ぽんの日記

京都に住む大学院生です。twitter:のゆたの(@noyutano) https://twitter.com/noyutano

アニメ『イエスタデイをうたって』 なぜこの空気感が刺さるか

 ハマってた。

 不安定だが居心地のよい短期均衡解から、長期安定としての複数ナッシュ均衡解の選択過程と、その途上でのハイパーメリトクラシー社会における自己変革について論じたい……ごめん、テキトーに書いた。論じたいのは、本作が舞台とした時代の空気感と、登場人物の心情や関係性に対するその空気感の投影である。

 なぜこの作品が胸に突き刺さるのかの(私にとっての)説明だ。

 

 

なぜこの時代なのか

〈揺らぎ〉と〈ねじれ〉

 本作のテーマを一言でまとめると〈揺らぎ〉がふさわしいように思う。そしてその〈揺らぎ〉を強調するために対比的に強調されるのが〈ねじれ〉だ。本作のキャッチコピーとして用いられている「愛とは何ぞや?」という問いかけも、この文脈に位置づけて捉えられる。以下では〈揺らぎ〉と〈ねじれ〉をキーワードに作品を追っていく。*1

 〈揺らぎ〉は3つの位相で描かれる。自己(感情や心理)、対人関係、時代的状況の3つだ。この3つの〈揺らぎ〉が平仄を揃えてあたかも掛けあわされることで、この作品のよい味が出ているように感じられた。この空気感の表現はなかなかできることではない。前2者の〈揺らぎ〉をシンクロさせるだけならば、私はここまで作品に魅かれることはなかったに違いない。三重の〈揺らぎ〉の表現こそが、この作品を他にないものにしている。

 そのためには90年代末-00年代初頭という時代設定でなければならなかった。2020年の現在からみれば、20年も前の時代である。20代以下の若者にとっては「懐かしい」より「知らない」時代。なぜ今ごろになってこの時代を描写するのか、なぜ今のアニメ化なのかと問われることは避けられない。

 しかし時代設定を現在時点に移植することはできなかった。それは単にデバイスやツールを変えるということでは済まないからだ。およそそれは、この作品のテーマの根幹にかかわることだ。私が以下述べていくような意味での〈揺らぎ〉というテーマを表現するには、この時代の空気感こそ、もっともふさわしいものだったのだ。

 この時代にはコンビニ*2も、ファミレス*3も、カラオケ*4も、自販機も、現在も見慣れている景色の多くがすでに登場している。これらは大雑把にいえば大衆消費社会が花開いた70年代、80年代に誕生・普及したものといえるだろう。『サザエさん』とか『トトロ』とか『三丁目の夕日』の世界ではない。ムラ社会や下町文化とは異なる、都会の空気。

 一方ではまた、我々は2000年代に入って以降の社会と異なっていることも十分認識している。ケータイやネットの普及は、対人コミュニケーションのあり方を大きく変えた。ネット社会、情報社会が幕明けていく。血縁・地縁的な結びつきは薄れ、かといってネット社会・監視社会にもなりきっていない時代。つながりすぎない時代、つながらないでいることができる時代、そんな過渡期の時代なのである。

 

 ちなみにいうと、ストーカー規制法*5ができたのが2000年、DV防止法*6が2001年、個人情報保護法*7が2003年成立、2005年から民間にも適用となった。

 ……あ、いや、別に、作中描写のあの、つきまとい行為がどうとか、連絡先や住所を教えてしまうのがあれだとか、そういうことを言いたいのではない。ただこのあたりの時期を境にプライベート領域に対する考え方、社会的な価値観が変わっていったということだ。

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ハルはストーカーではないよ*8(画像は公式ツイッターより)

 

90年代の残り香

 本作の原作漫画は1998年に連載が開始された*9。アニメ内でのもろもろの描写などからも、90年代末を舞台として設定しているのだろうと思って私は視聴していた。

 ところが、そうではないらしい。公式設定によればアニメでの作中の年代は2000年代初頭ということである。監督がはっきり指示したようだ。

 

藤井 舞台は2001年、世田谷線沿線ですね。原作がお好きな監督からの「世田谷の沿線沿い」というピンポイントな指示がありました。(*2話から2002年〜という設定。)

 最初は監督がまだ構成に悩まれていて、何度か一緒にロケハンをしていく中で、実際にその場所を利用している人達への取材などを通して、原作の世界観をどうアニメーションとして表現するのかを試行錯誤している姿が印象的でした。
 テレビや信号機を古い型にしたり、LEDを旧式のものにして欲しいという話もしましたね。

リアルと物語の「間」を描く。アニメ「イエスタデイをうたって」の“美術”を紐解く Part1 | TVアニメ『イエスタデイをうたって』公式サイト

 

 実際、第4話での浪の部屋のカレンダーの曜日配置からも、2002年であることが確認できる*10。同様に第11話のカレンダーからも、この年が2004年であることがわかり、作中での経過年数と一致する。

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画像はTVアニメ『イエスタデイをうたって』公式サイトより

(1月1日が木曜日なので、2004年だとわかる)

 

 ここに一つのズレがある。なぜ90年代ではなく00年代なのだろうか。原作の雰囲気を重んじるなら90年代末に設定したほうがよかったのではないか。あえて2000年代初めの時期にしたのはなぜか。何らかの演出意図があるはずだ*11

 おそらくは「90年代末の残り香を引きずった感じ」を表現したかったのではないだろうか。舞台は00年代初頭でありながら、登場人物たちの周囲には90年代末の空気が漂っている。この微妙な年代のズレが、〈揺らぎ〉のひとつの演出なのだ。強引に一言でまとめてしまえば、「やや時代に乗り遅れた感じ」だろうか。

 それはこの作品のテーマと重なるものである。変化と現状維持の間で揺らぐ人間模様だ。

 登場人物たちは、変わりたい、変わらなければならないと絶えず意識する。その一方で変わること、変わってしまうことへのおそれを常に抱えている。あるいは変わらないままでいることにどこか安住してしまう。それは相反する心情である。だからこそ、その心の〈揺らぎ〉は切実だ。

「やや時代遅れ」はその雰囲気にマッチする。変化していく時代、変化してしまう社会に対して、すぐには適応できないでいる状態。

 

 

 

 一応、念のためというか、確認しておこう。90年代末と00年代初頭の空気が違うと私が言ってることがちゃんと伝わるように。

 日本で携帯電話が普及しはじめるのは90年代後半からだ。1999年にNTTドコモiモードサービスを開始し、ケータイから直接ネットに接続できるようになる。2000年にはJ-フォン(2001年ボーダフォン傘下、現在はソフトバンクに)がカメラ付き携帯電話(写メール)を発売。若者層に爆発的に普及したのはこのあたりだろう*12

 

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世帯主年齢別携帯電話保有率(「通信利用動向調査」より作成)

 

 グラフの数字は「世帯」を対象としている。個人普及率ではなく世帯普及率だ。個人普及率を年齢層別に出せなかったので、これで代用している。固定電話であれば世帯普及率でいいんだろうけど。調査票の設計が時代の変化についていけてない感がある。

 

 携帯電話の普及状況をフジテレビの月9ドラマから調べたのが堀井[2006]だ。彼によれば最初に携帯電話が出てくるのは1989年1月期の『君の瞳に恋してる!』。だがこれは車載式の巨大な電話。その後の『すてきな片想い(1990年)や『東京ラブストーリー(1991年)にも出てくるが、個人所有のものではなく、会社で利用する業務用のものだ。

 個人所有と思われる携帯電話は『この世の果て』(1994年1月期)、『妹よ』(1994年10月期)のもの。しかしどちらも大金持ちが持っているだけで、誰もが持つようなものではなかった。1995年7月期の『いつかまた逢える』で携帯電話を持っている人が2人以上出てくる(画期的!)。『おいしい関係(1996年10月期)では折りたたみ式の携帯が登場するという。

 携帯電話を使った恋愛が全開になるのは1997年秋の『ラブジェネレーション』からである。木村拓哉松たか子のドラマだ。第一話の冒頭、木村拓哉の携帯電話シーンでドラマが始まり、最終話では、山で立ち往生した木村拓哉の携帯がつながらなくなって、ずいぶんともめていた。そんな設定が通用したのは、これがぎりぎり最後である。それ以降、そんな言い訳をしようものなら現実世界でもぶっとばされてしまう。

(堀井[2006]149頁)

 

 携帯電話の普及に逆比例して減っていくのが公衆電話だ。1985年の電電公社民営化の際にも数を減らしているが、21世紀に入ってからの減少ペースは著しい。

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公衆電話数の推移

「情報通信白書」各年版より作成。元データは郵政省、各社資料。ICカード」「デジタル」「アナログ」はNTT。アナログ公衆電話には、赤電話、青電話及び黄電話を含む。

 

 ついでに固定電話のほうも。

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固定電話契約数の推移

https://www.ntt-east.co.jp/databook/pdf/2019_05.pdf

 

 21世紀に入っているのに、あえて90年代末の雰囲気を演出しているのは他にもある。

 

 一例をあげればペットボトルだろうか。缶飲料は頻繁に描かれるにもかかわらず、ペットボトル飲料はほとんど出てこない。第1話で自転車をこいで躓くのも、第2話でハルが「先生に宣戦布告」するときも、第3話で「約束くらい守れよな」とハルが叫んだ時に陸生が買ったのも、第5話でハルとミナトが階段で飲んでいるときも、第8話でリクオがハルにおごった自販機のコーヒーも、第12話でリクオと榀子が公園のベンチで話すときも、第7~9話のED映像でゲーム機の前に置かれているのも、ことごとく缶であって、ペットボトルではない*13

 やはりこれも、あえてペットボトルの描写を避けていると言えそうだ。

 実のところ、2000年代に入ったあたりの時期から、すでにペットボトルは多数派となっている。もともとは缶飲料のほうが多かったが、その量は90年代半ばから減少を続ける一方、ペットボトル飲料のほうは右肩上がりに増え続け、2000年にはペットボトルが缶を上回る。21世紀はペットボトルのほうが普通になったといえるだろう。

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清涼飲料容器別生産量の推移(全国清涼飲料工業会「清涼飲料関係統計資料」より作成)

 

 わざと古めかしいほうを持ってくるというのは、旧500円玉もそのパターンか。

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第10話で出てくる旧500円玉。色が銀色で、側面が「NIPPON」とレタリングされていることが読み取れる。新500円玉が発行されたのは2000年だから、この時点で新500円玉が使われていてもまったくおかしくはない。あえて旧500円玉を描写しているのだ。「平成十年」は原作の連載開始年からとったか。

 

 このように、このアニメは風景や小物をわざと古めかしめに出す。00年代初頭を舞台としながら、90年代末の雰囲気を醸す。言い換えるなら、90年代末の残り香を引きずった21世紀の描写である。

 思えば7~9話で使用されたエンディング画像も、アーケードのシューティングゲームであった。21世紀を舞台にしながらいかにもレトロチックである。90年代末だとしても古い。

