ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

「Long Long Love Song」制作日誌、時々入院

 麻枝准×熊木杏里「Long Long Love Song」

初回盤を買うと麻枝さんの制作日誌がついてきます。

 

前半は闘病日記さながら。

助かる確率2割と言われながら奇跡的に助かる。人工心臓を外す9時間以上にわたる手術も経験し、入院中の体力の低下の様子なんかも綴っています。

 

作曲や曲の選定過程ももちろん記されていて、いろいろあるんだなと推し量れます。

去年入院前に用意していた13曲から、結果的に7曲も差し替わった。

最後に熊木さんの声質を生かせる曲をもう1曲書く!という執念から『きみだけがいてくれた街』も生み出した。

この13曲決まるまで、たくさんの紆余曲折や挫折や苦悩があったけど・・・・・・これでよかったですか?

よかったと言ってくれるなら、おれは満足です。

(2017年1月11日)

 

自らを「オワコン」と称するなど、自己嫌悪というか、自己肯定感の低さが全体的に漂っていて、それが闘病の様子とかとも妙にリンクして、身につまされるような気がします。

想像以上に興味深く読むことができました。

 

Long Long Love Song(初回生産限定盤)(DVD付)

Long Long Love Song(初回生産限定盤)(DVD付)

 

 

 

労基署による、生産計画への指導

労働基準監督署は、臨検監督の際、法違反を指摘する是正勧告だけでなく、指導・助言を行うこともある。

 

具体的には、

①法違反を是正するためにどういう措置を講じたらよいかを明らかにするもの(例、プレス機械に使用停止措置を講じただけでは事業者はどうしたらよいのか分からないので、ゲートガード式の安全囲いの取付、シートフィーダーの採用等を指導する)

②法律に規定されているものの義務規定ではなく、努力義務規定であるもの

③法令に規定されていない事項であっても良好な労使関係、より良い労働条件あるいは快適な安全衛生環境実現のために指導するもの(例えば、労働福祉向上のための指導(セクハラ、THP等))

(全労働省労働組合[1994]『労働基準行政職員の職務』p.20。見やすいように改行を入れた)

 

是正勧告が労基法関係法令に抵触するものに限られるのに対し、指導は法令に規定されていない事項に対しても実施されているというのが興味深い。

指導事項に関する統計資料はないようだが、過去の事例を参照できる。

 

1980年ごろ、主に共産党が主導して、「大企業黒書」運動というものが行われた。大企業の労働実態を調査・告発し、労働省労働基準監督署、県の労働部などに対処を求めたものだ。神奈川から始まり、他の県にも広がった。

注目されるのは、監督機関が企業の生産計画にまで言及する例があったことだ。

神奈川では、1981年2月神奈川労働基準局局長が「恒常的な長時間労働や年休取得を不可能とする出勤率を前提としている生産計画を、是正させる強力な指導を進めていく」と発言。「京都・西陣では劣悪な労働条件を恒常化させていた生産計画をも是正させてきた」と強調し、「生産計画には当然、出勤率や人員計画までふくむ」とし「あらゆる工夫をして生産計画の調査にあたりたい」と明言した。

静岡では、1981年に工場ごとの『黒書』運動の第一弾として鈴木自工磐田工場に対して、29項目の改善要請事項が申告された。82年2月、監督署が勧告5件、指導10件、助言3件を行ったことが公表されたが、労働時間の短縮については、国の方針に基づき生産計画の見直しを行い、その短縮に努めるよう指導されている。

同様に埼玉でも、県内23大企業の事業場に対して、25件の勧告、26件の指導がなされている。そのうちキャノン電子(秩父)に対しては、コンベヤーのスピードアップによる労働強化について是正指導をしている(ラインをスピードアップさせたことにより休憩時間が奪われているとの申告があった)。

 

労働基準監督署が企業の生産計画やコンベヤーのスピードに対してまで口出ししているというのは、不思議な気がする。しかし生産計画のあり方が労働条件に強く関係していることを踏まえてのことだろう。

そして、労働側による生産管理の規制というのは、本来労働組合が担うべきであるにもかかわらず、それが機能していないために労働基準監督署が身を乗り出さざるを得なかったことを示しているとも言える。

 

(参考)

