ぽんの日記

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森本あんり『異端の時代』

なぜ著者は本書のタイトルを「異端の時代」としたか。

本書の枢奧というか、面白いのはキリスト教史を眺めていって、異端とはなにか、正統とはなにかを探っていくところにあると思う。

そういう宗教社会学の考察を素直に興味深いと思うのだけれど、「異端の時代」と称した著者の関心は、現在の政治状況まで視野に収めたいということだろう。

 

異端の時代とはつまり現代のことだ。現代と書くべきか現在と書くべきかちょっと迷うが、ともかくもトランプ大統領をはじめとする、現在のポピュリズム的な政治状況が念頭に置かれている。

ただし著者の専門は宗教学であるから、現代の状況を直接政治学的に分析するということはしない。主にキリスト教の歴史を振り返っていくことによって、「正統」「異端」のメカニズムに接近していく。

 

現代は宗教よりも近代的な科学や民主主義のほうに大きく価値が置かれるようになっているかもしれないが、考えてみればそういう近代の産物よりも宗教のほうが長い歴史を持つのだ。異端が生まれたり、正統性によってそれを排除しようとするメカニズムは、宗教学のほうが政治学よりも広い視野で見ることができるのかもしれない。

 

以前このブログに書いた與那覇潤さんの『知性は死なない』では、反知性主義anti-intellectualismは「反正統主義」という訳語が最もニュアンスが近いと述べていた。

 

ここでもやはりキリスト教に遡っているが、反知性主義というものを考えるうえでは宗教に立ち返るのがいいのかもしれない。

 

 

正典や教義が正統を作っていくという考え方を著者は否定していく。深く考えたことはなかったが、確かにその通りだと納得できる。しかし聖書原理主義的な陥穽にハマってしまうのは、それが理解できていないからだ。

 

正典や教義は後から作られるのであって、むしろ異端の存在ゆえに必要とされる面を持つ。異端もまた初めから異端であるわけではなく、滅びたり排除されたりして、結果として異端となる。

もとはといえばキリスト教もまた異端そのものだ。ユダヤ教から見るならば。

正統は初めのうちは異端を抱え込んでいるが、それができなくなると異端として排除することになる。だが、別の宗派となるか、別の宗教となるかは、案外曖昧だったりする。

 

正統というものをはっきりと指し示すことは実はできないのだ。それは全体性やその輪郭によって記述するほかない。それというのも、正統が正統であるためには、それが正統だと広く人々に共有されなければならないものだからだ。それは単に多数というだけではなく、過去未来にわたって多くの人に、ということだ。

逆に言うと社会的にそうした観念が共有される基盤(宗教社会学では「信憑性構造」というらしい)がなければ、正統性の輪郭が形作られることはなくなってしまう。

 

それが現代。信憑性構造が崩れてしまった時代だ。

だから、まさに本書に即して考えるなら、「異端の時代」という述べ方は正確ではない。

異端が生まれることは珍しいことではないのだから。本書で描かれているのは、まさに正統と異端のせめぎあいの歴史だ。

 

ならば現代をなぜ「異端の時代」というか。

それは正統なき時代になってしまったということだ。異端ではなく「非正統」だ。

 

著者は「個人主義の宗教化」という言葉で表現する。

従来の公共的な権威が消失し、目的や意味が外から与えられていた時代は終わった。現代人は自然世界に放り込まれた偶然的存在であり、意味や秩序を創造者に求めることはできない。

客観的意味が喪失されたとき、拠り所としては個人の内的、主観的世界に向かうほかなかった。そういうことだろう。

 

それは正統の溶融である。正統が溶融すれば、異端もまた同時に溶融せざるをえない。

現代の「異端」が単なる「非正統」だというのはその意味だ。ポピュリストは個々のイシューにおいて自らを多数派、国民の代表だと僭称することはできても、一貫した思想を提示することはできない。

権威や既得権益を批判する点では異端であっても、自ら正統に取って替わる気はない。

 

終章から引用。

現在の正統を襲ってこれに成り代わろうとする異端、時満ちなば必ずや正統たらんとする異端、みずから新たな正統を担おうとする覚悟のある異端だけが、真の異端だからである。少なくともそれは、現代人好みの「なんちゃって異端」のことではない。

(中略)

そのような異端だけが、やがて正統となる。正統となったら、次は自分が新たな異端の挑戦を受ける立場となる。それに正面から応えつつ課題を担い続ける腹構えが必要である。批判されても中央にどっかと居座り続ける図太さと憎たらしさをもたねばならない。それがさらに次なる若き異端の群れを育て、鍛えることだろう。そのようにして大舞台が回り続けることが、健康な社会の兆表である。

(239ー240頁)

 

 

最後のは正直、異端待望論で、そういう結論に持って行っちゃうのかと思うところはある。

本書で書かれているのは、なぜ「正統」が正統たりえてきたかという話で、そしてなぜ現代が「異端の時代」であるかといえば、「信憑性構造」が崩壊したからだということではないのか。歴史修正主義反知性主義フェイクニュースも、正統が成り立たなくありつつあるところに淵源があるという話ではないのか。

真正の異端、それは将来の正統になりうる可能性を含意しているはずだが、「信憑性構造」が崩れてしまったら、正統の芽も生まれないのではないのか。

 

面白く読めていて、最後どのように着地させるのだろうと思っていたが、ん? 私の誤読かこれは。