 このような「時代遅れ」感=過去を引きずっている感は、初恋を忘れられない榀子や5年前からの恋や旧姓使用にこだわるハルはもちろん、主人公*14リクオに関して顕著だ。

 彼の部屋は、友人の福田からは「時代を超越してる」と言われ(第1話)、ハルにはそのテレビゲームを「前世紀の遺物」となじられる(第10話)。いまだに黒電話であるのは、90年代の設定だったとしても古い。リクオは「思い出したくない過去」がたくさんあると述べるが(第1話、第6話)、それは過去を顧みることなく前進しているという意味ではないのだ。

 

 現在(2020年)の視聴者は、その後どう時代が変わっていくか、変わってしまうかを知っている。ケータイはさらにスマホになり、SNSは日常とは切り離せなくなった。コミュニケーションのあり方は、当時とは必然的に変わっていかざるを得ない、そのことを我々は知ってしまっている。

 変わることを求められ、でも変わらないままでもいたい。リクオたちの〈揺らぎ〉に思いを馳せながら、こんな時代環境がいわばかりそめのものだったことを思うのだ。

 

オレンジジュース

 飲み物の話が出たからついでにオレンジジュースの話をしよう。まあ、余談だ。

 このアニメ、オレンジジュース率が高い。

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オレンジジュース(左から第2話、第5話、第7話)

 

 もしかしたらこれも、90年代を想起させる意図があるのかもしれない。一言でいえばオレンジ100%のジュースの登場だ。

 オレンジジュースもまた90年代に変わったものの象徴のひとつである。日米農産物交渉において、貿易不公正としてアメリカから批判されたのが牛肉と柑橘類であり、ついにはそれまで行われていた輸入制限が撤廃される。生鮮オレンジは1991年度、オレンジジュースは92年度以降自由化となった。

 国内農家の保護政策としてはもうひとつブレンド規制もあったが、こちらも同時期に撤廃される。かつては輸入したオレンジジュースに国産柑橘果汁を混合する義務があった。それまでは輸入量の50%はオレンジ果汁比50%まで、残り50%はオレンジ果汁比90%までだった。果汁100%のポンジュースは1969年に誕生*15しているが、あれはオレンジと温州みかんの混合だ*16

 オレンジ果汁のブレンド規制は、88年から割当枠の一部が適用除外となり、90年度から撤廃される。輸入自由化ブレンド規制の撤廃で、90年代はオレンジ果汁の割合が高まった。

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みかん、オレンジ及びブレンド果汁製品の消費動向(直接飲料JAS実績)

日本果汁農業協同組合連合会「果汁関係統計資料」より作成。「みかん+オレンジ」は柑橘混合で、みかんを主体にオレンジをブレンドしたもの、「オレンジ+みかん」はオレンジ混合品で、オレンジを主体にみかんをブレンドしたもの

 

 そもそも当時は果実飲料の統計のカテゴリーが「みかん等」となっていた。みかん主体だった「みかん等」飲料は、90年代を経てオレンジ主体に変わっていく。

 ところが消費動向において目を引くのは、内訳の構成においてはこのような変化が起きた一方で、全体の消費量は低迷していることである。これは商社や飲料メーカーにとっては見込み違いのものであった。「本格オレンジジュース」が飲めるようになって消費が拡大すると目算していたのだから。

 

 変化は生じても、全体としては停滞している。バブル崩壊後の日本経済って感じだな。

 80年代までの日本であればこうではなかった。所得も消費も右肩上がりの成長モデルを想定できた。それができなくなっていくのが、やはり90年代以降の日本ということになるだろう。

 なかなか進展しない登場人物の関係性と、停滞する日本経済の重ね合わせ……とまでは言わないけれど。

 

 ところで、余談に余談を重ねることになるが、第5話でハルが飲んでいたオレンジジュース。よくみると果汁20%と書いてある。

 果汁100%でなければ「ジュース」と表示することは許されないからこれはおかしい。これはJAS規格の果実飲料品質表示基準により規格分類が定められていて、「果実飲料の表示に関する公正競争規約」が不当表示を禁止している。

 

 で、だ。

 このJAS規格が1998年に改正され、それに合わせて公正競争規約のほうも2001年に改正されている。もしかして改正前は「ジュース」と表示しても良かったのかと一瞬疑って念のため調べた。結論をいえば改正前でもダメだ。

 1971年に告示された旧「果実飲料等の表示に関する公正競争規約」では第5条第2項で「事業者は、果汁含有率100%のもの以外のものについては、その商品名又は説明文等にジュースの名称を使用してはならない」とされている。この文言自体は現在ではなくなったが、「一般消費者に誤認されるおそれのある表示」はやはりできないから、商品名に「ジュース」の語を用いることはできないと解される。

 だとすればハルの飲んでいたオレンジジュースはルール違反であるはずだが。……あるいはハルのアウトロー、ミステリアスっぽさを演出するために、わざとそんなオレンジジュースを描いたのか???

 

世間のまなざし

 登場人物たちの心理や関係性の揺れ動きが描写された本作だが、そこには彼らの置かれた状況の〈揺らぎ〉も影を落としている。「はみ出し者」はそのキーワードだ。「はみ出し者」に対する世間のまなざしの不安定さ、曖昧さ、あやふやさ。それゆえに心は揺らぎ、模索する。

 

 いまさら証文の出し後れみたいだが、本稿で取り上げるのはリクオ、ハル、榀子の3人がメインだ。原作は違うのかもしれないが、アニメを視聴する限りでは、主要登場人物4人は四角関係ではなく三角関係(+α)としたほうが理解しやすい。ロウは榀子の攪乱ファクターくらいの位置づけだ。

 対榀子はともかく、他の2人との絡みが弱い。リクオ・ハル・榀子の関係の場合、ハル―榀子間は元教え子・教師かつ恋敵であるという興味をそそられる結びつきになっている。しかしリクオ―ロウのラインは直接恋敵として対峙するよりも、榀子を介しての役どころになっていて、線が弱い。ハル―ロウのラインに至ってはほとんど印象が残っていない。

 実際、話数順に彼の出番をふり返ると、第1話:未登場、第2話:榀子の過去を説明する、第3話:ハルにコーヒーをサービスされる、第4話:榀子が帰省した意味を説明する、第5話および第6話:出番なし、第7話:榀子にとっての悩みのタネとして陸生に相談される……。こう記してしまうと、他のキャラの説明や動機付けのためのポジションにさえ思えてくる*17

 そういうわけで以下ではリクオ、ハル、榀子をメインに扱い、ロウには触れていない。*18

 

フリーター像の変容

 なぜ作者は主人公をフリーターという設定にしたのだろうか。これは単にネガティブなレッテルとしてキャラ付けしたということでなく、「フリーターとはどんな存在か」という社会からのまなざしが二面性を有している点をおさえておくべきだと思われる。そのほうが作品解釈としてふさわしい。揺れ動くリクオの立ち位置をフリーターという社会的ポジションによって表象しているのだ。

 作中では「フリーター」ではなく「プー(タロー)」の語が用いられている(第1話・福田のセリフ、第2話・ハルのセリフ)。漢字だと「風太郎」と書く。もともとは港湾荷役などを働く日雇い労働者を指す言葉として使われたもので、ここでは「定職をもたず、ぶらぶらしている人」のことである。コンビニのアルバイトは「定職」とは見なされない。

 

 ネガティブな意味を持つ「プータロー」の語に代わるものとして考案されたのが「フリーター」という言葉だ。これはフリーアルバイターを略したもの。濱口[2013]によれば、シンガーソングライターの長久保徹氏の造語「フリーアルバイター」を朝日新聞が1986年3月に紹介。全国的に流行語となり、雑誌「フロム・エー」の編集長・道下裕史氏が「フリーター」と略したという(濱口[2013]152-153頁)

 このような出自であるので、「フリーター」という言葉はポジティブな意味合いを付与する狙いで登場したものだ。これがバブル経済崩壊を経て、「いつまでもブラブラして定職につこうとしない若者の甘え」として批判されることになっていく。

 

 次の文章は、その道下氏のインタビューである。

 私が「フリーター」という言葉を考えたのは、今から18年前*19です。当時、学校を卒業してすぐ会社に就職するのではなく、アルバイトをしながら、「作家になりたい」「映画監督やカメラマンを目指そう」などと夢に向かってがんばっている――そんな若者が「プータロー」と呼ばれていました。それではあんまりだと思って、私が編集長をしていた情報誌『フロム・エー』で、フリーランスで自由に動けるアルバイター=「フリーター」と彼らを名づけたんですね。

道下裕史さん 「フリーター」400万人の現在・過去・未来 - 『日本の人事部』

 

「新入社員の意識調査」をみると、フリーターを「悪くない」と考える人の割合は90年代は比較的高い水準にあったが、90年代末ごろから減少していく。経済成長の停滞が長引き、正社員になれず仕方なくフリーターになる層が目立ってきたこと、加えて先述したように「若者の甘え」バッシングが強くなってくることが背景にあるだろう。

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フリーターに対する肯定意識の変化(日本生産性本部「新入社員 春の意識調査」より作成)

 

 マクロ経済的な動きとしては、新卒労働市場の悪化が大きい。

 下の図は大卒者の進路状況の推移を示したものだ。「就職・進学以外の割合」を黒の折れ線で表示しているが、バブル崩壊の時期を転換点として急増に転じている。そして2000年前後の時期=リクオたちが大学を卒業した時期に最も高い水準となっている。就職氷河期が苛烈を極めた時期であるのだ。男性若年層の非正規雇用の増大が見られるのもこの辺の時期だ。

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大学(学部)卒業後の進路状況(「学校基本調査」より作成)

1999年(1998年度卒業者)のデータから、「無業者」のカテゴリーが「左記以外の者」に変わる。2012年データから「就職者」のカテゴリが「正規の職員等」「正規の職員等でない者」にわかれる。

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男性25~29歳の従業上の地位の構成割合(『就業構造基本調査』より作成)

 

 これに付け加えて、フリーター問題への政府の対応も遅れたことも指摘しておく。「フリーター」の語が生まれた当時の「夢見るフリーター」像を引きずっていたこともあり、フリーターの急増は雇用・労働市場の問題というよりかは、若者の就労意識の問題として論じられがちだった。フリーターやニート*20言説が若者の甘えや意識の問題として取り沙汰され、00年代半ばくらいの状況だった。

 ちょっと時系列を拾っておく。

 NHKスペシャルで「フリーター 417万人の衝撃」が放送されたのが2004年3月。同じくNHKスペシャルワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」が特集されたのが2006年7月だった。厚生労働省に若年者雇用対策室が設置されたのは2004年だそうだ(濱口[2013]19頁)

 いわゆるロスジェネ論壇が出てくるのがその後。雨宮処凛『生きさせろ!』が2007年。この年もうひとつ象徴的だったのは、赤木智弘氏の「三十一歳、フリーター。希望は、戦争。」論文だろう。いまの言葉でいえば「無敵の人」言説といえるだろうか。この論文が掲載されたのが朝日新聞社の月刊誌『論座』2007年1月号だった*21

 

 なお、「ロスジェネ世代」の命名については朝日新聞が2007年正月の紙面で特集して広めた。

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朝日新聞2007年1月1日

正月の紙面で特集を組んだ。リード文で「彼らをこう呼びたい」と記している。

 

 そしてまたこの世代が2019年には「人生再設計第一世代」と命名され直したことは記憶に新しい。

 

 

