもしれません。より現実的にありうるとすれば、税務署と労基署で相互通報制度を設けることでしょうか。

税務署と労基署の関係について、元国税調査官大村大次郎氏は次のように述べています。

・・・・・・労働基準法違反を目にしたところで、労働基準監督署に連絡するなどということは絶対にありません。国税厚生労働省には、まったく協力関係がないからです。/もし法律の定めや役所同士の取り決めがないのに公務員が他の官庁に通報したりすれば、守秘義務違反となり罰を受けることもあります。だから税務調査で、労働状況が劣悪で違法なことを発見しても見て見ぬふりなのです。/もちろん労働基準監督署が脱税を見つけたとしても、国税に通報されることはありません。(大村大次郎[2014]『税務署の正体 』光文社新書p.29)

すでに陸運機関や出入国機関(外国人実習生)との間には相互通報制度が活用されています。一方、税務署との間にもこうした関係を構築するというのは一計ありうると思います。

 

税務署の正体 (光文社新書)

税務署の正体 (光文社新書)

 

 

投票は自己責任か

衆院選が終わりました。

投票率は戦後2番目の低さだったそうです。

 

投票率が低いことが問題視されるのは分かるし、投票に行ったほうが良いことは(投票していない人も含めて)百も承知なんですが、「みなさん投票に行きましょう」的な呼びかけはあんまり好きじゃない。単に上から目線のようで嫌なのかもしれないが。

 

「投票に行くべき」とか「投票に行かないなんて権利放棄だ」とか「不在者投票期日前投票もできる」とか、そういう呼びかけは政治的・社会的に正しいことなのだとは思う。

しかし特に学者などのインテリ層がそう呼びかけるのは違和感を感じる。

そうした呼びかけは、投票に行くか行かないかがすべて当人の意志で決まるかのように語っているように聞こえる。実際はそんなことはなく、投票日の天気が投票率を左右するなんて話はよく聞く。

 

社会学などの学問では、一見個人の自由意思に基づくように見える行動が、実は社会に規定されたり、影響を受けたりすることを明らかにしてきた。人間の行動がすべて当人の自由意思で決まるはずはなく、あるいは自由意思そのものが社会的に形成されたものだったりする。だから貧困を全て自己責任に帰することはできない、みたいな話はいろんなところで語られていると思う。

 

投票行動もまさにそうした行動の一つのはず。それなのに「選挙に行きましょう」的な言説は、投票に行くかどうかは本人の意思次第で、行かないのはそいつが悪い、おかしいみたいなニュアンスが含まれている気がする。

 

今回の選挙で以下のような報道もあった。

ウーマン村本「国民が政治に関心を持てるようにしろ」にツッコミ相次ぐ 「なんでこんなに受け身なの」と疑問の声も | キャリコネニュース

投票用紙にイラストを描いてSNS投稿する人は何を考えているのか 権利を行使しないのはもったいない | キャリコネニュース

 

なぜこんな現象が生じるのか。それこそ「社会現象」であったり、個々人の「合理的」行動でもあるはず。そういうのを語らないと「若者の政治への無関心」という図式にすぐ帰着してしまう。

 

いや、ひょっとしたら政治学の分野とかではなぜ投票率が低いか、向上していくにはどうすればよいかみたいな議論がものすごく蓄積されているのかもしれない。でもそうした話はあまり流れてこないし、結局は投票に行きましょうみたいな呼びかけに終わる。

そして選挙が終わると忘れられる。

 

いや、くだらない駄文を書きました。ただの戯言です。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の先行上映会を拝見。

うむ。期待以上だった。

 

原作が京都アニメーション大賞を受賞したとのことで、あらかじめ読んでいたんだけど。

どんなアニメになるんだろうくらいの気持ちだったのに、京アニはどこに向かうんだくらいの期待度に膨らんだ(違う意味にとられそうな表現だけど、期待度は凄く上がってます)。

 

原作を読んだ時点で、アニメとして注目したいと思った点は大きく2点。

ひとつは、どんな作画になるか。作中では戦争が描かれる。戦闘の場面も出てくるし、割とグロい、エグイシーンも登場する。最近の京アニ作品は高校を舞台としたものが多い印象なので、こういったシーンを京アニはどう仕上げてくるか、という点。

