ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

労働法違反率の推移

 数年前の本ですが、『日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか?』という本があります。タイトルが示している問題提起は、重要な問題でありながら意外と語られることが少ないような気がします。

 

本書は日本型雇用や労働組合や労基署などの関係性を見ていって、メカニズムを明らかにしようとしていますが、そもそもどんな違法がどれだけの件数起きているのか、それが歴史的にどう推移していったかというデータが示されているわけではありません。

 

違法の実態を示す統計があるのかと言われると、たしかに答えにくい。労働条件や働き方を調査した公的統計はあっても、違法状態があるかどうかは尋ねませんからね。

 

はっきり違法件数をカウントしているのは、やはり労働基準監督署の統計ですが、当然ながら労基署が監督に入った企業のみの結果となります。定期監督というのは、違法の疑いが強い企業を選定しているはずです。サンプリングバイアスがあると考えれば良いかもしれません。

とはいえ、違反状況の推移を大規模なデータで追えるのは貴重だと思います。

 

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『労働基準監督年報』の資料からは、業種別に定期監督の違反状況が判るので、それを示しています。ひとつにまとめると非常にごちゃごちゃしているので、とりあえず3つに分けました。「計」とあるのは、業種全体の違反率です。官公署は監督件数自体が少ないので、0%と100%を行ったり来たりしています。

1956年のところで線が途切れているのはデータに断絶があるためです。詳しいことはまた後日書くかもしれません。

 

業種別にたしかに状況は違うのですが、全体的傾向としては60年代半ばから徐々に低下していたのが、90年代以降上昇に転じていることでしょうか。

下に気になりそうな主な業種を取り出してみました。飲食店などは接客娯楽業、病院・社会福祉施設などは保健衛生業に入ります。

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サンプルが偏っているとしても、やはり違反率が高いというのは、実感通りという感じでしょうか。

 

なぜこのように違反率が推移しているのか、ということは一言では答えられない論点です。

法違反の状況には少なくとも3点考える必要があるかと思います。経済情勢や労務管理のあり方の変化など、企業・会社側の要因。法改正や新法などの立法側の要因。そして、労働行政や現場の監督機関の運用の変化など行政的要因。

 

そもそも監督に入る件数が変われば、つまり分母が変われば違反率も当然変化します。

業種別に定期監督件数を見たのが下の図です。かつては製造業が多かったですが、現在だと建設業のほうが上回っています。商業も増えてはいますが、第3次産業は全体的に少ない件数です。

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90年代以降違反率が上がっているのは、そもそも定期監督の件数自体が減っているということも関係しているかもしれません。

業種別に違反率に差異が見られましたが、こちらは法の適用の違いが想定されます。週40時間制が完全実施される前は、業種別に特例がありましたから、90年代後半に違反率が跳ね上がっている業種は、それが関係しているのかもしれません。

この時期は裁量労働制の導入なども含めて、ほかにも検討すべき点が多いでしょう。資料からは条項別の違反件数なども判明するので、それらを確認していけば実態が浮かび上がってくるかもしれません。

榊原富士子・池田清貴『親権と子ども』

表題の本を読みました。新書ながらかなり詳しめに記述されていると思います。具体例・ケースも多く紹介されているので、難解でとっつきにくいという本ではありません。

 

親権と子ども (岩波新書)

親権と子ども (岩波新書)

 

 

 

体罰が虐待であること

個人的になるほどと思った箇所をメモしときます。体罰は虐待かどうかという部分です。

ケースとして紹介されているのは、親子連れで遊びに行った際に、息子が友達に悪ふざけしてしまい、それを母親がしつけのために頬を平手でたたいた、というものです。

著者は森田ゆり『しつけと体罰』を引きながら、体罰の6つの問題を指摘します。

体罰は、それをしている大人の感情のはけ口であることが多い

体罰は、恐怖感を与えることで子どもの言動をコントロールする方法である

体罰は、即効性があるので、他のしつけの方法がわからなくなる

体罰は、しばしばエスカレートする

体罰は、それを見ているほかの子どもに深い心理的ダメージを与える

体罰は、ときに、取り返しのつかない事故を引き起こす

 

これらの観点に則して、紹介したケースの問題点が検討されていきます。そして母親がした叩くという行為は身体的虐待であると結論付けています。

 