小林豊「労基局が生産計画の是正指導も(「電機黒書」その後の闘い)」『労働運動』(194)、pp.44-50、1982

木村昭男「労働者の変化示した役選」『労働運動』(202)、pp.68-73、1982

秋元末光「憲法労基法無視の大企業を告発」『労働運動』(181)、pp.109-114、1981

――「51件にのぼる法違反勧告指導事項が……」『労働運動』(193)、pp.45-52、1982

『文庫解説ワンダーランド』

斉藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)を読了。

 

文庫解説ワンダーランド (岩波新書)
 

 

 

なかなか面白く読めた。ほとんど全編にわたって楽しく読める。

本書は文庫本の巻末についている「解説」について論じたもの。いわば解説の批評。扱っているジャンルは名作と呼ばれるものから、青春小説やミステリ、翻訳に至るまでさまざま。

同じ作品であっても、異なる文庫に収録されれば違う人物が解説することもある。あるいは新版が出版されれば、解説者が変わったり。そうすると同じ作品であっても複数の解説が存在したりするわけだけど、それを読み比べていくとこうも面白いとは。論者によって、時代によって、解説の内容が変わる。ものによっては全く正反対の観点で書かれていたりして、読者を新鮮な世界に誘う。

 

解説というのは、一応目を通すけれども、そこまで気に留めないという人も多いかもしれない。しかし本書を読むと、解説がいかに本に輝きを与えているか、あるいはその逆か、ということを考えずにはいられない。解説は単なるおまけなどではなくて、もっとも近くにある批評なのだと。

 

本書で解説されている作品は読んだことのないものが多いけれど、それでも本書は読みやすいし、もとの作品を読んでみようという興味が湧く。優れた解説がある一方、そうでない解説に対しては鋭く切り込む。

奥付を見て思い出したけれど、本書の著者は『文章読本さん江』を書いた人。この本は以前に読んだことあったけれど、やはりざっくばらんに語り口が面白かったのを覚えている。

 解説の妙を見せられたようで、満足できた1冊だった。

文章読本さん江 (ちくま文庫)

文章読本さん江 (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

労働法違反率の推移

 数年前の本ですが、『日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?』という本があります。タイトルが示している問題提起は、重要な問題でありながら意外と語られることが少ないような気がします。

 

本書は日本型雇用や労働組合や労基署などの関係性を見ていって、メカニズムを明らかにしようとしていますが、そもそもどんな違法がどれだけの件数起きているのか、それが歴史的にどう推移していったかというデータが示されているわけではありません。

 

違法の実態を示す統計があるのかと言われると、たしかに答えにくい。労働条件や働き方を調査した公的統計はあっても、違法状態があるかどうかは尋ねませんからね。

 

はっきり違法件数をカウントしているのは、やはり労働基準監督署の統計ですが、当然ながら労基署が監督に入った企業のみの結果となります。定期監督というのは、違法の疑いが強い企業を選定しているはずです。サンプリングバイアスがあると考えれば良いかもしれません。

とはいえ、違反状況の推移を大規模なデータで追えるのは貴重だと思います。

 

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『労働基準監督年報』の資料からは、業種別に定期監督の違反状況が判るので、それを示しています。ひとつにまとめると非常にごちゃごちゃしているので、とりあえず3つに分けました。「計」とあるのは、業種全体の違反率です。官公署は監督件数自体が少ないので、0%と100%を行ったり来たりしています。

1956年のところで線が途切れているのはデータに断絶があるためです。詳しいことはまた後日書くかもしれません。

 

業種別にたしかに状況は違うのですが、全体的傾向としては60年代半ばから徐々に低下していたのが、90年代以降上昇に転じていることでしょうか。

下に気になりそうな主な業種を取り出してみました。飲食店などは接客娯楽業、病院・社会福祉施設などは保健衛生業に入ります。

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サンプルが偏っているとしても、やはり違反率が高いというのは、実感通りという感じでしょうか。

 

なぜこのように違反率が推移しているのか、ということは一言では答えられない論点です。

法違反の状況には少なくとも3点考える必要があるかと思います。経済情勢や労務管理のあり方の変化など、企業・会社側の要因。法改正や新法などの立法側の要因。そして、労働行政や現場の監督機関の運用の変化など行政的要因。

 

