ポスドク問題より手前に、マスター・ドクター段階での問題もあるでしょうよ。今の私だからそう思うだけかもしれないが。
この記事に不満があるわけではありません。「業績主義の衣をまとった属性主義」というようなことはかねてより言われていることだと思いますが、どんどん言い続けるべきことでしょう。
それと同じように、院生や研究者の社会階層についても、教育社会学者に取り上げてもらいたいものです。
下の図は平成23年度の京大の学生生活白書から。博士課程になると独立生計が増えるし、修士は学部とそう変わらないようで、あまりビビッドに違いは出ない。
だからデータで語れなくて、ただの個人の愚考ですけれども、文系で大学院進学して研究者になるやつなんて、人材の層として相当偏ってると思う。
修士博士で5年分所得を放棄し、むしろ修学費がかかって、ポスドクになっても研究者になれるか分からないって、どうよ。
学者の二世が他の職業一般と比べて多いのか知らないですが、裕福でない一般家庭が子を学者にするって、相当ハードル高いんじゃない?
それでも選抜の仕組みがしっかりしてるのならまだよいですが、学歴ロンダリングという言葉が象徴しているように、大学院のほうが入りやすかったりします。
そうなると能力によってちゃんと選抜するメカニズムが機能しているのかも疑問です。
出自に関わらず、能力さえあればその仕事に就けるというメリトクラシー。教育社会学者たちはそのことに強く関心を抱いてきたはずですが、当の学者という職業についてはどうなのか。
誰が学者になるのか。その層が偏っていては、多様性ある研究は生まれていかないんじゃないですか。
その一方でトンデモ学者もね。