もうひとつは、作品の中身というよりは、このアニメそのものの世界性。今回は架空の世界が舞台(雰囲気は大陸ヨーロッパ?)。で、netflixで世界同時配信という。先行上映会もすでにヨーロッパなどで行われている模様。明らかに世界市場を意識している。日本市場だけでなく、はじめから世界を相手にする。そういう象徴的な作品になるかもしれない。

 

・・・・・・そんなこととか考えてたんだけど、上映会見た後だと、もう、単に作品の続きが気になる。原作をこういう形で構成し直してきたか、という興奮が冷めやらない。

原作は、主人公のヴァイオレットが不思議・謎多き人物といった感じで登場して、徐々にその姿が明らかになっていく。そんな印象。

けれどアニメは、ヴァイオレットがどういう風に成長、あるいは変わっていくかというテーマ性がよりはっきり打ち出されているように思える。

 

そうしたテーマが顕になっているのは、自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)という仕事の描かれ方。簡単に言えば、タイプライターを用いた代筆業。タイピストと言えば、NHK朝ドラの『とと姉ちゃん』も連想するけれども、タイプライターを速く正確に打てるかどうかが重要なスキル。

けれど、アニメのほうだと、コミュニケーションスキルの必要性が強調されている。ヴァイオレットはタイプライターは使いこなせるけれども、感情のない人形のような存在。だから自動手記人形の仕事をこなしていくためには、内面性、精神世界を充実させていかねばならない。

 

少なくとも1話と2話を見る限り、挑んでいるテーマは、人間の感情とはどういうものか、愛とはなにかという、大きくて普遍性あるテーマ。2時間の映画では描けないような、1クールを通じての細やかな変化を描いていくのだろうと思われる。

そして2話目にしてすでにアニオリ要素が強い。原作がどう化けるか。原作を読んだからこそ余計気になる。そんな作品。

 

 

 

 

『バッタを倒しにアフリカへ』

前野 ウルド 浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』光文社新書 を読みました。

 

いや、非常に面白かった。いまどきファーブルに憧れて昆虫学者になるような人が本当にいるんだな、というのも驚き。

もちろん、夢や憧れだけで研究者になれるわけではなく、困難を乗り越える多大な努力も必要です。この本の中でもお金や就職の問題は常につきまといます。

 

そもそもバッタの研究なんて需要があるのか。バッタ研究者として雇ってくれるところがあるのか。

最近だとヒアリが日本に上陸したことが騒ぎになりましたが、そうした被害があるときでない限り、昆虫学者はなかなか出番がありませんから。実際日本ではバッタの被害はほとんどなく、バッタ研究の必要性は乏しい状況。

 

そこでどうしたかというと、バッタ被害が深刻なアフリカ・モーリタニアへ行くという決心をしたわけです。

簡単な道のりではないのは容易に想像つきます。無収入のリスクを背負い、現地語やフランス語をほとんどしゃべれないのに飛び込んだわけですから。

 

なんども逆境にぶつかりながらも前に進んで行くのですが、単なる成功譚とはちょっと違う印象を受ける。語り口が非常に面白い。すごいことをしている人なのに、失敗やおっちょこちょいなところとかも書かれているので、親近感がわく。自らを鼓舞させようと発する言葉は真剣なのに笑えてしまったり。

 

まだまだこれから活躍されていく方でしょうから、自伝というのとはちょっと違うでしょうが、一人の人間の生き方として、面白いし参考になる本だと思います。

 

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 

 

沢村凛『ディーセント・ワーク・ガーディアン』

労働基準監督官を題材としたフィクションと言えば、ダンダリンが真っ先に思い浮かぶかもしれませんが、こちらも労働基準監督官を主人公とする小説です。

 

 

主人公・三村が労働基準監督官。その友人・清田は警部補。

本の紹介を読むと「お仕事小説」と書かれていたりしますが、時に殺人、時にアリバイ工作なんかも出てきて、ミステリと言ったほうが良いかと思います。

 

そうしたいくつかのエピソードを挟んだ後、三村がある人物の陰謀の対象にされてしまいます。労働基準監督官分限審議会にかけられて、罷免されそうになってしまうのです。

分限審議会というのは労働基準法97条の5項に規定されているもの。これは政治家などからの圧力や干渉から監督官を守るための規定です。国家公務員の身分を保障し、不当に辞めさせられることがないようにするための制度が設けられているのです。

しかし本来監督官の身分保障を担うはずの分限審議会が、逆に悪用されようとしてしまいます。

 