そもそも監督に入る件数が変われば、つまり分母が変われば違反率も当然変化します。

業種別に定期監督件数を見たのが下の図です。かつては製造業が多かったですが、現在だと建設業のほうが上回っています。商業も増えてはいますが、第3次産業は全体的に少ない件数です。

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90年代以降違反率が上がっているのは、そもそも定期監督の件数自体が減っているということも関係しているかもしれません。

業種別に違反率に差異が見られましたが、こちらは法の適用の違いが想定されます。週40時間制が完全実施される前は、業種別に特例がありましたから、90年代後半に違反率が跳ね上がっている業種は、それが関係しているのかもしれません。

この時期は裁量労働制の導入なども含めて、ほかにも検討すべき点が多いでしょう。資料からは条項別の違反件数なども判明するので、それらを確認していけば実態が浮かび上がってくるかもしれません。

榊原富士子・池田清貴『親権と子ども』

表題の本を読みました。新書ながらかなり詳しめに記述されていると思います。具体例・ケースも多く紹介されているので、難解でとっつきにくいという本ではありません。

 

親権と子ども (岩波新書)

親権と子ども (岩波新書)

 

 

 

体罰が虐待であること

個人的になるほどと思った箇所をメモしときます。体罰は虐待かどうかという部分です。

ケースとして紹介されているのは、親子連れで遊びに行った際に、息子が友達に悪ふざけしてしまい、それを母親がしつけのために頬を平手でたたいた、というものです。

著者は森田ゆり『しつけと体罰』を引きながら、体罰の6つの問題を指摘します。

体罰は、それをしている大人の感情のはけ口であることが多い

体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である

体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法がわからなくなる

体罰は、しばしばエスカレートする

体罰は、それを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与える

体罰は、ときに、取り返しのつかない事故を引き起こす

 

これらの観点に則して、紹介したケースの問題点が検討されていきます。そして母親がした叩くという行為は身体的虐待であると結論付けています。

 

興味深いと思ったのはその後です。これくらいの行為を虐待と言うのは言い過ぎじゃないか、という読者に対する、あらかじめの反論です。

 

親が子どもを一度たたいただけで虐待だとするのは、過激な結論ではないか。著者は、そう考える読者がいるとすれば、この程度のことで虐待だと言われ、児童相談所などが介入するのはおかしいのではないか、という「ひっかかり」にあると言います。

そうした「ひっかかり」が生じるのは、家庭の自律は尊重すべきという考えがあるからです。親は原則として自由に子育てを行うことができ、行政機関の介入は一定の深刻なケースに限るべき、ということです。

 

しかしだからと言って、体罰を法解釈の段階で適法だとしてしまうことはできないと著者(池田)は言います。その程度の「しつけ」がしばしば見かけるようなものであったとしても、やはり民法の考え方に照らせばそれは体罰であり、違法であると。

 

 この記述を読んでいて想起したのは、労働基準法・労基署と企業の関係です。

企業内においても、労使自治が原則として尊重され、やはり国家機関による過度の介入は控えられるべきだという風に言われます。

しかし程度問題としてはどう考えるべきなんでしょう。大企業であってもサービス残業やセクハラは存在しています。それらが深刻でないとは思いません。自治や自律を重視するというのにも一定の線引きは必要なはずです。労基署がなかなかやってこないというのは、その人員体制が不十分であるからだと思いますが。

 

ただ、労基署も児相も共通しているところがあるように感じました。

 

親権は母親か父親

 もうひとつ、未成年の子どもがいる家庭が離婚したとき、親権がどちらに帰属するかという問題。

 

そもそも戦前は父親が単独の親権者となる仕組みになっており、戦後すぐも、女性が一人で子どもを育てていくことは容易ではなく、父を親権者、母を監護者とする方法も少なくなかったそうです*1

 

そのあたりの事情がどのように変わっていったのかは、もう少し詳しく読みたかった部分です。

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上のグラフは日本の離婚件数と離婚率の推移を示したものです。下のグラフは戦後のものですが、離婚の際の親権の帰属がどうなっているかという件数を示したいます。

 

徐々に低下していた離婚率が、60年代に入って以降上昇に転じます。そしてその内訳をみると、増えているのは妻が親権をおこなう場合が圧倒的に多いのです。

親権に対する考え方、あるいは子育てに関する考え方が離婚の動向とも密接に関わっているのではないかと思えます。

 

