ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

団塊の世代と戦後史(前編)

少々長くなりそうなので、前後編に分割することにします。

団塊の世代〉の存在が、日本の戦後史に与えて来たインパクトを考えたいという試論です。

 

次の時代を迎える前に

吉川[2018]では、今後の日本社会の特徴を「分断社会」と名付けて表現しています*1。そこで描き出そうとしているのは〈団塊の世代〉が退出した後の日本の姿です。

 

これ[=団塊の世代の退出――引用者注]は、明らかにひとつの時代の終焉だといえます。そして団塊の世代が去ると、霞が晴れたように、次世代の日本社会が姿を現すことになります。(37頁)

 

団塊の世代〉の退出がひとつの時代の終焉であること。程度問題はあるにせよ、この考え方に私はおおむね賛同します。

 

しかし、ここではあえて逆を問うてみたいと思います。

団塊の世代〉とともにあった戦後とはどんな時代だったのかと。果たして我々は、〈団塊の世代〉が戦後の日本に与えてきたインパクトを正確に理解しているのだろうかと。

 

吉川[2018]は〈団塊の世代〉以後の社会を見据えようとするものでした。それならば、次の時代を迎えようとしているまさにこのときに、そろそろ〈団塊の世代〉の総括をしてもよいのではないか。

そんな気がします。

 

ベビーブームとは

そもそも〈団塊の世代〉とはどんな存在か。

これに答えるためには、ベビーブームという現象をどのように理解するかという問題が関わってくるでしょう。

 

前掲吉川[2018]では、団塊の世代および第一次ベビーブームを次のように説明しています。

団塊の世代とは、1947~49生年、もしくはその周辺の、同年人口の多い生年世代を指しています。その数は800万人とも1000万人ともいわれます。この世代の人口が多いのは、終戦により平和な時代が到来し、戦地に赴いていた男性たちが復員してきて新生児出生数が増え、乳児死亡率も戦中より大幅に低下したためです。周知のとおり、この現象は第一次ベビーブームと呼ばれています。(31頁)

 

この説明は、一般的理解に沿った内容にはなっていると思います。

 

しかしいま一歩踏み込んで考えたいのは、このような〈団塊の世代〉の存在それ自体が、戦後の日本社会に対して大きなインパクトを与えて来たのではないかということです。言い換えれば、戦後日本のさまざまな社会制度・慣行は、団塊の世代の存在抜きに語れないのではないでしょうか。

 

団塊の世代〉の存在は、〈戦後〉〈日本〉の〈ドメスティック〉な現象であるように思います。

団塊の世代〉あるいは〈団塊ジュニア〉のような人口動態的な〈波〉は、戦前期には見られないものであったという点で、それは戦後的なものです。

日本的だというのは、この〈人口の波〉が生んだ人口転換が、当時の先進諸国ではおそらく見られないほど急速なものであったということです。(あるいは後発国的と述べたほうがいいかもしれません)

そして、少なくともこれまでの日本の人口動態を考えるうえで、基本的に移民の問題を考えなくて済んできたという点で、ドメスティックなものです。

 

移民に関して付け加えておきます。

その国の人口ピラミッドの形状を規定する要因には、出生数・死亡数の動向のほかに、人口移動も含まれます。

日本と違って、西欧諸国では60年代ころから労働力不足への対応として、旧植民地などから移民を受け入れてきました。第一次オイルショックによって経済成長率が低下するまで、移民に寛容だったのです。対照的に日本では、基本的に移民を入れることなく戦後を歩んできました。

したがって日本の人口動態を考えるうえでは出生数(と死亡数)に着目すれば十分であるといえます。日系三世に「定住者」の在留資格を与える入管法改正は1990年、外国人技能実習制度の創設は1993年のことでした*2

 

出生数の動向

具体的に出生数の推移を人口動態統計によって、確認しておきたいと思います。次のグラフは1899年から2016年までの出生数および出生率を図示したものです*3

ここで使っている出生率は、合計特殊出生率ではなく、人口千人当たりの出生数を示すものです。数字が入手しやすかったこちらを用いましたが、本稿は少子化についてあれこれ論じるものではないので、問題ないでしょう。