興味深いと思ったのはその後です。これくらいの行為を虐待と言うのは言い過ぎじゃないか、という読者に対する、あらかじめの反論です。

 

親が子どもを一度たたいただけで虐待だとするのは、過激な結論ではないか。著者は、そう考える読者がいるとすれば、この程度のことで虐待だと言われ、児童相談所などが介入するのはおかしいのではないか、という「ひっかかり」にあると言います。

そうした「ひっかかり」が生じるのは、家庭の自律は尊重すべきという考えがあるからです。親は原則として自由に子育てを行うことができ、行政機関の介入は一定の深刻なケースに限るべき、ということです。

 

しかしだからと言って、体罰を法解釈の段階で適法だとしてしまうことはできないと著者(池田)は言います。その程度の「しつけ」がしばしば見かけるようなものであったとしても、やはり民法の考え方に照らせばそれは体罰であり、違法であると。

 

 この記述を読んでいて想起したのは、労働基準法・労基署と企業の関係です。

企業内においても、労使自治が原則として尊重され、やはり国家機関による過度の介入は控えられるべきだという風に言われます。

しかし程度問題としてはどう考えるべきなんでしょう。大企業であってもサービス残業やセクハラは存在しています。それらが深刻でないとは思いません。自治や自律を重視するというのにも一定の線引きは必要なはずです。労基署がなかなかやってこないというのは、その人員体制が不十分であるからだと思いますが。

 

ただ、労基署も児相も共通しているところがあるように感じました。

 

親権は母親か父親

 もうひとつ、未成年の子どもがいる家庭が離婚したとき、親権がどちらに帰属するかという問題。

 

そもそも戦前は父親が単独の親権者となる仕組みになっており、戦後すぐも、女性が一人で子どもを育てていくことは容易ではなく、父を親権者、母を監護者とする方法も少なくなかったそうです*1

 

そのあたりの事情がどのように変わっていったのかは、もう少し詳しく読みたかった部分です。

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上のグラフは日本の離婚件数と離婚率の推移を示したものです。下のグラフは戦後のものですが、離婚の際の親権の帰属がどうなっているかという件数を示したいます。

 

徐々に低下していた離婚率が、60年代に入って以降上昇に転じます。そしてその内訳をみると、増えているのは妻が親権をおこなう場合が圧倒的に多いのです。

親権に対する考え方、あるいは子育てに関する考え方が離婚の動向とも密接に関わっているのではないかと思えます。

 

本書の叙述では、徐々に母親が親権者となることが定着していった、と書かれています。ただ、離婚に対する考え方そのものが大きく変わっているのではないか、離婚率が上昇していることに親権が関係している(あるいはその逆)のではないか、というところまで踏み込んで解説してほしいと個人的に感じてしまいました。(まあ、本書のテーマからはみ出ることに関して詳しく記述を求むというのがおかしいのですが)

*1:親権は子どもに対する身の回りの世話、教育、財産の管理のための権利や義務のことですが、そのうち世話・教育の部分を取り出したものを「監護」と呼んでいます。

産業医の数

大室正志『産業医が見る過労自殺企業の内側』に以下の記述がありました。

この頃、大企業を中心に企業内診療所を開設することが流行しました。バブル当時、企業内診療所は軽井沢や伊豆の保養所などと同じく、大企業のステータスシンボルと考えられていたふしがあります。

この時代は現在よりもメンタル不調の問題は顕在化しておらず、製造業以外では検診の事後措置や福利厚生としての診療所業務が産業医の主な仕事と考えられるようになりました。夜勤もなく企業内で診療所を与えられる大企業の産業医は、近所の大病院を定年退職した医師の「天下りポスト」として、また産休明けの女性医師などにも人気の職になりました。(p.24-5)

 

医師は激務のイメージが強いですが、産業医は比較的ゆるやかであるということでしょう。

 

厚生労働省の『医師・歯科医師・薬剤師調査』(通称、三師調査)では、2002年以降産業医業務の従事者数が調査されています。

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この数字は主たる業務(=もっとも従事している時間が長い業務)が産業医である医師の人数です。産業医のほとんどは臨床医が兼務しているそうですので、主たる業務が産業医だという医師の人数はまだまだ少ないですね。それでも年々増加傾向にあることは読み取れます。

 

現在、女性医師の割合は3割ほどとなっています。女性医師そのものの数が少ないので(医師数全体に占める女性医師の割合は2割ほど)、産業医に就く女性医師の数は比較的多いと言えます。