本書の叙述では、徐々に母親が親権者となることが定着していった、と書かれています。ただ、離婚に対する考え方そのものが大きく変わっているのではないか、離婚率が上昇していることに親権が関係している(あるいはその逆)のではないか、というところまで踏み込んで解説してほしいと個人的に感じてしまいました。(まあ、本書のテーマからはみ出ることに関して詳しく記述を求むというのがおかしいのですが)

*1:親権は子どもに対する身の回りの世話、教育、財産の管理のための権利や義務のことですが、そのうち世話・教育の部分を取り出したものを「監護」と呼んでいます。

産業医の数

大室正志『産業医が見る過労自殺企業の内側』に以下の記述がありました。

この頃、大企業を中心に企業内診療所を開設することが流行しました。バブル当時、企業内診療所は軽井沢や伊豆の保養所などと同じく、大企業のステータスシンボルと考えられていたふしがあります。

この時代は現在よりもメンタル不調の問題は顕在化しておらず、製造業以外では検診の事後措置や福利厚生としての診療所業務が産業医の主な仕事と考えられるようになりました。夜勤もなく企業内で診療所を与えられる大企業の産業医は、近所の大病院を定年退職した医師の「天下りポスト」として、また産休明けの女性医師などにも人気の職になりました。(p.24-5)

 

医師は激務のイメージが強いですが、産業医は比較的ゆるやかであるということでしょう。

 

厚生労働省の『医師・歯科医師・薬剤師調査』(通称、三師調査)では、2002年以降産業医業務の従事者数が調査されています。

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この数字は主たる業務(=もっとも従事している時間が長い業務)が産業医である医師の人数です。産業医のほとんどは臨床医が兼務しているそうですので、主たる業務が産業医だという医師の人数はまだまだ少ないですね。それでも年々増加傾向にあることは読み取れます。

 

現在、女性医師の割合は3割ほどとなっています。女性医師そのものの数が少ないので(医師数全体に占める女性医師の割合は2割ほど)、産業医に就く女性医師の数は比較的多いと言えます。

40代前半以下だと女性の割合がさらに高くなって、4割ほどを占めます。

 

産業医を兼務している人がどれくらいいるかも知りたかったですが、そのデータは三師調査にはありません。事業場規模が50人以上なら1人、3001人以上なら2人の産業医を選任する義務があるので、経済センサスなどから考えれば16万人くらい産業医の数がいてもおかしくはありません。複数の会社を兼務する産業医が多いはずですので、実際の人数はもっとぐっと少ないでしょうが。

 

 

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)

 

 

 

『言の葉の庭』と『君の名は。』に見る進路問題

※以下、ネタバレを含みます。記述は小説版を参考にしており、とくに『言の葉の庭』はアニメ版と小説版で大きく差異があります(アニメで描かれていない部分が小説版では書かれています)。

 

前回、学費の話をしたので、そのついでのついでです。

 

kynari.hatenablog.com

 『ブラック奨学金』を読みながら、本書の内容とは直接は何の関係もありませんが、ふと新海誠『小説 言の葉の庭』を思い出しました。主人公の進路選択の悩みの一つに学費の問題が多少なりとも出てくるので。

 

せっかくなので、同じく新海誠の『君の名は。』とちょっとだけ比較しつつも、進路問題の見てみようと思います。

 

 

両作品における恋愛の位置づけ

言の葉の庭』も『君の名は。』も、男女の出会いというのが作品の重要なモチーフとなっていることは共通していると思います。

しかし両作品では、その位置づけが大きく異なっていると言ってよいでしょう。

 

言の葉の庭』は高校生の秋月孝雄*1と高校教師の雪野百香*2の出会いが描かれます。

簡単に書いてしまうと、この2人の出会いはそれぞれの成長のきっかけの役割を果たします。秋月孝雄にとっては、靴職人を本格的に目指す契機となりましたし、雪野先生は再び教師として歩み出すことになります。

 

一方で『君の名は。』の場合は、男女2人の出会いはきっかけではなく、ゴールとして描かれます。もちろん、最後のクライマックスに至るまでにはいくつか山場がありますが、やはり最後の再会こそが重要なのでしょう。

