記述はとくに断り書きをしていない場合は、全労働省労働組合『全労働運動史』第1巻(1981)および第2巻(1999)の記述に基づく。
閣議決定や方針については、その後必ずしもその通り実施されてはいない。
間違い・抜け等があればご教示お願いします。
監督署関係は青、安定所関係は緑、両方を赤
1948.1.27 政府、2万3千人の行政整理を決定。
片山内閣のもとで「昭和23年1月1日現在の予算定員の2割5分の減少」を目途に人員整理を伴う行政機構改革が閣議決定。芦田内閣の下で、予算面において人件費の15%削減。
1948.12「行政機関に置かれる職員の定員の設置又は増加の暫定措置に関する法律」が公布
第二次吉田内閣。行政機関の職員の定員の新設または増加は法律によらなければできないとされた。
1949.2.25 「行政機構刷新及び人員整理に関する件」を閣議決定
1月に政府は「行政機構刷新審議会」を設けて検討に入っていた。行政職一般会計30%、特別会計20%を基準に、労働省では労働基準監督官18%、公共職業安定所職員20%など。
1949.4.30 行政整理(26万7300人)を閣議決定
1949.5.30 行政機関職員定員法成立
労働省の定員は1万9881人、付属機関を含めて2万133人となった。
1950.5.1 労働基準監督官研修所設置
1951.8 政令改正諮問委員会「行政制度の改革に関する答申」を提出
行政機構改革問題については進展せず、52年度に持ち越され、人員整理だけが実施。10月、政府は8万7915人の人員整理を内容とする行政機関職員定員法改正案を国会に上程。
1953.11.22 行政管理庁、公務員の整理方針を決定(3年で14万人)
1957.11~ 国公共闘、定員外問題で当局と交渉
1957年当時、労働省には臨時集計員、事務補佐員、事務補助員等と呼ばれる定員外職員=臨時職員が定員数2万1400人の16%にのぼる3412人。失対登録日雇労働者も含まれていた。予算費目上から、それぞれ庁費支弁職員、鉛筆職員などと呼ばれていた。
1961.5.29 定員法廃止、改正国家行政組織法成立
1961.6 「職安行政の地方移譲と職員の地方自治体への身分移管」問題
身分移管は自治労がかねてから主張してきたもの。一方、全労働は国と地方の公務員賃金格差の是正は、身分移管ではなく公務員共闘の統一賃金闘争のなかで解決すべきとの立場。
1963 「監督官室」構想
①監督官を庁内業務から切り離し、本来の監督業務に専念させる。②現行課制のなかで署長、課長には事務官を充て、監督官は全員監督官室に集める。
そのために①監督官業務の明確化とその整理、②事務官、技官への仕事の再配分、③業務の簡素化、④増員と等級別定数、などについて検討しようとするもの。6月には基準局が「労働基準監督署職員にかかる業務実態調査の実施」を指示。
1965.5 「監督署組織の充実整備について」(基発第68号4.24付)
43署を重点監督署に。主任監督官制が導入される。
1968.7 行管庁による「一体化」「一元化」方針
労働基準行政、婦人少年行政、職業安定行政に関する地方組織の一体化、地方事務官制度問題の解決、労働基準監督署、公共職業安定所についての管轄区域の調整、労災・失保両保険の適用徴収機構の一元化を内容とする方針を提出。
1968.8.30 「第一次定員削減計画」閣議決定。
68年度からの3年間で、全省庁平均5%の削減率。労働省は1844人の定員削減
1968.11.18 「地方労働行政機構改革案の概要」発表
1968.11.26 労働・行管・自治3大臣による「覚書」を交換。同時に「労働行政の展望と今後の労働行政機構のありかたについて」と題する文書を発表
1969.3.13 当局は「労働行政機構の改革について(案)」を提示
①地方労働局は東北、関東、中部、近畿、中国四国、九州に6か所設置。②地方労働局においては、労働基準監督署長の指揮、広域的労働力需給調整と広域的行政の指導調整、雇用計画等の指導、広域的適用徴収事務の指導調整、人事に関すること、などを所掌する。③都道府県労働部においては、労働局の所掌事務を除いて所掌する。④地方労働局における婦少行政の担当組織として、婦人・少年担指導官を1人おく。⑤労働保険徴収事務所は全国200~250か所設置し、2000~2500人を配置し、適当用・徴収を行う。⑥都道府県労働基準局、婦少室、地方事務官の5770人を地方労働局、都道府県、労働保険徴収事務所に再配置する、などの内容。
