ぽんの日記

京都に住む大学院生です。研究とは関係ないことも気ままに書いていきます。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

現代は、「死」よりも「生」の苦しみの時代ではなかろうか

キミスイ批判ではない。むしろキミスイを見る前に考えていたこと。

経緯というか、昨日のエントリーの補足説明。こういう考えを声高に述べようという気は別にないし、誰かに論争を挑みたいわけでもない。

『君の膵臓をたべたい』(アニメ) - ぽんの日記

 

 

 

私が考えていたのは、作品中における死の描かれ方です。とくに現代劇の場合。

 

物語上の必要性が大して無いのに、演出とか悲劇性を高めるとかのために登場人物の誰かが死ぬ。そういうタイプの感動もの、お涙頂戴もの。死を利用しているように感じてしまうために、私はその手の話には距離を置きたいところがあります。

死に向き合いたいなら現実の事件でも何でも向き合えばいい。現実の死という重みがそこにはある。しかし「感動」とかなんとか売り文句の付くフィクションは、果たしてその重みに向き合い切れているのか。安易に死が描かれてしまうというのが、そういう重みから目をそらしてしまっているようで、私は好きではありません。

 

私がなぜこんな風に思うかというと、もちろん死を美化すべきではないというのもありますが、もっと言えば「生」の苦しみのほうが現代的課題だと考えるためです。

「悲劇の象徴としての死」という描き方は、分かりやすい描き方ではあるでしょう。しかし現代日本にとっては縁遠いものとなっているのも事実です。

 

「悲劇の死」としては、若いにもかかわらず予定された死、あるいは突然に訪れた死というものがあるかと思います*1。前者は難病などで余命〇年などと宣告されるような場合。後者は事故や事件に巻き込まれるような場合です。

 

 

大きな言い方をするならば、現代社会での死とは多くが高齢者の死です。下のグラフは戦後以降の死亡者の年齢構成の変化です*2。戦前まで含めればもっとはっきりするでしょうが、感染症が脅威だった時代は死のリスクは比較的あらゆる世代に及ぶものでした。医療、公衆衛生の進歩によって、死は多くが高齢者のものとなりました。

 

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 「突然の死」にしてもそうです。交通事故は「交通戦争」の時期をピークにして以降減少傾向ですし、他殺もほぼ一貫して減り続けています。

 

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ですから、自殺や過労死などを除けば、現代において「悲劇の死」というのは明らかに減っています。*3

 

では「悲劇の死」が減って社会はますます幸福になっているのか。

 

私はむしろ「死」が減ることによって、というか医療技術等が死を減らしてきたことによって、生きてしまう、生き残ってしまうという問題の側面が大きくなってきたのではないかと考えています。それが死よりも現代的な問いとなっているように思います。

 

脳卒中でも事故でも、一命を取りとめるというケースは増えたでしょう。しかし命が助かるケースが増えたということは、後遺症や障害が残るケースも増えたはずです。以前であれば死んでいたような事例が助かるようにはなったけれど、その生き残った人は後遺症を抱えながら生きていくことになります。

あるいは癌だって、生存率が高まるということは、癌とともに生きる人が増えたということになるはずです。

 

過労死・過労自死についてもそうです。「過労死等」という広義の言い方をしたときには、死だけでなく「未遂」のケースも含まれます。死に至らなかったという意味では不幸中の幸いと言えるでしょうが、過労鬱で済んだからラッキーなんてことはなくて、その後鬱病と向き合っていかなければならないでしょう。過労「死」のほうが関心を呼ぶのは理解できるにしても、過労鬱の問題も軽視はできないはずです。

 

ルポライターでで知られる鈴木大介氏が『脳が壊れた』という著書を出しています。「見えない障害」と呼ばれる、高次脳機能障害になった話が書かれています。

断定はできませんが、その原因となった脳梗塞も過労がたたったものと思われます。

 

脳梗塞の死亡率は15%と言われている。なんとか運良く死なずに済んでも、そのうち50%に介助が必要な後遺症が残る。

比較的再発率は高く、生存したうちの20~30%が再発し、しかも再発を重ねるほどに後遺症は重篤なものになっていく傾向がある。これは脳細胞の損傷が不可逆で、再発を重ねて損傷部位が増える事で、元の機能を代行できる脳細胞が足りなくなるからだろう。*4

 

 

医療の進歩で助かることは増えたはずですが、そのことによって人は幸福になったと言えるのか。

フィクションとして「悲劇」を描くのであれば「生の悲劇」を描いてほしいものです。

 

 

 

 

こういうことを書きながら、私自身がフィクションを見て(読んで)泣いたのって、大体「死」が描かれてるんだよな、とも思う。「死」が出てこないで泣けた作品って何があるかなと、ぱっと思いつくのは『聲の形』かな(ばあちゃん死んでるけども)。

聲の形』は2人して自殺未遂してるけど、ちゃんと生きてるわけで、あれで殺してたら絶対ここまで好きにならなかっただろうとは思う。

ジブリ作品でも私は『もののけ姫』が一番好きだけど、アシタカはタタリを抱えながら、サンも人間を好きにはなれないままも、ともに生きようとするし、宮崎駿はエボシを殺せなかった。やっぱり「生きろ。」の物語なんだと思う。

*1:老齢での死を悲しくないと言うつもりはありません。しかし天寿を全うしたということでもあるわけですから、「悲劇の死」とは違うでしょう

*2:以下グラフは人口動態統計調査より作成したもの

*3:もちろん、完全に無くなってしまったわけではないので「悲劇の死」を描くこと自体を否定する気はありません。ただ、ノンフィクションとしてならともかく、感動させたいがために演出するのは、作為性を感じてしまうのでやはり性に合いません。現実の多くの死なんて、もっとあっけないものでしょ

*4: 鈴木大介『脳が壊れた』新潮新書、2016年。144頁