2人は入れ替わっていた記憶さえ消えています。しかしぼんやりとお互いを探し求めていて、2人の「運命の出会い」が実現したところで物語は終わります。

「運命の出会い」というのは、その2人が遠く強く引き離されているほど、劇的なものとなります。『君の名は。』の2人は、地域(都会と地方)、時間(3年前と現在)、生死(三葉は1回死んでます)、記憶(お互いの名前さえ覚えていません)と4重に2人の距離が隔てられているのです。新海監督はこれまでも男女のすれ違いを描いてきましたが、これほどの男女の隔たりは後にも先にもないでしょう。

 

でも逆に言ってしまえば、運命的な出会いというものがゴールになってしまっていて、出会いをきっかけに成長する、変わるという物語ではありません。

 

 

言の葉の庭

言の葉の庭』の秋月孝雄は恋をきっかけとして、靴職人を目指すと決心します。もちろん、そこにはお金の問題が付きまといます。深く描写されるわけではありませんが、彼の家庭は母子家庭でもあり、親の援助などあまり当てにできない状況だったと言えます。

そこで目指されたのはアルバイトをしてお金を貯めるという道です。

恋によって弱くなるのではなく、恋によって俺は強くなるのだ。脳がすり切れるほど考えつくしたその果てに、孝雄はそう決心した。・・・(略)・・・

だから夏休み中、なるべく多くの時間をアルバイトに割いた。・・・(略)・・・稼いだ金の7割を貯金し、高校卒業後の学費に備えた。靴の専門学校に行くつもりだった。残りの3割は靴作りの材料費に充てた。(p.285)

 

小説では、専門学校にいくらかかるかという部分も記述されています。

試みに取り寄せてみただけの靴専門学校のパンフレットだったが、そこに記された2年間の総授業料220万円という数字を見て、しかる後に高校3年間のバイトで貯められるであろう金額を約200万と皮算用し、え、これ以外にイケるんじゃないか、と妙に気持ちが大きくなっていったのだ。(p.124)

 自分の記憶違いかもしれませんが、アニメのほうだとパンフレットが一瞬だけ画面に映るだけで、それに対する主人公の反応ももっとネガティブだったような気がします。

 

2年間で220万円というのも、専門学校の授業料としては相場くらいだと思います。

専門学校の学費は安いみたいなイメージを持っている人もいますが、実際そんなに安くありません。ただ修業年限が短いので、4年間大学に行くよりも負担が軽いというくらいです。

 

さて、本人は強く靴職人の道を進もうとしますが、周りからは反対されます。母親は自由放任的な感じで、むしろ状況を楽しんでいるようですが、兄や担任の先生からは反対されます。また母親も積極的に応援しているいうよりは、本人任せにしているといった風ですので、学費や学校選びの問題は本人が1人努力するといったように描かれます。

 高校2年の終わりあたりから、孝雄は自力で卒業後の進路を探りはじめた。国内の靴専門学校の説明会にいくつも参加し、実際の靴職人にも会いに行って話を聞いていた。私(注―秋月怜美。孝雄の母)も頼まれて、馴染みの靴工房を一つ紹介した。多くのプロに話を聞くほどに、留学への意志は固まっていくようだった。フィレンツェ市内の大学に入っているイタリア語学校にいくつかあたりをつけ、イタリア語で資料を請求して吟味し1校に絞り、アルバイトで貯めた入学金を送金して、既に来年からの入学許可証を手に入れていた。半年間その語学学校に通った後、アートカレッジを受験するつもりなのだという。そういう手続きすべてを、彼は高校に通い中華料理屋でアルバイトを続けラジオ講座でイタリア語を勉強しながら、1人で淡々と続けていた。(p.359‐60)

 以下2つは三者面談において、担任の伊藤先生に言われた言葉です。

「失礼ですが、私には靴職人もイタリア留学も、現実的な選択肢だとはあまり思えません。わが校には前例がありませんし、留学を望むのであれば大学在学中にいくらでも機会を見つけることができるはずです」(p.356)

 