1969.4 労働保険徴収事務所の前提となる「一元化法」案が閣議決定され、国会に上程
1969.5 総定員法が成立
1970.8.25 「第二次定員削減計画」閣議決定
1970.11 「行政機構の簡素合理化の推進について」閣議決定、同12月「地方支分部局の整理再編成について」の閣議決定
労働省関係については「①昭和46年度以降5年間以内に労働基準監督署の分室を全廃するとともに、労働基準監督署の整理統合を行う、②昭和46年度以降5年間以内に、公共職業安定所の出張所等の約2割を整理統合するとともに、公共職業安定所の整理統合を行う」
1971.3 労働省設置法の一部を改正する法律案が国会に提出
内容は①各種審議会の統廃合をめざした労働基準監督分限審議会の廃止、②労政局、労働基準局、婦人少年局、職業安定局、職業訓練局の規定を労働省設置法から削除し、政令によることとし、それぞれ主管局、主管局長とあらためること、③「婦人少年問題審議会」を「政令で定める審議会」とし、事実上、統廃合の制度上の道を開くこと、など。
1978.5.12 監督官分限審議会整備法成立
労働省組織令、労働基準監督機関令の改正によって、分限審議会は常設機関から「同意」を必要とする「事案」が生じた場合にその都度設置されることになった。
1973.1 喜多方、篠ノ井監督署、飾磨職業安定所の廃止方針
70年11月の閣議決定が具体化。すでに1971~72年度にかけて職安関係出張所3、分室15、基準関係分室5か所が廃止。1973年度以降、職業安定所本所10、出張所12、分室18、労働基準監督署15か所が廃止されることが決定され、1973年度には上記3署・所に加えて公共職業安定所出張所2、分室10室の廃止が決定された。
1974.5 地方自治法一部改正案成立
地方事務官を地方公務員とするよう努めることを主旨とする附帯決議。
1974.7.26 「第三次定員削減計画」決定。
1974.9 労働省「公共職業安定所の組織改正について」
求職者態様別紹介体制の採用、求人業務と紹介業務の一元化、紹介業務と失業認定の分離、課係制の廃止と専門官制度の採用などの内容。10月から全国20~25か所で試験的に実施し、76年度より全面実施を目指す。
1975.10 「職業安定所第一線機関再編整備案」
73年秋のオイルショック、74年末の雇用保険法成立、「雇用庁」新設構想などが背景。
内容は①安定所を地域の雇用に関する「雇用サービスセンター」に改組②第一線機関相互間の機能分担、集中、総合化③職業紹介業務と雇用保険業務の分離④態様別職業紹介体制の整備⑤「職業紹介専門官」「雇用指導専門官」などの専門官制度の確立⑥内部組織の再編成
1976.6.4 「職業安定所第一線機関再編整備についての基本方針」
1976.12 宇都宮、長野、広島、渋谷の4安定所で試験施行
1977年9月からはさらに6安定所が加わり、①職業紹介業務と雇用保険認定業務の分離②態様別職業紹介体制とグループ制③専門官制度について試験。
78年度は26安定所を対象に前記3事項のほか④安定所機能の集中分担とネットワークの形成⑤職業指導官(統括・上席)の研修。79年度の全面実施に向け試行。
1979.9.26 第5次定員削減計画を閣議決定
第4次定員削減計画を1年残して新たに第5次計画。5年で4.2%、3万7千人。*3
労働省は1410人。
1980.4.1 公共職業安定所の再編整備(認紹分離、態様別紹介方式の導入など)
1981.7.6 雇用保険トータルシステムの全面運用開始
1981.7.10 第2臨調が第1次答申。公務員の定員・賃金抑制を主張。
1981.9.11 第6次定員削減計画を閣議決定
1982年度からの5年間で5%。これまで対象外だった国立病院の医師・看護師らも対象に。労働省は1621人、6.37%。*4
1982.5.10 朝霞に新労働研修所開所
1982.9 労働省が「機構改革」案を第2臨調に提出
都道府県労働局、本省内部部局の改組を構想。
1982.12.28 第2臨調・部会報告