三村は周囲への迷惑を考えて、自ら辞めようとします。しかし働く者を守るべき監督官が、不当な理由で職を追われてしまってよいのか。最終的に三村は不当な圧力に闘い続ける決心をします。

 

このクライマックスの部分は、読んでいて目頭が熱くなりました。・・・・・・電車の中で読んでいたので、こんなとこで泣きたくないなと、こらえましたが。

 

この作品は監督官の仕事がどんなものか伝えるとともに、読み物としても面白い内容になっています。

監督官が書かれた仕事紹介や、あるいは監督官の小説はほかにもありますが、フィクションとしてはこの作品が屈指の面白さではないでしょうか。

もちろん、実際の業務について詳しいのは現役の、あるいは元監督官の方々でしょうが、物語の見せ方はこちらのほうが上手い。リアリティを保ちつつ、事実を超えた想像力があるためでしょうか。

 

 

アニメ聖地88を人口順に並べてみた

ただ思いついたからやってみただけです。

聖地巡礼がコンテンツツーリズムとして注目されてるけど、じゃあその舞台となっている街は、どれくらいの規模なんだろうかと。

 

shadan.animetourism88.com

本当はアニメの時代設定とかに合わせるべきなんだろうけど、めんどくさいので「平成27年国勢調査」で済ます。

えっと、アニメ聖地88となってるけど、88ヶ所じゃないんだ……

 

とりあえず上位30か所。

f:id:knarikazu:20170827143727p:plain

 

このうち、『秒速5センチメートル』と『ROBOTICS ; NOTES』は西之表市の数字です。種子島だと15,967人です。

艦隊これくしょん ‐艦これ‐』もむつ市の数字で出しています。ちなみに大湊町だと653人だそうです。

打ち上げ花火、アニメから見て、実写を見て、ノベライズを読む

どのルートを選択するか

公開中の映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を見てきた。

この作品は、ループもの、あるいはマルチエンディングとして楽しめる。もちろん、それは登場人物たちがどういうルートを選ぶかという物語なのだが、それは同時に制作者の側がどういうストーリーを選択するかということでもある。

 

この作品は実写版、アニメ版、そしてノベライズといくつかのパターンが存在しているので、作品群自体がマルチエンディングとして考察できる。

この作品に限らず、オリジナルとそのリメイクやノベライズ作品を比較するのが、個人的には結構好きだったりする。どの部分を変え、どの部分を変更しないか。そうした箇所に注目していくと、制作サイドの意図や考えがより理解しやすい。複数の視点から作品を眺められる気がする。

 

視聴・鑑賞したのは以下のもの。実写版はアニメ版を見た後に見たくなって、TSUTAYAに行って借りる*1

 

アニメ版:新房昭之総監督、シャフト制作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?

実写版:岩井俊二監督『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(1993年)

ノベライズ:岩井俊二少年たちは花火を横から見たかった』(2017年)

 (アニメ版の脚本を担当した大根仁氏によるノベライズもあるが、そちらは未読。以下、岩井氏のノベライズは『横から見たかった』と略す)

 

各作品の位置づけ

最初に系譜的な覚え書き*2

 

まず、実写版は1993年にテレビドラマとして放映されたもの。監督・脚本は岩井俊二氏。

小学生が駆け落ちするという構想自体は、岩井氏が大学在学時に思いついていたものだという。フリーランスで仕事中をするようになった後、そのアイデアをもとにプロットを書く(タイトルは『檸檬哀歌』)。しかし企画は通らなかったため、映像化は実現していない。

 

再び映像化の機会が巡ってきたのが1993年で、『ifもしも』というシリーズドラマの1つとして依頼された。主人公が2つの選択肢を迫られるのだが、ドラマとしては両方の結末を描くという、マルチエンディング。

ただ、岩井氏自身はマルチエンディングという企画に違和感を覚えていた。肝心の分岐点を作者が決めないのは、物語を未完成で提示するような感覚だったという。そこで氏は、物語を群像劇として描くということを思いつく。群像劇なら主人公が選ばなった選択肢を主人公以外の人物に選択させて描くことができる。こうして元となる脚本を書いた(この時のタイトルが『少年たちは花火を横から見たかった』)。