40代前半以下だと女性の割合がさらに高くなって、4割ほどを占めます。

 

産業医を兼務している人がどれくらいいるかも知りたかったですが、そのデータは三師調査にはありません。事業場規模が50人以上なら1人、3001人以上なら2人の産業医を選任する義務があるので、経済センサスなどから考えれば16万人くらい産業医の数がいてもおかしくはありません。複数の会社を兼務する産業医が多いはずですので、実際の人数はもっとぐっと少ないでしょうが。

 

 

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)

産業医が見る過労自殺企業の内側 (集英社新書)

 

 

 

『言の葉の庭』と『君の名は。』に見る進路問題

※以下、ネタバレを含みます。記述は小説版を参考にしており、とくに『言の葉の庭』はアニメ版と小説版で大きく差異があります(アニメで描かれていない部分が小説版では書かれています)。

 

前回、学費の話をしたので、そのついでのついでです。

 

kynari.hatenablog.com

 『ブラック奨学金』を読みながら、本書の内容とは直接は何の関係もありませんが、ふと新海誠『小説 言の葉の庭』を思い出しました。主人公の進路選択の悩みの一つに学費の問題が多少なりとも出てくるので。

 

せっかくなので、同じく新海誠の『君の名は。』とちょっとだけ比較しつつも、進路問題の見てみようと思います。

 

 

両作品における恋愛の位置づけ

言の葉の庭』も『君の名は。』も、男女の出会いというのが作品の重要なモチーフとなっていることは共通していると思います。

しかし両作品では、その位置づけが大きく異なっていると言ってよいでしょう。

 

言の葉の庭』は高校生の秋月孝雄*1と高校教師の雪野百香*2の出会いが描かれます。

簡単に書いてしまうと、この2人の出会いはそれぞれの成長のきっかけの役割を果たします。秋月孝雄にとっては、靴職人を本格的に目指す契機となりましたし、雪野先生は再び教師として歩み出すことになります。

 

一方で『君の名は。』の場合は、男女2人の出会いはきっかけではなく、ゴールとして描かれます。もちろん、最後のクライマックスに至るまでにはいくつか山場がありますが、やはり最後の再会こそが重要なのでしょう。

2人は入れ替わっていた記憶さえ消えています。しかしぼんやりとお互いを探し求めていて、2人の「運命の出会い」が実現したところで物語は終わります。

「運命の出会い」というのは、その2人が遠く強く引き離されているほど、劇的なものとなります。『君の名は。』の2人は、地域(都会と地方)、時間(3年前と現在)、生死(三葉は1回死んでます)、記憶(お互いの名前さえ覚えていません)と4重に2人の距離が隔てられているのです。新海監督はこれまでも男女のすれ違いを描いてきましたが、これほどの男女の隔たりは後にも先にもないでしょう。

 

でも逆に言ってしまえば、運命的な出会いというものがゴールになってしまっていて、出会いをきっかけに成長する、変わるという物語ではありません。

 

 

言の葉の庭

言の葉の庭』の秋月孝雄は恋をきっかけとして、靴職人を目指すと決心します。もちろん、そこにはお金の問題が付きまといます。深く描写されるわけではありませんが、彼の家庭は母子家庭でもあり、親の援助などあまり当てにできない状況だったと言えます。

そこで目指されたのはアルバイトをしてお金を貯めるという道です。

恋によって弱くなるのではなく、恋によって俺は強くなるのだ。脳がすり切れるほど考えつくしたその果てに、孝雄はそう決心した。・・・(略)・・・

だから夏休み中、なるべく多くの時間をアルバイトに割いた。・・・(略)・・・稼いだ金の7割を貯金し、高校卒業後の学費に備えた。靴の専門学校に行くつもりだった。残りの3割は靴作りの材料費に充てた。(p.285)

 

小説では、専門学校にいくらかかるかという部分も記述されています。

試みに取り寄せてみただけの靴専門学校のパンフレットだったが、そこに記された2年間の総授業料220万円という数字を見て、しかる後に高校3年間のバイトで貯められるであろう金額を約200万と皮算用し、え、これ以外にイケるんじゃないか、と妙に気持ちが大きくなっていったのだ。(p.124)

 自分の記憶違いかもしれませんが、アニメのほうだとパンフレットが一瞬だけ画面に映るだけで、それに対する主人公の反応ももっとネガティブだったような気がします。

 