1983.3.14 第2臨調最終答申
労働省本省組織に関しては①婦人少年局を婦人局に②官房に労働政策部を設置する③労政局および職業訓練局の再編と名称の改変。
地方支分部局に関しては①都道府県労働基準局と婦人少年室を統合、国に移管する職業安定関係の事務を統合して都道府県労働局に②職業安定所・出張所約60か所、監督署約15か所の整理③地方支分部局の定員を5年間に7%程度縮減
1983.12 労働省「労働省関係の地方支分部局の整理合理化について」を全労働に提示
署・所の再編整理を1984年度から5年間で行い、初年度を準備期間、具体的な実施は85年度~88年度の4年間に行うというもの。
1984.3.27 職業安定法改正案を閣議決定
職業安定関係の地方事務官制度の廃止と、それに伴う都道府県労働基準局・婦人少年室の統廃合が内容。*5
1984.7.1 総務庁発足(戦後初の中央官庁の統合)/労働省、統計情報部を政策調査部に、職業訓練局を職業能力開発局に、婦人少年局を婦人局に改組
労働省当局は、当初85年度以降としていたが、83年秋の臨時国会で国家行政組織法改正案と同法関連法案が成立、政令によって実施できる条件整備をはかり、全労働との事前協議なしに本省組織改編を実施した。
婦人局の設置によりパート労働及び家内労働関係事務が吸収され、年少労働関係事務は労働基準局賃金福祉部に移管*6。
1984.11.28 労働省、「安定所・監督署の再編整理計画案」を全労働に提示
当初は15署・60所の再編整備計画案だったが、新設・昇格が一定程度盛り込まれているなど、実質上の廃止箇所数は25所・5署となった。
1985.4.5 職業安定法等改正案を再度閣議決定*7
1984.5 人事院が国家公務員採用試験の改定案を提起
1985秋 労働省当局「労働基準監督官の人事異動について」を全労働に提案
署長・次長・一課長などの幹部要員の地域的不足解消を理由として
①監督官任官8年目以降も転居を伴うブロック内異動を原則とし、少なくとも署長、一課長等への就任に当たっては局間移動をさせる
②異動経歴に応じて最終到達可能官職を定めるなど、異動する者としない者との間に処遇の差をもうける
③事務官、技官を任用する政令監督官制度を時限的に導入する
1985.12.13 「国鉄余剰人員雇用対策の基本方針」の閣議決定*8
「各省庁は昭和61年度採用数(一定職種除く)の10%相当数以上を国鉄の職員から採用する。62年度から65年度当初においては、採用数の10%を下回らない率とする」と閣議決定。労働省においてもⅠ種および監督官を除いた採用者の10%以上を国鉄から受け入れる義務。
1986.3 「現地処理機関」問題についての交渉が決着
①職安関係では、廃止箇所にかわる「現地処理機関」として「職業相談室」を設置。②基準関係では、札幌、福岡の2署新設および廃止署の分庁舎化、など。
また廃止とされたのはいずれも分室や出張所であり、安定所・監督署の本所・署には手が付けられなかった。
1986.9 国鉄人員「一般省庁14%、運輸省43%、労働省等28%」と追加決定。
労働省当局は「61年度に87人、62~64年度においては670人を受け入れたい」と全労働に提起。
1986.8.1 第7次定員削減計画を閣議決定(5年間、5%)
労働省では5年間で6.12%、1525人の新たな削減数が割り当て
1986.9.4 労働基準局長「監督官の人事異動方針当局案」の事実上の白紙撤回。同12日「問題解決のための新提案」
1986.10下旬 監督官の異動について第二次案
「2局7年間の広域異動終了者は原則として生活本拠地内で勤務させる」という基本方針を明確化。退職年齢、登用年齢の弾力化、公開公募方式の採用、局間異動者の昇格12ヵ月短縮など。
一方、「政令監督官制度」導入の姿勢は崩さなかった。
1987.4.1 産業雇用安定センター発足
1987.5.14 総合的雇用情報システム先行実施
1988.6.1 総合的雇用情報システム全面運用開始
1988.10.1 労政局に勤労者福祉部を設置、労働基準局賃金福祉部を賃金時間部に、職業安定局高齢者対策部を高齢・障害者対策部に改組