 さて、アニメの舞台はこうした一連の動きに先立つ時期だった。フリーターが社会問題としては政策的関心の俎上に上っておらず、「ロスジェネ」のような名前も与えられていなかった。ポジティブなイメージをまとって生まれたはずの「フリーター」という言葉が、ネガティブな意味合いが強くなっていく過渡期でもあった。

 フリーターに対する世間のまなざし、社会的評価が移り変わっていく渦中であった。ポジティブとネガティブの二面性で揺れていた。作中では、バイトをしながらバンド活動をしている木下さんがポジティブな側面として描写されている。逆にリクオの側は、やりたいことがあるわけでもないのにフリーターになってしまったネガティブ面が強調される。だからこそ彼は「やりたいこと」を強く自問するのだった。

 この「やりたいこと」をめぐる問題は本作品の主要なテーマであるから、また後述しよう。

 

高校中退とカラス

 リクオと並んで「はみ出し者」の位置づけにいるのがハルである。

 

 学校という場にあって、「はみ出し者」への目線が変わったこととして、「登校拒否」が「不登校」と呼び変えられたことが挙げられる。これもまたその当時ごろのことだった。

不登校」については文部省*22が『学校基本調査』で調べている。その調査のなかで長期欠席の理由についても尋ねているのだが、選択項目の中にかつては「学校ぎらい」というものが存在していた。文部省がこの名称を変更したのが1998年度のデータ(99年度実施の調査)からだった。「学校ぎらい」が「不登校」に改正されたのである。マスコミが報じる「登校拒否」の数字は、この「学校ぎらい(不登校)」の数を指していた(保坂[2000]16頁以下)

 

「登校拒否」「学校ぎらい」と、「不登校」とではニュアンスがだいぶ異なる。

 前者においては、学校に行かなかった原因が生徒本人の側にあるという印象を強める。実際には不登校の原因は一様ではなく、家庭や学校、地域社会の問題などもさまざまに考えられるものだ。その点を踏まえて文部省も「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、登校しない、あるいはしたくともできない状況にある者」というように、社会的要因や背景も含めたものとして「不登校」を再定義した。

「登校拒否」から「不登校」へと呼び方が変わっていくのが90年代末ごろだったとするなら、ハルが学校に通っていたのはまさにその過渡期だ。原因の所在が生徒個人の側にあるとする考え方が、今よりも根強かったであろうと推察される。

 

 ハルがなぜ高校を中退したのかについては、はっきりとは語られない。

 直接の原因はバーでバイトしていたことで発覚したことのようだが、リクオに対しては「テキトーに他人に話合わせて……人といるのが面倒くさくなって」学校を辞めたのだと、やや抽象的に語る(第1話)

 当事者が正直に語るとは限らないし、なによりそれはハルの主観的な語りだ。一人暮らしを始めた家庭環境などについても、作中ではそれほど深掘りされるわけではないが、中退にいたるまでの背景は複合的なものを想定させる。それでもハルが自分の気質の側に原因があるかのように語るのは、そのようなまなざしが今より強かった当時の空気を思わせる。

 

 念のため、学生アルバイトのことについて少し記しておく。ハルはバイトがバレたことが退学の原因ではないかのように述べるが、傍から見ればこれが直接のきっかけだろう。

 全国高等学校PTA連合会が1999年に実施した調査*23によれば、校則でアルバイトが禁止されている学校が24.7%、許可制となっているのが38.3%、届出制が29.9%となっている。勝手にバイトしてよい学校はほとんどないと言ってよい。

 また労働基準法では満18歳未満を危険有害業務に就けてはならないとされているが、そのなかには「酒席に侍する業務」「特殊の遊興的接客業における業務」がある(労働基準法第62条・年少者労働基準規則第8条第44号および第45号)。「特殊の遊興的接客業における業務」とは、行政解釈によれば「カフェー、バー、ダンスホール及びこれに準ずる場所において客に接する業務」を指している*24

「酒席に侍する」とか「客に接する業務」とはいわゆる接待*25のことだから、おそらくハルはバイト先は問題ないと思われる。しかし夜はバーとしてお酒を出す店であるのだから、学校側からすればいぶかし気な目線を向けてもおかしくない。それがハルの行動に影響を与えたと想像するのは難しいことではない。

 

 フリーター問題について政策不在が続いていたことを述べたが、高校中退というのも忘れられがちな問題だ。そういう意味で両者は「はみ出し者」としての共通点をもっている。

 高校へ進学することは当たり前となったが、それは高校を卒業することが当たり前になったことを意味しない。学歴としての「高卒資格」を考えた場合、進学しないために高卒をとれない生徒よりも、進学はしたが中退したために高卒をとれない生徒のほうが多くなっている。進学率が約97%あっても、ドロップアウトする層が1割程度存在するのだ。

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高校進学率と卒業率(『学校基本調査』より作成)

高等学校等への進学率:「中学校」「義務教育学校」「中等教育学校前期課程」卒業・修了者のうち、「高等学校」「中等教育学校後期課程」「特別支援学校高等部」「高等専門学校」に進学した者(就職進学した者を含み、過年度中卒者等は含まない。)の占める比率。
卒業率:「高等学校」「特別支援学校高等部」「中等教育学校後期課程」「高等専門学校」卒業・修了者を、3年前の「中学校」「義務教育学校」「中等教育学校前期課程」「特別支援学校中学部」卒業・修了者で除した率。

 

 香川・児玉・相澤[2014]『「高卒当然社会」の戦後史』という本がある。高卒が当然になっていく歴史を、学校という教育機会が提供される場に着目して分析した研究だ。

 着眼点として面白い本だとは思うのだが、「高卒」を本のタイトルに掲げながら、扱われているのは「進学」だ。高校進学が当たり前になった社会を「高卒当然社会」と呼んでいるのだ。中退の問題については、一旦脇に置かれている。大学でも高校でも、進学率と比べて中退率や卒業率はあまり話題にならない。*26

 

 人生のメインストリームから外れるために、世間から忘れられがちで見えにくい存在。ハルは「アウトロー同士仲良く」とリクオに述べる。「はみ出し者」として仲間同士なのだ。

 

 

 そんなハルが連れているのがカンスケというカラスだ。アウトローっぽさやはみ出し者のイメージをカラスが象徴する。

 

 どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っているのは月光仮面だが(しまった、このネタは古すぎてみんな知らないかもしれない)、カラスもこれに近いところがある。誰もが知っているが、カラスが普段何をしているかは、あまり知られていない。
 カラスはずいぶんと嫌われている生き物だが、観察してみれば別に嫌うべき点はない。多少大きいし、なんでも食べるし、態度がでかいし、そのくせ観察しようとするとすぐ逃げるが、大変興味深く、時にちょっとドジで、実に面白い。
(松原[2020]140頁)

 

 日常生活においても目にすることの少なくない身近な存在であるにもかかわらず、意外とその実態を知らない鳥。それも無関心というよりかは爪はじきにされることの多い、社会の仲間外れのような存在。かたや「カラスの濡れ羽色」のように、艶っぽい黒の美しさを指す言葉もある。アウトローだがミステリアスな魅力も持っていることも表している。

 

教師という職業

 榀子は高校教師である。舞台となった2000年前後と現在とではややイメージが違うかもしれない。

 

 下の図は公立学校教員の採用状況の推移である。競争倍率が最も高かったのがH12年、つまり2000年度である。その年をピークに競争率は年々低下している*27。これはバブル崩壊以降の就職環境で教員志望者が増えたことに加え、少子化を受けて採用者は抑制されたためである。その後2000年代に入ってからは、団塊の世代の退職や年齢構成の歪みの是正もあって採用者は増加する。その結果、最も競争倍率が激しかったのが2000年前後の時期であるのだ。

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公立学校教員採用状況(「平成30年度公立学校教員採用選考試験の実施状況について」)

 

 

 いまは教員の長時間労働が知られるようになったり、2007年ごろには「モンスターペアレント」が話題となったりして*28、かつてのほど人気はなくなっている。

 

 逆に言うとリクオや榀子が就職したころの時期は教員の競争率はもっと激しかった。

 端的に言ってしまえば、榀子は就職戦線の「勝ち組」であり、リクオは「負け組」なのである。かたや公務員、かたやアルバイトという不安定雇用という対比も強烈だがそれだけではないということだ。就職活動における「勝ち組」と「負け組」の圧倒的なギャップが2人の間には存在しており、それがリクオの自己肯定感、自信のなさの淵源となっている。

 

関係性の妙

なぜ「愛とは何ぞや」が問われるか

 「愛とは何ぞや」はハルのセリフであると同時に、第3話のサブタイトルにもなっている。この問いかけは作品をめぐる大きなテーマのひとつだ。

 

 ここでもやはり、時代的な文脈を押さえておきたい。一見この問いは哲学的な普遍的な問いかけであるように感じるが、このことに悩み答えを出そうとする様子には、時代的状況も深く関わっているようにも私には思える。

 第一にそれは、愛とはなにかに関しての答え・正解が明確なものではなくなっていること。しかし第二には、各自でその答えを見つけ出すことが切実な問題であるということだ。

 第一の点は恋愛規範の〈揺らぎ〉と言い換えられる。山田[1992]の言葉を借りれば「どのような感情が恋愛なのか、どのような関係が恋人なのか、その境界がゆらいでいるのだ」(51頁)ということになる。

 第7話においてリクオは、榀子との関係について「友達以上恋人未満」と福田に説明している。「友達以上恋人未満」という言葉はまさに恋愛における曖昧、あやふやな関係性を象徴する言葉だといえる。イミダスには「ともだち以上、恋人未満」が新感覚語・若者言葉として、1994年の新語流行語に採録されている。90年代の恋愛規範の〈揺らぎ〉を示すものといえよう。

ともだち以上、恋人未満 | 時事用語事典 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス

 

 

 

 ただし注意すべきは、それは恋愛規範の〈揺らぎ〉ではあっても、崩壊や消失ではないということだ。かつてよりも恋愛規範が揺らいでいるにもかかわらず、それが完全に崩れ去ったわけではなく、なお根強く残っているからこそ、「愛とは何ぞや」という問いに直面し、強く悩むのだ。

 

 このことは、登場人物たちが昔ながらの恋愛規範を引きずっていることからもうかがえる。社会学の用語でいうところの「ロマンティック・ラブ」に囚われているフシがある。

 ロマンティック・ラブとは「一人の人と恋に落ちて、その人と結婚し、一生添い遂げる」(筒井[2016]221頁)という、近代に理想化された恋愛像だ。もっと強く言い換えるなら、運命の相手と一対一の関係になり、ただその人のことだけを愛すると誓い、その関係が一生涯続くというものだ。

 もちろん現実にこのような恋愛結婚を成し遂げられる人が多数派だったかどうかとは別の話だ。そうではなくて、このような恋愛結婚が「理想」の「純愛」として美しいものとする考え方であるということだ。

 

 ロマンティック・ラブの視点からこの作品を観るとき、ある種の〈ねじれ〉を感じとる。

 すでに述べたように、この作品においてリクオやハルは社会のはみ出し者として描かれている。しかしそこで追い求めている恋愛はむしろ「王道」「純愛」だ。ロマンティック・ラブへの憧れが内包されているように見える。

 表面的には、というか、表向きはそれを否定するような発言もたしかにある。恋愛を「錯覚」と述べるのは、ハル(第1話、第2話)や榀子(第4話、第7話)の発言に見受けられる。リクオも「勘違い(かもしれない)」と表現している(第12話)

