ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

『コードギアス 復活のルルーシュ』

見てきた。テレビシリーズをちゃんと見てないのに、楽しめたぞ。コードギアスって面白いんだな。

世界観よくわかっていないが、書いておく。

 

テレビシリーズを全く見ていないわけではないけれど、流し見だったと思うし、最終話まで見たのかも定かでない。ゆえに主要キャラの名前や関係性もかなり曖昧な状態で映画館に行ったのだが、鑑賞後にはかなり満足していた。

 

実を言うと前半部分はわりと冷めた目で見ていた。話の前段がよく分かっていないというのもあったけれど、ルルーシュの「復活」というモチーフに、あまり入り込むことができないでいた。

副題の「復活のルルーシュ」が指すのは一つの意味ではないだろうけど、冒頭で描かれるのは、廃人というか、要介護状態のルルーシュの「復活」だ。

 

以前のようなルルーシュを待望する気持ちはすごく分かるし、物語的にも「復活」すべきなのだろうけど、私はそれが気がかりにも感じてしまう。それは昨今の風潮でいう「生産性」の視点を想起してしまったからだ。

ルルーシュの人間の価値、生きる意味はその頭脳明晰さにある、ということが作品内で主張されているわけではない。回復を望むのはむしろ自然なことだろうとも思う。しかしルルーシュは最終的に「復活」するからいいものの、そうでなければ「生産性」がないと判断されてしまうのではないか。

 

C.C.(シーツー)はルルーシュの「復活」を希望して彼の介抱をしている。もし「復活」の見込みが完全になくなっても、彼女は介抱し続けたのだろうか。

 

粗探しをしに映画を見に行ったわけではないのに、鑑賞中にそんな問いが頭をもたげた。この問いにどういう答えを出すかということよりは、この問いが浮かんでしまったこと自体が、この作品と私にやや距離感を感じさせる要因となった。

こんなことを考えてしまったのは、「生産性」についての昨今の社会風潮もあるだろうし、個人的には『SAO』の15巻をちょうど読みかけだったというのもある。

 

 

前半部分はそんな心持ちで見ていたにもかかわらず、後半は没入して見ていた。

最初に書いたように、私はコードギアスの世界観がよく分からないまま見た。というか、映画鑑賞後もなんでナタリーがさらわれたのかとか、思惟の世界ってなんなのかとか、圧倒的兵力の差はどこ行ったんだとか、あれで敵のギアスの能力を破れるのかとか、いろいろ分かっていない点はあるのだが、そういうのが気にならないくらいに没入感があった。

 

とくに、敵の「予言」のギアスが明らかになったあたりから。「こんなの勝てるわけないだろ」と、もし周りに人がいなかったら呟いていたかもしれない。これほどの強敵感を感じたのはいつ以来だろうか。

絶対に倒せないと思われていた敵を倒す、という構図はストーリーとしては珍しくはないのだろうけど、ほんとに観客に「絶対倒せない」と感じさせてしまうほどのチート的強さじゃないか、これは。

 

タイムリープ系の能力は、アニメでは特段珍しいものではない。だが、そうした能力を使うのは普通主人公サイドじゃないか。『リゼロ』『シュタゲ』『サクラダリセット』『時かけ』『僕街』『打ち上げ花火』……思いつくままに上げていくと脈絡がないが、多くの場合はタイムリープ、ループ能力を利用するのは主人公の側だろう。

もちろん、そういった作品でも能力の制約があったり、能力を使ってもなお攻略困難な壁にぶつかったり、あるいはどの選択をするかで葛藤があったり、というのは描かれる。時間跳躍の能力が万能であるわけではない。もしくはエンドレスエイトのように、利用するというよりは巻き込まれるタイプのものもある。

 

しかし、そういった作品群とこの作品が違うのは、そのチート能力をはっきり敵が使う点だ。だからこそ勝てるわけないと絶望もする。

しかもその「絶対勝てない」感覚は、あくまで観客が敵のギアスの能力を知ったときに感じるものだ。当事者のルルーシュにとっては、ギアスがどういう能力のものであるかを正確には知りえない。ギアスであるのかどうかも分からない。なぜか相手が自分の作戦すべての上を行く、という状況として現れる。

それだけにこの困難を打開するのは、よりハードだ。ギアスの能力を知らされた観客としてこちらは「勝てない」と思ったのに、ルルーシュはなぜ自分が追い詰められているかの理由の推測から始めなくてはならないのだから。

 

問題は、ルルーシュが(ギアスの力を持っているにはしろ)知略型のキャラクターであるということだ。それだけに「予言」相手にはすこぶる相性が悪い。

もしルルーシュの強みが別のところにあったなら、「予言」にここまでの絶望感は感じなかったに違いない。ルフィも悟空もナルトも、戦う系の主人公はアホが多い。ルルーシュはそうでないところが魅力でもあるわけだが、それゆえに「予言」には分が悪く、圧倒的強敵として現れることになる。

 

知略の勝負において「絶対勝てない」相手を、まさにその知略において上回っていく。映画なんだから最後は主人公が勝つだろうと薄々は思っていても、この構図には爽快感を覚えないではいられない。

 

興奮の理由としてはもうひとつ、ルルーシュの思考プロセスを追体験できる(という気になれる)描かれ方だ。ルルーシュは直感・ひらめき型ではなくて、論理的思考型の頭脳なのだ。

 

囲碁や将棋を見ていて思うけれども、天才の繰り出す一手というのはひらめきがもたらすものだったりする。プロ棋士は何十手もの候補手をすべて検討して名手を編み出すのではなく、たいていは直感的に有力な手が思い浮かぶ。

こういう思考プロセスの場合は、「なぜそんな手が思いついたのか」と問うても、明確な答えは得られない。ひらめき・直感としか言いようがない。

その「ひらめきの一手」のスゴさは、思考プロセスではなく、その着手そのものに感嘆するほかない。これはある程度棋力があったり、だれかに解説してもらわないとその凄さが分からない、ということでもある。

 

私が「ひらめきの一手」ではなしにプロ棋士の思考に感嘆したのは、その局後検討を見たときだった。たしかNHK囲碁杯の1局だ。視聴者向けの解説ではない。対局者が視聴者ガン無視で検討を始めたときの、その石を並べるスピードに驚いた。石を並べるのにその速さなのだから、頭の中はもっと速く回転しているだろう。

いまだったらそうでもないかもしれないが、当時の私はプロ棋士の頭のなかを覗いた気がした。プロ棋士はこんなスピードで考えているのかと思った。ゆっくりと並べるのであれば、一手一手の意味を理解するのは別に難しくはない。しかし石を置いていくあまりの速さに、視聴者の私は理解が追い付かなかった。

このときの私は、繰り出された妙手や勝負手ではなくて、思考プロセスそのものに触れて、「なんかスゲー」と感じたのだった。

 

ルルーシュに感じる「なんかスゲー」感も多くはこれと同種のものだと思っている。

直感的に戦略をひらめくのではなく、無数の手を瞬時に思いつき、それらの一つひとつから論理的に答えを導きだしていくタイプ。

それは「ひらめきの一手」ではない。しかし論理的な思考であるがゆえに、その思考プロセスを追体験した気になれる。追体験できるから、「何考えてるかわかんねーけど、なんかスゲー」となる。

この体験が快感であるのだ。