2年間で220万円というのも、専門学校の授業料としては相場くらいだと思います。

専門学校の学費は安いみたいなイメージを持っている人もいますが、実際そんなに安くありません。ただ修業年限が短いので、4年間大学に行くよりも負担が軽いというくらいです。

 

さて、本人は強く靴職人の道を進もうとしますが、周りからは反対されます。母親は自由放任的な感じで、むしろ状況を楽しんでいるようですが、兄や担任の先生からは反対されます。また母親も積極的に応援しているいうよりは、本人任せにしているといった風ですので、学費や学校選びの問題は本人が1人努力するといったように描かれます。

 高校2年の終わりあたりから、孝雄は自力で卒業後の進路を探りはじめた。国内の靴専門学校の説明会にいくつも参加し、実際の靴職人にも会いに行って話を聞いていた。私(注―秋月怜美。孝雄の母)も頼まれて、馴染みの靴工房を一つ紹介した。多くのプロに話を聞くほどに、留学への意志は固まっていくようだった。フィレンツェ市内の大学に入っているイタリア語学校にいくつかあたりをつけ、イタリア語で資料を請求して吟味し1校に絞り、アルバイトで貯めた入学金を送金して、既に来年からの入学許可証を手に入れていた。半年間その語学学校に通った後、アートカレッジを受験するつもりなのだという。そういう手続きすべてを、彼は高校に通い中華料理屋でアルバイトを続けラジオ講座でイタリア語を勉強しながら、1人で淡々と続けていた。(p.359‐60)

 以下2つは三者面談において、担任の伊藤先生に言われた言葉です。

「失礼ですが、私には靴職人もイタリア留学も、現実的な選択肢だとはあまり思えません。わが校には前例がありませんし、留学を望むのであれば大学在学中にいくらでも機会を見つけることができるはずです」(p.356)

 

「秋月さん。私もすこし調べてみましたが、メーカーでの企画やデザインならともかくとして、靴職人を必要とする製造業自体が、日本では斜陽産業なんです。製造の拠点はアジアの新興国に完全に移っていますし、かといって個人を相手としたオーダーメイドの文化が日本にあるわけでもありません。それを承知でそれでも志すのだとするならば、もちろん素晴らしい覚悟です。でも孝雄くんにそれだけの気持ちがあるならばなおさら、日本で大学生活を送りながらでも道を探すことはできるでしょう。高卒直後の留学、それも非英語圏というのは、大きなリスクです。語学学校までは誰でも入学できるでしょう。でも現地の大学に合格できないこともありますし、入学できても卒業できないこともあります。卒業できたとしても、帰国後の就職は新卒者に比べてずっと困難になります。それは統計的にそうなんです」(p.356-7)

 

ちなみに、アニメではもっぱら放蕩なイメージとして描かれている母親ですが、実は大学の事務職員として勤めています。彼女は在学中に子どもを産み、休学してしまいますが、子育てしながらなんとか復学し卒業を果たしました。しかし就職先に困り、教授の紹介で大学に就職したとなっています。「雇均法の改正直後だったんだけど、実際は私の立場で一般企業への就職って難しかったと思うのよ」と語っているので、1997年ごろでしょうか。

 

そんな経緯もあるためか、大学の教育として役割・側面を語っている箇所があります。

 「大学は、やっぱりお役所や銀行の窓口とは違うと思うのよ。もちろん大学だって企業ではあるけれど、その前に教育機関なんだから。つまり私たち大学の職員は、教員と同じように学生の成長を支援して、無事に社会に巣立つための業務を遂行することで報酬を得てるんだと思うのよ。経営側より学生の側に立ってあげなきゃ」(p.340)

 

 

 君の名は。

比較しようと思ったのですけれど、こっちはあまり記述がありません。

靴職人を目指した秋月孝雄と違って、『君の名は。』の立花瀧はやりたいことがぼんやりと描かれている印象です。まあ、こちらのほうが多くの学生にとっては、より近い姿といえるかもしれません。

 

建設業界という志望はあるものの、「大手ゼネコンから設計事務所、下町工場まで、見境なしのラインナップ」を受けています。2人の友人がそれぞれ内定を2社と8社貰っているのに、立花瀧は内定が取れていません。

 