 このような物言いは恋愛感情が一時的なもの、幻覚のようなものだと口では言明するものである。「運命の相手との出会い」を期待するような願望は、そこにはない。この点ではロマンティック・ラブ的な観念は否定されているようにも見える。

  

 

 だがそのほかの言動はむしろロマンティック・ラブを志向しているように受け取れる。

 ハルは5年前のリクオとの出会いにこだわっている。第5話では(冗談めかしているとはいえ)「給料3か月くらい」の「エンゲージリング」をねだり、第12話では「私もいつかリクオにプロポーズさせます」と意気込んでいる。これは結婚を前提とした恋愛を想定しているということだ。榀子もまた杜田先生の「付き合っちゃえばいいじゃない?」のアドバイスを「なんでそうなるんですか」と立ち上がって反論している。立ち上がっての反論である。試しに付き合ってみるとか、気軽に交際してみるというような選択肢は頭にないためだ。

 ロマンティック・ラブは恋愛・結婚・性愛の3つが結びついたものであるとも言われる。それに反する行為は不貞や浮気として否定される。愛のないセックスや複数愛(ポリアモリー)・複婚(ポリガミー)は、この意味ではロマンティック・ラブとは相いれない。

 そうすると、結婚を前提とした恋愛を想定しているハルや、恋愛を軽々しいものとして扱っていない榀子は、どこかロマンティック・ラブの観念が尾を引いていると見るべきだ。

 

 このような書き方をしている時点で察していると思うが、作中にはこれと好対照な人物が登場する。ユズハラだ。彼女は「とっかえひっかえ」の恋愛をしているかのように描かれているし、(胸中のほどは知らないが)恋愛関係にないリクオの家に押しかけて同棲し、「別にいいけど」の発言も飛び出す。ハルとユズハラは「はみ出し者」という共通項もある一方で、恋愛という点に関していえば大きなギャップがある。ユズハラと人物を登場させ、榀子やハルと対比させることで、そのロマンティック・ラブの側面を際立たせているのだ*29*30

 

 恋愛規範が揺らいでいくなかで、なおロマンティック・ラブへのこだわりも強く残っている。友達以上恋人未満の関係性やユズハラのような人物が視界に入るからこそ、「愛とは何ぞや」を改めて強く問うのだ。

 

 これが00年代後半以降であれば、その焦燥感も違ったものになったはずだ。

 恋愛や性にガツガツしない若者を指す言葉として「草食(系)」が使われるようになったのは、深澤真紀『平成男子図鑑』(2007年、日経BP社)森岡正博草食系男子の恋愛学(2008年、メディアファクトリーからだ*31

 結婚しない生き方、恋愛しない生き方もおかしくないと受け止められるようになってきた。ゼクシィのCMが「結婚しなくても幸せになれるこの時代」という表現を用いたのは2017年のことである。

「愛とはなにか」よりも「なぜ恋愛をするか」「なぜ結婚をするか」の問いかけのほうが比重が大きくなってきたといえるだろう。


ゼクシィCM「私は、あなたと結婚したいのです」風船篇

 

 

 あるいは、今の時代に「はみ出し者」の恋愛をテーマにするなら、作中にLGBTなどのセクシャル・マイノリティを登場させることが「ポリティカル・コレクト」を踏まえた表現だろう。恋愛感情や性的指向の形は異性間に限られない。「愛の形はさまざまであるはずだ」というのが「正しい」答えである。

 LGBTという言葉も、日本では00年代後半に登場したものだ。NHKの番組で初めてLGBTが特集されたのが2008年*32。国会では2012年6月15日に井戸まさえ議員が「大臣は、LGBTという言葉を御存じでしょうか」と質問したのが初出だ*33

 その後、2012年に週刊東洋経済週刊ダイヤモンドが同時に「LGBT市場」に関する特集記事を設けたこともあり、ビジネス面からも注目を集めるようになった*34

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週刊東洋経済(第6403号2012年7月14日)の特集

 

 愛の形の多様性が広く認められている社会であれば、「愛とは何ぞや」というクエスチョンはそれほど強く切迫したものとはならないはずだ。いろんな形の愛が、社会的に承認されてるからだ。

 もちろん、現代の日本で愛をめぐる問いが無くなったと述べているわけではない。寛容でない価値観はまだまだ残っているし、各個人の悩みや葛藤はいつの世も存在する。しかし少なくとも社会のレベルでみれば、「愛とはこういうものだ」という議論よりも「いろんなタイプの愛があっていいんだ」という方向に価値観はシフトしている。

 

 この作品のテーマのひとつである「愛とは何ぞや」という問いかけは、普遍的な問いかけのようにも聞こえる。しかしこの問い自体も時代状況に依存するものだ。

「愛とはどういうものか。どうあるべきか」という恋愛規範は動揺し、かといって(恋愛や結婚をしないことも含めた)多様な愛を肯定する時代にもなりきっていない。そんな過渡期の恋愛観の〈揺らぎ〉が、登場人物たちの心情や関係性の〈揺らぎ〉のバックグラウンドをなしているのである。

 

不安定なのに居心地のいい関係性

 お互いの気持ちが明示的であるのに、関係が進展しないもどかしさがある。それがエモい。

 興味深いのは、お互いの感情が早い段階で明示されていることだ。ハル→リクオは第1話のAパート、リクオ→榀子の告白は第1話のBパートになる。ハルが「先生に宣戦布告する」のは第2話だ。「告白したいけど勇気が出ない」とか「相手の気持ちを知りたいけど聞くのがこわい」式の恋愛劇やラブコメとは異なっている。じれったさよりかは、曖昧で中途半端な関係性の描写にフォーカスがある。

 その中途半端な立ち位置、ポジションは、一時的な関係性だ。いつまでもその関係性を取り結んでいるわけにはいかず、より長期的な関係(恋人関係・婚姻関係)に移行するか、さもなくば「下心」を諦めるかしなければならないと、おそらくは認識されている。あくまでそれは微妙なバランスのもとに短期的に成り立っているだけで、だからこそ焦燥感にかられている。そのタイムリミットは明確に示されているわけではないが、友人が結婚していったり、周囲から発破をかけられたりして、どこかのタイミングで踏み切らなければと思っている。

 

 しかしそんな一時的であるはずの関係性に、どこか居心地のよさも漂っている。リクオが榀子に対して「今までどおり友達みたくしてっけど、下心ありだから」と告げたとき、それを聞いた榀子はほっとしてしまう(第2話)。榀子に最初に「ウチくる?」と誘われたとき、「本当ならもっと浮かれていい状況のはず」なのに、リクオはもやっとした気分を抱える(第8話)クリスマスパーティーの誘いをロウが受験だからという理由で断ったときは2人とも安堵しているし(第9話)、正月を一緒に過ごそうと提案されたリクオは、喜ぶというより「人生ってわかんねー」とむしろ戸惑いを浮かべている(第10話)

 

 これは単純に変化へのおそれだけでなく、現状維持に安住したい気持ちが強いように思われる。

 第一にはリクオ・榀子間にすでに適度な距離感が成立してしまっているので、急に関係性を縮めようとすることがむしろリスクにさえ感じられる。寝込んだときには看病し(第3話)、大学時代のメンバーとともに飲みにも行くし(第5話)、引っ越しの手伝い(第6話)も、悩みごとの相談もする(第7話)。現状の状態でも、頼ったり頼られたりする関係にあるということ。無理に恋人同士になろうとして破局するリスクを負う必要がないのだ。

 そして第二の理由は、ハルあるいはロウの存在。リクオと榀子の関係がどっちつかずだからこそ、ハルやロウとの関係も存続している。リクオと榀子が恋人関係になってしまえば、ハルたちとの関係は変わらざるをえない。恋愛は排他性を持つものだからだ。しかしリクオはハルを、榀子はロウを無下にすることはできない。

 リクオがハルを拒めないのは、自分と同類だからだ。リクオ→榀子の関係と、ハル→リクオの関係は相似形である。告白は成就しなかったが、なお諦めておらず、相手もそのことを承知している。ミナトが未練を捨てるために告白したのとは対照的だ。

 告白は成就はしなかったが、相手が保留してくれているからこそ、現状の関係を続けることには成功している。リクオは榀子がキープしてくれていることに一種の妙味を感じており、同じ立場のハルを拒絶することはできない。ハルをきっぱり振ってしまえば、それは自分自身を否定することになる。榀子が関係を維持してくれる以上、リクオもハルとの関係をキープするだろう。同じような立場、同じような気持ちであるからこそ、リクオはハルに対して「困った。その気持ちすげーわかる」と言うのだ(第3話)

 

 現状維持を指向する理由が以上のように大きく2つあって、それぞれが重なり合うために厄介である。厄介というのは、おそらく本人たちが自分で自分の感情に気づけていない。第10話で「強引になれないのは、優しいから? それとも野中さんがいるから?」という榀子のセリフでその核心を突く。翻訳すれば「わたしと野中さんとどっちが大事なの?」ってことだと思うが、リクオのその葛藤が描写されることはずっとなかった。そういう心情描写がないだけで、ハルのことを気にかけている描写自体はある。しかしリクオは、ハルに対しての気持ちを自問することは、最終話までないのだ。2つ目の理由が1つ目の理由に隠れてしまい、その気持ちに気づくのが遅れた格好だ。

 

場としてのコンビニ

 この作品におけるコンビニの役割に触れておくべきだろう。コンビニという場が、上で述べたような不安定だが居心地のいい関係性を支えていたものだからだ。

 コンビニは近接性の象徴として描かれている。近接性は身近さと言い換えてもいい。ただし親密さとは違う。心理的・精神的距離ではなく、日常での接触機会の多さのことである。

 作中でコンビニが近接さの象徴として使われていることは、店に「あなたの近くに」のコピーが掲げられていることからもうかがえる。コンビニは身近なもの、すぐに行ける場所の代表格であり、リクオがそこに勤務しているというのは、いつでも気軽に会える距離感を意味している。

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「あなたの近くに新鮮便利」のコピーが掲げられている(画像は公式ツイッターより)

 

 裏を返せば、リクオがコンビニのバイトを辞めることは、このような近接性が失われることを意味する。第8話で榀子が「このまま会わなくなってしまうのは嫌だな」と胸中で呟くのはまさにそれを意味している。

 

 リクオがコンビニを辞めたことが近接性のターニングポイントになっていることは、登場人物たちのエンカウント率にも表れている。

 誰それに偶然遭遇する、鉢合わせるというのは、この手の物語の「お約束」のひとつともいえる。しかし本作品ではリクオがコンビニを辞める前後でエンカウント(意図せざる遭遇)の数が明らかに異なっているのだ。

 ストーリー前半だと、カンスケを散歩させているハルにリクオが遭遇(第1話Aパート)リクオと歩いていた榀子にハルが遭遇(第1話Bパート)、失恋翌日のリクオとハルが公園で出会う(第1話Bパート)、夜の公園のブランコで桜を見ていた榀子をリクオが見かけ、さらにそこにハルが出くわし、ロウにも目撃される(第2話Aパート)、ハルが「約束くらい守れよなー」と叫ぶ場面(第3話Bパート)、ロウとハルがコンビニで出会う(第4話Aパート)、ミナト&ハルのペアとリクオ&榀子のペアが出くわす(第5話Aパート)リクオが熱で休んでいるときにハルと榀子がコンビニで会う(第6話Aパート)、といった場面が挙げられる。

