ウン十年前ならもっと読まれる本になったかもね。良し悪しの評価とは別に。
ジャパンアズナンバーワンとか囃され、なんで日本はあんな高度成長を実現できたんだ、みたいな関心を皆が持っていたときならいざ知らず、今日日になって「日本型資本主義」と言われても、どれほどの人が関心を持つのだろう。
そもそも日本型資本主義とはなにか、という概念規定が薄いように思われる。
公共よりも身近な他者を重視するとか、職業的求道主義とか挙げているのだけれど、「日本型」と呼ぶほどのものなのか。1章なり1節なりを割いて「日本型」をちゃんと説明すべきことじゃないのか。
このような場合、アメリカであれば、A地域の労働者は大挙して賃金の高いB地域へ移動し、自分の労働力を高く売ろうとする。……しかし日本ではこうしたことはあまり起こらず、代わりに商品の交易が生じる。日本海北部から瀬戸内海へ向かう北前船の活躍の場である。(9頁)
北前船の例を出すのが悪いというわけじゃないよ。でもこの説明で「日本型」とまで普遍化してしまうか? 江戸時代の話をした次のページではいきなり金融資本主義の話になっていて、その飛び方に面食らう。
かつて日本的雇用の3要素を指摘した『OECD対日労働報告書』(1972年、労働省訳)では、「この制度[=日本的雇用制度]には、西欧諸国にとって全く異質なものはない。欧米と北米の労使関係または人事政策の特色と傾向で、日本の制度に非常に類似するものは多くある。……そのちがいは原理的なものというより程度の問題である」と述べられていた。しかし終身雇用、年功賃金、企業別組合は「3種の神器」として広く流布していくことになる。
日本的雇用慣行についても異質ではなく程度問題だと述べられていたに過ぎないものだったのに、著者の言う「日本型資本主義」というのはどれほど確固とした概念なのだろう。むしろ言葉の独り歩きに、著者自ら加担していないか。
本書が類型化しているのは「西洋のキリスト教世界」「日本の仏教世界」「東アジアの儒教世界」の3つ。
『プロ倫』を紹介しておきながら「西洋」「キリスト教」とまとめてしまったり、日本の江戸時代の思想も鎌倉新仏教で説明したりしているのはこの際おいておこう。それよりも宗教(思想)と経済をそれぞれ類型化して、その類似性を指摘することで宗教→経済と説明してしまうのはいかがなものか。むしろこれではマル経的な枠組みを逆に乗り越えられていないように思える。
寺西重郎って名前は聞いたことあったけど、こういう本を書く人だったのか。