 

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私はこのグラフを見て、率直に思うだけなのですが、〈団塊の世代〉というのは、出生数が増えたという点よりも、ブーム後の時期に出生数が大きく抑制された点に大きく特徴があるように見えます。

1944~46年は統計が欠如していますが、傾向的にみて、戦前期の日本の出生数は増加のトレンドにありました。出生率(人口千対)でみても、30‰前後が維持されています。

 

しかし、上昇トレンドにある出生数が急減を示すのが第一次ベビーブームの終わりの時期(1950年)です。出生率で見ても、横ばいに推移していたそれが、第一次および第二次のベビーブームの後、それぞれ急落しています。

対照的に、出生率の増加幅は大したことありません。

 

日本のベビーブーム期というのは、出生率が上昇する時期ではなく、急下降の直前期に過ぎません。

第三次ベビーブームというものがあったならば、このような記述は当てはまらなかったかもしれませんが、現状では(結果的に)そのように理解しても、外れていないように思います。

 

 

乳児死亡

前掲吉川[2018]には、「戦地に赴いていた男性たちが復員してきて新生児出生数が増え、乳児死亡率も戦中より大幅に低下したためです」とも述べていました。

そこで、乳児死亡の動向についても確認しておきます*4

 

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ひとつ前のグラフと同じく、1944~46年は「資料不備」となっています。

 

私は先行研究などなにも知らずに虚心坦懐にこのグラフを眺めるわけですが、戦前/戦後の区切りで、劇的に変化しているわけではないのですね。

乳児死亡率の低下は、1920年代から継続して生じているトレンドであるように見えます。ということは「乳児死亡が劇的に減った→子供が増えた→ベビーブーム」とは言い難いでしょう。

 

でもそう考えると、ますます第一次ベビーブームは出生の増加ではなく、(その後の)出生の減少だというように感じてしまいます。

 

 

なぜ出生数は減少したか

では、なぜ生まれてくる子どもの数は、第一次ベビーブーム期の直後に急減したのでしょうか。

 

いまから考えれば全く隔世の感がありますが、当時の日本においては子どもを産んでもらうことよりも、むしろ出産抑制を推奨していたということに注意を払う必要があります。

当時の厚生省は、復興期にある日本にとって、過剰な人口が大きな負担になっていると認識していました。それも従属人口(子ども、高齢者)ではなく「生産年齢人口の重圧」をより緊急の課題と捉えているほどです。多すぎる生産年齢人口を吸収せざるを得なかったのが零細農家、零細企業、低賃金労働者層であり、それが貧困や格差を生じさせているとの認識でした。

そこでこの「人口問題」への対処として求められたのが家族計画(受胎調節)であり、結果として見るならば、政策的に肝となったのが人工妊娠中絶でした。1949年の優生保護法改正による「経済的理由」での中絶の合法化です。

 

岩田[2016]から引用しておきます*5

ところで、「少産少死」に構造変化した1つの原因として、第1回白書は国民自身の「出産抑制の努力」を挙げている。むろんこれは合理的な受胎調節ではなく、人工妊娠中絶という手法によることも正直に記載している(同上:8)。だが白書の強調点は、国民自身がその「重圧」を実感したからにほかならないという点である。……しかも、白書自身が統計で把握されていない中絶があるから、ピーク時の中絶数は実際にはもっと多いとさえ述べている(白書1957年版:164-165)。この国民の「自覚と努力」は、むろん1949年度の優生保護法改正によって「経済的理由」での中絶が合法化された、という政策の結果でもあるのだが、その点には触れられていない。

 

 

では、中絶件数の多さはいかほどだったのでしょうか。それを示すのが次のグラフとなります*6

 

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このグラフは出生数に中絶数を積み上げたものになります。

もちろん、中絶された分がすべて産まれるべき命だったと述べたいわけではありません。しかしこうして表示すると、中絶の規模のインパクトがわかると思います。

 