 これは意図せざる遭遇としてのエンカウントを挙げたので、「リクオに会うためにコンビニに行く」という行為は偶然の出会いではないのでカウントしていない*35。同様に、予備校に出前に行ったハルをロウが見かけるパターンも含んでいない。

 もちろんこの中には純粋に偶然のものもあれば、「偶然を装った」ものもあるかもしれない。しかしいずれにしろ、職場や家を訪れたり出待ちしたりするのと異なって、「偶然」「たまたま」出会った形をとっている。

 

 ストーリー後半になるとこのパターンはめっきり減る。第8話Aパートでコンビニを訪れた榀子とハルが出会う場面*36、そして第11話でハルとロウがそれぞれ「修羅場」る場面くらいだ。

 

 前半であれほどエンカウントが頻繁に描かれているために、視聴者としてはそのパターンが頭に刷り込まれている。だからエンカウントしてしまう危惧(期待)を抱きながら場面をみてしまい、しかし結局エンカウントしない描写が多くなった。

 第9話で榀子がリクオの家を訪れ、大学時代の話やクリスマスの予定の話をしている直後、ハルがリクオのアパートを訪れるシーンが挿入される。このときはリクオが榀子の家まで見送りをしていたため、入れ違いとなっており、エンカウントは発生しない。そのほかにも、第10話Aパートでクリスマスパーティから帰るリクオと榀子、そのタイミングでハルがリクオのアパートを訪れる。同じく第10話Bパートで榀子とリクオが年末に食事をし、ハルのほうは年越しそばの買い出しに行く。いずれも3人がエンカウントするのではないかと勘繰って視聴してしまうが、実際にはそのようなシーンは訪れない。

 より端的に変化が表れているのは、「会いに行ったのに、会えない」描写が登場することだ。ハルがアパートの前でリクオを待つも結局出会えない場面(第9話)や、リクオがミルクホールを覗きに行く場面(第11話)。前者では、リクオはカラスの羽を拾ってハルが来ていたことを察し、後者では杏子さんからハルがバイトを辞めたことを聞く。どちらもリクオとハルが直接会うことができず、間接的な接触の描写になっている。

 

 つまり、ストーリー前半においては偶然のエンカウントの多さが特徴的であったのに対し、後半になると「すれ違い」の描写に重点がシフトしているのだ。そのことが象徴的に表れているのがコンビニという場であり、リクオがコンビニを辞めることによって、高エンカウント描写からすれ違い描写に変わっているのである。

 登場人物たちの間では、ケータイやSNSといったツールが登場しない。自宅の固定電話はあるにしても、頻繁にやりとりするのは難しい*37。そのため彼らにとってコンビニは、「気軽につながることのできる」場として大きな意味を持っていた。

 

 

 これが2つの〈ねじれ〉の構図を生む。

 1つは、本来であれば定職に就くことは好ましいことのはずなのに、それを躊躇してしまう要因が生じてしまうことだ。コンビニを辞めてスタジオの仕事に絞れば、これまでのように榀子やハルと出会うことはできなくなる。「このまま会わなくなってしまうのは嫌だな」という榀子と同様の思いをリクオも抱えていたはずだ。これまではわざわざ会う目的や理由、あるいは約束をつくらなくても気軽に会うことが可能だった。コンビニを辞めても会えなくなるわけではないが、これまでと違って能動的に会おうとしなければならなくなる。

 仕事面ではプラスになる行為が、プライベートの面ではマイナスに感じられる〈ねじれ〉である。リクオがその一歩を踏み出すのは、仕事に自信を持てないこと(仕事面でのマイナス)が、榀子に対して積極的になれないこと(プライベート面でのマイナス)につながっているとの思いを強くしてからだった。

 

 リクオがコンビニを辞めたことを2人になかなか言い出せなかったのは、この〈ねじれ〉の構図があったためである。一般的に考えて、写真スタジオの正社員になれたことは言い出しにくいようなことではない。正社員になり定職にありつけたのだから、それは喜ばしいことのはずだ。ところがリクオはすぐにはそのことを伝えなかった。言い出しにくい理由があったからであり、それは直接には語られないけれども、「これまでのように会えなくなる」ということに大きな一因があったように思われる。

 

 このことは、リクオの語り口調に表れているように見える。リクオが榀子とハルのそれぞれにスタジオの正社員になったことを伝える場面だ(第8話)

 リクオは榀子に対しては「技術は追々身に着けていけばいい」話や「カメラをいじるのが好きな」ことを伝える。これを普通に語ることができているのは、リクオのなかで片を付け、すでに意を固めた話だからだ。

 一方でハルに対して「なんでコンビニ辞めたの、言ってくれなかったの?」と訊かれたときは、もっと答えにくそうにしている。「別に内緒にしてたわけじゃねーよ。たまたま言いそびれただけだって」とリクオは答えるけれども、その声には勢いがない。仕事のスキルやカメラのことと違って、すごく言いにくいことなのだ。単に「伝えてなかった申し訳なさ」以上のものがある。バイトを辞めたことを伝えることは、同時に、会いにくくなることを伝えることも意味しており、しかしそれをそのまま言わず「たまたま」だったと理由付けしているから、あんなに弱々しい口調になっていると考えるのが自然だろう。

 ハルのほうも会いにくくなることを自覚しているが、そのうえで素直に「良かったね」と声をかける。リクオは少なからず罪悪感を抱いているために、その素直な言葉が身に染みる。

 

 

 もう1つの〈ねじれ〉は近接性と親密性の錯覚だ。たしかに接触の機会の多さは精神的距離にも影響を及ぼすが、決してイコールではない。しかし登場人物たちがそのとおりに認識しているとは限らない。

 

 やはり第8話の自販機のところのシーンで、ハルはリクオに「なんか私のこと避けてない?」と問いかける。第9話では杏子さんに対して「微妙に避けられてるというか」と吐露する。リクオがコンビニを辞めて、これまでのように頻繁に会えなくなったために、避けられてるのではと疑いが頭をよぎっているのだ。

 だが、アニメの描写をみるかぎりでは、これはハルの錯覚だ。避けるも何も、結構なエンカウントが偶然だったし、もしくはハルが自分から会いに行くパターンが大体だった。会う機会が減っているからといって、「避ける」意志が強く働いているわけではない。しかしハルは会えない期間が長く続いたことで、リクオが自分を遠ざけていないかと不安がもたげている。

 そしてハルは近接性が弱くなったことを、親密性が弱まったかのような不安にさいなまれる。

 

 実際のところリクオはハルを気にかけるようになっており、2人の仲は深まっているはずだ。

 ストーリー前半では「君には関係ないでしょ」(第2話)、「お前の趣味は、この際関係ないわい」「今俺には関係ねーけど」「俺には関係ないもん」(第5話)、「だいたい、お前には関係ないだろ」(第6話)などと、ハルとの関係を否定しようとするセリフ・モノローグが随所に出てくる。これらを本心で言っているかは別の話だが、コンビニ時代はハルとの無関係を言い立てることができたのだ。しかし後半になるとそのような物言いをすることができなくなってる。考慮すべき関係性のなかに、ハルがしっかり含まれているのだ。

 しかしハルは「重いんだよね」と一歩退くようになる。

 

 この〈ねじれ〉は〈積極的消極性〉とでも呼びたい。ハルは積極的なアプローチを取るにもかかわらず、要求は消極なものにとどまっている。リクオがコンビニを辞め近接性が弱まることで、その〈ねじれ〉が露わになってしまったのだ。

 要求が消極なものだというのは、「私はなにもリクオに要求しないよ」(第3話)、「自己満足なんだから気にしないでよ」(第8話)というセリフに表れている。もちろんこれは、リクオの本命が榀子であったために、このような言い方をしている。ハルはリクオに強くなにかを要求しないことで、今の関係をキープしている。

 

 この要求の消極性に比べると、アプローチ自体は積極的だ。頻繁にリクオに会いに出かけ、家や職場で待ち伏せる。やってることは積極的だが、コンビニという場があることでその積極さをカモフラージュすることができた。偶然を頼ったり、たまたまを装ったり、バイト帰りのついでという口実を作ったりして、消極的なアプローチに見せかけることが(表面上は)できていた。

〈消極的な消極性〉であれば、そこに食い違いはない。しかしコンビニという近接性を確保する場が失われたことで、消極的アプローチを装うことが難しくなる。そのため〈積極的な消極性〉として矛盾が立ち現れてしまう。ハルの行動が、本質的には変わっているわけではないにもかかわらず、だ。

 

 

「偶然」や「ついで」でカモフラージュできなくなり「努力しないと会えな」くなった。 

 

 リクオとの仲が遠のいたわけではない。ハルのアプローチが大きく変わったわけでもない。変わったのはリクオがコンビニバイトから写真スタジオの正社員になったことである。しかしその変化が、リクオとハルの2人の関係性をも変えてしまったかのようだ。そしてハルが一歩退き、リクオが声をかけられないことによって、関係性の変化が現実化してしまった。

 

※コンビニを辞める前後の変化

 上では「エンカウント頻発」から「すれ違い」への変化と述べた。もちろんすれ違う場面だけでなく、2人が会うシーンにおいても変化が表れている。

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〈コンビニショック*38〉前後のハルの変化

1番左:リクオがコンビニを辞める前(第7話)。「ハルちゃんは不死身なのだ」

2番目:辞める決断をする直前(第8話)。一度素通りされてから気づかれるという描写。

3番目:リクオがバイトを辞めた直後(第8話)。スタジオを覗くだけで声もかけずに帰っていくハル。このシーンが挿入されるのは、バイトを辞めたという会話をリクオと木下さんがカフェで交わしたシーンの直後だ。

4番目:ハルが写真スタジオ付近でリクオを待っている場面(第8話)。声が聞こえたとき、手がぴくっと動く。リクオに会いに行くという行為が緊張を伴うものになっている。

5番目:クリスマスイブに帰宅の遅いリクオを待っていたハル(第10話)。一瞬驚いたような表情を見せてから、笑顔を浮かべる。待っている間になにを考えただろうか。「会えないかもしれない」と思っていたからこそ、リクオが目の前に現れたとき、笑顔より先にこの表情になってしまう。

 

 会えるだけで満足、「わりと幸せだよ」(第3話)と語っていたハル。しかしその「ただ会うだけ」の意味あいが、リクオがコンビニを辞める前後では変わってしまう。

 

複数ナッシュ均衡

 この作品を視聴していて、複数ナッシュ均衡という言葉が頭に浮かんだのは、第10話か11話あたりだったと思う。

 すでに述べたように、この作品のひとつの大きなテーマは「愛とは何ぞや」ということであり、時代状況的なバックグラウンドとしては恋愛規範の〈揺らぎ〉がある。これはすなわち、「唯一絶対の正解」は存在しないということを意味している。「運命の相手に出会う」というのは幻想であり、恋愛は「錯覚」だという言葉が繰り返される。

