労働基準監督官を取りあげた仕事小説。
読み方に注意がいるかもしれない。私ははじめ「監督官小説」として読んでいたが、これは「お仕事小説」なのである。
監督官の職場や組織に重点はなく、新人の主人公が仕事に向き合うさまを描いた小説。
逆にいうと、行政組織の内部事情であるとか、専門職としての特殊なスキルや経験であるとか、そういうものに関心を持ってる読者には物足りないところがある。
主人公・キヨノがどんなふうに仕事に向き合うか、それがテーマなのであって、実は監督官が題材である必要もあんまりない。
もう一度書くけど、監督官が題材である必要はあまりない。「監督官小説」ではなく「お仕事小説」だと述べたのはそういう意味である。
作品のテーマが分かりやすく表れているのが、先輩監督官・藤原の座右の銘である。
「監督官には二種類の者がいる。公務員の仕事のひとつと考えている者と、監督官というプライドで仕事をしている者」(107頁)というのがそれだが、これが作中で幾度か繰り返される。
率直な感想として、あまり金言っぽくない。
この言葉自体は、原論『労基署は見ている。』に書かれているものだ(同書143頁)。しかし原の著書では座右の銘や至言として述べられているものではない。「監督官には二種類の~」を「座右の銘」として設定したのは作者・上野のほうである。
そして「仕事のひとつ」と割り切る派と「プライド」派を対照軸として描くのが、本小説の基底になっている。
「監督官には二種類の~」が「座右の銘」として私に刺さらなかったのは、大抵の職業はそうでないの?と思うからだ。それは監督官に限ったことじゃないよね。仕事に使命感や熱意をもって取り組んでいる人と、そうではなくて食い扶持を稼ぐ仕事のひとつと割り切って働く人。これは多くの職業分野であてはまりそうなので、監督官をとりたててピックアップする必要はない。
そう感じてしまったのは、私が「監督官小説」を期待していたからであろう。
「お仕事小説」で描かれるのは、主人公・キヨノの仕事を通じた人間的成長である、ということになろうか。 ウェートが置かれているのはキヨノの変化のほうであり、監督官という仕事のほうではない。「監督官」はマクガフィンのようなもので、テーマとは深くかかわっていない。
終盤でのキヨノのモノローグ。
本当は、もっと消極的な職業選択だった。ここでなら――働く人の味方であるここでなら、理不尽なことを押しつけられずに働けるのではないかと思っただけなのだ
(305頁)
さきほどの「座右の銘」に引きつけて言えば、「公務員の仕事のひとつと考えている者」だったキヨノが、「監督官というプライドで仕事をしている者」になるお話である。
銀行の営業員を辞めて監督官になったキヨノだが、その選択は使命感やプライドなどを求めてのものではなかった。そんなキヨノが先輩らに学びながら、プライド(?)をもって仕事に向き合うようになる。
このような教養小説としてみれば、複雑なストーリーはない。
やっかいなのは、 そうした主題が必ずしも明示してあるわけではないということだ。それは小説の常だけど。
「監督官小説」として読み始めた私は、実はそういった成長物語として読むべきと気づかず、多少は面食らったのである。
たとえば医者や弁護士や、あるいは新人刑事などでもいいけど、一般に専門職だとかプロフェッショナルだとか言われている仕事に就く人物が主人公だと聞いたら、どんなのをイメージするだろうか。あんまり深く考えずに医者になりました、とか、なんとなく弁護士を選びました、とかを初手でイメージしないでしょ。
けど、この小説で描かれるのはまさにそれなんだよな。「消極的な職業選択」で監督官になった人物が主人公。
「それでも、あたしは働く人の側に立ちます」(315頁)というセリフが後ろのほうでやっとこさ出てくる。
それは面接のときに済ませとけよ。むしろそこからストーリーが始まるのを期待してたわ。理想を持ちながら監督官という仕事に就いて、でもそれを貫くのが難しい。現実とのギャップとか、組織の方針やタテマエとの軋轢とか、個人の能力の限界とか、法律の矛盾とか。空回りしたり自問自答したり。そういうのをドラマにするんだと思ってた。
だけどこの小説はそうじゃないんだよな。終盤でようやく「あたしは働く人の側に立ちます」と口にする。いまスタートラインに立ちましたって話。
だからお仕事小説ではあるけれど、監督官小説だと期待すると違和感があったのだ。
たとえば冒頭2行目なんぞですでに戸惑った。
「あなた、キヨノっていったっけ?」
いきなりそう言われて、「いえ、清野です。清乃は名前のほうで」と応えた。
(5頁)
このやりとりは一体なんだ? キヨノでも間違ってないじゃん。なのになぜか「いえ」って否定してる。
小説の書き出しって作家がとくに工夫して執筆するところだ。なら、なにを意図して作者はこのやりとりを冒頭に持って来たんだ。
作者はあえてややこしい名前を設定し、小説の冒頭に持ってきた。
ひとつはキヨノとセーノの使い分け。基本的に他者から名前を呼ばれるときはセーノと表記され、地の文ではキヨノと表記されている。例外は松山の元カレと電話してるとき。心理的距離感、あるいはプライベートとパブリックの区別を示している。
もうひとつは、キヨノの名前の由来。松山出身で、漱石の『坊ちゃん』にちなんで名づけられたと。
こういうことが冒頭から示されるのに加え、かつて銀行員時代にもなにかあったことがたびたび示唆される。
だから読者としては、こうした過去の体験が監督官の仕事につながってくるのだと期待するわけじゃん。でもぶっちゃけ関係ない。「監督官」は消極的選択だもの。主人公・キヨノの個人史としては関わってくるけれど、「監督官」とはとくに関係ない。
監督官の小説として読んでいた私は、なんかしっくりこなかったのだけれど、むしろ小説の主題は個人史の側にあったのだった。
つぎに戸惑ったのが第1章の賃金未払いの事案。
残業代が5千円未払いになって労基署に駆け込んできたというもの。5万円じゃなくて5千円ね。
第1章のエピソードだから、小説のファーストインプレッションを決めると言っていいのに、作者はそこに5千円の未払い事案を持ってくる。肩透かしの感じはするよね。
いや、事案がおかしいというのではなくて、それに対するキヨノのリアクションにズレを感じたのだ。
巨悪(ブラック企業)と対決するとか、弱者(立場の弱い労働者)のためにとか、そういう想像をしていたなら「なんだ5千円か」みたいに感じても不思議ではない。
そうでないパターンでも、面倒な人が来たな、そのエネルギーは労基署じゃなく勤め先にぶつけろよと内心感じたりするのもありうるかもしれない。
なのに主人公ときたら、とくに感情が湧き上がってこない。
「なによお、五千円っていったら、大した未払金でしょ?」
確かにそのとおりだった。
(27頁)
「確かにそのとおりだった」で済ませられてしまう。キヨノ、もっと感じたり考えたりしないの?