ただし、そうして書き上げたものは“ifもしも”という企画から外れてしまう。タイトルも『○○○○、□□するか、△△するか』というルールがあったが、それも無視した形に。プロデューサー・石原隆氏は今回の企画としては見送って、2時間ドラマでやらないかと提案された。しかし岩井氏はその提案を断り、企画に合うように書き直した。

こうしてできたのが実写版の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?*3

 

そして、川村元気プロデューサーからアニメ化の申し込みがあったのが今から2年前*4。映画の打ち合わせが終わったころに、川村氏からノベライズを書いてくれないかと依頼されたという。岩井氏は、かつて書いた2つのプロット(『檸檬哀歌』と『少年たちは花火を横から見たかった』)を融合させる形でそれを完成させた。それが今のノベライズ版というわけである。

 

離ればなれの物語として

最初に一般論として感じていることを、少し。

男女が離ればなれになる、あるいはすれ違いが起こる。そうしたストーリーは今でもあると思うが、単純に距離が遠くなってしまうという話より、近くにいるのにすれ違ってしまうという話のほうが、現代では共感を得やすいように思われる。

 

今やケータイ、スマホで24時間つながっていることが可能な社会。高校生、中学生であれば電車や夜行バスでそれなりに遠くに行くこともできる。遠距離恋愛というものは昔よりずっと容易になっていると言えるだろう。

そうなると当然、物語としての描き方も変わってこざるを得ない。新海誠のすれ違いの描き方も、現代でも共感を得られるよう工夫していると言える。

 

『打ち上げ花火…』で言えば、実写版から今年までに実に24年経っている。

ストーリーの根幹としては、ヒロイン・なずなが引っ越してしまうという状況に、主人公・典道、あるいはその親友・祐介の様子を描くというもの。

時代が変わってしまえば、引っ越しや転校という事態に対する感じ方・考え方も変わってしまう。

 

で、24年の時を経てアニメ化したわけだが、話の幹自体は大きく変わっていない。だからと言って決して第一印象として古びたイメージを受けなかったのは、良い点だったと思う。

 

それぞれのルート

24年前に実写作品があり、それが今年になってシャフトによるアニメ化と、岩井氏自身によるノベライズがあった。だから比較としては、実写とアニメ・ノベライズという形が分かりやすいかもしれない。

アニメ版

アニメならでは、あるいはアニメでないとやりにくい表現が駆使されていたのは、アニメ化の良い要素。幻想的なシーンの表現とか、走る泳ぐのときの躍動感やスローモーション、水中から見たシーン。独特のカットの取り方や目による演技などは、シャフトっぽいと感じる部分でもあった。

 

ストーリーや展開としても、実写版より主人公・典道の意思が表現されているように思う。アニメを見た後に実写版のほうを見たせいもあるのかもしれないが、元の実写版だと、正直、典道の行動に主体性が感じられない。ずっとなずなに引っ張られている印象で、下手すると典道がなずなのことをどう思っているのかもよく分からない*5

アニメ版は前半は実写版にかなり忠実に沿っているが、後半部分はほとんどオリジナル要素が強い。自転車に乗って駆け出すシーン、“もしも玉”を投げるシーン、ループ要素が強くなっている分、典道がなずなのために行動する場面が目立つようになった。

 

あとは音楽や挿入歌の入る場面もすごく良い。

実写版でもラスト近くで「forever friends」が流れるが、アニメ版はもう、いろいろバージョンアップして盛り上がれる感じ。

 

以上のような演出や音楽が逆に、豪華、華美すぎる(?)と感じないでもない。

引越しのせいでしばらく会えなくなってしまうなずなが、最後にひと夏の思い出を作ろうという物語にしては、盛り上げ過ぎなのではないかと思ってしまう。

 

実写版との設定の違いとして、年齢設定がある。実写版では小学6年だが、アニメ版では中学生。実写のキャストは、下は小3、上は中3だっというから、そのほうが極端かもしれない。

中学生設定にしたのはアニメ表現上の都合もあったと聞いたが、もともと大人びていたなずながさらに大人びている。この変更は決して些細なものではない。

作中で「女の子はどこ行ったって働けると思うの。年ごまかして、16歳とか言って」というセリフが出てくるが、少なくない観客が「?」と思ったに違いない。普通に高校生くらいに見えてしまうから。

なにより実写よりなずなが色っぽい。シャフト的な演出も加わって、エロさが増している。それが儚く淡い、プラトニックな恋という印象を疎外しているとするなら、少々残念ではある。