 唯一の正解が存在しないということは、複数の均衡状態がありうるということでもある。それで思い浮かんだのが複数ナッシュ均衡だった。本作品における4人の関係性も、もしかしたらそのように捉えることができるかもしれないと感じた。

(あくまで物の喩えとしてということであるが)

 

 複数ナッシュ均衡について簡単に説明する。それは例えばゲーム理論における下の図のような状態だ。プレイヤーXは戦略AとBのどちらかを、プレイヤーYは戦略aかbのどちらかを選択できる。カッコ内の数字は、(Xの利得、Yの利得)と並んでいる。XがAを、Yがaを選んだ場合は(2,1)であるので、Xの利得が2、Yの利得が1となる。

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 上の図のような点数配置のとき、ナッシュ均衡は左上と右下の2つある。どちらが成立するかは一意には定まらない(つまり、唯一の解はない)。どちらとも成立しうるが、どちらになるかは分からないのだ。

 問題は一度均衡が成立すると、容易にはその均衡からは抜け出せないことだ。

 左上の(2,1)で均衡が成立したとしよう。Xがもし戦略をAからBに変えたなら、Xの利得は2から0に下がる。一方Yにとっても、戦略をaからbに変えると利得が1から0に下がる。こちらも戦略を変更することがマイナスになる。したがってどちらのプレイヤーにとっても現状維持が妥当な選択となる。

 

 以上の説明は現実を単純化して説明しようとするモデルであり、このアニメの状況にそのまま適用できるわけではない。利得を明確に数値化できるとは限らないし、どんな結果になるかを正確に予測できるわけでもない。選びうる選択肢は2つではないし、プレイヤーの数も2人ではない。杏子さんは語る。「自分の感情に損得なんてあるのかしら。なにが大切なのかは自分でしか決められない。だから、人それぞれなんでしょ」と(第9話)

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自分で決めるしかないのだ(画像は公式ツイッターより)

 

 しかし恋路に正解はないからこそ、いったん均衡が成立してしまえば、それをズルズルと引きずってしまいそうな気がした。登場人物たちをみてると、どうもそんな気配を感じた。リクオと榀子でカップルが成立すると、それがベストマッチかどうかにかかわらず、ほかの均衡に移行できなくなるのでは、と。

 上記の数値例では左上が(2,1)で右下が(1,2)だったが、どのような数値配分となるかはバリエーションがある。たとえば左上が(1,1)で右下が(2,2)というパターンなども考えられる。この場合(2,2)となれば全体の利得も大きいが(パレート効率)、それでも一度左上の(1,1)で均衡がつくられると、プレイヤー単独では選択を変えられない。

 ひとたび均衡状態が作られてしまうと、「いっせーの」で戦略変更しないと、均衡を変えられないのである。

 

自己変革へ

「やりたいこと」言説

 この作品では、仕事・職業の語られ方、描写のされ方が「やりたいこと」言説と強く結びついている。好きになれること、一生懸命になれることを見つけることが、仕事選び・職業選択に深く関わっている。「やりたいこと」「好き」の感情が多く描かれるのは、やはり人間模様の描写とパラレルに重なっているわけだ。

 そういうわけでまずは、仕事における「やりたいこと」言説がどのように語られているか確認する。

 

 この作品では「自分から人を好きになったり、なにかに一生懸命になったりしたことない」のは「脳みそどっか欠落」くらい言われる(第6話、ユズハラ)。ユズハラは「嫌々習わされたピアノのおかげで職にありつけてる」ことを「皮肉」と語ったが、そんな彼女もラストでは「追伸」で「いい加減な私はどうやら、ピアノが好きみたいです」と言明している。

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脳みその話(画像は公式ツイッターより)

 

「やりたいこと」との屈折が表れているのはミナトだ(第5話)。彼はドキュメント(報道)写真を志望し、人物や風景は撮らないと述べていた。「撮り手の一方的な思い入れを押しつけてくる」から人物写真は嫌いだという。だが最後にフォトコンテストに応募したのは、高校時代のハルの横顔を写した写真だった。報道写真を志す彼だが、思い入れがあるのは人物写真だったという〈ねじれ〉。心のなかで折り合いをつけるために、フラれることをわかっていながらハルに告白し、未練を捨てるのだ。

 

 ロウが絵を描くのは、それが唯一兄貴に勝てることだったからというのが大きかったが、予備校に通い出すと、周囲との技術レベルの違いに思い悩む。そんな彼に言葉をかけたのが予備校同級生の滝下。「知識や技術で描かれた絵をいい絵というなら、いい絵もつまらない絵も関係なく、僕は描き続けるしかないんだ。なぜなら絵を描くことが好きだからね。早川君もだろ?」(第4話)。この言葉をかけられる直前には、文字どおりの意味で頭を抱えていたロウだったが、滝下に声をかけられて、表情が変化する。

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滝下に励まされるロウ(画像は公式ツイッターより)
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ロウのビフォーアフター(第4話)

 

 榀子が教師をやっているのも同様だ。会話付きの回想シーンはそれほど多くないようにも思われるが、これについては会話付きの回想で描かれている。「魚住くんはやりたいことないの? 私はね、教師になりたいんだ」(第1話回想シーン)。やりたいことがあり、無事にそれを叶えた榀子と、やりたいことがあるわけでもなくバイトをしているリクオが対置されている。

 

 そのリクオはユズハラから「魚住はカメラマンになりたいの?」と尋ねられた際に、「なりたいでなれるような、甘い世界じゃないしな」と答えている(第6話)。「やりたいこと」の前に技術や能力の自信のなさがためらいを生む。リクオが決意を固めるのは、「写真の才能やセンスなんてもんは、こっちから惚れこまねーと、向こうからもやってこねーのよ。どのタイミングで覚悟するのかは自分次第なんじゃないのか」という先輩の言葉を受けたからだ(第7話)

「好き」の気持ちで乗り越えるという構図はロウと同じだが、リクオの場合は経験や技術のコンプレックスを感じた相手が年下(ミナト)であっただけに、余計強烈であっただろう。

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先輩である田辺にアドバイスを受けるリクオ(画像は公式ツイッターより)

 

 主人公のリクオは当初フリーターであった。これもまた「やりたいこと」言説との共振が強い。前述したように、作中の舞台となった時代はフリーターに対する世間の認識が変化していく潮目の時期だった。ポジティブな名づけのために生まれた「フリーター」という言葉は、後年に社会問題化されていき、マイナスイメージが強くなっていく。

 そんな時代であるから、「良いフリーター」と「悪いフリーター」の二分法でしばしば語られることになった。すなわち、夢や目標があって、その実現のために一時的にフリーターをしている場合は「良いフリーター」だが、そうした目標がないのにダラダラとフリーターを続けている人は「悪いフリーター」だとする考え方だ。

 日本労働研究機構*39が1999年に実施したヒアリング調査では、当のフリーターがこの考え方を強く意識していることがうかがえる。フリーターについての認識を語る際に、「やりたいこと」というワードが頻出するのだ。「やりたいこと」という語が含まれる発言は、モラトリアム型が44.7%(17/38名)、夢追求型が55.6%(15/27名)、やむを得ず型が31.3%(10/32名)となっており、どの類型でも一定数にのぼっている。

日本労働研究機構「フリーターの意識と実態(調査研究報告書No.136)

 

 リクオのバイト先の先輩だった木下さんも典型的なフリーター像のイメージを体現している。バンド活動を続けながらバイトをしており、最終的に全国をめぐることになったようだ。

 本作において主人公をフリーターから始めたのは、「やりたいこと」の模索が作中の大きなテーマであるからにほかならない。「やりたいこと」「好き」をめぐる悩みや葛藤が、仕事においても、恋愛という私生活面においても、物語の軸を貫いているのだ。

 

コミュニケーションは「能力」となった

「やりたいこと」へのこだわりは、確固たる「自分」が強く求められたことも背景にあるだろう。下の図は日本生産性本部の新入社員の意識調査によるものだ。「今の会社に一生勤めようと思っている」と「チャンスがあれば、転職しても良い」を二者択一で尋ねている。

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転職志向の強さ(日本生産性本部「新入社員 春の意識調査」より作成)

 

 図からわかるように、トレンドが00年代半ばで逆転している。

 リクオらが大学を卒業した時期というのは、転職志向・独立志向がずっと強い時代だった。ひとつの会社にしがみつく生き方(=従来の日本的雇用慣行)が古いとされ、特定の会社に縛られない価値観が称揚された。当時(の少し前に)叫ばれ出した実力主義成果主義*40の風潮とあいまって、意識調査の結果がこのようなものとなったのだろう。

 

 90年代後半から00年代初めは、就活の場において、自己の内面が強く問われるようになった時期でもある。

 就職情報誌『就職ジャーナル』における「自己分析」の記述を分析した香川[2010]を紹介しておく。いまや就活の際に当たり前に用いられるようになった「自己分析」だが、それは当初は採用面接という一時的なイベントを乗り切るためのツールとして90年代半ばに登場したものである。しかし「自己分析」の重要性が強調されていくにつれ、それはもはや単なるツールではなく、就職後も含めた将来設計のためのものと位置づけられるようになる。

「自己分析」の内容も、内面にフォーカスするものに変わっていく。もともと「自己分析」はエピソード探しのために用いられ、他者と差別化し、会社に自分を売り込むことを目的としていた。しかし就活において会社との相性やマッチングが強調されるようになると、「自己分析」は自分を見つめるもの、適性を見出すものとしての側面が強くなる。

 就職環境が良好であったバブルの時期には、ほかのさまざまな情報と同様の価値・位置づけしか与えられていなかった自己や自分という情報が、就職環境が悪化するにつれ、重要度が増していったことが確認された。自己分析という行為は、まず面接対策のエピソード探しのツールとして登場したが、その際ゴールとされたのは、他人からの優位性を立証しうるエピソードを発見することであった。しかし、他人との差異化をはかり、競争相手を出し抜くという視点はすぐに消失し、代わって企業との1対1の関係が重視されるようになる。そこでは、就職活動における選抜という視点が希薄化し、同時に提示すべき自己像が、外的に規定されたもの(=「企業の求める人材像」)から内部へあるもの(=「ありのままの私」)へと転換していった。この傾向は90年代後半に助長され、「本当の自分」に至上の価値が置かれるようになる。自己分析はもはやツールとしてではなく、目的として捉えられるようになり、それが関係する範囲も拡張していった。このプロセスの中で、自己は就職活動の拠り所となり、不断の更新を強制される対象へと変化していった。

(香川[2010]191頁)

 

 香川は「外的に規定されたものから内部へあるものへと転換していった」と表現している。

 この傾向が作中の登場人物たちの思考スタイルにも表れているように思える。相手がなにを求めるかよりも、自分の「やりたいこと」「好き」に関する自問が多いのだ。そもそも「待ってたほうがいい」(第2話、リクオ、「なにも要求しない」(第3話、ハル)という状態だから、相手の期待や要求に合わせるという場面が少ないのだが。

 

 

 実力主義が叫ばれる。ベクトルが外ではなく内に向かう。

「コミュニケーション能力」という言葉が生まれる時代だ。語学力などではなく、一般的な対人コミュニケーションスキルを指す言葉として、それが用いられるようになった。

 コミュニケーションは本来相手の存在を前提とするはずだ。相手がいなければそれは始まらない。ところがコミュニケーションは、個人に属する「能力」となってしまったようだ。