ところが、なぜか未払いが解決したあとでキヨノが悩む。
「木戸店長は”支払わないと罪に問われるわけでしょ?”って言ってました。あたしたちに何度も店に来られるのは、ほかのパートさんの手前迷惑だとも。だから支払うんであって、本心では応じたくないはずです」
「じゃあおまえは、木戸店長に、”残業を支払うのを、もう少し考えてはいかだでしょう?”ってゆーつもりか?」
「それは・・・」
なんなんだろう? どうして自分はここまでこだわるんだろう?
(39頁)
「何に悩んでるかわからない」という悩みを読者の前に提示するもんだから、読者としてもほんとに何に悩んでるかわかんねーよ。
主人公はなりたくて監督官になった人物ではないのだ。仕事に就く前と就いた後のイメージのギャップ、みたいなものはだから出てこない。消極的選択として監督官になったに過ぎない。そして自分でも説明しにくい悩み方をする。
しかし、すでに書いたように、消極的選択で監督官になったことは、終盤になって明かされる。だからこの時点では、悩むポイントずれてね?と感じたのだった。
ところがところが。
「仕事のひとつ」派だったキヨノが、「プライドで仕事」派になるというお話。そこまではわかった。
しかし肝心の「プライド」に関わる部分の掘り下げとか葛藤とかが、いまいち欠けている。各章のエピソードが、うまく噛み合っていない感じ。
安田主任とガサをめぐるエピソード。
安田は昔は「プライド」派だった(前述した藤原の「座右の銘」はもともと安田が彼に語ったもの)のに、いまは「仕事のひとつ」派に変わってしまっていた。その理由として挙げられるのは、以前取り締まった会社が倒産になったこと、監督官の仕事を優先していたため家庭崩壊してしまったこと(198-199頁)。
その安田が立ち直って「プライド」派に戻るというお話が第4章から第5章にかけてのエピソード。なのだが、そのきっかけの描写が、
「署長が言ってたね”自分の仕事に疑問を抱くことほど、前に進めなくさせるものはない”って。ヤスダは、また前に進もうって気になったんじゃないかな」
「だとしたら、そういう気持ちにさせた人に心当たりがあります」
キヨノが言ったら、「あ、なるほどね」と涼香も同意する。
「なんスか? なんスか?」
「相変わらず鈍感だね、フジは」
涼香が言うと、キヨノと目を見交わして笑い合う。
「でもまあ、ヤスダもフリーなわけだし、誰かを好きになるのは自由だものね」
すると藤原がやっと気づいたらしい。
「それって、栗本さんスか!?」
しかし、キヨノは思っている。彼に前を向かせたのは、なにより彩がすがるように「安田さん」と名を呼びかけたことなのではないかと。彼女が口にする言葉に男たちは感応する。そして、なにかを得るのだから。
(228-229頁)
なにこれ私情やんけ。栗本彩に呼びかけられたからって。え? 「プライド」ってそういう話なん?
そもそも「自分の仕事に疑問を抱く」って、むしろ「プライド」派だから悩むことだよね。割り切って仕事ができるなら、悩まないじゃん。
自分の中で理想があって、でも組織からの要請にそぐわなかったり、法律じゃどうしようもなかったり、結果として事態が悪化したり。だから葛藤するんじゃないのか。そういう内面的葛藤の変化が描かれずに、なぜか安田主任が立ち直ったことになってしまったのだが?
ついでにいうとさ、ガサの前日に夜逃げされたんだよね。しかも安田主任と栗本彩は以前から知り合い。「鈍感」とか言う前にさ、安田がXデーを漏らしたって疑わない? こんなタイミングよく行方をくらまされたんだよ? 小説的展開ならなおさらのこと。
マジでこの箇所を読んでるときは混乱した。「実は安田主任が・・・」っていつ来るんだろうって思ったら来ないまま終わった。
キヨノの「プライド」にしてもそう。
「父と同じく公務員になったことで、面目が保てた気がした。しかし、この三年間は帰省していない」(306頁)というキヨノ。職場の先輩に過去の経緯を打ち明けたり(300頁以下)、久し振りに地元の元カレに電話できるようになった描写(307頁)が挟まれる。
つまりこれが「プライド」を持つようになったということなのだ。キヨノの個人的な後ろめたさを晴らして、他人に対して胸を張れるようになったという。そんなストーリー。
仕事に向き合う姿勢としてのプライドよりも、他人に対する面目のほうがメインになってない?
「監督官」の小説を期待していて私は、だから拍子抜けした。