 

ノベライズ『横から見たかった』

ドラマから24年越しとなる、岩井氏自身の手によるノベライズ。

ストーリーは実写版に比較的忠実だけれど、前日譚として花火大会より前の日のことが書かれている。正直、実写のほうは典道がなずなをどう思っているのか分かりにくい気がしたが、ノベライズはなずながどういう存在かが十分伝わってくる。

 

このノベライズ版の最大の特徴は、ループ、マルチエンディングを回避している点だ。これはドラマともアニメとも異なっている。“ifもしも” “もしも玉”というギミックを使っていない。

ドラマの企画上取り入れた要素が、あるいはアニメらしい表現となっている要素が、このノベライズ版では抜かれている。この変更は好感を持てる。ストーリーとして、より洗練された印象だ。タイムリープやループものに少々うんざりしている人でも楽しめる作品となっている。

 

もうひとつ小説の良さとして、内面の心理描写が挙げられる。

実写版だけだと、なぜそんな行動を取ったのか、すぐには分からない部分があった。ノベライズは、主人公・典道の回顧録的な体裁で書かれているので、典道の気持ちが率直に記されているし、友人たちの気持ちについても、典道が推測する形で書かれている。

あんまり気持ちを地の文で説明しすぎてしまうのは野暮ったいかもしれないが、実写版やアニメ版よりもすんなりと感情移入できたのは事実だ。

 

また回顧録のような書き方となっている点も、小説ならではの要素で面白い。いつの時点から回想しているかは明示されていない。少なくとも典道が高校生以上になっている時点から書かれている。ドラマから24年経ったことを考えると、大人になった主人公が少年時代を回想しているともとれる。

こうした回想という形式を取っていることが、この作品や岩井氏と重なってくる。ドラマから24年。着想の段階からだと32年の歳月。典道が過去を振り返る物語であると同時に、岩井氏が当時を思い出し、脚本・シナリオとしてどう決着をつけようとしたかの物語としても読むことができる。

 

スマホのない、ある田舎の物語。現代の物語という意味で言えば、今の都会の若い子は共感しにくいかもしれない。その点、回想として書かれている小説のほうが、ジュブナイル小説として違和感なく読めるかもしれない。

 

複数の結末

ストーリー上も複数のラストを考えられるが、作品自体も実写、アニメ、ノベライズ(『横から見たかった』)と存在するので、マルチエンディングと捉えることもできる。

 

なずなが離婚や転校のことを話すか否か。そして典道(あるいは典道の親友の祐介)が転校の事実を知っているかどうかで、3パターンの展開が存在する。

①なずなは転校のことを誰にも話さない。典道たちも転校の事実を知らない。

②なずなは転校のことを話さない。しかし典道は転校してしまうことを知っている。

③なずなが転校や離婚の事情を打ち明ける。

 

実写、アニメ、ノベライズは、この3つのパターンのいずれかを取っている。

どの展開を取るかで、物語のクライマックスから受ける印象は変わっている。個人的な感想としては、アニメ版も『横から見たかった』も、実写版より良くなっていると思う。

アニメとノベライズ、どちらが良いかは人によるだろう。

アニメ版では、別れの寂しさが残る一方で、ハッピーエンド感も漂わせている。ストーリーを盛り上げるうえではこのほうが良いかもしれないが、2つの感情が共存するので、ちょっともやもやが残るかもしれない。

『横から見たかった』のほうは、より一層切なさがある。典道の回想であるため、2人のその後や典道の現在にも、必然的に想像を促されてしまう。

 

アニメから見るかノベライズから読むか?

どちらを選んでも、それぞれの物語として、マルチエンディングを楽しめるようになっている気がする。

 

 

 

*1:原作ドラマとその編集版の映画がどう違うのかはよく知らない。それから1999年にはセミドキュメンタリーとして「少年たちは花火を横から見たかった」が制作されていますが、以下のノベライズ作品とは別と思われる

*2:記述は『横から見たかった』あとがき参照

*3:タイトルを『打ち上げ花火、横から見るか?正面から見るか』としていたが、実際に子どもたちが見る角度には正面がないので、典道の見た「下」と祐介たちが見た「横」が採用されて、このタイトルになった

*4:その際、岩井氏の側から大根仁を脚本に提案。

*5:なずなが典道に対して「わたしがちゃんと養ってあげるから安心してよ」というセリフさえある