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全国紙4紙(朝日、毎日、読売、産経)におけるキーワード登場記事数

本田[2005]52頁と同様のものを2013年まで引き延ばした。日経goo記事検索サービスを利用したもの。

 

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経団連新卒採用に関するアンケート調査結果(2018年度)

 

 自己変革、自信のなさ、自己決断。

 自分のことに関する煩悶はすごく多い。それを過剰な自己内面化と評するのは言い過ぎだろうか。そのことに時代の空気感の反映をみてしまうのはこじつけだろうか。

 

この作品は成長物語なのか 

「自己変革」という主題ははじめから提示されていた。第1話のサブタイトルが「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」だった。

 

 それでは、このアニメは自己変革を成し遂げて成長する物語なのだろうか。「成長」だと呼ぶのは、ちょっとしっくりこない。

 対照をなすのは、第1話と第12話、つまり初回と最終回における告白シーンだ。どちらもリクオが相手に好意を伝えるシーンである。しかし12話分かけて「成長」した結果がこれだというのなら、少々それは情けない。最終回の告白のほうが、よりキョドっているからだ。

 なぜ「成長」していないのか。あるいは「成長」したにもかかわらず、なぜ余計にアタフタしているのか。

 

 キーワードとなるのはおそらく「ウソつき」という言葉である。

 第1話でリクオは「自己改革ってヤツを試みたわけよ。ウソつきな自分を追い込んでみて……」と語る。それに応じるようにハルも「ウソつきってさ、人に嫌われるけど、人に好かれるんだよ。ウソついてテキトーに他人に話合わせて…(中略)…ウソつきって、なにも無くさないけど、なにも手に入らないんだよね」と口にする。

 ウソつきの自分を変革するテーマが初回で示されていたわけだ。それは最終回においてリクオが「自分の心に正直に生きる」と決意していることにも表れている。

 

 

 注意が必要なのは、リクオのいう「ウソつき」の「ウソ」とは、ものごとの真偽を指す言葉ではないということである。区別して、漢字で「嘘」と書こう。このような意味での嘘に関していえば、リクオは自己変革を試みるまでもなく、はじめから正直者である。バカ正直と言ってもいい。

 第3話でハルとの約束をすっぽかしたとき、リクオは榀子の家に行っていたことをそれこそ正直に話す。「嘘も方便って言葉知らないのか」とハルになじられるほどに。あるいは第10話では手渡したプレゼントを、先輩から押しつけられたものであることをこれまた正直に話す。

 どう考えてもリクオは嘘を吐くのが得意ではない。

 だからリクオが「ウソつき」の自己変革を試みたとき、それは虚偽という意味での「嘘」ではない。「ウソ」とは物事から逃げること、顔をそむけることである。本当は卒業式のときに榀子に告白したかったのにそれができず、そのまま逃げてしまっている自分を「ウソつき」と呼んでいる。

 

 

 だが、これだけでは依然として第1話と第12話の告白の違いがわからない。「逃げずに告白した」という点はどちらも共通しているためである。したがって第12話における「ウソつきの変革」「正直になること」には、別の意味が加わっているとみるべきである。

 それはおそらく「自分で答えを見つけようとすること」だ。

 

 リクオのこれまでの行動は自発性が弱かった。「他発的」と表現しておこう。

 第1話で告白するのは、木下さんにけしかけられたからだった。

 ギャラリーやスタジオの仕事は人に紹介されたもので、仕事に自信を持てないでいたときは福田や職場の先輩に背中を押され、ハルにも励まされていた。

 クリスマスパーティーの一件は福田夫妻主導。先輩に押しつけられてなければプレゼントは贈れなかった。弁当を作ってもらったお礼をするのも先輩の助言のあとだ。

 こうなってくると、週末の水族館に誘うときに「最近福田が行って、結構よかったって」と口にしたのは、実は福田から榀子を誘うように厳命されたのではないかと疑いたくなる。

 リクオは頼まれごとをされることも多い。おそらく断れない性格をしている。ジャケットの写真を断れない、映画の約束を断れない、居候(ユズハラ)を断れない*41、引越しの手伝いを断れない、結婚式の撮影を断れない……と、頼みごとを引き受ける描写は随所にある。

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第1話では木下さんに背中を押されて告白の決意をする(画像は公式ツイッターより)

 

 

 どうもリクオは自分が起点となる行動が少ないのだ*42

 もちろん、他発的であることは、リクオの意思の無さを意味しているわけではない。自己変革をしたいと考えているからこそ、他者に背中を押されたときには行動に移せるのだ。だから、ただ「受動的」であるのとは多少意味合いが異なっていると感じる。

 しかし他発的であったがゆえに、「胸を張って榀子を好きだって言えない」(第12話)のだった。逆にいえば、胸を張って榀子を好きだと言えないにもかかわらず恋人関係になってしまったのは、リクオの行動が他発的だったからだ。

 

 さて、これまで他発的な行動が多かったリクオだが、最終話での行動は自発的だと評することができるだろう。

 直接の契機という意味では、榀子とロウの会話を耳にし、それに触発されたのは面はたしかにある。しかし他者から背中を押されての行動ではない。モノローグにおいて、ロウのことをカッコいいと感じたのだと述べられている。カッコいいと感じ、自分もそうありたいと希求し、その結果として行動を起こしている。他発の結果ではなく、自発的に行動に移っているということだ。

 

 なぜ「成長」していないのか。あるいは「成長」したにもかかわらず、なぜ余計にアタフタしているのか。

 それは他発的ではなく自発的な決断だからだ。リクオは自己変革を試みようとはしたが、そのじつ自発的にはなりきれていない。

 他発は楽なのだ。答えが外から与えられているから。他人が示した答えに従えばいいのだから。

 自発の場合はそうではない。答えそのものを自分で見つけ出さなければならない。

 恋愛規範の〈揺らぎ〉のところで述べたように、「運命の出会い」のような考え方は幻想、思い込みである。そうした考え方を信じられないからこそ、自分の導き出した答えに確証を持つことはできないし、不安がつきまとっているのだ。

 他人の後押しを受けて出す言葉ではなく、自分自身で決断して語る言葉。だからこそ不安は大きいし、だからこそキョドリが強くなっている。それは「成長」してないからではなく、他発から自発に変わったからなのだ。

 

 ただし物語はまだ完結しない。変革すべきウソはもうひとつ残っているように思われる。

 これまで目指してきたのは「ウソをつかないようにすること」だった。逃げないこと、自発的であること。逃げるのは、やりたいこと(やるべきこと)に背いているという意味でウソだった。他発的であるのは、他人によって示された答えを自分のもののように偽っている点でウソだった。

 だが「ウソつきの自分」の変革の仕方には、別の道もあるはずだ。ウソをつかないことではなく、上手にウソを吐く、という道である。いわゆる「優しい嘘」を使えるようになることだ。

 映画の約束をすっぽかしたとき、押しつけられたプレゼントであることを明かしたとき、リクオは正直ではあったが、誠実ではなかったかもしれない。

 第11話でリクオに「絵に描いたような朝食」と言われたハルは、こう漏らしている。「『うまそー』とか、嘘でもお世辞を言ってもいいんだよ」と。ただ正直にいるだけでなく、ときには飾り気のある言葉も必要なはずだ。

 

 いわゆる「男女の修羅場」のシーン。

 ハルは「よかったね。ずっと好きだったんだもんね」とことほぎ、「私に気を遣わなくていいよ」と強がってみせる*43(第11話)。ロウの場合も「榀子が幸せなら良かったんだ」と虚勢を張る(第12話)。「時間はかかるだろうが納得したさ」と述べているのだから、この時点ではまだ納得はしていないが、受け入れようとしている。

 どちらも、自分の気持ちに正直ではないという意味では「嘘」を吐いているに違いない。本当は、選ばれる相手が自分であってほしかったと考えている。しかし嘘を述べてまで強がったのは、相手の幸せを第一に望んでいるからだ。自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先するからだ。

 なぜあのときリクオが、ロウのことをカッコいいと感じたのか。本人がその理由を明確に言語化できていないのではなかろうか。リクオは「正直に生きる」と自分に言い聞かせているが、ロウは決して自分の願望に正直であったわけではない。自分のことよりも相手のことを優先し、そのためなら嘘もついてみせる。正直ではなかったが誠実ではあった。だからこそ、正直ではあったが誠実ではなかったリクオは「カッコいい」と感じたのではないだろうか。

 自分の本心より、相手の幸せを優先するという意味の「ウソ」になる。

 

 

「胸を張って榀子を好きだって言えな」いリクオ(第12話)と、「まじで榀子に惚れてる」ロウとの差。それが(たとえ見栄*44でも)、自分のことより相手を優先し尊重できるかという態度の違いとして表れた。

 この点では、リクオの「ウソつきの自分」の変革は、まだ続く。リクオは相手に合わせることがうまくできていない。

 第12話、ハルはリクオの告白を「やりなおし」と突き返す。配信限定エピソードのほうでも、ラブレターを「60点」と塩辛くジャッジする。その理由は、自分語りになってしまっており、ベクトルが相手に向かっていないためだ。

 

 第12話の告白は、自分中心の語り方だった。「上手く説明できそうにない」「不覚にも」「俺はここにいるんだと思う」「今だって勘違いかもしれん」などの言い方。ハルに想いを伝えに来たというのに、逆撫でさせることになったとしてもおかしくない*45。ラブレターのほうも、自分語りがメインになっており、ハルとの今後のことが書かれていない。

 コミュニケーションは相手がいて成り立つ。それは継続するプロセスでもある。「やりなおし」の要求はプロセスの途上だということだ。リクオがハルに、ハルがリクオに、それぞれどう応えていくかは今後の話である。

 ただひとつの正しい正解は存在しない。それは常に問い直し、問い直されるということである。「やりなおし」の継続するプロセスだ。人の心も、人間関係も、社会や生き方も変わっていく。そうやって過ぎていく日常の中に、お互いのコミュニケーションがある。

 最終話のラストカットが「俺たちの日常はまだまだ続いていく」というモノローグとともに締めくくりとなるのは、そのことを示唆しているようだ*46

 

 

(補足あるいは蛇足)「最近空き巣が多いんだとよ」

 第11話では「最近空き巣が多いんだとよ」リクオ、「一人暮らしは気楽でいいけど、いざってとき不安よね」(杏子さん)、「いや、物騒だから」リクオといったセリフが交わされる。これもまた当時の世相の反映である。

 窃盗犯のうち空き巣の件数、それから性犯罪の代表として強制わいせつの認知件数をひとまずグラフにしてみた。

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 空き巣、強制わいせつの認知件数の推移(「令和元年版 犯罪白書」より作成)

 

 当時は犯罪の急増、治安の悪化が叫ばれていた。認知件数の増加に対しては、犯罪相談窓口の設置などによる「掘り起こし」の要因も指摘されるところだが、ともあれこのような政策認識のもとに犯罪対策・防犯が進められた。

 2003年12月には犯罪対策閣僚会議において「犯罪に強い社会実現のための行動計画」が策定される。「安全で安心して暮らせる社会の実現」が目標に謳われる。

 この行動計画の序文で紹介されたのが「割れ窓理論」であった。日本で「割れ窓理論」が有名になるのはこのころからである。

 

