査読でこんな指摘を受けた。
「~だ」という表現は学術論文では、あまり使わない。
え、そうなの?
「~だ」って、みんな使わないの?
これが「~と思う」のような表現についてであれば、言いたいことは分かる。話し手の主観的な心情を述べているだけの気がして、論文にはふさわしくない表現であることは納得できる。
しかし「~だ」は断定の助動詞だぜ? むしろ断定表現を使わずに、どうやって論文を記述すると言うんだ。文法的には同じく断定の助動詞たる「~である」は多用されるじゃないか。
・・・あ、そういうことか。「~だ」ではなく「~である」を使えってことか。
それで? なぜ「~である」はよくて「~だ」は避けられるべきなのさ。文法的な意味合いは同じはずだ。片方はよくて片方はダメだというのは、論理的に承服しかねる。
それなら「~だろうか」よりも「~であろうか」を多用すべきということになろうか。まったくそんなことないように思うのだが。言うなれば語感や語調の話。わざわざたしなめられるような問題なのか。
「~である」なんて成り立ちからすれば「~だ」+「ある」だ。後ろにくっついた「ある」に付加的な意味があるかといえば、特にないだろう。強いて述べるなら、「~である」のほうが「~だ」よりも語勢が強いというか、格式張っているというか、そんな気がする。気がするだけで別に「~だ」を断定表現として用いても何の不都合もないはずだ。
どうして「~だ」より「~である」のほうが重みがあるのか。
長いからだ。「~だ」が1文字なのに対して、「~である」は3文字分ある。長くなることによって、強調された表現として聞こえる。
そもそも日本語において(日本語以外の言語でも)、文は末尾の部分に重心が置かれる。文頭よりも文末のほうが印象に残りやすいからだ。単語レベルでみてもこれは同様だ。「キモかわいい」は「キモい」ではなく「かわいい」のほうに重点がある。
これは我々が頭のほうから文を読む(聞く)ためだ。後半部分、末尾部分のほうが読んだ(聞いた)直後であるため、記憶に残りやすい。
ところが日本語はSOV型の構造をとるため、文末には述語を置かざるを得ない。長くすることで強意しようと思っても、述語を長くするにはおのずと限界がある。
これが英語のようにSVO型の言語であれば、Oの部分はいくらでも長くできる。なにも「情報統合思念体」のような長たらしい単語を使えということではない。「~した~の~な」と修飾句を付け足していけば、名詞句をいかようにも長くすることが可能だということだ。これをSOV型の文でやると、Oの部分はやたら長いのにVは短くなって、頭でっかちな文に感じられてしまう。
そうはいっても日本語は日本語で文末をなんとか強調しようとする。複合動詞を用いたり、副詞句をくっつけたりして述語部分を重みを増させようと試みる。単に「立った」と記せばよいものを「立ち上がった」と表現したくなる。
「~である」も同じだ。「~だ」ではどこかちょっと物足りなさを感じてしまうから、「~である」と少し長くしてみる。いや、もっと強く強調したい、などと考えて「~であるのだ」なんてのも作り出す。それがさらに勇み立って「~であるのである」も生まれてしまう。
「~であるのである」ってなんであるのであろうかといえばそんな心理があるのである。(「~であるのである」の表現がなぜ存在するのだろうかといえば、そんな心理があるのだ)。
最初の問いに戻る。
「~だ」よりも「~である」のほうが格式張った表現なのだろう。
だとしても全て「~である」に置き替えれば解決するような問題なのか。「~である」がより重みづけをした表現であるならば、むしろ「~だ」を織り交ぜたほうが良いように思う。
すべて「~である」としてしまったら、強弱のメリハリが生まれない。文章のなかに緩急があるからこそ、「~である」の重みが活きる。
「~だ」を使うことが注意されるようなことだとは思わない。