最初に2次面接にたどり着いた会社では、面接の様子が次のように描かれています。志望動機を尋ねられた場面です。

「つまり・・・・・・、東京だって、いつ消えてしまうか分からないと思うんです」

面接官たちの表情が今度こそ、はっきり曇る。首の後ろを触っていたことに気づき、慌てて両手を膝の上に戻す。

「だからたとえ消えてしまっても、いえ、消えてしまうからこそ、記憶の中でも人をあたためてくれるような街作りを――」(p.234)

 

こういった過程を経つつも、なんとか就職を果たします。

クライマックスの三葉との出会いのシーンは、その就職先で働き始めてからあとの出来事です。

 

 

まとめ

こうして見てみると、両作品はかなり対照的です。

 

言の葉の庭』の主人公は、やりたいことを明確に持ち、それに向かって努力します。直面する困難については、個人の努力によって解決します。

奨学金のような、学生を支援する制度の話は出てきませんし、周りの大人もそれを紹介する場面は描かれません。

 

一方『君の名は。』の男の子のほうは、やりたいことは不明確なままです。糸守町の人々を救ったという、その記憶は曖昧になっており、それが就活にも表れているかの様子です。『言の葉の庭』が出会いをきっかけに、一歩を踏み出したのに対し、こちらはとくに人生に好影響を与えていません。2人の再会が至高のゴールのように描かれていますが、それで良いのだろうか、というのが自分の感じた後味の悪さの1つの要因だと思います*3

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:アニメでは入野自由さんがCVを務めていました。全然関係ありませんが、映画『聲の形』の主人公・石田将也も入野さんでした。こちらの主人公も母子家庭で育ち、専門学校(理容師)を目指すというのは共通していますね(映画ではそこまで描かれませんが)。

*2:CVは花澤香菜さん。『君の名は。』でも同名の役で出ていますね。

*3:三葉のほうも、自分の故郷を喪失するという壮絶な体験をしているはずですが、その苦難に対する描写はありませんね。もともと東京に行きたいと願っていたとはいえ、自分の生まれ故郷がなくなる形でそれが実現することを望んでいたわけではないでしょう。

大学の学費は出世払いにしたらどうだろうか

学費、奨学金の記事を続けて書きました。

 

kynari.hatenablog.com

kynari.hatenablog.com

 そのついでに、ざっくりとしたアイデアをメモしておこうと思います。

 

給付型奨学金もそうですが、大学の授業料無償化もにわかに話題となってきました。

 当然、財源はどうするのかという議論が巻き起こるわけですが。

 

大学教育が価値あるものであるなら、出世払いのような形で費用負担するのもアリなんじゃないかと思います。そう思ってたら、すでに以下のような記事がありました。

www.nikkan-gendai.com

ちょっと、自分の考えていたものとは違いますね。

「出世払い」として考えていたのは、在学中は授業料が無償。働き始めたあと、収入に応じて返済していくというイメージです。

 

で、収入に応じてというのは、簡単に言うと累進課税ですね。

大学無償化の恩恵を受けた世代は所得税を上乗せすれば良いということです。上乗せの仕方を累進的にして、低収入であれば上乗せはなしにすれば良いでしょう。

 

全ての世代の所得税を上げるとなると反発が生まれるでしょうから、無償化の恩恵を受けた人に限定します。たとえば、2020年から無償化が始まったと仮定するなら、その卒業後、2024年以降に働き始めた人が対象となる、といった感じです。

当然、高卒就職者には関係ない話ですので、大卒の人限定です。

 

つまり、授業料を無償化し、それ以降に就職した人に対して、学歴別に所得税の額を変えるということです。

大学教育に効果があるのなら(払った授業料以上に生涯所得を増やす効果があるのなら)、十分に帳尻が合うはずでしょう。

 

あくまで税金ですので、JASSOから厳しい取り立てを受けることもなくなりますし、収入が低ければ自動的に「返済猶予」「減額返済」などの措置が取られるということになります。(JASSOの奨学金は、「返済猶予」「減額返済」を適用してもらうには自分で申請する必要があり、その手続きも煩雑です)

 

最終学歴とその卒業年・就職年だけ分かればそうした税をかけることが可能だと思いますが、実務上どうなんでしょうかね。

奨学金と多様な人材

 前回のエントリーで奨学金の話をしました。

kynari.hatenablog.com

 ところで、JASSO(旧日本育英会)の奨学金には、教員や研究職と就職すれば返済が免除される制度がかつてありました。2004年に日本育英会からJASSOに組織が変わった時に廃止されてしまいましたが……