 

参考・引用文献

本稿での登場順。

 

堀井憲一郎[2006]『若者殺しの時代』講談社現代新書

 月9ドラマのケータイ描写のところで引用

 

麻野尚延[1995]「輸入自由化と柑橘産業」『愛媛大学農学部農場報告』16

http://web.agr.ehime-u.ac.jp/~farm/dl/report/9511.pdf

 オレンジジュースの話

 

濱口桂一郎[2013]『若者と労働――「入社」の仕組みから解きほぐす』中公新書ラクレ

 若年雇用の話全般

 

本田由紀内藤朝雄後藤和智[2006]『「ニート」って言うな!』光文社新書

 当時の言説状況

 

赤木智弘[2007]『若者を見殺しにする国』双風舎

 「『丸山眞男』をひっぱたきたい――三十一歳、フリーター。希望は、戦争。」所収

 

保坂亨[2000]『学校を欠席する子どもたち――長期欠席・不登校から学校教育を考える』東京大学出版会

 「学校基本調査」の項目が変わった話

 

香川めい・児玉英靖・相澤真一[2014]『「高卒当然社会」の戦後史――誰でも高校に通える社会は維持できるのか』新曜社

 高校進学率について

 

松原始[2020]『カラスは飼えるか』新潮社

 この本はカラス以外にもいろいろ記述

 

山田昌弘[1992]「ゆらぐ恋愛はどこへいくのか」アクロス編集室『ポップ・コミュニケーション全書――カルトからカラオケまでニッポン「新」現象を解明する』PARCO出版局

 

谷本奈穂[2008]『恋愛の社会学――「遊び」とロマンティック・ラブの変容』(青弓社ライブラリー52)、青弓社

 

筒井淳也[2016]『結婚と家族のこれから――共働き社会の限界』光文社新書

 あまり引用はしてないけど。家族社会学に興味ある人は

 

土田陽子[2018]「性や恋愛に消極的な若者――その内実と友人関係の影響」林雄亮『青少年の性行動はどう変わってきたか――全国調査にみる40年間――』ミネルヴァ書房

 

遠藤まめた[2020]「LGBTQと労働運動の交差点 第1回経済主導のLGBT運動に抵抗する」『POSSE』第45号

 

香川めい[2010]「『自己分析』を分析する――就職情報誌に見るその変容過程」苅谷剛彦本田由紀『大卒就職の社会学――データから見る変化』東京大学出版会

 就活の「自己分析」を分析した論文

 

本田由紀[2005]『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』NTT出版

 「コミュニケーション能力」のところで参考にした

*1:なお、原作漫画は未読である。この文章をまとめ終わったあとに読むと決めている。だから「原作の解釈と違う」みたいなことを言われても知らない。あくまでアニメ版を観て感じたことの記述だ。

*2:日本では1974年にセブンイレブン1号店がオープン。同チェーンの店舗数は1987年に3000店を越える。

*3:日本では70年代後半から急成長。すかいらーく1号店が1970年、サイゼリヤは1973年、デニーズは1974年など。

*4:1986年にカラオケボックスが登場。80年代末ごろから全国的に普及。イミダスでは「カラオケボックス」が1990年の新語流行語として採録

*5:ストーカー行為等の規制等に関する法律〔平成十二年五月二十四日号外法律第八十一号〕

*6:配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律〔平成十三年四月十三日法律第三十一号〕

*7:個人情報の保護に関する法律〔平成十五年五月三十日号外法律第五十七号〕

*8:ストーカー規制法では、「つきまとい、待ち伏せし、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他その通常所在する場所(以下「住居等」という。)の付近において見張りをし、又は住居等に押し掛けること」や「著しく粗野又は乱暴な言動をすること」を「つきまとい等」として挙げ、「身体の安全、住居等の平穏若しくは名誉が害され、又は行動の自由が著しく害される不安を覚えさせるような」方法による「つきまとい等」の反復を「ストーカー行為」と定義する

*9:原作は1998年よりビジネスジャンプグランドジャンプで連載、2015年に完結。

*10:8月1日が木曜日になっている。この曜日になるのは、2002年の前後だと1996年と2013年になり、つじつまが合わなくなる。

*11:以下の記述ではおおまかに「90年代末」と「00年代初頭」を比較している。それは、私があくまで空気感の演出としてこの年代設定をみているためだ。そういう意味では第1話の年代指定が2001年ではなく、2000年や2002年だったとしても議論に大きな違いはない。裏を返せば、私の解釈では、監督がピンポイントで2001年を指定した理由にまでは踏み込んでいない。「2001年が21世紀の始まりの年だから」という理由を除けば、ひとつ思い浮かんだのは月齢カレンダー(月の満ち欠け)だ。2003年の大晦日(第10話Bパート)は半月のカットが都合4度も登場する(リクオと榀子が並んで歩く場面で2回、ハルが外を眺める場面、そしてラストカット)。「半分に欠けた月」を演出に使いたかったから、逆算して第1話を2001年にしたのかもしれない(月の朔望周期は約29.5日なので、同じ日付でも年が違えば月齢は変わる)。特定の年を指示する演出上の理由は、ほかにはどんなのがあるだろうか。

*12:インターネットの利用状況について触れないが、時をほぼ同じくして社会に普及していったといえるだろう。ちなみに出会い系サイト規制法ができるのは2003年だ(「インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律」平成15年6月13日法律第83号)。

*13:作中に全くペットボトルが登場しないわけではない。しかし要所で出てくるのは缶のほうだといえるだろう。

*14: 本作は群像劇とみて特定の主人公を想定しないこともできようが、本稿ではリクオを主人公として記述する。

*15:https://pom50th.com/

*16:商品に使用する主な原料(果実等)の産地|えひめ飲料

*17:第3話、第4話でロウとハルが面識を持ち、会話する描写は、共闘関係的なものが深まっていく伏線かと初見時は思ったが、その後2人の接点がしていくことはとくになかった。

*18:過去完了形、過去進行形っぽさのあるリクオや榀子と比べると、兄貴や榀子の背を追うロウは未来形っぽさがある。ほかの3人とベクトルがちょっと違うのだ。

*19:インタビューは2004年末――引用者注

*20:ニート」は2004~2005年に急速に一般化した言葉である。これについては本田・内藤・後藤[2006]を参照。

*21:「『丸山眞男』をひっぱたきたい――三十一歳、フリーター。希望は、戦争。」については、赤木智弘[2007]『若者を見殺しにする国』で掲載経緯を含めて読むことができる。

*22:現・文部科学省

*23:もとのページがリンク切れになっているので、こちらを貼っておく。http://zenkoupren.org/active/report01.pdf

*24:昭22・11・11発婦第2号

*25:風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律等の解釈運用基準について」によれば、「接待とは、『歓楽的雰囲気を醸し出す方法により客をもてなすこと』をいう。」だそうだ。

*26:2016年には教育機会確保法が制定され、不登校児童生徒に対してフリースクールなど学校以外の教育機会の場の重要性が法律上認められることになった。なお、法律の正式名称が「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」とあるように、この法律では高校の教育機会は対象としていない。

*27:ただし図は小中高合わせたものなので、高校だけに絞るとやや傾向は異なる

*28:政府の教育再生会議が2007年6月にまとめた第2次報告書では、「モンスターペアレント」への対応として、精神科医法務教官、弁護士、警察官OBなどからなる「学校問題解決支援チーム(仮称)」を、教育委員会に設けることを提言している。

*29:同じく対比として登場する人物として、再婚を繰り返すハルの母を挙げることもできる。なお、ユズハラやハルの母にしても、完全にロマンティック・ラブが消え去っているわけではない。ユズハラにしても気軽に二股するような人物としては描かれていないし、ハルの母の再婚にしても、「理想の相手」を見定めるプロセスと見ることもできるからだ。ロマンティック・ラブの観念が弱まってはいても、完全に崩れたわけではないと解釈できる。

*30:もう一方の極に対置されているのは、杏子とクマさんの関係だろうか。高校の同窓で、卒業式に一方はフラれている(第4話のセリフより)けれど、いまだに慕い続けている。家庭の事情で九州に帰ることを余儀なくされるが(第10話)、最終的には婚約に至ったようだ(第12話)。家庭の事情という2人の関係を阻む障壁を、愛によって乗り越えるというのは、ロマンティック・ラブにふさわしい。

*31:その後「出生動向基本調査」や楽天オーネットによる「新成人意識調査」などによって、草食系言説を裏付ける調査結果も報告されたことが、この言葉の普及を後押しした。また「青少年の性行動全国調査」においても1970年代から一貫して増加していた大学生のキス経験率・性交経験率が2010年代に入ると低下に転じる。(土田[2018]152頁)

*32:NHKクロニクルの「番組表ヒストリー」(https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/index.html)での検索結果。

*33:発言URL https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=118005206X00820120615&spkNum=6&single

*34:以上、遠藤[2020]より。なお遠藤はLGBTへの注目が経済的観点主導だったことを批判的に取り上げる。

*35:リクオに会おうと思ってコンビニに行った榀子がハルと遭遇するパターンは意図せぬ出会いなので、それはエンカウントに含めている

*36:このときはすでにリクオはコンビニを辞めており、2人はリクオに会うことはできない。

*37:リクオは一人暮らしであり、しかも黒電話だ。着信履歴もわからない

*38:木下さんとリクオという優秀なバイトを同時に失い、コンビニにとっては大きな打撃となったことだろう

*39:労働政策研究・研修機構の前身

*40:年功賃金体系を見直すために1990年代以降喧伝されたのが成果主義だった。年俸制の導入する企業が見られたり(1993年の富士通が有名)、日経連『新時代の「日本的経営」』(1995年)などが提言されたりした。

*41:ユズハラを居候させてた件について、誤解を解いたのはユズハラ本人で、リクオなにもできなかったよね?

*42:ハルの場合は、口実を作ってリクオに会いに行くこと多く、自分起点での行動が多いと言えるだろう。

*43:落としそうになった紙袋を再度握りなおすのは、気持ちを堪えようとする描写だ。そしてそのように気丈に振る舞おうとすることができたのは、このような未来が来ることをある程度予想していたためだとも解釈できる。それがまったくの予想外の出来事であったなら、つらさや悔しさよりも驚きや怒りが先行するはずだからだ。第12話でロウの部屋を訪れた榀子は、想定外の驚きに袋を落としている。第6話でユズハラを居候させていると知ったハルは、驚きで目を見開き、その後怒りを見せる(ビール瓶のケースをリクオに投げつけ「死んじゃえ―」と叫ぶ)。

*44:それまでのロウの態度が身勝手な風に描写されていたことによって、最後の見えっぷりが一層印象付けられる

*45:そもそも、ハルの質問に遮られなきゃ、再会早々タバコ吸おうとしてたよね。しかも話題の切り出し方が「とりあえず榀子にはフラれた」だもんな。

*46:最終話のラストでは満開の桜も映し出される。その前のロウの部屋のシーンでは5月のカレンダーが確認できるので、少なくとも1年が経過していることがわかる(実際、部屋のコルクボードには作中では描かれていない未来の写真が貼ってある)。桜を映したのは「繰り返し」を暗示するためか(第5話の榀子のセリフ「夏が終われば秋が来て、冬になれば次は春になる」)。