労働時間対策を一層推進する体制を整備必要がある一方、労働時間と賃金は労務コストを直接的に規定する密接不可分の関係にあるため、両者を一体とした総合的な施策の展開を図るため、従来の賃金福祉部を改組し、労働時間課、企画室、賃金課の二課一室からなる賃金時間部を設置。従来賃金福祉部に所属していた福祉課および勤労青少年室は労政課に新たに設置した勤労者福祉部に移管することとなった*9。
1989.1 新「行革大綱」を閣議決定
これによって労働省は1993年までの5年間にさらに監督署7署、安定所25か所の新たな統廃合を実施することが求められることとなった。
1990.3.26 全労働・中央闘争委員会「不足対策として、政令監督官制度の導入やむなし」を決定
この後、全労働と当局の間で新政令監督官制度の運用の基準を確認
①当局は、今回の事態を引き起こした責任にかんがみ、責任を持って解決に当たる
②地域的要員不足解消に当たっては、「庶務課長内翰」の実施が先決。政令監督官制度の安易な運用は行わないこと
③運用にあたって、恣意的・情実的人事を行わないこと
④新政令監督官制度は、署長等の「不足」が存在する間の時限的措置として運用すること
以上の基本的確認事項のほかに、毎年度の各県別の不足数や任用予定数の公開などをうたった具体的事項についても確認がなされた。
1990.4 労働省、職安業務の見直しに着手し業務改善室を設置。
背景として①社会・経済の大きな変化、情報メディアの発達②安定所のシェア低下③派遣業務等新たな施策の展開と失対関係業務の縮小等重点業務の大きな変化、と説明。
見直しの方向として①安定所の職業紹介等の機能強化②給付金事務の実務面を中心とした業務簡素化③組織・研修体制の見直し
1990.11.30 失対事業制度研究会、5年後の失対事業廃止を提言
1991.3 職業安定局長通達「業務改善にかかる試行実施」「安定所内部組織見直し検討構想例」(いずれも4月1日付)
本省当局は6月1日付で試行実施県・所を一定数指定したが、現場の反対により開始時期が遅れたり、具体的な施行メニューが明確にならないなど、あいまいな取り組みになった。
1991.8.1 日系人雇用サービスセンター設立
「ポルトガル語が話せる職員を含め6人体制でスタート。全国の公共職業安定所の持つ日系人関係の求人情報を集め、職業の相談や就職先を紹介。」*10
1991.7.5 第8次定員削減計画が閣議決定
1992年度からの5年間で4.52%、労働省は5.6%*11
1992.2 「今後における職業安定業務の指針と構想案」を全労働に再提案
1993.3 「職業安定業務の改善方針案」を再提起
1994.8.9 政令監督官制度について、基準局が5年延長を提案
1994.12.9 失対制度研究会が95年度末で失対授業を終了させるべきと報告
1995.4.24 不足対策政令監督官問題で当局が再提案
新政令監督官制度は5年間の時限的措置ということであったが、さらに5年間の延長運用を提案。
1995.5.15 臨時閣議、補正予算で臨時の定員措置
阪神大震災と規制緩和推進計画の前倒しの対応のため、国家公務員の定員を78人増員。震災対策での定員増は、法務、運輸、労働、建設の4省で65人。*12
1996.6.18 「橋本改革ビジョン」省庁再編等を内容
1996.7.30 第9次定員削減計画が閣議決定
97年度からの5年間で4.11%、35,122人。労働省は1245人で4.99%*13
1997.4.1 武藤総務庁長官「国家公務員の採用を半減」と発言
1997.9.2 地方分権推進委員会、第3次勧告
職業安定関係等の地方事務官制度を廃止し国家公務員化する、などの内容
1997.10.1 婦人局が女性局に*14
1997.12.3 行政改革会議が最終報告
内閣機能の強化、1府12省庁への再編、独立行政法人制度の導入・民営化、本省内部部局の統廃合など。翌日、全労働が「労働者保護行政の大幅後退を招く『労働福祉省』の創設に反対」の声明
1998.2.17 中央省庁等改革基本法案(行革基本法案)を閣議決定
1998.6.9 行革基本法成立
1998.6.23 首相を本部長とする中央省庁等改革推進本部設置
1998.8.12 行革推進本部・顧問会議で総務庁長官が「10年間で20%の国家公務員削減」を発言
1999.3.26 地方分権一括法案を閣議決定
2000.4.1 都道府県労働局発足