「秋月さん。私もすこし調べてみましたが、メーカーでの企画やデザインならともかくとして、靴職人を必要とする製造業自体が、日本では斜陽産業なんです。製造の拠点はアジアの新興国に完全に移っていますし、かといって個人を相手としたオーダーメイドの文化が日本にあるわけでもありません。それを承知でそれでも志すのだとするならば、もちろん素晴らしい覚悟です。でも孝雄くんにそれだけの気持ちがあるならばなおさら、日本で大学生活を送りながらでも道を探すことはできるでしょう。高卒直後の留学、それも非英語圏というのは、大きなリスクです。語学学校までは誰でも入学できるでしょう。でも現地の大学に合格できないこともありますし、入学できても卒業できないこともあります。卒業できたとしても、帰国後の就職は新卒者に比べてずっと困難になります。それは統計的にそうなんです」(p.356-7)

 

ちなみに、アニメではもっぱら放蕩なイメージとして描かれている母親ですが、実は大学の事務職員として勤めています。彼女は在学中に子どもを産み、休学してしまいますが、子育てしながらなんとか復学し卒業を果たしました。しかし就職先に困り、教授の紹介で大学に就職したとなっています。「雇均法の改正直後だったんだけど、実際は私の立場で一般企業への就職って難しかったと思うのよ」と語っているので、1997年ごろでしょうか。

 

そんな経緯もあるためか、大学の教育として役割・側面を語っている箇所があります。

 「大学は、やっぱりお役所や銀行の窓口とは違うと思うのよ。もちろん大学だって企業ではあるけれど、その前に教育機関なんだから。つまり私たち大学の職員は、教員と同じように学生の成長を支援して、無事に社会に巣立つための業務を遂行することで報酬を得てるんだと思うのよ。経営側より学生の側に立ってあげなきゃ」(p.340)

 

 

 君の名は。

比較しようと思ったのですけれど、こっちはあまり記述がありません。

靴職人を目指した秋月孝雄と違って、『君の名は。』の立花瀧はやりたいことがぼんやりと描かれている印象です。まあ、こちらのほうが多くの学生にとっては、より近い姿といえるかもしれません。

 

建設業界という志望はあるものの、「大手ゼネコンから設計事務所、下町工場まで、見境なしのラインナップ」を受けています。2人の友人がそれぞれ内定を2社と8社貰っているのに、立花瀧は内定が取れていません。

 

最初に2次面接にたどり着いた会社では、面接の様子が次のように描かれています。志望動機を尋ねられた場面です。

「つまり・・・・・・、東京だって、いつ消えてしまうか分からないと思うんです」

面接官たちの表情が今度こそ、はっきり曇る。首の後ろを触っていたことに気づき、慌てて両手を膝の上に戻す。

「だからたとえ消えてしまっても、いえ、消えてしまうからこそ、記憶の中でも人をあたためてくれるような街作りを――」(p.234)

 

こういった過程を経つつも、なんとか就職を果たします。

クライマックスの三葉との出会いのシーンは、その就職先で働き始めてからあとの出来事です。

 

 

まとめ

こうして見てみると、両作品はかなり対照的です。

 

言の葉の庭』の主人公は、やりたいことを明確に持ち、それに向かって努力します。直面する困難については、個人の努力によって解決します。

奨学金のような、学生を支援する制度の話は出てきませんし、周りの大人もそれを紹介する場面は描かれません。

 

一方『君の名は。』の男の子のほうは、やりたいことは不明確なままです。糸守町の人々を救ったという、その記憶は曖昧になっており、それが就活にも表れているかの様子です。『言の葉の庭』が出会いをきっかけに、一歩を踏み出したのに対し、こちらはとくに人生に好影響を与えていません。2人の再会が至高のゴールのように描かれていますが、それで良いのだろうか、というのが自分の感じた後味の悪さの1つの要因だと思います*3

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:アニメでは入野自由さんがCVを務めていました。全然関係ありませんが、映画『聲の形』の主人公・石田将也も入野さんでした。こちらの主人公も母子家庭で育ち、専門学校(理容師)を目指すというのは共通していますね(映画ではそこまで描かれませんが)。

*2:CVは花澤香菜さん。『君の名は。』でも同名の役で出ていますね。

*3:三葉のほうも、自分の故郷を喪失するという壮絶な体験をしているはずですが、その苦難に対する描写はありませんね。もともと東京に行きたいと願っていたとはいえ、自分の生まれ故郷がなくなる形でそれが実現することを望んでいたわけではないでしょう。