「井の中の蛙大海を知らず」に続く言葉。
私は「されど空の高さを知る」で覚えていたのだが、「高さ」ではなく「青さ」と来るのだった。
対句表現として考えれば、「高さ」のほうが収まりが良いようにも感じる。それは大海との対比であるからだ。まず「井の中」と「大海」との対比がある。前者は周りを囲まれた狭い場所であるのに対して、後者はどこまでも続く広い場所だ。
だから「井の中の蛙」というのは、「外にはもっと開かれた世界が広がっているのに、あなたはそれを知らない」と指摘する言葉になる。〈狭さ〉に対する〈広さ〉の言葉。
この言葉に対して向こうを張った(あるいは見栄を張った)のが「高さ」だ。
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」
「お前は大海の広さを知らない」と言われたことに対して、「たしかに広さは知らないが、でも空の高さは知っているぞ」と対抗する。〈広さ〉の言葉に〈高さ〉を対置する。
言葉の据わりでいえば「青さ」より「高さ」のほうが良いかもしれない。〈広さ〉というヨコの軸に対して、〈高さ〉というタテの軸の対比になるから。
「空の青さ」と言った場合には、対置されるのは「大海の青さ」になる。青に青をぶつけている。しかしそもそも「井の中」に対して「大海」を持ち出したのは、空間的な話をしている。それが「青」と言ってしまうと、いつの間にか空間の話から色の話に変わってしまっている。
私が「されど空の青さを知る」と聞いたときに感じていた違和感はおそらくこれだ。コミュニケーション不和を起こしている。
一方の人物は「大海」の広さを(あるいは「大海」を知ったがゆえの現実的妥協)を訴えている。この人にとっては「井の中」と比べた「大海」の話をしているからそういう発想になる。
他方の人物は「空」の青さを語っている。この人にとっては「空」も「大海」も青いのである。
これでは2人の会話はすれ違う。〈広さ〉と〈色〉という別々の価値観の話をしているのだから。
でもそれは歩み寄れる可能性でもあった。「高さ」ではなく「青さ」であったからだ。
「空の高さ」と「大海の広さ」では、タテとヨコの別々の価値観のままの会話になってしまう。これが「空の青さ」と「大海の青さ」になれば、〈色〉という同じ価値観での対話になる。
「井の中」の狭さにくすぶっていた人も、「大海」の広さに打ちのめされていた人も、「青さ」であれば同じように感じることができるのかもしれない。
超平和バスターズの最新作 『空の青さを知る人よ』を観て考えたことでした。