第一次ベビーブーム(1949年まで)の終わりから出生数が大きく落ち込んでいることは先に確認しました。

けれども「出生数+中絶数」で考えると、だいぶ見え方が異なってきます。丙午*7の1966年を除けば、「出生+中絶」は250万を上回る水準で安定的に推移しています。

 

「出生+中絶」の合計数の推移を眺めた場合、そこには第一次ベビーブームも第二次ベビーブームも見出せません。

それとも、第二次ベビーブームの終了とともに、「出生+中絶」数が下がり始めたというべきでしょうか。この点においても、ベビーブームはその増加側面よりも減少局面において特徴づけられる、と先に指摘したことが妥当するように思われます。

 

 

手にした果実

繰り返しになりますが、出生数の抑制が当時は政策的に志向されていたというのは、記憶にとどめておいて良いかもしれません。

 

現在の日本の状況から振り返って、「わざわざ少子化にかじを切るなんてけしからん」と批判するのはたやすいかもしれません。しかしそうした批判の前に、出生抑制によって得てきた〈ベネフィット〉もまた、認識しなければならないはずです。

 

もし、中絶の実施がここまで大規模になされなかったのであれば、それは別の形で社会的影響をもたらした可能性が高かったはずです。

異なる受胎調節の手段が強く要請され、国家による家族への介入が強化されたかもしれません。あるいは出産を抑制することができず、貧困問題や子どもの身売り、児童労働などの問題が一層深刻化していたかもしれません。

 

 

現在だと人身売買などの話は馴染みが薄くなっているので、終戦後の時期は大きな政策課題のひとつでした。

たとえば、山口[2016]の第5章の章題は「人身売買から集団就職へ」です*8。同書は人身売買への対策として広域職業紹介の強化が進められたことを指摘しています。

 

山口[2016]によれば、戦後初の就職列車が1954年の青森発上野行きだとされていることは「神話」であり、高度経済成長期の幕開けというイメージにより凶作や人身売買との関連が忘れられてしまったのだということです*9

 

青森県では、1952年前後から広域労働市場との関係の(再)構築の動きが確認され、53年3月にはすでに「集団就職」という言葉も使用されていた。……1953年における歴史的な大凶作とそれにともなう人身売買への懸念によって職業紹介や求人開拓の諸施策は大幅に強化されていく。……戦後に再開された青森県からの集団就職は、その当初では大凶作や人身売買と密接に関連していたのであって、高度経済成長による求人難に起因するものではなかった。大凶作や人身売買をめぐる動きはいつしか忘却されてしまい、高度経済成長期の幕開けと結びつけられた1954年の就職列車の運行だけが、今日に至るまで、不明瞭なかたちで記憶されてきたのである。

 

 

なお、「労働基準監督年報」により「女子、年少者に対する中間搾取事等司法事件」の被害者の職業別人数を示すと、次のようになります。

 

 

接客業

紡織業

農業

女中

子守

店員

その他

1949

337

492

338

41

42

4

85

1950

257

44

124

29

9

5

52

1951

229

278

61

1

6

 

46

1952

237

143

145

19

   

27

1953

215

201

27

11

 

10

77

 

 

こうした人身売買、不当労働慣行は大きな社会課題としてマスコミや行政に認識されていました。

1950年代前半までの状況でこうなのですから、ここにさらに多くの子ども〈団塊の世代〉が生まれてきているというのは、危機意識や懸念を持つに十分といえるでしょう。

養う必要のある子どもを減らし、そのコストを抑えたうえでの戦後復興、高度経済成長だったのでしょう。「軽武装・経済重視」というだけでなく、再生産コストまで節約してきた。そこまでは言いすぎですかね。

 

 

「生まれてこない」という破局

この文章を書いている途中で以下の記事を読みました。

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

落合恵美子編『親密圏と公共圏の再編成』を紹介する形で論じられていて、興味深く読ませていただきました。

以下、3点付記しておきます。

 