 

こういう大学の学費や奨学金問題については、人文社会科学系の学者がもっと声を上げるべきだと思います。

 

自然科学だとわりと話を聞くような気がします。最近はノーベル賞受賞者が基礎研究の重要さを訴えるのが恒例みたいになっているような。奨学金などの形で、若い研究者を支援する仕組みをつくろうとか。

www.huffingtonpost.jp

www.asahi.com

文系学問だと自然科学系より研究費はかからないでしょうが、それでも学生にしてみれば経済的支援が重要なのは変わりません。大学院生・ポスドク向けアンケート調査をちょっと見た記憶がありますが、博士課程進学の際のもっとも大きな悩みは経済問題だったと思います。

 

経済的問題で進路が制約されるということは、その職に就く人たちの社会階層に偏りが生じるということです。大袈裟に言ってしまえば、カネ持ちしか研究者になれないということです。

研究者層が一部の階層に偏ってしまうことが良いことだとは思いません。

社会政策とか福祉とか、そういった分野に携わる学者の研究は、国の政策立案に関係してくるはずです。ジェンダー、出身地などに大きな偏りが存在すれば、労働政策、社会保障、地域政策などの議論が歪んだものになる懸念は強くなるでしょう。

 

「優秀な人材」を、というだけでなく「多様な人材」を、ということが大事なはずです。

今野晴貴『ブラック奨学金』

今野晴貴『ブラック奨学金』読了

 

ブラック企業、ブラックバイト、ブラック士業とさまざまに問題提起をなさってきた今野さんですが、今度はブラック奨学金です。

 

ブラック奨学金 (文春新書)

ブラック奨学金 (文春新書)

 

 

奨学金がその名に反してブラックになってしまっている現状が伝わってきます。読みやすい本なので、興味のある方は読んでみてください。

 

3か月の延滞で「ブラックリスト」に載り、9か月を超えると延滞分だけでなく元本を含めた全額の一括請求が求められる。延滞が生じると、返済が延滞金、利息、元本の順に充当されていく。元本がなかなか減らないので「延滞金地獄」に陥る。

減額返還、返還期限猶予などの救済制度は一応あるものの、JASSOの「恩恵的措置」に過ぎない。減額返還はすでに延滞している人はそもそも使えない。どんなに収入が低くとも、返済総額が変わるわけではなく、支払いを先延ばしにするだけである。そしてこういった制度が非常に使いにくい。申請主義を取っているので、自分で申し出なければ制度の存在すら十分に説明してもらえない。手続きは煩雑だし、元号で書くべきところを西暦で記入しただけでも申請書が送り返されてくる

そもそも日本は学費が高いくせに奨学金が充実していない。給付型奨学金がほぼ存在しないし、無利子の第一種奨学金基準を満たしているのに借りられない学生が2.4万人もいる。

 

ちっとも教育や福祉のようでない。重要なことはたとえ優秀な学生であったとしても、経済的支援が全く不十分だということです。こんな状況では次世代の人材が育成されていくはずがない。それが「ブラック奨学金」と強い訴えにつながっているわけです。

(ところで、本書以外も含めてだと思いますが、「返済」ではなく「返還」という表現を用いていますね。JASSOの言い方に従っているのだと思いますが、奨学金はローンなので、実感としては「返済」と言ったほうがしっくりくるでしょう)

 

本書の不満を少し述べるなら、なぜ日本の教育政策だけこうも異常なのかということ。そこにもっとつっこんでほしくはあります。まあ、新書なのでそこまで詳しく書けないかもしれませんが。

他の先進諸国では学費が安かったり、給付型の奨学金が存在するわけです。(先進諸国というか韓国やチリにも後れを取っているということなのですが)

で、大学の運営コストが日本だけバカ高いなんてことはないと思うので、他の国では税金などで社会的にその教育費用を負担しているということです。

ということは、大学にそれだけお金をかけてもペイできると、そういう考え方に立っているのだと思うのです。

 

では、ひるがえって日本の大学の現状はどうか。ペイできるだけの教育を行っているのか。社会がそこまで大学教育に価値を認めているか。学費の公費負担を世間がどこまで許容するか。

そういったことが問われているような気がします。