観てきた。
京都だと公開が7月12日からだったということで、今の時期になる。雰囲気的にミニシアターとかかなと思っていたので、Tジョイでポスターを見かけたときは少し意外だった。なんにせよ、京都で観られてよかった。
私は音楽や絵や被災地の事情について、語るべき教養も知識も体験もないので、あの辺りは論じにくいと思っているのだけれど。
この作品に注目していた理由の一つとして、被災地を描くということがあった。
アニメに〈聖地〉が描かれることが珍しくなくなって、舞台となっている場所は増えたけれども、増えた割には多様性を感じていないということを以前少し書いた。
いや全く私の観測範囲の話だし、主観的な印象なのだけど。舞台となった各地域について、別に街の個性を感じないというような。乱暴に言うなら、〈都市〉と〈田舎〉と、その中間的なものとして〈郊外〉があるだけ。別に地域を描くことが目的というわけではないのなら、アニメの風景なんてそれでいいのかもしれないけれど。
『薄暮』の場合は、いわきの地をちゃんと描こうとしているのだと思う。舞台はどこでもよいわけではない。
いや、ストーリー的には必ずしもいわきである必然性はないし、最初の構想が20年以上前というなら震災・原発も関係ない。それでもきっと、どこでもよいわけじゃない。どこにでもあるとまでは言わないけれど、どこかにはきっとある場所の、ここにしかない風景を描くということなのかもしれない。
被災地のその後の日常という感じが良くて。言ってみればただの高校生の、何でもない物語。
それが実は珍しい作品だと感じている。珍しいと感じてしまうこと自体、どこか少し引っかかりはする。
東日本大震災が起きたとき、日本はどう変わっていくのだろうと考えた。あれから8年の年月が経ったのだな。想像したほど日本は変わっただろうか。政治も社会も。悪い方向には変わったかもしれないけど。感じたインパクトの大きさほどには、震災も原発も描いたアニメは少ないように思う。
『君の名は。』も被災地のその後の日常は別に描かれはしなかった。
彗星の衝突とそれによる故郷の喪失は、震災や原発事故のメタファーとして考えることはできる。でもその後で、三葉とか瀧が、あるいはそのほかの人々がどのように日々を過ごしていったのかは、描かれる対象ではなかった。
『薄暮』の話はシンプルというか、ピュアで素朴で瑞々しい感じ。
日が暮れるときのわずかな時間、薄暮を美しく描く。そこに幸せを見出す。
それだけでいいんだ。それを味わうことができるなら、それでいい。
作劇上の複雑さも過剰な演出も存在しない。いらない。
恋愛を描くのに、ファンタジーは別に必要ない。
身体が入れ替わって、田舎と都会の格差を超え、3年の時間を飛び越し、生死の境界をまたぎ、記憶を取り戻したりはしない。そんなドラマ仕立てにしなくても成り立っている。
難病で誰かが死んだりもしないし、記憶を失くしたりもしないし、生き返ったり(?)みたいな展開もない。
セカイ系ではもちろんないし、異世界に転生することもないし、中二病を拗らせたりもしていない。イジメやカーストが絡んで来たりもしない。
恋愛ものって数は多いけど、ひねったのが増えてるように思う。恋愛を恋愛だけで描けなくなっているのか。何か変わった要素でもないと、作品として成立しなくなっているのか。
『薄暮』はひねりも、凝ったストーリーも、複雑な駆け引きもない。珍しいくらいにそういうのがない。
特徴がないのが特徴ということではない。日常系ということではないのだろうと思う。恋愛は非日常だから。
甘酸っぱい青春を、大切なものなんだと描きとめておく。薄暮の風景にささやかな幸福を感じるように、今この瞬間を切り取るよう。
震災後の日常がその遠景。どこにでもあるはずのようで、でももしかしたら今ここにしかない景色だから、こうして残しておきたいというような。
もっと盛り上がるようなドラマティックな展開にしようとかは、別に不要なんだろうな。これだけで作品として送り出すというのは不安になりそうな気もするけれど。下手に脚本家が加わったりしたら、別の要素とか盛り込もうとしたかもしれない。
『月がきれい』とか『たまこラブストーリー』とかだって、もっとひねってる。『薄暮』は三角関係も恋敵も出てこない。その分か上映時間は短めだが、描くべき部分だけ描いたという気がする。
あと比較するとしたら、『耳をすませば』とかになるのだろうか。『薄暮』のほうが、どこかにいそうな高校生感があるような気がするが。