ひとつは、日本以外も含めて、どう考えるかということ。

日本だけでなく、他のアジアでも(日本以上の速さで)少子化が進んでいます。

ですので、私が最初に述べた〈戦後〉〈日本〉という論はいささか視野が狭いかもしれません。そもそも第一次ベビーブームの話がメインでしたし。

 

 

「生まれてこない」という現象も「破局」ではないかというのは、やはり気になる問題提起だと思います。

戦争やテロで人が大勢死ぬと、人はそれを破局と呼ぶ。自殺者が増えることを破局と呼ぶ人もいるだろう。それらは破局として理解しやすい。 だが、子どもが生まれてこなくなるのも、それはそれで破局ではないか。

日本の破局的な少子化と、急ぎすぎた近代化 - シロクマの屑籠

 

〈避妊〉も〈中絶〉も「生まれてこない」ということに包含されるでしょう。優生保護法の改正は、この「生まれてこない」ということの政策的引き金ではないでしょうか。

 

 

もうひとつ気になったのは、乳児死亡率の話。

少子化の原因として、乳児死亡率の低下にまず言及していますね。

 

どこまで通説や常識なのか存じ上げないのですが、先に掲げた乳児死亡のグラフを見る限り、日本の乳児死亡率の低下は1920年代からの継続的なトレンドであるように思います。

もし乳児死亡率と少子化の関連しているのであれば、この時期から少子化が始まったとなるべきだと思うのですが。両者の関連というものは、大雑把なものであるように感じます。

 

日本の第一次ベビーブーム期直後に、なぜあれほど出産抑制が進んだか。既往の研究は、より直接的にそこを論じているのでしょうかね。

「急速な近代化」と述べるだけでは、見えなくなる現実もある気がします。

 

 

 

*1:吉川徹『日本の分断』光文社新書、2018年

*2:なお90年の入管法改正後の日系ブラジル人の急増を、梶田[2002]は「意図せざる結果」だと指摘している。「入管法の改定において、政策担当者が日系人としてまず想定していたのは、『中国残留日本人孤児・婦人』およびその二世・三世であり、フィリピンなどにおける日系人とその家族であった。……中国帰国者は、……戦後処理と密接に関係した存在であり、また日本への帰国は数十年にわたって続く長期的な趨勢である。/このように想定された日系人であったが、この日系人という法的地位を使用して日本に来た最大の集団は、実は中国帰国者というよりは、南米諸国からの日系人であった。」梶田孝道[2002]「日本の外国人労働者政策」『国際化する日本社会』梶田孝道・宮島喬編第1章、東京大学出版会、23-24頁

*3:データはe-stat「人口動態調査 人口動態統計 確定数 出生 年次 2016年 」のページの上巻4-1「年次別にみた出生数・率(人口千対)・出生性比及び合計特殊出生率」から入手できます。原資料)国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」、厚生労働省「人口動態統計」。注:1)昭和19~21年は資料不備のため省略した。昭和22~47年は沖縄県を含まない。2)昭和元年・5年・10年の出生数の総数には、男女不詳が各1が含まれている。3)率算出に用いた分母人口は日本人人口である。

*4:e-stat「人口動態調査 人口動態統計 確定数 乳児死亡 年次 2016年」の上巻6-1「年次別にみた乳児死亡数・率(出生千対)・乳児死亡性比及び総死亡中乳児死亡の占める割合」

*5:岩田正美『社会福祉のトポス』有斐閣、2016年、139頁

*6:人工妊娠中絶数については、国立社会保障・人口問題研究所『人口統計資料集』2018年版、「表4-20 人工妊娠中絶数および不妊手術数:1949~2016年」。 原資料は厚生労働省政策統括官(統計・情報政策担当)『衛生行政報告例』。出生数は前述の人口動態統計による。

*7:ひのえうま。この年に生まれた女性は気性が強く、夫を食い殺すという迷信があった

*8:山口覚[2016]『集団就職とは何であったか』ミネルヴァ書房

*9:同書197頁